いを
2026-03-10 18:32:36
3640文字
Public くらくら
 

水銀とモルヒネ


・光桔さん【higasa_onink】
お借りしています

 収容された苦々犯罪者のなかに、衒気げんき症とみられる男がいた。わざとらしく不自然な言動をみせる症状だ。診断をくだした医師はずいぶん根気強く彼と付き合っていたらしい。確認するのに一時間もかかった長文の記録、動画データ。苦々によってゆがめられた認知能力。または、もともと認知が歪んでいたのだろうか。それを探ろうにも、彼は彼を詳しく知る家族を殺してしまっていた。その男をカウンセリングするにあたって、数人のアンチドートとともにカウンセリングルームに訪ねてきた。手錠などなまぬるいとでもいうのか、白い拘束具でぐるぐる巻きにされた上肢、猿ぐつわ。視界を奪うゴーグル。かなり頑丈に封じているようだった。
 アンチドートのひとりが猿ぐつわをとると、男は大きく深呼吸をした。
「よく見えないんだけれど」
 そこに誰かいるの?という問いに、鵼はほほえみでこたえた。




 目の下のくまをこさえているのを自覚しながら、規則的に並ぶ窓の前で伸びをする。もうすっかり朝だ。張った筋肉をほぐすように肩と首のストレッチをした。
「あー、もう、ほんとに、もう」
 ロッカールームの中をヨロヨロと歩き自分のロッカーを手探りで開けて、白衣をハンガーにかけた。これで退勤かと思いきや、数時間後にはまた出勤である。
 バッグを取り、バタンとロッカーをしめて大きなあくびをした。
「お腹空いたなぁ」
 研究所を出て、背中を曲げてとぼとぼ歩く。この時間であれば、よくいくパン屋が開いているだろう。
 小麦のよい匂いが漂ってくると、なんとなしに背筋が伸びる。ドアをひらき、店内に足を踏み入れる。パンの匂いと一緒に、香ばしくローストされたコーヒー豆の匂いや、甘いココアの匂いが広がっていた。無意識にすう、とその匂いを大きく吸い込む。立ち止まっていた足を動かして、店内を歩いた。店内を一周してからトングを手にするのがルーティンである。
「おはようございます」
 レジ横にいる女性に気付き、声をかけた。北原さんという女性であった。彼女もまた、こちらに気付いたのか「おはようございます」と返してくれた。
 そしてふたたび視線をパンに落とすと、頭の中でクロワッサンを買おうとだけ決めた。もちろんそれだけでは足りないので、おすすめを聞くことにする。それにしてもお腹が空いた。
 トングとトレーをもって、クロワッサンを一個、置いた。
 ほかの客がほぼいなくなったのを確認して、北原さんがたたずむほうを向きながら、「あのう」といった。
「今日のおすすめ、ありますか? できたらお腹が膨れそうなパンを……
「そうですね……。あ! そちらの、たまごのサンドウィッチはいかがですか? 当店自慢の食パンで挟んであります」
 振り返ると、卵焼きをはさんだサンドウィッチが陳列されていた。
「うわー、おいしそうですねぇ。一個、いただきます」
 トレーにのせて、会計を頼むと彼女はふと「おつかれのときは甘いものもいいですよ」と笑った。
「そうですねぇ。甘いもの食べると、癒やしになりますもんねぇ。逆に辛いものを食べるとエンドルフィンが分泌されてクセになってしまうとか……。おおっと、失礼しました。どうでもいい話を」
「もしかしてお医者さんとか、研究者さんですか?」
「カウンセラーしてます。公認心理師、ってやつです」
「カウンセラー……
「よくそう見えないって言われるんですよね。金髪だし、見た目がチャラいねーって」
 彼女は会計をしながら興味深そうに頷いていた。
「何がいけないんでしょうねぇ。俺、結構マジメにやってるつもりなんですけど」
「外見と喋り方がこう、うまく合っているというか……。そんな感じでしょうか」
「ほほう、なるほど。自分以外の方に客観的に見てもらうというのも、なかなか新鮮です」
 彼女は目尻をさげて少々困ったように笑った。
「えっと、参考になったならよかったです」
……あたたかいココアもいただこうかな。一緒にお願いしてもいいですか?」
 北原さんは「はい」と頷いた。
 店をでると、派手に腹が鳴った。うら若い女性の前で鳴らなくてよかったと思う。そんな腹を、ホットココアでなだめながら自分の家――マンションに向かった。

