暁子
2026-03-08 23:00:11
20783文字
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第5話 女王の庭Ⅰ


 大公妃が主催する茶会は、ハンネローレ城の大庭園に面した大広間で催された。
 よく晴れているが寒い日。正午を前にお菓子や軽食、酒も供されているようで、広間には明るく開放的な雰囲気が漂っている。
 ところが、ゆうに百人はいそうな参加者を眺めて、ユニカはげんなりしていた。
 今日は何人と喋らなくてはいけないのだろう。一昨日はユスティエナとアデリシアのたった二人。しかも、二人とも初めから好意的にユニカを受け入れてくれたので、なんの心配もしなくて済んだ。今日はそういうわけにいかないと思うと溜め息が出る。
 その時、隣から刺々しい咳払いが聞こえた。
 はっとして背筋を伸ばしながらそちらを伺えば、「憂鬱そうな顔をしない」とエルツェ公爵に叱られた。
「今日は殿下から重大な任務をおおせつかっているだろう。誰もが進んで挨拶したくなるような、明るくて可愛げのある笑顔を一瞬たりとも絶やしてはいけないよ」
 一瞬たりともなんて、そんなことできるわけがない。ユニカはさっそくむすっとしながら、扇子(ファン)を半分ほど開いて顔を隠した。これらの小物は、ユニカが故郷にいた頃の馴染みで、偶然にも再会を果たすことができた服飾商のマクダ用意してくれた。しかも、彼女に注文したすべてのドレスに合わせて、それぞれそろえてくれている。「溜め息をつきたくなったら隠れる場所が必要でしょ」とはさすが、ユニカの生来の気質を知っている彼女ならではの気遣いだった。
 ユニカのあからさまな反抗にエルツェ公爵は何か言いかけたが、すでにひと目がある場所で親子げんかが始まらないようにと、ヘルミーネが割って入ってきた。
「声を掛けなくてはいけない方々のお名前は覚えていますね」
「はい」
「どうしてヘルミーネの言うことには素直に返事をするんだ」
「これでこそあなたがこうした場に出席する意味があるというものですよ。すべての方と忘れずにお話してきなさい」
 相変わらず扇子で顔を隠しながらも、ユニカはしっかりと頷いた。



 昨晩のことである。
 晩餐の席で、使節団の貴族たちがこの日に収集してきた情報や、王太子への謁見希望を一通り聞き終え、解散になったあと。部屋に戻るまで何やら考え込んでいたディルクが、なんでもないことのように呟いた。
「ユニカに頼もうかな」
 曰く、謁見の希望があってもすべてを叶えるわけではないし、反対に、ディルクが顔を合わせておきたいと思っているウゼロ貴族もいるという。ディルクが『会う』と決めた相手と、明日の茶会でユニカが約束を取り付けてこいというのだ。
「先方に、ユニカから挨拶してくれればいい。そしたら、多分向こうは俺の話題を出してくる。俺に会いたいという言葉を引き出したら、『申し伝えておきます』と言うだけだよ。日程はあとで調整するから」
「待って、ディルクが会いたがっていると伝えてはいけないの?」
「だめ」
「どうして?」
「舐められるからさ」
「じゃあ、相手がディルクに会わせてくれと頼んでくるまで話をしないといけないの?」
 その通り、とディルクが頷いた途端、ユニカはぶるぶると首を振った。無理だと伝えたつもりだったが、ディルクは「意地悪じゃない人だけユニカに任せるよ」と、三人の名前をさらさらと紙に書いて渡してきたのだった。
 意地悪じゃない人なら、「王太子殿下があなたと会いたがっています」と言ったところで舐められることはないはずだが。
 ただ、ディルクがこのような難題(ユニカにとっては)をふっかけてきたのは、こうすることで「ユニカに頼めば王太子と話せる」という道を作りたいからだそうだ。公務ではないが、妃や側近の役割だと言われたら、ユニカはしおれながらも三人の名前が書かれた紙を受け取るしかなかった。
 ディルクの役に立てるようになる、そのために頑張ると決めたのだから。



 〝まだ〟侯爵であるクリスティアンを頼ればいいと言われたので、今日のエスコートは護衛としてついてくる彼に頼んだ。ディルクは別の会合に参加していて茶会へは来ない。
 茶会ではアデリシアやユスティエナとも会う約束をしているので、顔が広いと見える彼女たちに助力を求めてもいいだろう。というか、そうしよう。
 今日、シヴィロ王国の使節団から参加する主立った面々は、エルツェ公爵夫妻に、メヴィア公爵夫人アリアナ、ベッセル外務卿の夫人。その下で働く実務者たちもおり、護衛や使用人を除いた十五名を率いているのが王太子妃代理のユニカ、ということになっている。
 大公妃の茶会は、女性たちの参加者が圧倒的に多いが、会場の二割ほどは男性だ。夜会のように男女比が均衡ではないので、アリアナやベッセル伯爵夫人のように一人で参加している女性がほとんど。
 彼女たちはみな美しく着飾っており、明るいから夜会の時よりもそれがよくわかる。まさに花のようだ。クリスティアンと一緒に今日のユニカの護衛を務めるアロイスが「俺も誰かエスコートしたいなぁ」と言いたくなる気持ちは、わからないでもなかった。(ちなみに、彼はエリュゼのエスコートを申し出たが断られ、ユニカの護衛に専念するように叱られていた)
 大広間のあちこちで、ウゼロの女性たちを中心にグループができていたり、女同士で腕を組んで楽しげにお喋りしながら歩いていたりする姿が見られる。これはむしろ、クリスティアンにくっついて、エリュゼとアロイスを引き連れている方が目立つかもしれない。
 そして、どうやら主催者たる大公妃が現れていないようだった。一番に挨拶に伺うべき相手がいないなんて。ユニカはさっそくうろたえる。
「大公妃殿下がお出ましになったら、ご挨拶に伺いましょう。テナ侯爵、お茶会の差配をしていらっしゃるのはどなたかご存じかしら?」
 そう助言してくれたのはアリアナだった。
「恐らく、クロル伯爵夫人とフレーミヒ子爵夫人です。先にお二人にご挨拶して、妃殿下がいらっしゃったら知らせてくださるようにお願いしておけばよいと思います。お二人にお会いするには母がいた方が話が早いでしょうから、まずは母と合流しましょう」
 クリスティアンもよどみなくそう答える。しばらくウゼロを離れていたとはいえ、ディルクが頼れと言っただけのことはあった。そして、今日はまだ顔を合わせていないユスティエナの存在も、なんと頼もしいことか。
