Hnyanko
2026-03-09 22:13:25
5449文字
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前途は多難である

えちな雰囲気になったと思ったら🧡が体が硬いがために足がつり──みたいな話です
ぜんぜんえちではない

 今日も今日とて、悠真はアキラを愛でるのに忙しい。
 それはもう大層忙しい。

 ただし、世の中というものは案外ままならない。せっかく時間をかけて育てたいい雰囲気だって、ときにはひどく不本意な形で、あっけなく幕を下ろすことがある。

 たとえば――

「っ、あ、待っ………い゙──っ!」

 こんなふうに。

 ぴたり、と空気が止まった。

 ついさっきまで部屋の中には、それなりに甘くて、やわらかくて、少なくとももう少し先まで大事にされるはずだった沈黙があった。窓の外では風がかすかに鳴り、落とした照明の代わりに間接灯だけがぼんやりと輪郭を照らしていて、近づく理由にも、触れる理由にも、別段困らない夜だったのである。

 それが今やどうだ。
 部屋の中心には、片脚を押さえて固まるアキラと、その様子を前に完全に思考の止まった悠真がいる。

……アキラくん?」

 恐る恐る呼ぶと、アキラは布団の上に半分沈みながら、たいへん苦い顔で目を閉じた。

「言うな」
「いや、まだ何も」
「じゃあその顔をやめろ」
「どの顔?」
「ちょっと面白いと思ってる顔」

 思っていた。
 少しではなく、かなり。

 しかし同時に、たぶん笑っていい局面でもない。アキラの眉間にはうっすらと皺が寄っているし、押さえている脚にも妙に力が入っている。どう見てもただごとではなかった。

……もしかして、つった?」
……………………
「アキラくん?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「僕が一番認めたくないんだよ」

 静かな声に、羞恥と屈辱がたいへんよく滲んでいた。

 悠真はひとまず笑うのを堪え、咳払いひとつでどうにか顔を整えると、そろそろと手を伸ばした。

「え、ちょ、どこ? 脚?」
「見れば分かるだろう……
「いや分かるけど、確認は必要じゃん」
「今この状況で冷静さを発揮しないでくれないかな」
「無茶言うなあ。負傷者が出てるし」
「誰が負傷者だ」
「今まさにアキラくんが」

 返事はなかった。
 代わりに、いたく気まずい沈黙が落ちた。

 さっきまであれほど順調だった空気が、ほんの一瞬でここまで無残に死ぬことがあるだろうか。いや、あった。現に今がそうである。

 悠真は片脚を庇ったまま動けなくなっているアキラを見下ろし、それから堪えきれずに、とうとう肩を震わせた。

……笑わないでくれ」
「ごめ、っ、ごめんって。でも、そんな……そんなことある?」
「僕だって聞きたい」
「いやほんと、タイミングが芸術的すぎるでしょ」
「悠真」
「はい」
「今すぐ黙るか、助けてくれるかい……いてて……

 なるほど、と悠真は少しだけ姿勢を正す。
 笑っている場合ではないらしい。少なくとも、本人の前では。

 とはいえ、ひとつだけ、もうかなりはっきりしていることがあった。

 ――アキラくん、思っていたよりずっと身体が硬い。
 
  悠真はひとまず笑いを引っ込め、布団の端に膝をついた。右脚だ、と短く告げられると、足首をそっと支え、ふくらはぎに触れる。数秒前まで肩を震わせていたくせに、こういうときの手つきには妙な迷いがない。張った筋肉を探り当てる指先も、水を取りに立つ判断の早さも、無駄に手慣れていた。

 グラスを渡されながら、アキラは半眼になる。そういうの、妙に慣れてるんだな、と嫌味半分で言えば、悠真は案の定、少し顎を上げた。

「当たり前でしょ。仕事柄、鍛えてるんだから。対処法くらい分かるよ」

 ふふん、とでも音がつきそうな顔だった。悔しいことに、その得意げな態度にはきちんと裏打ちがある。アキラは水を飲みながら、今この場で頼もしさを発揮されるのはどうにも複雑だ、とだけ返したが、悠真はどこ吹く風だった。

 痛みが少し引いたところで、今度は軽く伸ばしてみようという話になる。言葉の流れとしては自然だったし、実際、つったまま固めておくのもよくないのだろう。問題は、その過程で露わになった事実のほうだった。

 アキラの身体は、驚くほど硬かった。

 以前から何となくそうではないかと思ってはいた。けれど実際こうして補助しながら角度を探ってみると、予想よりずっと手強い。全体的に可動域が慎ましやかで、筋肉は素直さより頑固さを優先している。悠真は慎重に様子を見ながら、内心でひっそり目を丸くした。

