二卵性
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いつか星を描く致命傷3

思い悩む公爵の回(ヌヴィリオ)


ヌヴィレットのことを相談できる相手は、ごく限られている。
相手は最高審判官様だ。そしていま、リオセスリを思い悩ませているのは、果てしなくプライベートな事柄だ。どこに目があり耳があり、誰が漏らすかわからない以上、最高審判官様のゴシップのネタを容易く提供するわけにはいかない。それはヌヴィレットの信頼を裏切ることにもつながる。
――そう、信頼だ。
裁きを下されたあの時から、リオセスリはずっと願っている。祈って、拳を握って、立ち上がって、前を見ている。
あの人の裁きを、信頼を、裏切らないためだ。
血錆色の水溜りで死ななかった意味を――未だこの手にある命の使い方を、考えている。

「そういえば、聞いたのだけど。ヌヴィレットさんのお家にお招きされたのね!」
弾むような声色がそう言った瞬間、リオセスリは咄嗟にあたりを見回した。執務室には二人きり、リオセスリとシグウィンだけ。部屋の外の気配はなし。聞いたものもいない。元素視覚を用いて怪しげなマシナリーが取り付けられていないことも確認した。
……いったい誰から聞いたんだい?看護師長」
「ヌヴィレットさんからよ」
「そんなことまであんたへの手紙に書いてるのか、あのひとは……
文面が漏れることはないだろうが、と希望的観測を抱きながら、リオセスリは背もたれに身を預けた。あのひとにとっては隠すようなことではないらしい。まあ、相手がシグウィンだからというのもあるだろうが。
「で。我らが看護師長はいったいどうしてそんなに楽しそうなんだい?」
上司が上司の家に行くだけで、そこまでニコニコする要素があっただろうか。いや、自分が上司扱いされているかは不明だが、と一応思っておく。指揮系統に入ってはくれているが、たまに年下を可愛がるような雰囲気を出してくるのだ。どこか浮世離れしたヌヴィレットとは違う、人間とは比べ物にならない歳月の重ね方だった。
「もちろん、ヌヴィレットさんと公爵が仲良くしているからよ!」
「そういうことなら、看護師長もお招きいただけるか聞いてみようか」
正直、リオセスリはヌヴィレットを説得できるか怪しく思っていた。あのひとが人間でないことはわかるし、凡人の思考回路を持ち合わせていないもの想像つくから、凡人の身としてはどう説得すればいいのかわからないのだ。
人生において対峙してきた多くは人間であるから、人間の扱いについてはそれなりにわかっているつもりだったが、それが役に立たないことには薄々気づいていた。リオセスリの威圧的な外見も、鋭い眼光も、老獪とまで言われる言動も、どうにもあのひとを操るには十分ではないらしい。
その点、ヌヴィレットのことをよく知っているシグウィンなら、適切な助言をしてくれる可能性がある。看護師長の前でヌヴィレットに恋人になってくれと迫られるのは果てしなく気まずいが、最悪のパターンではない。恥なんてかなぐり捨てた方がいい気がしている。
そんなリオセスリの内心を知ってか知らずか、シグウィンは嗜めるように言った。
「ダメなのよ、ヌヴィレットさんは公爵と二人きりで過ごしたいんだから。邪魔はできないのよ」
「ヌヴィレットさんがあんたを邪険にするとは思えないがね……
「ウチが気にするの。だいたい、キミはヌヴィレットさんの招待を受け入れたんでしょう?嫌なわけじゃないのに、なんでそんなことを言うの?」
確かに、嫌なわけではない。リオセスリはぐうと喉を鳴らして、額に手を当てた。
わかっている。これは、ヌヴィレットの家に行く前に結論付けるべき事柄だ。
すなわち――ヌヴィレットの恋人になれるかどうか。相手の感情は置いておいて、自分がどう感じているか。デートを、キスを、受け入れらるのか。傷の一つ一つの所以を暴かれ、洗いざらい白状していいと思えるのか。最後のは一般的な恋人関係で求められるものではないが、今回は特記事項として既に明言されている。なんでだ。
「嫌ではないが、畏れ多いじゃないか。最高審判官様のご自宅にお招き与るなんて、身に余る光栄だね。公爵の地位と同じようなもんだ」
口にしてみた言い訳は、どうにも正しいように思えた。
