わからん
2026-03-09 22:36:51
14688文字
Public くさひぐ
 

【篤寛】BAD MODE ディストピア雑論

嫌なことがあったので着衣風呂してる日車と、そんな日車に呆れつつも最後まで付き合ってやるし何だかんだ言って世話を焼きまくる日下部のくさひぐ
※青空文庫様より坂口安吾「堕落論」の一部を引用しております。https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42620.html

「パノプティコンを知っているか?」
 目の前の男が発した問いに日下部は唇を真横に引き結び、むっつりと黙り込んだあとで、首を横に振った。
「イギリスの哲学者ベンサムが考案した監視システムの総称だ。主に刑務所を対象として考案されたものだが、実際に採用して建造された刑務所が海外にいくつかある——
 始まった……
 まるで何度も同じ状況に陥ったかのような反応をしてしまったが、彼の奇行を日下部が見るのはこれが初めてである。
 無論、話には聞いていた。しかしまさか、本当にやるとは思ってもみなかった。あのときはグレていた、もうしない、と当の本人も言っていたはずだが、やはり本人からの申告はあてにしないのが一番ということか。
 日下部は浴室の隅に置かれたプラスチック製の椅子を引き寄せ、重い腰を落ち着けた。その様子を、湯を張った浴槽の中に座り込む日車が、横目でじっと観察している。。右手にはプラスチック製の吹き棒、左手にはシャボン液を入れた容器を持っている。つまり、日車は服を脱がずに入浴し、日下部が帰宅してくるまで、薄暗い浴室で黙々とシャボン玉を吹かしていたのだった。
 あまりの奇行ぶりにもはや怒りの感情も湧いてこない。日下部は浴槽の縁に置かれた皿へ手を突っ込み、動物の形にくり抜かれたビスケットを何個か掴んで口の中に放り投げる。湿気を吸ってもたつくような食感がやや不快ではあったが、食うには問題ない。
 鋭い目つきとへの字に曲げた口で凄みをきかせながら咀嚼を続ける日下部から目を逸らし、日車はまたもシャボン玉を吹かしている。
 唇が割れているな、とクッキーを噛み砕きながら気づいた。日車の唇は淡く赤らんだ膨らみの途中でぱっくりと裂け目が生じ、そのクレバスを赤黒い血の塊が塞いでいる。昨晩見たときにはなかった。今日できたのだろう、見るからに痛そうだ。
 日下部がビスケットを嚥下すると、吹き棒から唇を離した日車が口を開いた。
「パノプティコンは円柱の形をしていて、中央には巨大な監視塔が設置されている。その塔を囲むよう円形に囚人たちの部屋が置かれるわけだ。それが一階、二階、三階……と続いていく。構造のイメージとしては、中央に穴があいたドーナツが何層にも重なっていると考えればいい。
 囚人たちから監視塔の様子は見えない。だが、監視塔からは囚人たちの様子が一人残らず隅々まではっきりと見渡せる。そうした状況から、囚人たちは常に監視されていると意識せざるを得ない。よって科せられた労役へ真面目に従事せざるを得なくなり、その強制がやがて更生へと繋がって、囚人の社会復帰が効率的かつ的確に早期実現されるというわけだ。ベンサムは功利主義の祖だ。いかにも最大多数の最大幸福を唱える、功利主義者らしい考えだな」
 吹き棒の先端をシャボン液の容器に浸し、妙にゆっくりとした動作でかき混ぜる。吹き棒から手を離した日車の右手はビスケットを摘み、これまたゆっくりと口の中で噛み砕く。
 日車の癖だ、と日下部は思った。彼が考え事をしているときの癖だ。考えているときくらい手を止めればいいのに、多忙な生活を送っていた弁護士時代の名残なのか、彼は「ながら」の習慣がすっかり身についてしまっている。
 数秒の沈黙を置き、日車の喉仏が上下に動いた。右手は吹き棒を摘んだり、容器の中で回したりして、どことなく落ち着きがない。
「当然ながらこの監視システムには欠陥がある。囚人たちにプライベートな空間と時間が一切与えられていない。人権を侵害されていると考える者もいるだろう。今日こんにちの人権意識と照らし合わせても実現させるには多くの問題が付きまとう——が、ベンサムのパノプティコンはある意味、現代社会で一部ながら実現されているとも考えられる。
 監視カメラによる監視社会が良い例だが……個人の捉え方によるだろう。監視カメラの存在が治安維持に一役買っているのも事実だ。適度な監視が適度な治安を保つ。そのためなら多少の人権侵害など起きても構わない。過度にさえならなければいい」