 ユニカは頷いただけでこの後の方針が決まり、シヴィロの一行は、いったん会場内へ散ることにした。
 ユスティエナに挨拶したいというエルツェ公爵夫妻を連れ、ユニカたちは先代テナ侯爵の夫人の姿を探した。もともと合流する約束をしていたので、向こうもユニカを探してくれているはずだ。
 果たして、目的の貴婦人はすぐに見つかった。ユスティエナに同行していたアデリシアがこちらを見つけて呼びに来てくれたためだ。
 彼女は一瞬クリスティアンを見た。先日のことで気まずいのか、今日は噛みつくことなく空気のように彼を無視して、優雅なお辞儀(カーテシー)をして見せた。
「お待ちしておりました、ユニカ様。公爵閣下、奥方様にはお初にお目もじつかまつります。ユスティエナ様の秘書を務めております、アデリシア・シュトローマと申します」
「おお、才媛と名高いシュトローマ伯爵のご令嬢ではないか。賢そうな顔をしていらっしゃる。そして美しい」
「恐れ入ります」
 他人に対して不要な愛想を振り向かないエルツェ公爵が相好を崩し、べた褒めに近いことを言いながらアデリシアの手に口づける。
 もしかしてアデリシアは結構有名人なのだろうか? ありえないことではなかった。何しろレオノーレとずいぶん親しいようだったし、ディルクとだって面識があるのだ。
 知らなかったのはユニカだけ。こういう「会ったことのない相手」に関する知識が皆無であることが不安になってくる。が、気を取り直して、できたばかりの友人にさっそく相談を持ちかけた。
「大公妃殿下がまだお見えでないので、先にクロル夫人とフレーミヒ夫人にご挨拶しようと思っていたのです。ユスティエナ様にご紹介いただけたら話が早いだろうと、クリスティアンに助言されたのですが……
「奥様もそのおつもりでですよ。参りましょう。ご挨拶がすんだら、奥様はユニカ様や公爵ご夫妻とご歓談なさりたいとおっしゃっています。席はご用意してあります」
「それはとても嬉しいのですが、実は……
 歩きながら、ユニカはディルクから託された任務について話した。アデリシアにしたら造作もないことなのだろう。ユニカが思い詰めているのを不思議そうにしながらも、皆まで聞き終わるとユスティエナにも事情を伝えると言ってくれた。
「そういえば……公女殿下のお姿も見えないですね」
 レオノーレも、茶会に興味はないが、ユニカやアデリシアが参加するというなら自分も行くと言っていたはずだ。公女が大公妃不在のこの場にいれば、最優先に挨拶されているからすぐわかると思っていたが、そんな様子もない。
「姫様もまだいらしていないようです。どうなさったのかしら」
 茶会の主催者はあくまで大公妃。レオノーレには来る必要も義務もないのだろう。気分が変わったか、ほかに姫君としての仕事を与えられて来られなくなったのかもしれない。
 それにしても、もてなす側であるはずの大公家の人間が誰もないとは。
 茶会は平和そうに始まっていたが、主催者がいないことに誰もなんの動揺も示していない。それがなんだか不穏だ、と思った。



 貴族にとって、結婚は政治的な契約でもある。
 クリスティアンとエリュゼを結婚させようと図ったディルクやエルツェ公爵の思惑は、ユニカも理解していた。ディルクは、クリスティアンにエルツェ公爵の家門の一員であるエリュゼを宛がうことで、シヴィロ王国での地位を固めさせたがっている。エルツェ公爵にとっても、公国の名家との繋がりができる機会だ。また、ディルクとクリスティアンの関係を鑑みれば、これはエルツェ家が王太子との関係を深めることにも繋がる。
 あの二人にとってよいことばかりだと思っていたが、公国に本拠を置くテナ侯爵家にとってもよい話だったようだ。
 ユスティエナのエルツェ公爵への歓迎ぶりは大変なものだった。ユニカやエリュゼにそうしたようにいきなり手を握ったりはしなかったが、跪くように深いカーテシーのあと、公爵の上着の裾、ヘルミーネのガウンの裾に口づける。ディルクがユスティエナに対してやっていたのと同じ、相手を最大限に敬う挨拶だった。
「お目にかかれて嬉しく思います、テナ侯爵夫人。先日は姫とエリュゼがたいそうなお品をいただいたようで、ありがとうございます」
「とんでもないことでございます。『息子たち』の伴侶となる方が現れるのをずっと楽しみにしておりましたの。一人ならずお二人も、エルツェ公爵家とご縁のある姫君で光栄の極みですわ」
 ユスティエナとの対面を喜ぶヘルミーネの笑みも作り笑いではなさそう。ユニカは『親たち』の気が合うのをほっとしつつ確かめた。ただ、ユスティエナが声も抑えず言ったことが気になって、内心そわそわした。
 シヴィロ国王の寵臣であることが知られているエルツェ公爵の動向は、どの貴族も気になるのだろう。さっきからずっと、どこからともなく視線を感じる。加えて、王太子の育ての母でもある先代テナ侯爵の夫人が『息子たちの伴侶』と遠慮なく述べている。
 もうおおやけになっているテナ侯爵とプラネルト伯爵の婚約はともかく、「やはり、王太子妃代理を務めているエルツェ家の姫君は、いずれ代理でなくなるのか」と思わせかねない言い方だった。
 しかしそれもユスティエナの思惑なのか、彼女はユニカにも微笑みかけて、お辞儀のあとに手を取り口づけてきた。これも敬意を表す方法だった。
「アデリシアから聞きました。今日は王太子殿下から頼まれたお仕事があるとか」
「はい。何人かと、王太子殿下がお会いになれるよう約束を取り付けて来てほしいと言わされていて……
「アデリシアに案内させましょう。クリスティアンもいればそうそう侮ってくる者はいないはず。あまり緊張なさらなくても大丈夫ですよ」
 会うのは今日で三度目のはずだが、ディルクがこの人の顔を見て安心する理由がユニカにもわかる気がした。つきっきりで甘やかしてくれる人ではないが、助力も惜しまないし見守ってくれると、ユスティエナの眼差しが約束してくれる感じがする。
 それに、アデリシアが一緒に挨拶に回ってくれるならもう怖いことはない。彼女と同じくらい公国の貴族に顔が利くクリスティアンもいるし、公国の事情には明るくないものの、宮廷人としての作法は完璧で、何かとユニカを庇ってくれるエリュゼもいる。
「俺がエスコートしようか、アデリシア」
「何を言ってるのよ、アロイス。あなたはユニカ様の護衛として来ているんでしょう? 警護に専念しなさいな」