リオセスリはヌヴィレットをそれなりに長いこと知っているが、はじめの十数年はただの罪人として、だ。こちらからすれば最高審判官は一人しかいないが、最高審判官からすれば罪人など星の数ほどいる。有象無象の一人として見上げたとき、あのひとに個人的な感情を持ったとして、伝えたいと考えることがあるだろうか?あれば、刑期が長くなるだろう。そしてリオセスリの刑期が伸びたことはない。管理者への着任は自主延長みたいなものだったが。
人生のはじめのクソッタレな十数年で、リオセスリはこの世の全てを恨んだ。養父母のもとで暮らしたこと。家を出て冷たい路地裏を彷徨ったこと。弱く小さな体躯ゆえに見下ろされ、搾取されそうになったこと。救いの手はあったが、それを取ることできなかった。幸福であたたかな子ども時代ははなから偽りで、忌むべき過去で、何もかもが信じられなかったからだ。
野犬のような子どもだっただろう。凶器を手にし、瞳だけをぎらつかせた痩せこけた自分を見て、養父母はどう思っただろう。家畜に手を噛まれ、喉笛を食いちぎられて。
リオセスリは喜びはしなかった。達成感もなかった。人を殺してそう思わなかったことは少しばかりの慰めになった。誰かれ構わず手をかけたい人間でなければ、これが最後の殺人だからだ。まあ、死んだ人間はどうせ人を殺せやしないのだが。
クソッタレな人生の走馬灯は存在せず、意識が白く溶けて――目覚めた。贖うために。
だからこそ、裁きは正しくあらねばならなかったし、リオセスリは誰よりも正しい最高審判官を仰いだ。
フォンテーヌの誇る公明正大な最高審判官様。聴衆の気まぐれに心を揺らすことなどなく、躊躇いも間違いもなくリオセスリを裁いてくれたひと。
今はフォンテーヌの守護者も兼任しているが、とにかく、雲の上の人である。新生の機会を与えてくれた恩人だ。そりゃあ、慕ってはいる。嫌いになる要素なんかない。職務に関係のない頼み事なら、たいてい聞き入れるだろう。茶会の誘いなんかはそうだった。
その人にソファの上で迫られることがあってたまるか。というのが、嘘偽りのない心情だ。茶会においてヌヴィレットのプライベートに踏み込んだ記憶なんて一切ないのに。ヌヴィレットだって、リオセスリと愉しむのは上っ面だけの軽い会話だけだった。上流階級特有の、機知と教養に富んだそれだ。
いったい何が彼の琴線に触れたのか、さっぱりわからない。そして彼が、リオセスリの何に触れようとしているのか、正直わからない。
そんな当惑を表情に出すリオセスリに、シグウィンは何でもないようにあっさりと言った。
「あら、それなら大丈夫ね」
「おっと、どうしてだい?」
「だって公爵、もう『公爵』って呼ばれ慣れてるもの。ヌヴィレットさんのお招きにもきっとすぐに慣れるのよ」
「そりゃあ……
ドッ、と左胸のあたりから音がした。
慣れる?あの距離に。鼻先が、睫毛が触れる距離に。白く透き通った肌の色に、グローブの手触りに、ひととは思えぬ澄んだ香りに。瞳にのぞく赤色に、縦に伸びた瞳孔に、雨の満ちるような重圧に。
パレ・メルモニアのステンドグラスの光が落ちる執務室ではなく、正真正銘の二人きりの空間、それもあのひとのテリトリーに。今更とんでもない場所に招かれたことに気づき、リオセスリは湿った拳を握りしめた。今からでもホテル・ドゥボールの最上級スイートに変更できるだろうか?金なら出す。
……無理だと思うが」
「ふふ。最初に閣下って呼ばれたときも同じことを言ってたのよね」
「それとこれは同じ尺度で測るべきじゃないな。違うシチュエーションだ」
「公爵は難しく考えすぎなのよ」
「あんたからすりゃ、ヌヴィレットさんは保護者だから、何を言われても悩む必要なんてないんだろうがね……
つい先日、この国は洪水に沈んだ。水神の神座はなくなった。だから変わらないものなんて存在しないと言い切れる。
しかし。ヌヴィレットだけは何も変わっていないはずだった。何も変わらないまま、あの審判席に座している。まごうことなき国の柱を仰ぎ見て、その言葉を唯々諾々と聞くことはできても、ソファの真隣に座られたら困るだろう、ふつうは。なんでそこだけヘンなんだ。変わったというか、トチ狂ったというか。
「もう、ヌヴィレットさんとふたりきりになるのが初めてなわけじゃないでしょう?お友達なんだから」
