祝いの先に相応しい、晴れやかで美しい空だった。ファイノンは約一年前、メデイモスの戴冠式で見上げた空も今日のように青く澄んでいたことを思い出し、隣を歩む男の手を取る。
そこで、顔には一切出ていなかったが、メデイモスが珍しく緊張しているらしいことに気がついた。握った手がぎこちなく動き、微かに息を詰まらせる音が聞こえたからだ。
「緊張してる?」
ファイノンは自身の心臓が先刻から少し早く打っていることを棚上げし、揶揄うような声で、隣の伴侶に微笑みかけた。手のひらの上に手を重ねられていただけのメデイモスの手の甲を親指でそっと撫で、「戴冠式と違って、今日は僕がずっと隣にいるから」と謳うような声で囁いた。
戴冠式では最終的に後ろに控え、冠を戴き、民の前で演説するメデイモスを見守ることしかできなかったが、今日は違う。白と赤の豪奢で眩しい婚礼衣装に身を包んだ伴侶の全身をあらため、ファイノンは果たしてこんな未来が来ると誰が想像できただろう、と今更のことを考えた。
二十年近く前、メデイモスに奴隷として買われた時には、まさかこんな日が来るとは思ってもみなかった。あの頃は騎士としてクレムノスに仕えるだなんて全く考えられとしなかったし、ましてや隣の「主人」をこんな風に、まるで魂の片割れのように愛する日が来るとは思ってもみなかった。今は自身を構成するすべてがメデイモスによって作られていると言っても過言ではない。
ファイノンは瞳を細め、陽光に輝く美貌の中でもとりわけ美しい金色の瞳を見つめた。
眩しい烈日のように力強く燃える、美しい瞳だった。夜となく朝となく、この国の人々に注がれるその視線をいつだって独り占めしたい、と過分な欲をファイノンは抱いている。
彼は僕だけのものじゃない。そう必死に言い聞かせるたびに、だけど、メデイモスに選ばれたのは僕だけだ、と本心が暴れてどうしようもない気分になった。自分が欲するのと同じくらい、彼に自分を欲してもらいたい。もう十年以上、そんな激情を抱えている。メデイモスにそれを許されても、身分不相応な欲だとずっと考えていた。
(……でも、今日からは少しだけ自惚れてもいいんじゃないか?)
王たる男の伴侶に相応しいと誰にも認められ、メデイモスにも望まれたのは自分だけだった。他の誰にも渡さない、他の誰も触れるのを許せないとずっと想い続けていた。そんな感情を、メデイモスは「無欲な男だ」と口にする。
「僕が隣にいるんだから、緊張なんかしなくていいだろ?」
メデイモスの強い瞳が、真っ直ぐに自身を見つめ返している事実に、ファイノンの胸が歓喜に打ち震えるように熱くなる。
心臓が力強く跳ね、体中の血潮が沸騰するような感覚がした。
まずい、と細く震える息を吐き、ファイノンは感覚を誤魔化すよう、にメデイモスの手を握る手に力を込める。
「お前が言えた口か」
フン、とファイノンの予想通り、眉を吊り上げて憎まれ口を叩くメデイモスの低い声が鼓膜を揺らし、ファイノンは「僕は別に緊張なんてしてないさ」と笑顔で嘯いた。
「そうか。お前の軽薄そうな笑みも随分とぎこちないが、芝居を打てていないよりはいいだろう」
メデイモスは握られていないほうの手でファイノンの頬をそっとつねり、完璧な角度で持ち上げられていた唇の端を指でそっと撫でた。
「どれほど最悪な戦地より、こう言った式の方が緊張するのも妙な話だとはいつも感じているが」
「確かに」
ファイノンは触れられた唇をぎこちなく動かし、「うまく笑えてない?」と微笑みを瓦解させると、一瞬だけ眉を下げ、情けない顔をした。しかし瞬時に表情を笑顔に戻し、「まあ、式だろうが戦場だろうが、君の隣に立つのはいつだって緊張するけどね」と握ったままの手を持ち上げ、芝居がかった所作で手袋に包まれたメデイモスの指先に口付ける。