 この二人も面識があったらしい。そして、エリュゼと同じ理由でエスコートを断られたアロイスが肩を落としているのを見て、申し訳ないがユニカは少しだけ緊張が緩んだ。
「では、まずはクロル夫人とフレーミヒ夫人に皆様をご紹介しますわ」
 ユスティエナにうなずき返しながら、ユニカは明るい笑顔、と心の中で呟く。
 エルツェ公爵の動向も注目されているが、自分も負けないくらい、公国の貴族たちから注目されているはずだ。少なくとも、ここで不安そうな顔をしているわけにはいかなかった。
 今は王太子に気に入られたという理由だけでこの場にいる、世間知らずな小娘に過ぎないことは忘れておこう。自分はエルツェ公爵の娘で、外交の一端を任された者だと胸を張るのだ。
 主催者たる大公妃がいないせいで、クロル夫人とフレーミヒ夫人は次々に客人たちの挨拶を受けていた。皆、大公妃へ取りなしを頼む客人だ。
 ユスティエナが大公妃の『お気に入り』の一人であるとは聞いていたが、そんな彼女に案内されているせいか、クロル夫人とフレーミヒ夫人に話しかける機会を窺っていた貴婦人たちは、ユスティエナに気づくとさりげなく道を空けているようだった。この調子なら待たされることなく二人に声を掛けられそう――
 そう思った時、会場の一画が静かにざわめいた。
 誰かが大きな声を出したわけではない。しかし、人々のささめく声が波のように伝わって来たので、ユニカはそっと振り返る。
 文字通り人波を割って歩いてきたのは、ほかならぬ大公妃だ。彼女は遅れてきたというより、満場の客人たちに出迎えられるために今やって来たかのようだった。
 淡い紅色と白のレースやフリルが重なったドレスに、折れそうなほど繊細な透かし彫りが施された象牙の扇子(ファン)を開いて持ち、口元を隠している。それでもなお、彼女が優美に微笑んでいるのがわかった。
 結い上げた輝くような金髪に挿しているのは白い薔薇と金色の櫛。午前の澄んだ陽光が彼女の足元を照らしているだけで、何か神々しいものが歩いているように見える。
 そんな大公妃に、会場のすべての人間が目を奪われていた。誰もが息を詰めて、彼女の行く先を見守っている。
 微笑みながらいくらか周囲に目配せしていた大公妃だったが、彼女の足はまっすぐこちらへ向かっていた。恐らく周りも気づいているか、大公妃が一番に声を掛ける相手を予想しているだろう。
 今日の茶会で、ユニカやエルツェ公爵は最上位の客といってもよい。その上ユニカはすでに彼女の〝興味の対象〟となっているようだし、エルツェ公爵は大公妃の少女時代から付き合いがあった昔なじみだ。
 果たして、散策しながらやって来たような顔をしてハイデマリーはユニカに気がつき、手にしていた扇子を閉じて笑った。まったく無邪気な、この上ない喜びを弾けさせたという顔で。
「ユニカ! ちゃんと来てくれたのね。とても嬉しいわ!」
 ハイデマリーはお辞儀をしようとしたユニカに構わず、両手を掴んできた。そしておもむろに頬を寄せてくる。また薔薇のつぼみの香りがした。挨拶だ、と気がついて慌てて笑顔を作ると、次の瞬間にはもうハイデマリーの顔が眼前にあった。
「お招きいただきありがとうございます、妃殿下」
「今日のドレスもすてきね。落ち着いた色合いだけど、可愛らしいわ。ディルクがあなたに着せたいのはそういうドレスなのかしら」
 まるで、シヴィロ王国にいるクリスタや彼女の友人であるヘレン、ラモナに会った時と同じような会話だ。一国の君主の妃と交わす最初の言葉がこれでいいのか……こ難しい口上を覚えさせられていたユニカは戸惑う。しかし沈黙するわけにもいかず、にじみ出る狼狽は最小限になるよう、笑って話を合わせることにした。
「殿下も気に入ってくださっていましたが、これは馴染みの仕立屋がわたくしに似合うようにと生地や飾り付けを選んでくれたものです」
 式典や正餐会に出る時以外のドレスはみな、マクダに作って貰った。今日着ているのはシヴィロ王国で流行の定番となっている縦縞模様(ストライプ)のドレス。晩秋という季節に合わせた濃い葡萄色で、襟元には生成り色のフィシューを巻き、レースのモチーフを手袋とそろえた。イヤリングや髪飾りは、ディルクに貰った矢車菊のアクセサリーを合わせてある。
 マクダは、こうしてユニカが気に入っている矢車菊を身につけやすい色のドレスも何着か作ってくれた。「ディルクに贈られたものを身につけられたら、多少は安心できる気がする……」というユニカの言い分を大変気に入って、あれこれとデザインを考えてくれたのだった。
 今日は一人で乗り切らなくてはいけない茶会だったので、さっそくその力を借りた。
 他愛ない会話。ユニカはそれに乗っただけのつもりだったが、間近にあったハイデマリーの美しい顔から滑り落ちるように笑顔が消える。
「そう。楽しんでいってね」
 ユニカが頷き返すのすら確かめず、彼女はまた華やかに微笑む。しかしその笑みは、もはやユニカには向けられていない。
「テオバルト、あなたも来てくれたのね」
 挨拶はこれで終わりだろうか。何もお話できなかった……そう戸惑うユニカの視線の先では、エルツェ公爵がハイデマリーの手に恭しく口づけていた。
「先日お顔を拝見した時にも思いましたが、お輿入れなさった時と何もお変わりありませんな、妃殿下」
「あなたが思ってもいないことを口にする時の顔も、昔と変わらないわ。いつも大げさに言うからわかるのよ。歳をとったと思うのならそうおっしゃい」
「では訂正を。お美しくお歳を重ねていらっしゃいます」
「お兄様はお元気?」
「ええ、妃殿下のことも気に掛けていらっしゃいましたよ」
 ハイデマリーは文字通り鈴を転がすような声で笑い、少女が甘えるようにエルツェ公爵の腕をとる。
「今日は堅苦しいお話はなしのお茶会よ。シヴィロでのみんなの様子を聞かせてちょうだい」
「ええ、もちろん――ああ、妃殿下。その前に私の妻を紹介させていただきたいのですが」
 そのままエルツェ公爵を連れ去ろうとしているかのようだった大公妃は、きょとんとしながら公爵が視線を送った先を振り返った。待ち構えていたヘルミーネが一歩進み出て膝を折る。
 ハイデマリーはにっこりと笑ったが、それだけだった。
「来てくださったありがとう。どうぞ楽しんでいってね。ユスティエナ、夫人のお相手をお願いね」