……アキラくん、思ってたよりだいぶ硬いね」

 率直すぎる感想に、アキラはたいへん嫌そうな顔をした。今まさに身をもって思い知らされている現実を、あらためて他人の口から告げられて嬉しいはずがない。

 だが悠真は引かなかった。引かないどころか、何かを思いついた顔でぱっと表情を明るくする。嫌な予感しかしない笑みだった。

 そのままずい、と距離を詰めてくる。近い。無駄に目が輝いている。

「アキラくん。これから毎晩、柔軟しよっか」

 あまりに晴れやかな提案に、アキラは一瞬、言葉を失った。

 毎晩。柔軟。
 甘い空気の成れの果てとして提示されるには、あまりにも健康的すぎる単語である。

 当然、断るつもりだった。断るつもりだったのだが、続けざまに語られる内容が妙に具体的でよくない。ストレッチは怪我予防にもなるだの、習慣にすれば少しずつ変わるだの、ついでのように「また同じことになっても困るでしょ」と痛いところまで突いてくる。しかも本人はまったく茶化しているつもりがないらしく、善意百パーセントの顔でこちらを見ていた。

 腹が立つし、少しだけ恥ずかしい。
 しかし、そのどちらよりも厄介なのは、反論しきれないことだった。

 実際、今夜の一件はなかなかに鮮烈だったし、もう二度と同じ形で雰囲気を潰したくないという気持ちも、なくはない。アキラが押し黙ったのを見て、悠真はそれを肯定と受け取ったらしい。勝手に頷き、もう明日からの予定に思いを馳せている顔をする。

 数分前まではたしかに、それなりに甘い夜だったはずなのだ。
 それがどうして、こんな妙に建設的な方向へ転がってしまったのか。

 答えは目の前にいる。
 にこにこと機嫌よくこちらを見下ろしているこの男が、たぶん元凶であり、そして同時に、たぶん明日も容赦しない。
 
  そして翌日、本当に始まった。

 始まってしまった、というほうが正確かもしれない。

 夜。いつものように部屋へ戻ったアキラを待っていたのは、妙にやる気に満ちた恋人と、床にきっちり敷かれたマットだった。ついでに言えば、テーブルの上には水まで用意されている。準備がよすぎる。昨日の一件を、どうやら悠真は思いつきや気まぐれで終わらせるつもりがないらしい。

 にこやかに手まで差し出され、アキラは無言になった。

 嫌な予感はしていた。していたが、まさか本当に実行へ移されるとは思わないだろう、普通は。いや、相手が悠真である時点で、その“普通”にあまり意味はないのかもしれない。むしろ意味がないからこそ、今こうして目の前にマットがある。

 アキラはしばらくそれを見下ろし、それから大変嫌そうな顔のまま腰を下ろした。

 一日目は前屈だった。

 両脚をまっすぐ投げ出し、ゆっくり上体を倒していく。やること自体は実に単純である。単純なはずなのだが、その成果は単純に厳しかった。アキラの指先はつま先からずいぶん手前で止まり、本人が努力しているぶんだけ、現実の容赦なさが際立つ。

 悠真は真正面にしゃがみ込み、その様子をしばし観察したのち、率直な感想を述べた。

「かっっった」

 アキラは顔を上げた。

「人を家具みたいに言わないでくれ」
「いや、でもこれはちょっとびっくりするレベルでしょ」
「君は感想がいちいち素直すぎる」

 素直さが必ずしも美徳にならない場面というのは確かに存在する。今がその代表例だった。

 しかし悠真はまったく懲りない。秒数を数え、呼吸を促し、角度を見て、あろうことか「昨日より一ミリくらいはいってる気がする」などと前向きな評価まで口にする。一ミリ。誤差みたいなものである。褒められているのか慰められているのかも判別がつかない。

 二日目には、開脚が導入された。

 開いたところで終わればまだよかった。問題はそこから、悠真がごく自然な顔で「じゃ、少し背中押すね」と言い出したことである。

 もちろん、少しで済むはずがない。
 少なくともアキラにとっては、あれは少しではなかった。

「待とうか」
「うん?」
「今の“少し”は信用ならない」
「ええー。大丈夫だって。ほんとにちょっとだから。先っぽだけ、ね?」
「下品すぎるよ……その台詞を信じた結果が昨日と今日なんだけど」