 
「ただいま」
 マンションの自室にもどるとき、自分はかならず「ただいま」という。一人暮らしではあるけれど。
 言葉にだすことで頭の切り替えを図っているのだ。
 冷たい水で手を執拗に洗い、ホットミルクを愛用しているマグカップにいれてソファに座る。ローテーブルにサンドウィッチとクロワッサンをおいて、いただきますと手を合わせた。
 テレビやスマートフォンにはさわらず、ただもくもくとパンを食べる。外はとうに明るいが、カーテンを引いている。これから数時間眠らなければならないからである。陽の光は脳を活発にしてしまうのだ。
 たまごのサンドウィッチは出汁がきいている。腹持ちがよさそうであった。そして素直においしいと思った。クロワッサンもほどよい甘さと塩味がある。自分が好きな味だった。ホットミルクを飲んで、一度ふうと息をつく。


 衒気症の男は、「先生はずいぶん派手な髪色をしていますね。俺だったら黒く染めるなぁ」とニコニコしながらいった。くわえて「そしたらもっといい男になりますよ」とも。
「それはどうも」
 とだけ答えた。茶化しているのか、本心からそういっているのか判断しかねたためであった。
「ところで、○○さん、これを見てください。なにが見えますか?」
 男にパネルを見せると、眉をひどくしかめて、深く考えるそぶりをみせた。
 注意力や集中力に問題はないようだった。
 男にみせたのは滲んだインクのシミ――いわゆるロールシャッハテストと呼ばれるものだ。
「うーん。そうだなぁ。カモメに見えますね。カモメ。分かりますか?」
「もちろん。海によくいる鳥ですね」
 そう答えると、男はアハハハと笑って、カモメですよと腹をよじるようにして大笑いしている。アンチドートのひとたちは、じっと男を注視していた。白いだけの部屋は、感情を高ぶらせるようなものはなにもない。真ん中に箱庭療法で使われる大きな箱があるだけだ。
 その後、男は発作がおきて大量の薬を打たれ、引きずられるようにまた収容されていった。
「今の段階では――というより、今現在の法律では心神喪失のため何々となるところですが、彼の異能はなんでしたっけ」
「雷を操る異能のようです」
「ははあ。なら誤って自分に雷を浴びせてしまったこともあるかもしれませんね。髪の毛のココ、ちょっと縮れていましたから」
 髪の中間あたりをつまむしぐさをしながら、残ったアンチドートを見上げた。
「脳に多量な刺激を与えると、損傷することもあります。雷だろうと、電気だろうと。けれどまあ、それは専門の先生に任せるとして……。意思疎通もできますし、三日に一度、連れてきてくださると嬉しいですね」
「苦々犯罪者のカウンセリング……、俺はあまりよく思っていません」
「そうでしょうね。被害者のケアを徹底すべきだと俺も思います。でもね、苦々犯罪者の心理の研究がすすめば、苦々を摂取する人が減ると俺は信じています。これ以上被害者を出してはいけない。犯罪心理学とはそういったものです。あなたも、そこは分かってくださるはず」
……ええ」
 アンチドートの男は力なくうなずき、そっと部屋を出て行った。
 苦々犯罪者のカウンセリングに反対するひとは、たくさんいるだろう。だがこちらも百パーセント善意でカウンセリングをしているわけではない。苦々犯罪者の言葉を聞かず、問答無用で収容していてはきりがない。なぜそう・・なったのか、なぜそうすべきだったのかを聴かなければ対策すらできないからだ。自分はそう考えている。


 
 ベッドに横になると、どっと疲れが出た。そうなると眠りに落ちるのは早い。――が、疲れすぎて眠れないときもある。
 今日はまだよかった。心地よい満腹感と、あたたまった身体。眠るのに最適だった。
 毛布を肩までかけ、4時間後にアラームをセットすると、すんなり瞼が落ちた。

 夢のなかで問いかけられる。「あなたにとっての〝善いこと〟は、苦々犯罪者の味方をすること?」「彼らの味方だと思ったことは一度もない」「それならどうして話を聞こうとするの? 傾聴しようと思うの?」「それが仕事だから」「その仕事は本当に善いことなの?」「遠回りも必要です。重要なのは結果ですから」「その間に何人もの無実のひとが死ぬ。それが必要だとでもいうの」「そんなことは一度も――」この問答は自ら湧いたものだった。自問自答しているにすぎない。自覚し乍らも考えることはやめられない。
 ――起きたら、あたたかいコーヒーでも飲もう――そう夢のなかで思い、そしてそのなかでひとり・・・、笑った。