残光に泳ぐ

【徳種】CP未満*徳+種。決勝代表決定戦前夜、宿舎プールにて。

 シャワーエリアを抜けてプールサイドに続く扉を押し開けると、天井に並んだ照明器具の白色光と塩素の匂い、それから特有の反響音がひといきに身を包む。
 選手宿舎のホテル内に併設された屋内プール。街並みを望む方角に張られた巨大なガラス窓の向こうには、オーストラリアの夏の夜が今日も静かに広がっていた。
 濡れた床のざらついた感触を素足の裏で感じつつ、準備運動をするための空きスペースへ向かい壁伝いにゆったりと歩を進める。

 ホテルに到着した当初は物珍しさからかこのプールもいくらか混みあっていたけれども、滞在開始からしばらくが過ぎた今となってはここで顔を合わせるのもほとんど馴染みのメンバーばかりだ。各々時間帯や頻度も概ね定まっており、時計を見れば誰がいる可能性があるかおよそ想像がつく。
 特に、夜更けにもほど近い遅がけに泳ぎに来る者はあまり多くない――というよりも、徳川の知る限り、このタイミングでプールサイドで出くわしたことのある相手はいまのところただひとりだった。

 ウォーミングアップを淡々とこなしながら、六つ並んだレーンに目を遣る。長さこそ二十五メートルと短距離用のものだが、コース幅や深さにも十分なゆとりがあり、軽いトレーニングやコンディション調整にもあつらえ向きの環境だ。
 自身から見てもっとも遠く、窓際の第一レーンに、彼はいた。

 プレイスタイル同様しなやかに鍛えられた両腕が、抵抗を感じさせない自然なストロークで左右交互に水を捉えながら進む。至って穏やかな速度ではあるものの、なめらかで整ったフォームは日常的に泳ぎに親しんでいる人間のそれだとひと目で分かる。
 向こう岸に辿り着いたかと思えば、そのまま水中でくるりと身を翻して壁を蹴りつけ再び進み出す。
 減速も浮上も最低限の、スマートなフリップターン。
 その様子をしばらく眺めたところで支度を終えて、自身もまた水の中へと向かう。彼がいるレーンの隣、第二レーンへ、足先からざぶんと降り立つと、すっかり馴染んだ温度の温水に二の腕までが浸かりきる。
 キャップとゴーグルの位置を整え進行方向を見据えれば、ちょうど折り返してこちらに戻ってくる彼の姿が目に映った。
 彼がコースの半ばまで進んできたあたりで、壁を蹴ってスタートを切る。
 潜水した瞬間、周囲に響いていた音が消え、水中を進むための動作ひとつひとつの音と水の流れの感触、自身の息遣いばかりが体を満たしていく。

 泳いでいるときの静けさはコートの上での集中状態にすこし似ている。
 呼吸と鼓動、一挙手一投足の感触、動きの手応え。頭の中を巡る思考を一旦手放し、ただそれだけに集中できる時間には、純粋な心地よさがある。

…………、」

 コースを数往復したあと、スタート台側の壁際で停止する。
 おもてを上げて立ち止まれば、隣のレーンでコースロープに軽く凭れかかった彼と目が合った。
 そろそろ上がるつもりなのか、外したキャップとゴーグルを片手に持った彼――種ヶ島が、こちらを見遣りゆるく笑む。「お疲れさん」

「相変わらずキレーに泳ぐなぁお前」
……そうですか?」
「ちっちゃい時にちゃーんと習っとるヤツの泳ぎっちゅうんかな。見とって気持ちええわ」

 確かに幼いころスクールに通った時期もあるが、彼のフォームと目立った差はないように思える。けれどもそれを素直に言葉にするのもどうにも気恥しく、衒いない褒め言葉の面映ゆさごと誤魔化すように唇を結んでしまった。黙り込んだ自身に種ヶ島は少々不思議そうに首を傾げてみせてから、静まり返ったプールを見渡し口を開く。

「ここもぼちぼち泳ぎ納めやなあ」
「ええ」

 彼の言葉通り、選手村の一角に立つこのホテルでの滞在も残り一週間をきろうとしている。エキシビションマッチから幕を開けたU-17W杯は、遂に決勝を残すのみとなった。
 スペインとの決勝戦は明後日。その出場メンバーを選ぶ代表決定戦が、明日行われる。

 快い高揚とかすかな感慨を帯びた声にゴーグルを外し、改めて彼に視線を向け直す。こちらが何かを言おうとする気配を察してか、鳶色のひとみが先を促すようにゆるく目瞬く。その双眸をまっすぐに見返して、ぽつり、呟くように言う。

「明日、シングルスには出ないんですね」
……せやな。そのつもりやで」

 数瞬の間のあと、返ってきたのはひどく静かな応えだった。
 今大会のレギュレーションと対戦相手であるスペインのメンバー構成、準決勝までを戦い終えた現在のチームの状況を鑑みれば、彼の選択は十分予想できることだ。自身としてもあくまで確認のために掛けた問いで、驚きはない。その声が宿した決意を、ただ五感で掬いとる。

 ――今夜も彼はここにいるだろうか。時計を見、そう思いながら部屋を出た自分はあのとき、確かに彼になにかを尋ねたかった。伝えたかった。
 果たしてそれは一体、なんだったか。

「種ヶ島さん」
「うん?」

 さざめくように揺れる胸裡の水面から言葉を探し、彼を呼ぶ。
 逸れることなく注がれ続ける彼の視線は、ネット越しのそれと同じ温度だ。
 濡れてやわらかくうねる彼の銀糸の先から、水滴がぽたりと落ちる。天井からの光を受けて瞬くそれと、普段彼のユニフォームの襟元でひかるナンバー2のバッジの記憶が重なって、まぶたの裏を掠めていった。

「俺は、シングルス1を獲ります」
…………、」
「勝ちます。――必ず」

 代表選考のどの枠にエントリーするかは各自に委ねられているといえ、誰と戦うことになっても一筋縄ではいかない。その程度は理解している。……それでも。
 決勝の舞台で戦いたい男たちがいる。
 果たしたい約束がある。
 証明したい信念がある。
 そのためにはまず、明日、なんとしても勝たなくてはならない。
 訥々と紡いだ言葉に黙って耳を傾けていた彼が、楽しげに目を細める。

「俺もやらなアカンことやってくるわ。……ダブルスで」
……はい」
「徳川」
「はい」
「頼むで、シングルス1」
「もちろんです」

 頷く。
 去り際、肩に置かれた手のひらの強さと熱さを感じながら、しなやかな背を見送る。ひとりきりになったプールの凪、ただ静かにまたたく水面を見渡して、もう少しだけ泳いで帰ることにした。