 ヘルミーネには名乗ることも触れさせることも許さず、昔なじみであるエルツェ公爵だけを連れ、その場を後にした。少し離れたところで、恐らくあれがクロル伯爵夫人、フレーミヒ子爵夫人であろうという二人に公爵のことを紹介している。
 あまりにぞんざいな扱いを受けたヘルミーネは絶句していた。これほどの人目があるところで、公爵の妻である女性に直接言葉を交わす機会すら与えないというのは、いかに大公妃の立場が上といえど、礼を失していると言わざるを得ない。
 そして、どうやらこれは、ユニカもハイデマリーから突き放されたようだ。なぜかはわからないが。
 二人して呆然としながら、ひとまずユスティエナが案内してくれた席に向かう。
「私が何か、妃殿下のお気に障ることを言ってしまったのでしょうか……
 席に着くや、思わずそんなことを漏らしてしまった。
 ドレスについて聞かれたから、答えただけだと思うのだが……
「昔から、何で機嫌を損ねるかわからないお方です。ユニカ様のせいではありません」
 ユスティエナがそう言ってくれると、黙っていたヘルミーネもようやく溜め息をついた。自分が受けた屈辱的な対応について、ひとまず脇に置いていく気になったらしい。
「お付き合いの仕方に、少し〝癖〟のある方だとは伺っておりましたが……
「公爵夫人もお気を悪くなさったことでしょうが、どうか毅然と構えていてくださいませ。お天気のようなものなのです。あれで良いとはわたくしも思いませんが――気にしていては埒があきません。雨が降ったら傘を差すしかないのですわ」
 頷くヘルミーネを横目に、ユニカはそれでもうなだれずにはいられなかった。この気分、ラビニエの茶会に出た時とそっくりだ。周りとのおしゃべりに気を遣わなくてはいけないのは仕方がないとしても、やはりわざわざ冷たくされたと思うと気分が沈んだ。
 ディルクも大公妃と特別親しくする必要はないと言っていたが、向こうから距離を置かれたのではまともな挨拶もしようがなかった。
 やっぱり、王太子になった自分の息子の相手が公爵の『養女』では気に入らないのだろうか。では、先日迎賓館で会った時の言葉はなんだったのか。
「さ、ともかく大公妃殿下へのご挨拶は済んだのですから。ユニカ様は王太子殿下から任されたお仕事をなさってきてくださいませ。実はわたくしも、ユニカ様にご挨拶したいと取りなしを頼まれている方がいるのです。その方々のことも、あとでご紹介したいですから」
 うじうじと考え込みそうになっていたユニカは、はっと顔をあげた。そういえば、まだ茶会は始まったばかりだ。落ち込んでいる余裕はないのだった。



     * * *

 一人目に会ったのは、ウゼロ公国で最初に出迎えてくれた貴族の男性だった。あの時もユニカに親切に接してくれたと感じたが、今日も同じく。
 外交担当というよりシヴィロ王国一行の接待を担当しているらしい。迎賓館での暮らしに不自由や要望はないかと訊いてくれた上、「改めて王太子殿下とお話しする機会がほしい」と、向こうからすぐに話を振ってきた。
 その言葉を引き出すまでもなく一人目と約束を取り付けることができたので、ユニカはやたらと彼に感謝してしまった。
 二人目はグリーエネラ女公爵の部下である将官だった。今日は軍服を着ていなかったし、結構なお歳のようだったのでそうは見えなかったが、彼もディルクの下で戦に出向いたことがある軍人らしい。
 特にクリスティアンやアロイスとの再会を喜んでいるかと思いきや、老将軍はユニカとディルクの関係が気になっていたようで、「王太子妃の候補なのか」とずばり尋ねられてしまった。アデリシアがやんわりと話を終わらせてくれなければ、彼から間違った(とも言い切れないが、今のところは間違っている)噂が広がっていたに違いない。
 そういうわけで、ディルクから託された任務はごく和やかに、三分の二を終えることができた。
 だというのにどっと疲れている。この二人と話す合間にも数人から声を掛けられたせいだ。にこやかにして面識のある人間を増やしつつ、あまり立ち入ったことは聞かせないように神経を使う。やっぱりディルクの隣で作った微笑みを浮かべ、話を振られたら応じているだけの時とはわけがちがう。
 ユニカはアデリシアが見つけてくれた隅っこの席で、衝立があるのをよいことに深く長椅子に沈み込んでいた。こんな姿勢でいるのを見られたら間違いなくエルツェ公爵かヘルミーネに叱りつけられるだろうが……幸いにも、今ユニカの姿を隠すように座ってくれているクリスティアンとアロイスがいる。
 エリュゼとアデリシアも、ほんの数人と話しただけでぐったりし始めたユニカのためにお茶とお菓子を取りにいってくれていた。
「恐らくディルク様は、ギューデン卿やヘルテル将軍にユニカ様のことを紹介したかったのでしょう。お二人とも、宮廷や軍でディルク様に大変よくしてくださった方々ですから」
「ヘルテルのじいさんは相変わらず、殿下のことが孫のように可愛いんだろうなぁ。あの人はクリスティアンの父上を軍人として育てたようなもんですからね、殿下やクリスティアンは孫というわけです」
 それで、ユニカがディルクにとってどういう相手なのか、期待と心配が入り交じった目で尋ねてきたのか。今のところは彼を喜ばせる答えを返せそうにないが、ディルクを大事に思ってくれる人々と顔を合わせられたのは嬉しかった。
「それを知っていたら、もっとちゃんとお話できたわね……
 ディルクが教えておいてくれればよかったのではないか、と思うのでは甘いだろう。「この三人に声を掛けて」と頼まれた時に、おののくばかりで事情を聞かなかったユニカがいけない。次、こういうことがあったらちゃんと聞くのだ。そうやって一つずつ体感して学んでいくしかない。
「殿下もいろいろあった上でウゼロを出ていくことになったようなもので、気に掛けてくれている人はほかにもいるはずですよ。俺たちも、一時はずいぶん心配でしたし」
 アロイスは何気なくそう言ったのだろうが、ユニカははっと思うことがあった。
 いろいろ……例えば、婚約者が亡くなったことだとか……
 今し方話した貴婦人の名前を舞踏会用の手帳に書き留めていた手が、ふと止まる。
 アロイスも長いことディルクの麾下にいた騎士だから、ディルクの身の回りで起きたことも知っているのかもしれない。そもそも、クリスティアンなどは〝彼女〟の兄になるはずだったわけだ。詳しい事情も知っているだろう。
「あの、クリスティアンは……
 スザネという人のことを知っている?