 日車の話を聞きながら——半ば聞き流しながら——日下部は徐々に口の中が物寂しくなっていくのを感じていた。
 飴が欲しい。今日の日車は捻くれ、話も難解で付き合いにくい。暇を潰すものが、意識を他へ移すものがなければ、退屈すぎて大声を上げてしまいたくなる。
 それを堪えているのはひとえに、今この場を台無しにすれば、自分に向けられた日車からの信頼が失墜するに違いないという、日下部の理性が堅牢に働いているためだ。日車以外の相手であればとうに口を出して、この長ったらしい話を強制的に終わらせていただろう。
 日車が息を吸う音が浴室に小さくこだました。
……では、行き過ぎた監視とは、過度な監視社会、究極の超監視社会とは何か? 答えのひとつは戦後すぐ一人のイギリス人作家——またイギリスだ——が提示している。
 物語の舞台となる国家では、徹底した全体主義体制が敷かれている。個人の自由、権利、社会的自律性などはまったく認められず、たった一つの政党が国を支配する。指導者の名のもとにおいて歴史が改竄され、国民は監視され、自由を剥奪され、寧ろ自由を憎むことを推奨される。監視の目と密告の脅威が、国民一人ひとりに二十四時間三百六十五日付きまとう……
 日車が吹き棒を咥えてシャボン玉を飛ばす。ふわふわと天井へ舞い、割れていくその様子をぼんやり眺めながら、日車はひょっとして煙草を吸いたかったのではないか、という考えが日下部の脳裏をよぎった。浴室では湿気って火がつかないだろう。だから代替案としてシャボン玉を選んだのだ。
 シャボン玉の軌道を追う日車の瞳がどんよりと曇っていることにもまた、日下部は気づいていた。奇行へ走るに至る出来事が起きたのであろうことは薄々察していたが、それが何なのかはまだ聞き出せていない。
 今、聞くべきだろうか。あるいはもう少し自由に話させておくべきか。
 見た限り、日車はまだ話し足りていない様子だ——日下部に後頭部を見せ、視線を壁に向けてはいるが。日下部は手持ち無沙汰に再びビスケットへ手を伸ばした。
「作中ではある人工言語が登場する。文法も語彙も必要最低限に切り詰められ、話者の抑揚も極端に抑制されることによって、最も効率的かつ手短に情報伝達を行える言語だ……そのためだけの言語だ。
 語彙の乏しさはそのまま話者の表現力の乏しさ、想像力の欠如、即ち知力の低下に直結する。国の指導者は国民の思考能力そのものを低下させることで、抵抗の意思を根こそぎ奪い取り、指導者を神のように崇めて無条件でつき従う、まさに機械のごとき国民を生み出そうとしていた。
 ……どうだ、興味深い発想だと思わないか。言語というものの本質、核心をついている」
 今日の日車から意見を求められたのはこれが初めてだ。が、返答を求めているわけではないことも、日下部はすぐにわかっていた。日車の目ははるか遠くを見ている。ここではないどこか、空想上の世界に建てられた独裁国家でも夢想しているのだろうか。
「言語を奪われた人類はどうなるのだろう。意思を奪われる。共有される知識が乏しくなる。想像力が枯渇する……。さっき、君が来るまで試していたがなかなか面白いぞ。せっかくなら今、この場でもう一度試してみようか……
 深呼吸。日車が俯き、顔を上げて正面の壁を見据えた。
——新宿 二十・九・十五 任務により敵排除——ピリオド」
 大きな白目の中で小さな黒目が忙しなく動き回っている。
「敵の思想は愚劣——倍加愚劣で思想犯罪……に近し……必須否定 ピリオド」
 それまでは薄目で日車の話を聞いていた日下部だが、にわかに目を開いて身構えた。
 日車の様子がおかしい。発する言葉の端々が震えていた。少しずつ膨らみ始め、今や爆発寸前となった何かを、爆発させまいと腹の内で懸命に抑制している。
……思想犯罪は必須否定で……あり正義執行に必須……敵排除は妥当」
 しかし、その爆発寸前の気配は、目の前で徐々に萎んでいった。日車の瞳も落ち着きを取り戻し、肩を上下させて息を吐く。思い出したように容器から吹き棒を取り出した。
——ピリオド」
 ふうっ、と勢いよく息を吹き込む音が聞こえた。
 宙をシャボン玉が舞う。日車はぐったりと浴槽に背中を預け、収まりの良い姿勢を探して身じろいだ。ちゃぷちゃぷと湯船の水面が漣を立てながら揺れる。日車が動きを止めれば、再び静寂が戻ってきた。