 正論である。
 だが悠真は正論に屈しない男だった。やさしくする、無理はさせない、痛かったら言って、と実にもっともらしいことを並べ立てたあと、結局きっちり補助に入ってくる。手つきそのものは本当に丁寧だから、なおさら始末が悪い。

 アキラは己の身体の頑固さと、恋人の妙な熱意の両方に耐えながら、静かに思った。これはもはや甘い夜の延長ではない。地味な鍛錬である。少なくとも自分の認識の上では、かなり部活に近い。

 三日目には、悠真まで隣で一緒にやり始めた。

 なぜなのか。

 アキラにも分からない。本人に尋ねても、「え、一緒にやったほうが楽しいじゃん」という、たいへん無邪気で、しかし根本的な答えになっていない返事が返ってきただけだった。楽しいかどうかで言えば、悠真はたぶん楽しいのだろう。新しい習慣が増えたことも、こうして毎晩アキラの正面に堂々と座れることも、逐一世話を焼けることも、全部まとめて機嫌のよさに繋がっている顔をしている。

 対してアキラは、前屈の角度や開脚の広さを真顔で確認されるたび、じわじわと別種の羞恥を蓄積していた。

 悠真は悠真で悩ましいことに直面していた。厄介なことに、アキラは柔軟中、ときどき妙に危うい声を出す。

 本人は真剣である。真剣にきつそうだし、真剣に頑張っている。だからこそ文句も言いづらい。だが、補助で少し身体に触れた拍子に漏れる「ふ……っん」だの「ぐぅ……っ」だの艶かしい吐息や、限界のあたりで滲む声は、どう考えても今この場にふさわしい健やかさを欠いていた。

 よろしくない。実によくない。

 しかも最悪なことに、この状況を作ったのはほかでもない悠真自身だった。怪我予防だの、可動域改善だの、毎晩柔軟しようだのと、もっともらしいことを並べて習慣化した手前、今さら自分から妙な空気にするわけにもいかない。

 なので悠真は耐えた。

 耐えながら秒数を数え、呼吸を促し、やたら真剣な顔で角度を確認した。端から見ればずいぶん頼もしい補助役だが、実際のところは煩悩との死闘である。

 悠真は何度か天井を見た。心を落ち着けるためである。決して現実逃避ではない。たぶん。

 当のアキラはそんな苦労も知らず、「は、ぅ……っ次いける」「ぁ……いややっぱり待ってくれ……っ」と忙しい。言うたび少しだけ声が揺れるので、悠真の精神衛生にはよくなかった。

 これが毎晩続くのか、と思う。
 続くらしい。

 なかなかの地獄で、ずいぶん嬉しくない種類の修行だった。少なくとも、柔軟性だけでなく忍耐力まで鍛えられているのは間違いない。

 だが、不思議なことに、数日も続くとそれなりに慣れてくる。

 マットを敷く役と、その上に渋々座る役。
 水を用意する役と、終わったあと黙ってそれを受け取る役。
 呼吸を整えろと言う声と、分かってると返す声。

 どれもこれも妙に板についてきて、最初の気まずさや屈辱は、少しずつ別のものへ変わっていった。たとえば、諦め。たとえば、習慣。あるいは、ずいぶんおかしな形に育ってしまった親密さ。

 もっとも、だからといって成果が劇的に出るわけではない。

 人体は案外しぶといし、アキラの身体はそれ以上に手強かった。

 数日後、悠真が満を持して「今日は前よりいける気がする」と言い出した夜も、結果としては“前より少しマシ”の域を出なかった。進歩はある。たしかにある。だが理想にはほど遠い。目標地点まではまだまだ遠い。言ってしまえば、かなり遠い。

 にもかかわらず、悠真はへこたれなかった。

「うーん、でも前回よりは全然いいよ」
「その報告、あまり嬉しい類のものじゃないんだけど」
「え、そう?」
「爽やかに成果発表するな」
「じゃあ次は股関節まわりを重点的に――
「本当に何を目指してるんだ僕たちは」

 問いとしてはもっともだった。
 しかし悠真は少し考えたあと、にこりと笑ってこう言った。

「明るくてえっちな未来?」

 その答えがあまりに迷いなく、しかも妙に楽しそうだったものだから、アキラはとうとう反論する気も失せた。

 数日でどうにかなるほど、長年の硬さは甘くない。
 悠真の熱意も、調べてきた知識も、今のところ決定打にはなっていない。

 ただひとつ確かなのは、毎晩の柔軟だけがすっかり習慣になりつつあることだ。
 たぶん明日もやる。明後日も、おそらくやる。

 正常位への道は遠い。
 アキラの身体は想像以上に手強い。

 前途は多難である。