 そう尋ねようとして、ユニカはやはり口を噤んだ。
 聞いたってどうしようもないことだ。そもそも、ディルクが辛い思いをした時のことを、本人のいない場所で聞き回るのはいけないことのように思えた。
「私が、なんでしょう?」
「ええと、いつの間にエリュゼとあんなに仲良くなっていたのかと思って」
 ごまかすために口をついて出たのは、これも聞かなくてよいことだった。クリスティアンが目をまん丸にしている向かいで、アロイスが笑いを堪えきれずに噴き出す。
 この質問もなかったことにしたかったが、折り悪く、そこへエリュゼとアデリシアが戻ってきてしまった。
「なぁに、そんなに笑って。どんな面白いお話をしていたの?」
「いやさ、ユニカ様が、クリスティアンとプラネルト伯爵がいつの間に仲良くなったのか気になるそうで」
 人数分の焼き菓子を配っていたエリュゼが危うく皿を落としそうになった。対してアデリシアはあまり興味がなさそうだったが、大きなトレーからすべてのティーカップをテーブルに移し終えると、気まずそうに長椅子へ腰掛けたエリュゼの隣にぽんと座った。
「本当によろしかったのですか、伯爵。初めは乗り気ではなさそうだったと伺いましたけど」
「うわ、それクリスティアンの前で聞く……? 怖いなアデリシア」
「いくら政略結婚だからといって、嫌な相手と結婚することはないと思うのよ」
「だからそれをさ……本人の前で聞き出すっていうのはさすがに容赦がなさ過ぎると思うんだよ……
 さしものアロイスも気まずそうだったが、ユニカもつい目を泳がせた。「エリュゼが結婚に乗り気ではなさそうだった」とアデリシアに教えたのは、ほかならぬ自分とレオノーレだったからだ。
 エリュゼはそれを察したのか、ちょっとだけこっちを睨んだ気がした。しかし咳払い一つで表情を取り繕うと、彼女は身を乗り出さんばかりのアデリシアに向き直った。
「確かに初めは、急なことでしたし納得しがたい部分もあって不満に思いましたが、テナ侯爵の事情もお話を聞いてわかりましたし、何よりわたくしたちの縁は王太子殿下やユニカ様のお役に立ちますから。今は納得しています。お人柄も、十分良い方だと思いますし」
 二人の結婚の事情はともかく、エリュゼの口からクリスティアン個人をどう思っているかを聞いたのは初めてだった。そして、エリュゼが人前で語るには最大限の褒め言葉だったのだろう。
 現に、ユニカやアロイスが注目している上、本人が目の前にいるのもあいまって、きっぱりと言ったエリュゼは傍目にもわかるほど赤くなっていた。
 そうか、エリュゼはちゃんとクリスティアンを伴侶に迎えてもいいと思っているのだ、政治的な意味を除いても。それがわかってユニカはほっとする。
「それと、ああ見えて人並みに落ち込んだり傷ついたりするようなのです。アデリシアさんもほどほどにしてあげてくださいまし」
 意外そうな顔をして聞いていたアデリシアは、そう言われた途端にはっとなった。それはかすかな表情の変化だったが、そのあとは見るからにすんと勢いを失って視線を落とした。
…………はい」
 ずいぶん間があったものの、彼女は悄然と頷く。多分、アロイスに言われるまでもなく意地の悪いことをした自覚はあったのだろう。
 クリスティアンは黙って話の成り行きを見守っていたが、心なしかほっとした顔をしていた。
「そういえば、王太子殿下から、アデリシアさんをシヴィロへ連れて行くつもりだと伺っていますわ。何か職務をお与えになるということでしたから、しばらくは官舎で生活できるとしても、きっとすぐにリヒャルト殿と一緒に住めるお住まいが必要になるでしょう? お節介かもしれませんが、シヴィロへ戻ったらお二人の家探しをお手伝いしたいと思っているのですが……
「本当ですか? プラネルト伯爵」
「母や祖母がその手の面倒を見るのが得意ですし好きでしょうから、きっとお役に立てるはずです」
「ありがとうございます! ぜひお願いしますわ」
 エリュゼがディルクから密かに渡されたいたカードを切ると、アデリシアの関心は途端にクリスティアンからそれたのがわかった。
 これもディルクから聞いた話だが、アデリシアがクリスティアンにきつく当たるのは、リヒャルトへの気持ちに行き場がないからだとのこと。それでどうしてクリスティアンが当たられるのかユニカたちにはぴんとこなかったが、多分、自分よりリヒャルトと一緒にいる時間が長いので気にくわないのだろうと、彼らの幼馴染みである王太子殿下は推察していた。
 それならディルクも同じように恨まれそうなものだが、昔からの確執が土台にあるので、アデリシアはクリスティアンへの八つ当たりがやめられないらしい。
 という事情を踏まえると、アデリシアの前にリヒャルトの存在をぶらさげてあげれば彼女は落ち着くだろう、というディルクの読みは見事に当たっていた。
「伯爵はアマリアのどのあたりにお住まいですの? ご近所がいいですわ。わたくしにもリヒャルトにも、向こうには頼れる知り合いも親族もいませんから」
「当家の邸はお城からそんなに近くないので、きっとご不便ですよ。それに、あのあたりは大きな空き家もありませんし……
「二人で住むならそんなに大きな邸は必要ないのです。将来家族が増えるにしても――、一人か二人、女中がいれば家のことを回せるくらいの広さで十分です」
 少々気の早い話は気がしたが、そう語るアデリシアの瞳は夢を見るように幸せそうで可愛かった。エリュゼもなんだかんだアデリシアとは気が合うようで、彼女の熱心な希望の話を微笑みながら聞いている。
 幸い、ユニカが口にした余計な質問――エリュゼとクリスティアンはいつの間にこれほど距離を縮めたのかという話も立ち消えになっていて、場の空気がすっかり和んでいることに安堵した。
 内輪の空気でくつろいでいるところへ、不機嫌さもあらわなエルツェ公爵がやってきた。
「姿が見えないと持ったら、こんなところで油を売っているとは余裕じゃないか」
 ユニカはぎくりとして咄嗟に言葉を返せなかったが、お茶のカップをテーブルに戻しながらおずおずと答えた。