……不思議な感覚だ。思考が絡まって袋小路へと追い詰められていくように感じるのに、裏腹に頭の中は真っ白になっていく。危険だと脳が警鐘を鳴らしているのがわかる。この言語を使い続ければ、脳の機能が明らかに退化していくと」
 また壁のほうを向いている。日下部は背中を丸め、膝の間で両手の指を組み合わせるように座り直した。すぐにでも身を乗り出せる姿勢を無意識のうちに取っていた。そろそろ口を挟むべきタイミングが来ると予感していたのだ。
「反理想郷ユートピア……ディストピアの概念が人口じんこう膾炙かいしゃするようになったのは、二十世紀に入ってからだと考えていいだろう。共産主義に基づいた独裁政治が登場し、二度の大戦を経験した時代だ。その概念には純粋な恐怖がある。未来の人類に向けた強い警告もだ。なのに同じ過ちを繰り返すのが人間だからな」
 青白い目蓋が瞳を覆い、すぐに開かれた。
「死滅回游はある種のユートピアを築けるだろうと考えていた時期もあった。真実も裁判も必要なく、あるのは未知のエネルギーである呪力のみ……。だから……今思えば愚かで浅はかな考えだ——であり、功利主義者以上に人々の人権を無視している。あれは反理想郷だった……ディストピアとは、俺たちが自覚しないまま形成されていくものであるに違いない……
「日車」
 わずかに首が傾けられる。白目の中で黒目がぎょろりと動き、日下部へ向けられた。
「何だ。日下部」
 話す内容が決まっていたわけではない。寧ろ、何も考えていなかった。日車の黒々とした瞳を見た瞬間に、たちまち思い浮かぶだろうと知っていたからだ。
「何を言われた?」
 呼吸をするためか、あるいは気力か精力か、目に見えないエネルギーを自ら消耗させるために吐き出していたのか——薄く開いていた日車の唇が閉じられた。
「今日、誰に、何を言われたんだ。日車」
「任務で対峙した呪詛師から、君たち呪術高専の価値を貶めるようなことを」
「それだけじゃねえな。俺の前で隠し立てはできねえぞ、言え」
 返事がない。目も合わなくなった。溜息をつきながら膝の上で頬杖をつき、上目遣いに日車を見やる。
 ——呪術師として呪術高専に戻ってきた日車が悪事を働かぬよう常時監視せよという、総監部からの要求を渋々呑んだ日下部が彼の身元を引き取ってから、早くも半年が経とうとしている。
 総監部が日車の監視を求めてきたのは、彼に非術師を殺害したという前科があるからだ。本来ならば呪詛師の烙印を押され、処刑されている身である。しかし彼は両面宿儺の討伐に貢献したうえ、呪術界が人手不足を極めている今、働くと自ら申し出てきた者までもを拒絶するのは、それこそ自滅への布石を置くも同然である。ありとあらゆる論争が総監部と呪術高専の間で飛び交った結果、監視つきという条件で、日車は呪術高専所属の呪術師として迎え入れられた。
 両面宿儺との決戦時に共闘した立場であるから、一応、彼の人となりは知っていた。はじめの頃こそ他人との共同生活を悲観的に捉えていた日下部だったが、いざ始まってみると、日車との生活は案外に悪くない。真逆ゆえに反発し合うだろうと予想していた互いの波長が、意外なことに二人の間でうまく噛み合ったのだ。
 趣味嗜好——読書が好きだ。彼のため、部屋には本棚が新しく設置された——、味の好み——東北出身らしく濃い味付けを好む——、時計のように規則正しい生活態度——これはある程度予想通り——などから、日車寛見という男の生態を、日下部は多少なり理解しているつもりだった。
 だのに、今日のこの奇行である。日下部による日車寛見の人物像は呆気なく崩れ去り、例えるなら今は、未知の生命体と向き合っているような気分だった。
 無関心とまではいかないが、呆れているのは事実だ。彼はもう自分の手に負えない、ひとりでどこにでも行って、どうにでもなればいいとさえ思い始めている。しかしそれらの失望と苛立ちはすべて、今まで彼に対して抱き始めていた好意のあらわれだ。それを自覚しているからこそ、日下部は自宅の浴室で日車と相対し、彼の胸中に巣食う何ものかを見極めようとしている。……結局のところ、その試みは空振りに終わる予感を覚え始めていたが。
 日下部は両目を日車の横顔に固定し、じっと凝視した。形の良い額、大きな白目の只中に浮かぶ小さな黒目、鷲の嘴を思わせる特徴的な形の鼻、わずかながら血が滲んでいる唇——いつの間にか新たな傷ができている。彼の口元を日下部は苦々しい思いで注視した。たとえ頓狂であろうと、彼の行いには必ず理由が潜んでいる。何が日車を苦しめているのだろうか?