「……気の早い男だ。そう言ったものは民の前に出るまで取っておけ。——鐘が鳴ったか。行くぞ」
二人の耳に、神殿の大鐘が打ち鳴らされる音が響いた。この音を合図に出てくるように、と事前に何度も打ち合わせた進行を思い出し、二人して長く息を吐く。
「お前の振る舞いは俺の振る舞いだ。それはわかっているな? 下手を打つなよ」
バルコニーまでの長い廊下をゆっくりと歩み、メデイモスが自身に満ち溢れた表情で口にする。先ほどまでは微かに感じ取れていた不安も緊張もそこにはなく、王たる威厳に満ちた華々しく美しい男の姿だった。
「こんな時に更にプレッシャーをかけないでくれよ。まあでも、君に恥をかかせるようなことはしないさ。これから先は今まで以上に気をつけるよ。何しろ僕は君の伴侶、になったんだから」
言い慣れない単語に、ファイノンは舌と唇がまごついたのがわかった。伴侶、と心の中でもう一度呟くと、胸の内で蝶が羽ばたくようなくすぐったさを覚えた。
その様子に、傍のメデイモスが小さく笑い声を上げ、「十五で俺に騎士にしてくれと啖呵を切ったお前の方が余程自信家だったように思うが?」と挑発するように眦と唇の端を持ち上げた。
「あの頃より謙虚になったんだよ」
手を取り合ったまま前へ進む二人の耳に、民衆の割れんばかりの歓声が届く。途端、足を止めそうになったファイノンの手を引き、メデイモスは前へ進む。
音楽隊のファンファーレと神殿の鐘の音が響き渡り、花びらと赤く輝く細かな儀式用結晶の粉末が魔術師たちによって放たれた。キラキラと陽光を乱反射して輝く儀式用結晶と白と赤の花びらが風に舞い、二人を通り過ぎて、民衆に降り注いで行く。
眼下の臣下たちに向かって手を振るメデイモスに倣ってぎこちなく手を振るファイノンの少し緊張した横顔に、メデイモスは視線を向ける。
「そんなものはお前には似合わん。俺の隣にいるのだから、強欲なくらいがちょうどいい」
ファイノンの手を強く握り返し、緊張を滲ませ、微かに紅潮した頬に片手を添える。空の色とよく似た蒼い瞳に視線を合わせると、メデイモスは生涯の伴侶に微笑みかけ、瞼を下ろす。
微かに震えた男の指先が輪郭に触れ、そっと、羽毛のように柔らかな口付けが落ちる。
すぐに離れて行ってしまった口付けにいささか不満が残ったが、眼下から響く臣下たちのどよめきと祝福の言葉に、ここではこれで許してやるか、と瞼を上げた。
「……ふ、随分と物欲しそうな顔をしている」
——成る程、だからすぐに離れたのか。
メデイモスはファイノンに体を寄せ、同じように口付けてすぐに離し、婚礼衣装に身を包んだ男の体を抱きしめる。
「夜まで待て。俺もお前と同じ気分だ」
そっと耳許で囁き、何事もなかったかのように身を離す。ファイノンの表情が微笑みに変わるのを確認してから再び眼下に向かって手を振り、拡声器のスイッチを入れる。王とその伴侶の婚儀を祝うために集まった民衆に感謝の言葉を返す必要があったからだ。
傍のファイノンが笑顔で、同じように眼下を見下ろしている姿を確認し、メデイモスは慎重に息を吸すった。先刻、ほんの一瞬自身へ向けられた瞳の強さに心臓が震えてしまっていた。それを理性で押さえつけ、王に相応しい姿と声を臣下たちへ見せる。
ファイノンの瞳に宿る、じっとりとした欲の炎に全身を焦がされる感覚は、いつ味わっても悪くないものだった。ただそれが、衆人環視の前で行われたことは今までにない。近年はどんな夜会であろうとファイノンの表情管理は完璧だったし、未熟な頃であってもそれを必死に押し隠していたのを知っている。
先刻、口付けを交わした瞬間のファイノンの表情と瞳は、とても他人には見せられないものだった。今すぐに君が欲しい、とでも言うかのように、暴力的なまでにぎらついた瞳の、特徴的な虹彩が一瞬だけ金色に瞬くのが見えた。そうなった理由もわかっている。全て今夜のために、数ヶ月前から互いに色々と我慢をしていた。