「それだよ。俺の友達に最高審判官とかいうたいそうな肩書を持った人がいるなんて、実は初耳でね。握手をした記憶も、肩を抱いた記憶もない……
「それ……、ヌヴィレットさんに言ったらダメよ?」
気の毒そうな顔をするシグウィンに、リオセスリは肩を竦めてみせた。それくらいの分別はついている。
「看護師長もヌヴィレットさんを悲しませたくなければ教えないことをオススメするね」
「わざわざ言わないのよ。ヌヴィレットさんはずっと公爵を気にかけてたのに、お友達じゃないって言われたら……しばらく雨がやまないかも」
それってなんかの比喩かい、と問いかけるより先に、リオセスリは片眉をあげた。
「ずっと気にかけてた?前も話したと思うが、ヌヴィレットさんが誰かに特別に関心を持つなんてありえない……、」
そこでリオセスリは気が付いた。

思わず口を押えて、喉の奥で唸った。
「もう、その話は公爵の勘違いなのよ。ヌヴィレットさんはキミが思ってるよりずっと……、公爵?」
パタパタと軽い足音がして、宝石のような赤い瞳が執務机のこちら側からリオセスリを見上げていた。こてん、とかわいらしく首を傾げられる。
「顔が真っ赤なのよ!」
「言わないでくれ……
力なく呟いて、リオセスリはとうとう机に突っ伏した。ぐしゃ、と紙がヨレる音がする。妙に冷静な頭が、インク瓶だけは避けていた。顔が熱い。視界が歪む。長らくひいていない風邪のようで、しかし、心臓が引き絞られるような痛みだけは異なっていた。
「看護師長……、ヌヴィレットさんとの文通で、いつから俺の話をしていたんだい?」
なんとかそんな質問を絞り出すと、すぐ隣から答えが返ってきた。
「キミが入獄したすぐ後よ。キミのことを書いて送ったら、ヌヴィレットさん、すぐに返事を送ってきて、キミを気にかけてほしいって言ってたの。だからいつもキミのことを話題にしてたのよ」
……
リオセスリはしばらく沈黙し、やがて顔を上げた。いつも通りのはずだ。外面だけは。顔に集まる熱を引かせることくらい、造作もない。はずだ。ポーカーフェイスは要塞の主の嗜みだ。
「なぜそんなことを?」
声はすこし上ずっていたが。
「だって、公爵のことが気になったんだもの。あんなに小さかったのに、当時のメロピデ要塞の環境に真っ向から反抗して……。ヌヴィレットさんもきっと同じなのよ。キミのことが気になって仕方なかったの。裁判のときに、何か感じなかった?」
「いや、何も」
「そう?公爵でも気づけないことがあるのね」
只人の感知能力を高く見積りすぎるな、とリオセスリは胸の中でつぶやいた。最高審判官様も看護師長も、人をなんだと思っているのか。予知能力はないし、目と耳は二つずつしかない。人間でない者の心境を推し量ることも、そのひとが自分に向けているものがなんなのかも、言葉にしてもらわなければわからない。蜘蛛が巣を張るように周到に情報を集め、あらゆる状況に対処するとして、その想定はあくまで対人間なので。
「どうしたもんかね……
ヌヴィレットを弁舌で説得できる気がしない。ボードの上のルールを無視して駒を運ばれると勝ち筋が見当たらないのだ。
人間よりよっぽど規則を無視してるだろ、と思ってしまうのも仕方のないことだ。
「ふふ」
「なァんでそんなに嬉しそうなんだよ、看護師長」
「公爵がヌヴィレットさんのことで思い悩んでるからよ」
「いいご趣味で」
「考え事をするのにぴったりの飲み物を用意してあげようかしら?」
「勘弁してくれ。俺は紅茶派でね」
リオセスリは親切な看護師長から逃げるために湯を沸かすことにした。仕事に戻るにしても気分転換を挟んだほうがいい。悩むのは仕事中よりも朝がいいだろう。要塞の朝なんて、太陽でなく時計によって定められているだけの規則だが。
とりあえず、締め切りだけは決めてしまおう。仕事には――これは職務ではないが、とにかく考え事には――メリハリが必要で、期限はそのためにも重要だ。直近で手が空きそうな日を選び、手紙を送ろう。書類に紛れ込ませるには不埒だが、あの最高審判官様なら顔色一つ変えないだろう。
リオセスリがティーポットを持って戻ると、シグウィンは当然のようにソファに座って待っていた。このお茶会でさらに悩まされることを言われないよう祈りながら、リオセスリは彼女の前にカップを置いた。親切な看護師長からは、逃げられない。