「君に迷惑をかけているな……
 視線を感じたのか、日車が沈黙を破って言った。「もう少ししたら上がる。放っておいてくれ」
「放っておくも何も俺の風呂場なんだけど、ここ」
 かっとなって反射的に言い返した自覚があった。その次に溜息をついたのもだ。放っておけ、いいや放っておけないと相反する気持ちがせめぎ合い、次第に息苦しさを覚え始めていた。
「あのさ……マジで何があったんだよ。悪いけどあんたが何をしたいのか俺にはさっぱりだ。はっきり言って扱いに困ってる。何してえの? 俺に何してほしいの?」
「何も求めていない」
「んなわけねえだろ、こんな露骨に機嫌悪くしやがって」
 また唇を噛んでいる。噛むなと思わず口に出しそうになり、寸前で堪えた。
「そのパノピ……パノ…………パノ何某とか、新しい人工言語とかが何かは知らねえが、深く考えすぎだ。早いところ頭を切り替えろ、いいな?」
「それはただの逃避だ」
「逃げて上等じゃねえか。別に、未来永劫ずっと考えるなって言ってるわけじゃねえ。考えなくていいときに考えすぎるなって言ってるだけだ」
 自分の言葉が果たして日車に届いているかどうか、確信はない。思えば日車寛見は感情の起伏が全く読めない男だった。無表情の仮面の奥に疲労を隠し、苛立ちや怒りさえも押し殺し、かと思えば同じ顔で冗談や洒落を口にする。冗談が冗談なのかわからない。日下部が困惑しているのを見て、日車自ら冗談だと明かしてくる機会も少なくはなかった。
 とはいえ、半年も経てば少しずつ感情の起伏が読めてくる。日車の態度から機嫌の善し悪しや喜怒哀楽を読み取るのは誰よりも上手いと日下部は自負していた。今は——怒りと、それを圧倒的に上回る悲しみが、日車の頭と身体を支配している。
「日車。あのな……
 口にしてから気づいた。自分が口を開くたび、日車の肩がどんどん萎縮し強ばっている。
 日下部は口を閉じ、ビスケットの皿へと三度みたび手を伸ばした。日車もまた吹き棒を咥え、シャボン玉を宙へ飛ばしている。
 沈黙は気まずくとも慣れたものとして二人の間に横たわっていた。夕食時を彷彿とさせる。日下部も日車も、食事中は滅多に喋らない。食事の合間に世間話を交わすが、それらはあくまで儀礼的な、否それよりも義務的、もしくは事務的な——同居人という関係上、最低限は交わされるべき会話程度のものだった。
 言い過ぎたのだろうか、と若干の後ろめたさを覚えながら日下部は己の行動を振り返る。日車が抱えるモノに干渉しすぎただろうか。彼のことを手のかかる子どものように扱ってしまった。そう思っているのは事実だし、自分の部屋である以上、正当な態度だとは思っているのだが。
 日下部は、日車が長く喋ったことを意外に思ったのだった。彼がこうも饒舌に、かつある種の熱を持って何事かを語る姿は初めて見た。深く考えるなと言ったとき、逃避だと返されたことにも内心驚いていた。中身のある会話ともいうべきなのか、両者の意見が対立し食い違うような会話を自分たちは、思えば半年のあいだ一度もしたことがなかったのではないか。
 そして今、日下部は戸惑い、日車は固く心を閉ざして、狭く薄暗い空間へ一緒に籠もっている。
「昼間は新宿に行ってたのか」
 日下部の声に日車が顔を上げた。依然として横顔を向けたまま頷く。「ああ」
「一人で?」
「任務自体は一人で」
「そうか。怪我しなかったか」
「怪我は……しなかった」
「ならいい。……もう少し入ってるか?」
 戸惑ったような沈黙を返された。日車が小さく息を呑んだのは気配でわかる。やがて首を傾け、彼は斜めがちに日下部の顔を見やった。
「ああ……
「やっぱり出てったほうがいい?」
「どちらでも……片付けと掃除は俺がする」
 皿にたくさん入っていたはずのクッキーが底をつきかけている。
 気まずさを誤魔化すための逃避先はもう残されていない。
……俺のほうは今日、妹に会ってきたんだけど」
 俯いた額に日車の視線が注がれているのを感じた。日下部が顔を上げれば、それは明後日の方向へと向いてしまう。日下部は膝の上で頬杖をついたまま、背中をさらに丸めて体を縮こまらせた。
 何を話すべきだろう——自分は今、何を話そうとしている?