「ギューデン卿とヘルテル卿にはご挨拶しました」
「殿下から頼まれた相手とだけ話せばいいというものではないよ。一人でも多くに顔と名前を売ってきなさい。そういう交流のための茶会なんだから」
「ですが公爵、わたくしが準備したわけではありませんが、今日はお茶もお菓子も皆さまに味わっていただきたいですわ。大公妃殿下は最上級のものをそろえておもてなししていらっしゃいますもの」
 アデリシアがすかさず口を挟んでユニカを擁護してくれた。エルツェ公爵はむっとするどころか彼女に満面の笑みで頷き返したが、その笑顔はどこか作り物めいていた。
「アデリシア嬢のおっしゃるとおりだ。だけどユニカには、新しい知り合いとテーブルを囲んで貰いたいのだよ」
 ところで、彼は自分の召し使いを連れているだけで、一人だった。まだヘルミーネと合流していないらしい。アロイスがすかさず譲った席に腰掛けると、さらに公爵の機嫌をとるためにアデリシアが差し出した蜂蜜の香り漂う焼き菓子を、ぞんざいな手つきでぱくりと頬張った。
 この席が見えにくいところにあるのを良いことに、自分だってくつろいでいるではないか。ユニカは心の内で継父をなじる。
「なおかつ、王太子殿下だけでなく私の手助けもしてほしい」
……お父様の」
 呼び慣れない上に手助けなんかしたくもない相手を前に、ユニカの声はどうしても低くなる。そもそも、こちらの用事だってまだ完遂していないので、そんな余裕なんかない、と言いたい。
 エルツェ公爵もユニカがいやいや聞き返していることなどわかっているのだろうが、だからこそ知ったこっちゃないと言わんばかりに焼き菓子をもう一つ囓りながら続けた。
「妃殿下にいささか時間をとられ過ぎた。そういうわけだから私が話をつけてくることになっていた相手も二、三人引き受けてもらおうと思ってね」
 エルツェ公爵が夫人と合流していないのは、どうやら今の今まで大公妃に捕まっていたかららしい。あれからかなりの時間が経過していたが、大公妃はよほど昔なじみに会えたのが嬉しかったのか。ものの数分で置いていかれたユニカやヘルミーネとはえらい違いだった。
「ですが、お父様が依頼された方々は財政や金鉱関係を担当されている官僚の方々ではありませんでしたか……
 ウゼロという国の金の遣い方を牛耳っている役人など、一筋縄でいく相手のわけがない。ユニカが迂闊なことを話題にして変な言質を取られても困る。そんなことを考えて顔をしかめているユニカには構わず、お菓子を食べ終えた公爵はさっさと立ち上がった。
「詳しい話を詰めてこいというわけでもなし、何をそんなに怯えているんだ。王太子妃ともなれば、自分で殿下にお会いいただく人間を判断して仲介しなくてはならないんだよ。こんな機会に練習してみなくてどうするね」
 公爵の主張はユニカの耳にぐさりと刺さる。観念する気持ちが顔に出てしまったようで、継父はにやりと笑って踵を返した。
「では、まずはリースレ子爵夫人のところへ行ってきなさい。王太子殿下とも懇意にされていた方だ。君が行っても大丈夫だろう」
 立ち去る公爵の背中を見送りつつ、ユニカは遅れてはっと思い出した。
 リースレ夫人。聞いたことのある名前だと思ったら、ハンネローレ城に到着した夜の懇親会で、ディルクから勝手に離れたルウェルに食べ物を与えていた女性が、確かそんな名前だった。
 あの時ディルクは夫人と直接言葉を交わさなかったものの、確かに親しげな様子ではあった。
「リースレ子爵夫人というと、確か主税局の……
「この春に局長になられたのよ。今日(こんにち)のウゼロの税制を司っている方ですね」
 アロイスの問いに答えたアデリシアが、いつものように解説を加えてくれる。先日の女性がまさかそれほどの高官だったとは思わず、ユニカは目を丸くした。大公の客人を迎える席にわざわざ呼ばれたのだ、それなりに地位のある女性なのだろうとは思っていたが……今更だが、あの場でご挨拶しておくべきだったのではないか。
「ということは、殿下が仕事を干されてからの――いっ」
 変な声をあげて背筋を引きつらせているアロイスを見上げつつ、ユニカは首を傾げた。
「仕事を干される?」
「いや、あの、殿下はバルタス戦役のあとは休養の意味も込めて軍を離れていたんですよ。財省にいらしたから、リースレ子爵夫人はその時の上司だったんじゃないかな」
「夫人はルウェルともお知り合いのようだったけど……
「ルウェルは、殿下が軍を離れている時もずっと殿下の護衛でしたからね。それで夫人もルウェルに構っていたんじゃないでしょうか」
 そうか、とユニカが納得したあと、クリスティアンに踏みつけられていたアロイスの爪先がようやく解放されたが、ユニカはそんなことは知らない。
「いくら得意のお絵描きで女性の気を引いても、言葉選びがなってないからモテないのよ」
「アデリシアは相変わらず、リヒャルト以外の男に厳しいよな……
 ゆえに、みなで席を立つ前にあったそんなやりとりの意味もわからなかった。



     * * *

 夫婦ともに大公に仕えているリースレ子爵夫妻だが、活躍の場はそれぞれまったく異なるそうだ。夫人は結婚前から財省の一画で帳簿をつける事務官として出仕しており、それが今や公国全体の税制に責任を持つ高官になっている。
 対して彼女の夫は学問の徒であり、王家がアマリアに私設の大学院を設けているように、大公家が創設した学院で数学を研究しているらしい。
「数字の花束で結婚した二人だといわれていますわ。実際は、家同士が決めた相手だったのでしょうが」
 アデリシアは夫人と面識があるそうなので、彼女に仲介して貰うことにした。なぜアデリシアが夫人と知り合いなのかといえば、彼女の父であるシュトローマ伯爵も大学院で教鞭を執る学者で、リースレ子爵といわば同僚なのだそう。加えてアデリシア自身が数字に強く、あちこちの家で家政管理の手伝いをしてきたので、リースレ夫人からは財省の官吏になるよう誘われているという。