この世のすべての人間がわきまえているのならば、犯罪は生まれない。
要塞にいるのは、わきまえていない人種だ。反乱、扇動、搾取、傷害――毎日のようにさまざまな事件が発生する。小さなものならば看守が対応し、大きくなる前に管理者が芽を潰す。ただ、すべてを防げるほど万能ではない。たとえば、要塞から逃げおおせたファデュイの執行官のように。
だがまあ、外交問題――これは水の上とのを含む――に発展することはごく稀だ。リオセスリは深海の領主として、己のテリトリー内の事件をその中だけで収めてきた。パレ・メルモニアから派遣された看守たちにだって、要塞の管理者に口出しをする権限はない。彼らはリオセスリの築いたシステムに組み込まれるための歯車であり、ネズミではないのだ。
そう、システムだ。人的ミスはシステムによって除かれるべきだ。異常の検知もシステムによってなされるべきである。
人やマシナリーの目でわかるものであれば。

「あの辺、なんだか変な感じがする。嫌な感じ……
リオセスリにそう言ったのは、メリュジーヌだった。シグウィンの友人であるという、マレショーセ・ファントムの一員。本日もリオセスリのコートやナックルにステッカーを貼りに来たのかもしれないが、それよりも気にかかることがあるようだった。直接声を掛けられることは案外少ないので、リオセスリもしゃがんで応対した。
「変な感じ?」
「うん。紫と黒で、暗いのにビカビカしてる。どこかで見たような……
「ふむ……。少し確認してみよう」
今日はヌヴィレットとの約束の日で、あと数時間もすれば水の上に行く予定だった。前倒しで片付けておいた業務には余裕があり、この巡回に多少時間を取られてもすぐに出れば問題ない。
しかし、メリュジーヌの嫌な感じとなると、手間がかかるかもしれない。しかし放置しておけることでもなく、最悪ヌヴィレットさんに断りの連絡を入れないと――そう思いながら、リオセスリは立ち上がった。
「危険かもしれないから、あんたは離れてな」
「でも、役に立てるかも」
「こんなところで怪我でもされちゃあ、俺がヌヴィレットさんに怒られちまう」
メリュジーヌの視覚が役に立つのは確かだろうが、彼女はあくまで客人で、正式に出張依頼をしたわけではない。リオセスリが軽い調子で肩を竦めると、目じりを下げたまま彼女もうなずいた。
「わかった。気を付けてね、公爵様」
「ああ」
いたいけな声で心配されるのはすこしばかりこそばゆい。リオセスリは手の空いている看守を何人か呼び、その変な感じがするという場所へ向かった。

メロピデ要塞はかつてアルケウムの採掘も行っており、メリュジーヌが指し示したのはその廃坑道だった。もちろんこんな怪しい場所には警備マシナリーを配置し、看守にも巡回させている。だが、長きにわたる無計画な採掘の結果、把握しきれていない小さな道があるのは確かだった。
露出し打ち捨てられた鉱石の、薄ぼんやりとした緑の光に坑道は照らされている。息苦しく思えるのは空気が循環していないからだろう。しばらく進むとトロッコのレールが途切れ、足元も悪くなってきた。
「はあ……っ、結構深いですね……
「見ろ。あっちに横道がある。別の場所に繋がっているのかもな」
「どうなさいますか?」
「ひとまずこの道の先まで行ってみよう。あと十分歩いてたどり着かなかったら引き返して調査隊を組む」
「かしこまりました」
分厚いブーツでゴツゴツとした岩道を踏みしめ、リオセスリは先頭を歩いた。嫌な感じ、というのがだんだんと肌で感じ取れてきて、道が合っていることを確信する。その瞬間、自分たちのものでもない物音にも気が付いた。
「誰だ!」
押し殺せていない小さな悲鳴と、走り去っていく音、遠くはない。リオセスリは駆け出した。
「公爵様!」
「一人戻って人を連れてこい!看護師長もだ!」
「はい!」
このは、人工的なものだ。何らかの計画が走っている。そしてメリュジーヌの視覚に頼るならば、看護師長にお越しいただくしかない。どうしたってヌヴィレットさんに苦言を呈されちまうな、とリオセスリは苦笑した。約束の時間に間に合わないであろうことも。
リオセスリが追いかけていた人影は、途中で横道に入った。ガシャン、とナックルを身に着ける。リオセスリが横道に入ったときにはもうその先の床にある扉が閉まりそうになっていたが、それを氷元素で無理やりこじ開けた。