 答えは明白だ。何も考えていない。
 静寂が耐えられないゆえに、中身のない会話での時間稼ぎを試みているだけだ。
「元気そうだったよ。向こうで何して過ごしてるとか、俺の仕事のこととか、適当に話して帰ってきたわけで」
 口は重たく、頭もうまく回らない。全身が倦怠感に包まれているのに、唇は淡々と動き続ける。
「久しぶりにタケルの話になってな。タケルってのは甥の……前に話したことあったっけ。そう、そいつの呪骸に会えねえかって……
 今の日下部が恐れていること——沈黙。
 日車が浴槽の中で身じろぎ、静寂を破った。
「断ったのか」
 彼の視線が再び日下部の額に向けられている。
「いや……断りはしなかったけど、賛成もしなかった」ビスケットに口内の水分を奪われたせいか、語尾が掠れて咳払いを挟む。「施設の人も、良い機会だから何日か外に出てみませんかって。外っちゅうのは施設の外って意味で……妹ひとりか俺が付き添って出てみましょうって」
「今まで外に出たことがなかったのか」
「ないわけじゃない。それこそタケルに初めて会わせたときは俺が連れ出したし、その後も何度か駅前のほうで買い物に付き合ったりしてる。けどタケルに会わせたのは、初めてのとき以来一度もなくてさ。つか、向こうから言い出してきたことにびっくりした。ずっと話題にしてこなかったから」
 ——何を話してるんだ俺は……
 こんな話で誰が得をするのか? 他人の家族の話など聞いても面白いものでもないだろう。なのになぜ……話す話題がこれしかなかったからだ。今日は妹がいる施設へ行き、帰ってきたら、日車が服を着たまま風呂に入っていた。
……悪い。こんな話をするつもりじゃ」
「なぜ謝るんだ、君は悪くない」
 それに、と日車が付け足した。「元を辿れば俺のせいだろう。君が帰ってきた直後はまだ混乱していたから……
 また沈黙だ。口を開けば開くほど深みにはまっている。日車とほぼ同時に俯き、日下部は彼に気取られないようそっと溜息をつく。
 ……帰宅直後は妹のことで頭がいっぱいだった。無論、外へ出たいと言われて嬉しかったのは事実だ。だが、素直に受け入れるには、驚きと困惑が喜びを圧倒的に上回っていた。
 なぜだ?
 俺は妹の頼みを聞きたくない? 呪骸のタケルに会わせたくないのか?
 そうなのかもしれない。今は落ち着いている妹の精神状態が、タケルに会うことで興奮し、そのあとに訪れるであろう反動の大きさが、日下部には予想できなかった。
 妹がどうなるのかわからない。
 わからない、予測できないものは何であれ、未知に対する恐怖を掻き立てられる。
 スーツのまま入浴している日車の信じ難い姿を見た瞬間、余計な面倒を増やすなと怒鳴りたくなったことも認めなければならない。帰宅前から自分の機嫌が悪く、はじめはそれも露わに日車へ当たっていたことも、今となっては充分に自覚し始めていた。
 日下部は浴槽の縁に置かれていた皿を床の上へ下ろし、入れ替わりに両肘を置いて上半身をさらに屈めた。日車との距離が近くなるものの、目は合わない。
「駄目だな」
 発言の意図を掴むためだろうか、日車が首を傾けて見下ろしてきた。
 壁側を向いていた彼の顔半分に、夥しい量の血飛沫が散っていた。シャツの襟も真っ赤に染まっている。驚きはしたが顔には出さなかった。彼が常識から外れた行動を取るとすれば、それは己の容量を上回る過度なストレスに晒された結果だろうと、おおよその予想はついていたからだ。
「今日はお互い駄目な日だったな」と日下部は繰り返した。「俺もあんたも気が滅入っちまってる」
 日車の目は昏く淀んだまま、日下部の顔のどこかをぼんやりと見つめている。
「今日のメシは出前にしようぜ」
 日下部は努めて穏やかな声で彼に話しかけた。「何がいいかな。ラーメン……寿司……ピザ? ピザが食いてえな。どうだ」
 目の前の唇に犬歯が食い込んでいる。口元の力が緩んだとき、そこには新しい傷ができていた。
「君の好きなように」
「食欲は?」
「ある」
「じゃあピザ適当に頼むからな」
 こくりと首を縦に振ったきり、じっと俯いている。
 ——パノプティコンを知っているか?