ファイノンが興奮した時にだけ見せる瞳の輝きを目にするたび、心臓に爪を立てられ、鷲掴みにされているかのような感覚に陥る。今にも目の前の獲物を食い殺さんとするかのような、苛烈な感情がこの男にあることを感じるたびに、何故だか、魂から満たされるような気がした。
『君のそばにいたい、君を守りたい、だから騎士にしてくれ、君の愛人にして欲しい。君を愛してるんだ』
栄誉も名誉も君の興味を引くためのものだ、と言い切り、己の愛しか欲しないこの男を、今までずっと無欲な男だとメデイモスは思っていた。しかしそれは完全な勘違いだった。
十年以上もの長きに渡り、ずっとこの男に執着されていた。それが無欲である筈もない。底なしの渇望だ。
王族や貴族の男が望むのであればさておき、ファイノンは元は奴隷だ。身分不相応にも程がある。
——しかし、これほど欲深い男の激情に、メデイモスは居心地の悪さを感じたことがない。
ファイノンはメデイモスの寵愛を望むのに相応しい見目麗しさを保ち、戦士として準貴族としての努力と研鑽を重ね、申し分ない功績を手に入れている。従者としても優れた男で、大臣達や邸の使用人全員を束ねてもこの男一人の細やかさに敵わない。心からメデイモスを慰められる者も、この世にファイノンしかいない。
父親に、自身が望んだようには愛されなかった。その事実に、長い間向き合えていなかった。何も感じていないと振る舞ってはいたが、ファイノンに愛していると言われるたびに、隠していたはずの傷跡が再び血を流すような感覚がした。誰に認めらようとも、たった一人に認められないことが酷く辛い。誰に愛情を貰おうとも、その人にもらえなければ意味がないのだとファイノンによって気づかされてしまった。ファイノンにこれほど深く愛されなければ目を閉じていられたかもしれない事実だったが、その傷ももう、今では殆ど癒えている。そう言えば傷付いた日もあったか、と笑い話に昇華できるようになったのも、ファイノンが長い間、隣で変わらずに自分を愛してくれているからだろう。
こんな重大な公務の最中にあっても個人的な感情を殺しきれずに向けてくる男だからこそ、メデイモス自身も換えのきかない奴隷や騎士としてではなく、一人の男として愛するようになったのかもしれない。
「——こうして我が伴侶を、皆に紹介できることを嬉しく思う」
事前に何度も打ち合わせを繰り返した末に決めた「言葉」は、本心からのものではあったが、今はもう、雑念が乗ってどこか浮ついてしまっている。
お前のせいだ、とメデイモスは傍のファイノンの手を強く握り、決められた文言を最後までなんとか言い切った。歓声を後にし、決められた通り、長い廊下を戻る。
数刻前、限られた王侯貴族と司祭たちの前でニカドリーに成婚の誓いを立てた聖堂で、今度は、今夜のための最後の儀式を——祝福を身に宿してもらう必要があった。準備だの清めの儀式だの、今日はまだ、やる事がいくつもあった。
儀式のために精神を落ち着かせておく必要がある、と司祭たちが主張したため、国外から賓客を招致しての結婚を祝したパーティーは昨晩に済ませていた。何よりも気を遣う面倒な社交が完了していることは喜ばしかったが、儀式のせいでスケジュールが詰まっているのも事実だった。
「メデイモス、」
「時間がないのはお前もわかっているだろう」
硬いファイノンの声に、何を望まれているのかはすぐにわかったが、メデイモスは首を振る。
部屋の外では使用人たちが落ち着きなく歩き回る気配がし、城の応接間では数人の助祭たちが二人が神殿へ向かう支度を終えるのを待っている。
「わかってる。わかってるけど、十秒だけ僕にくれ」
「無理だ。耐えろ」