「うわあッ!」
くぐもった悲鳴が聞こえるのは、逃亡者の体のどこかしらも凍らせてしまったからだろうか。ふう、と立ち上がり、ガツガツと足音を鳴らして近づく。看守たちも追いついてきた。
「この先だな」
「隠し扉?ずいぶんと立派なものですが」
「お宝でも眠ってるのかね」
床自体も岩肌ではなく、ここだけは石張りだ。リオセスリは顎をなぞって考える。この下の空間はそれなりに広そうだ。禁域のは別の方向だが、何らかの目的で建設された場所かもしれない。
このまま突入すべきかどうか。考え込むリオセスリの耳に、ふいに水音が届いた。
……まさか」
氷を解いて扉を覗き込む。
眼下の床には坑道と同じくぼんやりと光る鉱石が落ちている。違うのはひたひたに水が満ちていて、滝のように波紋が広がっていることだ。――水を引き込める機構があるということだ。
「突入する!あんたらはそこで待機だ!」
「公爵様!」
「扉はまだ閉めるなよ!」
そう言い残し、リオセスリは飛び込んだ。バシャンと水音が立つ。顔を上げると、メリュジーヌの言っていた紫と黒が何のことか本能的に理解できた。
人間の視覚で見えるのは、藻のようなグリーンだ。植物なのか別の生命体なのか、泡をつなげたように不格好に膨らんだそれに、生理的な怖気が走る。
あえて言うならば、繭だった。天井と床と壁と、幾本もの伸びた枝がそれを支えている。ドクリ、と震えて、いまにも何かが羽化しそうだった。
「なんだこれは……
「ヒッ!公爵……!」
思わず呟いたリオセスリに答える者が一人だけいる。取水口の近くで膝まで浸水している男だ。囚人である。
そして彼がもたもたと身に着けているのは潜水服だった。取水口から逃げようとしている――それだけわかれば、十分だ。
「オラァッ!」
拳を振るえばバキバキと音を立てて水面が凍る。男はあっけないほど簡単に氷に捕らわれ、恐怖からか寒さからか唇を震わせた。
「氷漬けになりたくなければ動くなよ。安心しな、お利口にしてりゃあすぐ溶ける」
「ひ、ぃ、」
「アレはなんだ?」
「あれっ、は、……
近づくリオセスリを見て――いや、その背後を見て、男が口を開けた。とっさに振り向いたリオセスリは、襲ってきたそれを避ける。弾丸のような何かが、繭――嚢胞から打ち出されたらしい。
「なん……ッ」
「動いた!」
その声が歓喜に満ちていたので、潜水服の囚人の仕業だとわかる。
「ハハっ、アハハハ!これで終わりだ!テメエもメロピデ要塞もなァ!」
水を吸っているのか、ぶくりと膨れた嚢胞が更に大きくなっている。そこから飛んでくる何かは壁に激突し、べとりと薄緑の液体が広がっていた。問題は、その壁がいくらかえぐれていることだ。
膨れた嚢胞の半分はすでに水の中で、リオセスリは舌打ちした。男は放置して、嚢胞の周りを凍らせる。そして、取水口を閉じなくてはならない。今すぐに。
前者がうまくいった、と思ったのは束の間だった。氷で封じるきることはできず、氷混じりの弾が飛んでくる。
「あぐっ!?」
「おいおい、冗談だろ……
しかも悪いことに潜水服の囚人の頭にその氷がヒットしてしまい、ばしゃんと力なく水の上に伏せた。自信満々だったわりに、フレンドリーファイアは仕様らしい。さすがに死なせるにはいかず、リオセスリは男の腕を引き寄せた。
「上がるぞ!」
「はい!」
身柄の確保が優先だ。どうやって出入りしていたか知らないが、天井の扉との間に梯子も何もない。水だけはあるので氷で足場を作るも、ガンッ!と飛んでくる弾のせいで間髪いれずにヒビが入った。
すでに顔の下まで水が上がってきており、氷の上に立てば看守の手が届く。ぐったりと意識を失ったままの囚人を引き上げさせ、リオセスリは今にも壊れそうな氷の足場を見下ろした。
「ひとまずあれをどうにかしないことにはな」
「なんなんですか、あれは……
「わからん。一応動くものを追尾しているようだが、この扉も何発かやられたら壊れるだろうな。そうなったら決壊だ」
リオセスリが嚢胞を睨む瞳に、看守が息を呑む。
「まさか、お一人で?!」
「神の目を持ってる奴は他にいないから仕方がない。ああ、看護師長が来たら伝えておいてくれ。ヌヴィレットさんに連絡をとな」
約束の時間には間に合いそうにない。リオセスリは最後に「扉を閉めろ!」と鋭く言って、水中に身を投じた。