 今まで隠れていた日車の顔半分に散った血飛沫を眺めながら、日下部の頭は自分が浴室へ踏み込んだ直後の、日車の発言を思い出している。
 ——イギリスの哲学者ベンサムが考案した監視システムの総称だ。主に刑務所を対象として考案されたものだが、実際に採用して建造された刑務所が海外にいくつかある——
 血を被った彼の顔色は普段よりも青白く、水面を見つめる黒目は対照的に黒瑪瑙のような、濡れた輝きを帯びている。
 何度も盗み見た唇はかさつき、ところどころに歯がくい込んだ痕が見受けられ、ひどく荒れていた。
 満身創痍だという言葉が浮かぶ。肉体のみに限った話ではない。今の日車はもう、精神的な限界を迎えている。
「日車。……あのさ……
 予想通り、応えはない。
 日下部は左腕を伸ばし、日車の手から吹き棒と容器を取り上げて皿の隣に置いた。
 椅子を扉の手前から奥へ移動させる。椅子の脚が床と擦れる騒々しい音が鳴った。この角度なら日車の顔全体を見ることができる。半分が血に塗れ、疲弊しきっていても、奇行という自己破壊をやめられない日車という男の、全容を。
 水の揺れ動く音が聞こえる。
 顔を上げた途端に日車と視線が重なった。
 漆黒の瞳。
 反射的に視線を逸らし、もう一度深い溜息をついた日下部は、思い切って椅子から身を乗り出した。
 袖を捲りながら右手を湯船に浸し——湯と思っていたそれが冷たいことに、日下部は密かに驚いた。そもそもはじめから湯を入れていたのか? どれだけ長い間、日車はこの空間をひとりで過ごしていたのだろう。
 濡れた手を近づけても日車は微動だにしなかった。彼の皮膚はこの空間にあるもののなかで何よりも冷たい。彼の視線ははじめ、斜め下へ逸らされていたが、日下部の指が目元を掠めると諦めたように目を瞑った。
 日車に何があったのか、それによって彼がどれほど傷ついているのか、日下部に推し量ることはできない。
 だが、目に見える血は濡れた指で擦れば落ちる。指先に過度な力を入れないよう、日下部は日車の顔に散った血の跡を、慎重に落としていった。
 赤い水が日車の頬や唇のそばを滑り落ちていく。だいぶ綺麗になった。あとは唇にこびりついた血の塊だけだ。親指の腹を押しつけてようやく、自分がこの作業にかなり没頭していたこと、その過程で他人の唇という、デリケートな部位へ無遠慮に触れてしまったことに、日下部は遅れて気がついた。
 束の間の静寂——柔らかい、と反射的に考えてしまったことを後悔する。
 日車の顎先から雫が滴り落ち、水面で跳ねた。
 親指の下で唇が動き、わずかに開いた隙間から震える息を吐き出す。
「痛い」
 か細い声にぎょっとして手が震えた。
 日下部の予想に反し、目蓋の下から覗いた日車の瞳からは、黒瑪瑙の剣呑な輝きがすっかり消え失せている。
 穏やかな薄闇が広がっていた。
 いつもの日車の目だ。
「ここは寒い……
 右手の水気をコートで拭い、日車の目の前に差し出す。
 氷のように冷たい指が日下部の手を握りしめた。力を込めて引けば、日車は緩慢な動作で、スーツから水を滴らせながら立ち上がった。

「俺は君の犬だ」
 寝室に入ってきた日下部を出迎えた日車は目を上げてそう言い、文庫本を開いたまま胸の上に置いた。
「実際は犬でも囚人でも奴隷でもどれでもいい。重要なのは状況だ。君が俺を囲っているという——事実だ」
 毛布に埋もれて横になっているおかげで、顔に血色が戻ってきている。健康的な赤みを帯びた頬を見て日下部は安堵し、それから日車の発言の意図を図りかねて呆れ顔を浮かべてみせた。その反応は日車のお気に召したらしい。彼は読書に戻った。表紙が見える。日下部からすれば、いつも難しそうな本を出している出版社の、やはり難しそうな本にしか見えない。
「また難しい本を読んでやがるな」
「気になっているなら、俺が読み終わったあとで本棚から勝手に取ってくれて構わない。もとは君の金だ」
 先月、日車の誕生日がとうに過ぎていることを知り、慌ててプレゼントした図書カードのことを指しているのだろう。
「そういう意味で言ったんじゃねえよ」
「総監部は君が俺を上手く飼い慣らしていると考えているようだが、この状況を見たらきっと憤死してしまうだろうな」
「は? なに? 憤死?」