「ウゼロでは本当に、女性もそうしてお仕事を持たれるのですね。でも、アデリシアさんは学問の分野にご興味なはないのですか?」
「わたくしは目の前の帳簿や書類を処理していくのが得意なだけなのです。リースレ子爵や父のように、数や式でこの世の真理を見つけようなどということにはちっとも興味がなくて。帳簿は面白いから好きですわ。その家のいろいろなことが見えますもの。――お仕事の話ですから詳しくは言えませんけれど」
 エリュゼと話すアデリシアの声が低くなったのは、今現在、クリスティアンの家、もといユスティエナの手伝いをしているせいだろう。声を抑えたとはいえ彼女たちの前を歩くユニカの耳にも聞こえたので、クリスティアンがどんな顔をしているか心配になって隣を歩く彼をちらりと窺う。今回は特に変化なし。聞こえないことにしているようだ。
「羨ましいですわ。そうして人の役に立てる特技があって」
「でも肝心なことが不得意だったりしますから、両親にはいつも渋い顔をされています。お恥ずかしいのですが手仕事のほうはまったくだめで……伯爵は、レースを編むのはお得意ですか? よろしければ教えていただきたいのですが……
「そういうことでしたら、ユニカ様がお上手ですよ。シヴィロではグレディ大教会堂の大導主様がユニカ様の作ったレースをご所望になったり、お友達を呼んでに教えていらっしゃったり」
 大導主が……という話は、あくまでパウル大導主がユニカの養父の師という縁があったからだし、クリスタたちをエルツェ家の邸に呼んだのもあの一回きり。それらの出来事を、さもすごいことのように紹介されるのはちょっと恥ずかしかったので、ユニカはつい肩越しにエリュゼを振り返った。そうすると目を輝かせているアデリシアが嫌でも目に入る。
「すごいですわ! ウゼロにいる間に、顔見知りになった方々のご息女を招待なさって教室を開いてみてはいかがですか? 王太子妃代理の姫君からの招待ならきっとみんな喜びますし、同世代で仲良くできる方がいっぺんに増えます。人脈作りもできる上に、招待される側はレース編みも習えて、一石二鳥にも三鳥にもなりそうではありませんか」
 人脈作りと言われると、この頃二重に気後れしてしまう。仲良くできる相手――いざという時に自分や、あるいはディルクが頼れる相手――を増やすのは、ユニカに求められる大事な役割だとわかっている。それゆえに、「人脈作りなど苦手だ」と思った直後には「苦手だけどやらなくちゃいけない」とも思い、正直しょんぼりしてしまうのだ。
「今日のような大きな場を設けなくてはいけないわけではありません。エルツェ公爵夫人や母に相談して、まずは四、五人、お近づきになるとよい相手を選んで招待なさるのはいい考えかもしれませんね」
 ユニカが知らずのうちにうつむくと、クリスティアンがそう言ってくれた。アデリシアの声はとことん無視するつもりでいると思っていたが、話はちゃんと聞いていたらしい。
「ちょっと、わたくしの企画よ。盗らないでちょうだい」
 クリスティアンはユニカに気を遣ってくれただけなのだと思うが、すかさず刺々しい声が飛んできた。「企画?」とほんのりした疑問を抱きながらも、ユニカはまた笑顔で振り返った。
「レースの教室のことは考えてみますので、そのうちアデリシアさんも相談にのってくださいね」
 はい、もちろん、という明るい返事を聞き、クリスティアンも落ち着いていることを確認して、ユニカはほっと胸を撫でおろした。うむ、この二人に挟まれているとその場を穏便に保つという能力が磨かれそうだ。そう思っておこう。
 そして、咄嗟に考えてみると言い出した教室のことも、一度シヴィロでやっているから、相手を選べばなんとかなると思うしかない。そもそも、ただの社交場になる茶会より、自分にはそちらのほうが向いている気がした。教えるとなると、会話の糸口をあれこれ探さなくてもおしゃべりせざるを得ないわけだから。
 それから幾人かの貴族やその夫人に挨拶されながら、ユニカたちはリースレ子爵夫人を探した。アデリシア曰く、顔の広い方ゆえに一所にとどまらず、自ら会場を動き回って人に話しかけているだろうとのこと。
 先日もそんな様子だった夫人のことを思い出し、なかなか見つからないが気長に探せばよいかとユニカが思い始めた時、さっと目の前を横切る貴婦人がいた。
 大抵の貴族は、話しかけるつもりがない相手と進路が交わらないよう、位の低い者がさりげなく道を譲っている。相手が誰だかわからないユニカにはできないまねだ。そもそも、今日の茶会の上客であるユニカは誰かに道を譲らなくてよいらしいが。
 ユニカは周囲の様子を窺っていたせいで、かえってその貴婦人に気づくのが遅れた。ぶつからずに済んだのは隣でクリスティアンが歩調を緩めてくれたからだ。
 貴婦人はほとんど黒に近い濃い灰色のドレスを着ていた。ガウンには銀糸をふんだんに使って椿の花が刺繍されている。まとめた髪や胸元、袖口には銀糸の色にそろえた灰色真珠のアクセサリーが光っており、無彩色の煌びやかさが明るい昼の宴の中で妙に目立っていた。
 彼女はユニカの前を横切る時にちらりとこちらを見た気がしたが、どうやらユニカではなくクリスティアンの顔に覚えがあったから微笑んだらしい。
 対するクリスティアンも軽く会釈を返したが、親しい相手ではないのか、それだけだった。向こうもするすると歩いていってしまう。
「まあ、珍しい……
「どなたですか?」
「あ、いえ……今日ユニカ様や伯爵がご挨拶すべき方ではないと思いますわ。リースレ夫人を探しましょう」
 エリュゼが尋ねたものの、アデリシアは答えをごまかしていた。それも気になったが、白色を基調に着飾っていた大公妃と真反対の装いだなと思いながら、ユニカはしばしその貴婦人の後ろ姿を見送った。
 リースレ子爵夫人を見つけたのは、それからすぐのことだ。おしゃべりしてまわるのにお疲れだったのか、日当たりが良くて暖かい、しかし会場の隅っこに近い、大きな硝子窓のそばにある席に一人座り、召し使いが運んできたお茶に口をつけているところだった。