メデイモスは立ち止まったファイノンの手を強く引き、咎めるような視線を向ける。
「お前を諌める自信がない」
「え?」
メデイモスの言葉に、ファイノンが纏っていたピリついた空気がふっ、と解けるように霧散した。
「今お前の激情を受け入れれば、流されてしまうと言ったんだ。……先ほどのお前の口付けが随分軽かったのと同じ理由だ」
メデイモスは長く息を吐き、自身の左肩を右手でそっと摩る。全身に纏わりつくようなファイノンの視線に、もう、すでに落ち着かない気分になっていた。
夜の帷が落ちるまでに、儀式を行う必要がある。
メデイモスはファイノンの両手を握り、真正面から向き直ると、青い瞳に金の光彩をちかちかと見え隠れさせている男に言い聞かせるよう、静かに言葉を続ける。
「お前との子を宿すために、この数ヶ月、互いに禁欲を続けてきただろう」
メデイモスが思わずここで言葉を切ってしまったのは、「挿入しなければぎりぎり大丈夫なんじゃないか?」、と主張するファイノンの口車に、何度か乗ってしまったことを思い出してしまったからだった。事実問題はなかった。
だからそれに、司祭たちを——自分たちの関係を「完全に」公的なものとすることに奔走してくれた者たちの心からの善意を無碍にしてしまったような、なんとも言えない罪悪感、のようなものを覚える必要はない。
筈だ。
「夜まで待て。……本心では今すぐお前に抱かれたくてたまらないがな」
「っ、そん、なの、思ってる顔じゃないだろ……」
ファイノンは美しく凪いだ相貌から繰り出される言葉の苛烈さと、表情と声の無感動さの差に頭が混乱していた。抱かれたくてたまらない、と口にしたメデイモスの表情も口調も涼しいもので、僅かな性欲も滲んでいないように感じたからだ。
「流されてしまうと言っただろう。いいかファイノン、何度もお前に言い聞かせたように、王族や貴族にとって、結婚も世継ぎを作ることも重要な義務の一つだ。お前にとっては気に入らない言葉だろうが、今のお前にはそう言い聞かせることしか俺にはできん。……俺はかつて、お前のためにそうした義務を放棄する代わりに全てをクレムノスとその民に捧げると誓った。それに加えて、従兄弟に王位継承権を与えれば俺が誰とも婚姻せず、子を成さずとも王としての最低限の責務は果たせている筈だと信じていた」
メデイモスは深く息を吸い、長く吐いた。ファイノンの手を握ったまま、震えそうになる体を理性でなんとか縛り、緩むな、と自身へ言い聞かせる。
「しかし、——そのどちらもお前と成せることが決まったのだ。それがどれほど喜ばしいことか、」
言葉は半ばで、メデイモスの喉の奥にしまわれた。声が震えかけたせいではなく、ファイノンが握られていた手を振り解き、メデイモスを強く抱きしめたからだ。
「すまない、君にそんな顔をさせたかったわけじゃない」
髪飾りが乱れないよう、慎重にと背中を撫でてくるファイノンの優しい手に、メデイモスは腕の中で戸惑いながら身動いだ。
「……どんな顔だ?」
「今にも泣きそうな顔」
「そんな顔をするわけがない」
「わかった。僕の見間違いってことでいいさ。今はね。……ああもう、十秒以上貰っちゃったな。残念だけど、約束だから準備をしにいかないとね」
ゆっくり体を離そうとするファイノンの体温に、メデイモスは強烈に離れがたいものを感じた。
「いや、」
ファイノンの背に縋るように腕を回し、触れ慣れた体に少しだけ体重を預ける。
「あと一分だけこうしていろ」
「……僕には夜まで待てって言ったくせに。まあいいさ、君がして欲しいと望むなら、何時間でも抱きしめてあげるし、一日中愛し合うことだってできるよ。僕だけはね」
「ああ、俺にはお前だけだ」
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