「これでは犬というよりも豚か……『人間は堕落する。義士も聖女も堕落する』……
「悪いが要点を絞って言ってくれねえか」
 日車は無視してページを捲り、わずかながらの沈黙を挟んだ。「——『堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない』……
 日下部は溜息をつき、手に提げたビニール袋を掲げた。
「じゃあお前のメシは要らねえってことで」
「要る。勝手に決めるな、怒るぞ」
「あんたが俺の話を聞かなかったからでしょうが。ったく……
 悪態をつきながらキッチンへ引き返す。アイスを冷凍庫へ放り込んでピザが入った箱を手に寝室へ戻り、行儀が悪いことは承知でドアを蹴り開けた。
「おら、持ってきたぞ。食え」
「ここで食べるのか?」
 日車の声に怯えの気配が混ざっていたことを日下部は聞き逃さなかった。そして、なぜ彼がそのような反応を返したかもわかっている。彼はやはり、不良ぶるには優等生すぎるのだ。日下部は鼻を鳴らし、日車が寝ているベッドの縁にどっかりと腰掛けた。
「食うぞ。皿洗うのめんどいから蓋を使え」
 箱を開けるとチーズの香ばしい香りが鼻腔を満たした。マルゲリータとシーフードピザ、それぞれの箱から蓋を破り取り、一つを日車の枕元に放る。彼は大儀そうに身を起こし、両膝を抱えて毛布を胸元まで引き上げると、マルゲリータを選んで食べ始めた。「ながら」行動と早食いが習慣化している彼にしては、努力してゆっくり食べているほうだと思う。
 ベッドの上に向き合って座り込み、無言でピザを頬張っている間、日下部は何度か日車の顔を盗み見た。彼の唇の傷がいつの間にか治っていることに気づく。日下部が部屋を出ている間に反転術式を回したらしい。
 彼の一口が意外と大きなことを、一緒に暮らしてから初めて知った。今もマルゲリータを数口で食べ切るとシーフードピザを一切れ掴み、伸びるチーズに苦戦しながら皿代わりの蓋の上へ持っていく。それもきっと、数口で腹の中へ収めてしまうのだろう。つい先ほどまで寝室での食事に難色を示していたとは思えない。
「テレビ置きてえな、ここに」
「いいんじゃないか」ピザを頬張りながら日車が投げやりに返してくる。「買えばいい。金なら俺も出す」
「そうか? じゃあ、あんたがここを出ていくことになったら持ってけよ」
「わかった」
 その日は近いだろうと日下部は心の中で付け足した。自分から総監部へ上げている日車に関する報告は総じて、彼の勤勉な態度を評価している内容ばかりである。おかげで総監部から日車へ向けられる評価も、最近は丸くなってきたように感じられた。
 じきに監視の任は解かれるだろう。そう考えていたからこそ、「今日のことは上に報告しろ」という日車の発言に対し、うまく反応を返すことができなかった。
「え、なんで」
「テレビを買ってすぐ俺が引き取ることになったら、浮かばれないからな」
 意図を問うために無言で見つめるも、黒い瞳がじっと見つめ返してくるだけだった。
 まったく、と日下部は胸中で悪態をついた。今日はわからないことばかり起きる。だが、目の前に座するこの難問と正面から向き合うのは、悪い気分ではない。
 日車寛見という人物の一側面をあえて単純な言い方で例えるなら、クイズだ。彼を客観的に観察すると、その内面には漠然とした大きな問い——謎があり、捻くれた矛盾を携えた正解がある。ヒントもおそらくは日下部の手の内にすべて出揃っている。あとはそれらの要素をパズルのように組み合わせ、適切な答えを導き出せばいいだけだ。
……俺が報告の義務を負ってるのはあんたの、呪術師としての勤務態度に対してだ。プライベートは対象じゃない」
 屁理屈なのはわかっていた。案の定、日車の眉間に皺が寄る。彼が口を開くより先に急いで続きの言葉を口にした。
「それで、俺が監視する義務がなくなったとしても、あんたがここを出てく必要があるわけではねえと思うけど」
 予想していた反論がこない。日車は依然として険しい面持ちで黙り込んでいる。やがて日下部が返事を待っている目の前で、何事もなかったかのように食事の手を再開させた。
 ……日車の心情を汲み取ったうえで、本音も交えて言ったつもりだった。
 間違いだったか? あるいは、日下部の本音が、日車にとっては煩わしいものだったのか?