「ごきげんよう、リースレ夫人。ご休憩中ですか?」
 アデリシアが声を掛けに行くと、夫人は目を丸くしながら立ち上がった。
「あなたも来ていたの、アデリシア。ああそういえば、今テナ侯爵のところでお手伝いをしているのだったわね。いったいいつになったら財省(うち)に来てくれるの?」
「わたくしの雇い主はテナ侯爵ではなくユスティエナ様ですわ。それと、そのお誘いの件はまた後日……
 クリスティアンに雇われているという誤解は絶対に許せないらしい。聞こえてきたアデリシアの言葉には、ユニカだけでなくエリュゼもアロイスも苦笑した。
「今日は、ユスティエナ様に頼まれて大事なお客様をご案内しているのです。リースレ夫人にもご紹介したいのですが、よろしいですか?」
「あら、どなたかしら」
 それまでにこにこと気がいい笑顔を浮かべていた財省の高官たる貴婦人だったが、アデリシアが手招きした相手がユニカだとわかった途端、その笑顔はすぅっと消えた。
 まだ一言も発していないし、ちゃんと友好的に見える笑みを浮かべているつもりだったので、ユニカは内心焦った。
「エルツェ公爵の姫君の、ユニカ様です。今回は王太子殿下のお妃の代理も務めていらっしゃいます」
「ええ、存じていますよ」
 リースレ夫人は再び笑顔を見せたが、それがどこまでも事務的な作り笑いだということは、相手が隠しもしていないのでよくわかった。
 しかも、公爵の姫が相手なら、ここはリースレ〝子爵〟夫人が先に膝を折るのが当然だ。しかし彼女はユニカを品定めするように上から下までじろじろと見るだけで、なんの言葉もなく椅子に座り直してしまった。
 アデリシアが戸惑うのも横目に、夫人はティーカップを手に取る。
 こういう時、ユニカからお辞儀をしてもよいものか。判断に迷いそっとエリュゼに視線で助言を請うていると、口を湿した夫人が溜め息交じりに呟いた。
「王太子殿下には困ったものね。シヴィロ王国でも愛人が幅をきかせる宮廷にしてしまうおつもりなのかしら」
「リースレ夫人……!」
「だってそうでしょう。その方は殿下の正式なお妃候補というわけでもないのに、一緒にくらしていらっしゃるとか。それはまだよいのですよ。殿下もそういうお年頃、気に入った娘をそばに置きたいくらいのことはあるでしょうし。でも、それだけに過ぎない相手におおやけの職まで与えてしまわれるのは、ちとやりすぎな気がするわ」
 さすがのアデリシアもおろおろし、ユニカも血の気が引く気分だったが、逆にエリュゼは頭に血が上ったようだった。目を吊り上げて一歩進み出ようとした彼女をアロイスが止める。
「ちょっとこうなるんじゃないかと思ってたんですよね。〝いろいろ〟あって財省に転向してきた殿下のことを、リースレ夫人はずいぶん可愛がってたと聞いていたので」
「どういうことです?」
「いや、ほら、戦のあとで……不幸も続いて、殿下は割とぼろぼろになってた時期だったんですよ。息子のような歳の殿下がそういう状態で自分のところへ転がり込んできたから、甘やかしてあげたくなったんじゃないですか」
「そんなのは官吏が果たすべき役割に関係のないことです! しかも、ユニカ様のお立場にはなおさら関係のないことですわ。ユニカ様が王太子妃代理を務めることになったのは、殿下のわがまま〝だけ〟ではなく、陛下のご裁可もあってのことなのですから!」
「それもわかりますけど、伯爵が言ったところでリースレ夫人が納得したり怯んだりもしないですよ。喧嘩はやめましょう」
 小声で繰り広げられる二人の言い合いを聞いて、ユニカは少し事情を察した。
 この貴婦人もディルクを気に掛けているのは間違いない。が、それゆえにユニカのことが『彼についた悪い虫』に見えるのではないか。
 エリュゼが言うように、ユニカを王太子妃代理に任命したのは王だ。しかし、これもエリュゼが言うように、ディルクが自分の希望を通したという一面もある。
 こういう時、どうしたらいいのだろうか。どうしたら、ユニカがこの役目に真剣に向き合っていると伝わるだろうか。
 いろいろな考えが脳裡をよぎったが、結局、ユニカが無意識に実行していたのはメヴィア公爵夫人に教わった方法だった。
 横目でじろりと見つめてくるだけのリースレ夫人に向かって、思い切り明るい笑顔を見せる。これには夫人も、エリュゼやアデリシアもびっくりしていた。
 悪口を言われたら、相手に向かってにっこり笑う。どうしてそんなことをするのか意味は思い出せなかったが、どんな表情よりも相手の意表を突けたのは確かだ。
 少し怯んだようにも見えたリースレ夫人のほうへ進み出て、ユニカは口を開いた。矢車菊の指輪がはまった左手をぎゅっと握りながら。
「王太子殿下からは、確かに私的な面で過分な待遇をしていただいておりますが、わたくしに王太子妃代理のお役目をお任せくださったのは国王陛下です。そして今日は、王太子殿下からのご依頼を受けて夫人にご挨拶に参りました」
 きちんと笑えているのか、自分のほっぺの具合も途中からわからなくなったが、声だけは震えないようにしてユニカは続けた。
「殿下は夫人との会談をお望みです。お会いいただけますでしょうか」
 これをユニカから言ってはいけないはずだったが、こんなにピリピリした目で睨んでくる女性を相手に、上手くディルクの話を引き出せるはずもない。半ば自棄(やけ)になって口にしてしまう。
 リースレ夫人がじっと見つめ返してくる間、足の震えが止まらなかった。結構な時間、黙って見つめ合っていた気がしたが、やがて夫人はユニカから視線を外し、通りがかった召し使いを呼び止めて飲み物を人数分、持ってくるように言いつける。
……まぁ、きちんとした口は利ける方のようね」
 ユニカに言ったのか、アデリシアに言ったのか、それとも独り言だったのか、ともかくぽつりと呟いたリースレ夫人は、椅子から腰を上げた。そして、たった今会ったかのような顔をしてお辞儀(カーテシー)をしてみせ、全員に椅子を勧めてくれた。