「おーい。無視かよ、さすがの俺も傷つくぞ」
 日車は返事をせず、残り一切れとなったマルゲリータを掴むと小さく折り畳み、己の口の中へと押し込んだ。
 彼らしくもない豪快な食べ方と、ハムスターのごとく膨らんだ彼の両頬に唖然とする日下部を涼しい目で見返しながら無言で咀嚼し続ける。ごくんと大きな音を立ててピザを飲み込み、手の甲で乱暴に口元を拭うと、日車は枕元に転がっていたミネラルウォーターのボトルをひっ掴んで、これまた一気に飲み干した。
「君はとことん俺を甘やかすつもりなんだな」
 やっと発された日車の声色は予想に反して力強く、それ以上に呆れかえっていた。
「なあ日下部、あらゆる生きものは甘やかされすぎると堕落するんだ。自分でモノを考えなくなり、常に受け身の姿勢になって、せっかく身につけた知識や経験も駄目にしてしまう」
「はあ……。それが?」
だ。そのさきに待ち受けているのは、機械化された平坦な思考と権力者への無条件の隷属……
 日下部は口をへの字に曲げ、胡乱げな目つきで日車を睨んだ。
 彼はそんな日下部の態度を鼻で笑う。
「冗談を言ったつもりはないぞ。俺はここから離れて自立すべきだ、でなければさっきみたいに君を困らせることも——
「アンタまだバッドモードから抜け出せてねえみてえだな」
 日車が目を瞬かせ、首を振った。「俺はバッドモードじゃない」
「いいや。バッドモードだ」
「バッドモードじゃない」
「頑固だなお前……
「バッドモードじゃない」
「お前は考えすぎだ。今後も呪術師をやってくなら、もう少し鈍くなるべきだな」
「断る。そして俺はバッドモードなんかじゃない」
 居住まいを正し、背筋を伸ばす。気づいた日車の眉間に新たな縦皺が増えた。警戒した猫のようだという感想は胸の内に留めておく。
「今のは俺の言い方が悪かった」
「そうだな」
「要するにあんたが言いたかったのは、俺と一緒にいると甘やかされて駄目になっちまうって話だ」
「そうだ」
「で、あんたは自分のメンタルが駄目になると奇行に走る自覚が充分にあって——
「ああ——
「着衣風呂の件も充分に反省してる」
「そうだ」
「つまりそれを除けば俺と一緒にいるのはそんなに悪くないっていう」
「そうだ。……ム。いや違う……違う、君自身を否定しているわけじゃない。俺がそうだと言ったのはあくまでも俺が駄目になるという部分で、君との生活自体を否定するつもりは」
「ははっ」
 勝った——いいやいつの間にか勝負をしていたのか——けど勝ちは勝ちだ。そう考えたところで、日車とこんなに言い合ったのは初めてだと気づき、日下部は思わず肩を震わせて笑った。
 口を開きかけた姿勢のまま固まった日車は、毒気が抜けたように口を閉じた。実際、そうだったのだろう。彼にしては珍しく長大な溜息をつき、それで全身の力が抜けたのか、日下部と同じようにあぐらを組んで座り直した。
「ん」
 差し出した手を見つめた日車は、ロボットのようにぎこちない動きでピザ箱の蓋とペットボトルを手渡してきた。日下部はそれを受け取り、ゴミをまとめて寝室を後にする。キッチンのゴミ箱に捨てて冷凍庫から出したアイスを手に引き返した。
 日車はベッドの上で膝を抱えて縮こまっていた。ベッドの傍らに立つ日下部を見上げ、その手に握られているふたつのアイスを発見するや否や、喜びなのか悲しみなのか複雑な感情が入り混じった微笑を口元に浮かべる。
「君の妹が退院したらここを出ていく」
 それでいいか。小声での問いかけを、今度は日下部が鼻で笑い飛ばしてやった。
「監視の命令はまだ解かれてねえし、妹が帰ってきたとしても数日間だけに決まってんだろ。その間は金渡すからホテルにでも移って、妹が施設に戻ったらうちに帰ってこい」
「件の呪骸に会わせるのか?」
「ああ。あんたを見て思った、うだうだ悩んでても時間の無駄になるだけだってな」
「違いない」
 自虐的な口調だったが、そんな声色とは裏腹に、彼は穏やかな面持ちで右手を掲げた。
「こちらを」
 指先が日下部の左手を——バニラ味のカップアイスを指している。つまり、日下部が食べるのは右手に持つ抹茶アイスだ。日下部は日車にバニラアイスとスプーンを渡し、再びベッドの上に乗り上げた。
 数口ほど食べたところで日車が毛布を被り、体を縮こまらせた。
「寒い」
「着衣風呂よりはよっぽど効率的な体の冷やし方だろ」
 しばしの沈黙のあと、そうかもしれないと応えがあった。「水風呂よりもずっといい」
「あ? 冷てえなとは思ったけどやっぱり水風呂だったのかよ。ったく、なに考えてんだ」
「日下部——
 内緒話でもするかのような、低い囁き声。
 日下部は知っていた。彼のこの声は、機嫌が良いときに出るものだ。
「あのときは痛いとか、寒いと言いたかったわけじゃない。君の手は温かかった。本当だ。君の言うとおり、今はそれだけ考えておく」
 つい微笑みそうになるのを、鼻を鳴らして誤魔化した。
 代わりに腕を伸ばして髪をぐしゃぐしゃにかき乱してやる。呆れた日車が抗議の声を上げてようやく、日下部も声に出して笑うことができた。