よるうみはる。
2026-03-07 23:33:52
7658文字
Public パロ
 

Bed of Roses.

バーテンダー×高利貸し
夜の世界に生きる二人のパロ。


 夜を這うようにして、獅子神敬一はネオンの毒々しい光が明滅する路地を歩いていた。
 相変わらずこの街の騒々しさにはうんざりとする、それでも獅子神は自分がどんな風に生きていても許容してくれるこの場所を嫌いではなかった。客引きをするホスト崩れ、際どいメイド服を纏ったコンカフェの女たちは、道の端で列を成し、まるで餌に集る蟻のようだ。ただ狙いを定めた相手には、獰猛な肉食獣のような目をしている。ギラつく瞳の先で喰われるのはネギを背負った丸々と太った気弱そうな鴨だ。
 獅子神はそんな喧騒を背後に歩く。そんな金を持ってなさそうなやつを掴まえるなよ、と内心で毒づいた。ツケてジャンプされたらどうするんだ。回収できない負債ほど、この街で無意味なものはないのだから。
 声を掛けるなら――、獅子神はついと視線を走らせた。閉店したショーケースの前には、カジュアルな服装で一見金がなさそうだが、靴だけはやけにきれいな男。携帯に触れている指先のリングも値の張りそうなものだ。それから、先刻から何度か時計を気にしている女。地味な装いだが、カバンやポイントアクセサリーには確かなブランドを選んでいる、見るからに地雷持ちよりはよほどキレイに酒を飲んでくれそうだ。うまくやれば、時々通ってはそれなりに金を落としてくれる「良客」になるタイプだろう。
 無意識に街を値踏みし、獲物の質を測ってしまう。それが、かつて地べたを舐めるような思いをしてきた獅子神が、この夜の底で生き残るために身につけたものでもある。
 安い客ばかり狙っても仕方がない。返せる宛があるものを見つけて、上手くやり取りをするべきだ。これは獅子神の持論でもある。追い詰めたところで、金は湧き出るものでもない。死人に借金は返せないのだから。
 じわじわと脳裏によぎる、苦々しい記憶。親の作った借金という名の鎖に繋がれ、泥水を啜るような生活を送っていた幼少期。だからこそ、大人になった獅子神はその鎖を逆手に取った。追われるのが嫌なら、追う側になればいい。奪われるのが嫌なら、奪う側になればいい。
 そうして金を貸す側になった。
 表向きは、困った時の駆け込み寺を装ったコンサルタント。だがその実態は、法を嘲笑うような暴利で、相手の人生を担保に取る高利貸しだ。獅子神は、自ら元手を転がしている。かつて自分を縛り上げた金という暴力の仕組みを理解した時、彼はそれを自分の武器に作り変えた。銀行が相手にしないような【詰んだ】人間に、救いの手に見せかけた蜘蛛の糸を垂らす。その糸が、いつ首を絞める絞縄に変わるかは、獅子神の指先ひとつで決まるのだから。
​ 引っ張れるだけ引っ張って、最後は身ぐるみを剥ぐ。それがこの街の定石だ。だが獅子神は、無闇な追い立てはしない。死んでしまえば、あるいは完全に破綻して飛んでしまえば、その負債はただの紙屑になる。――自分の両親のように。
 生かさず殺さず、月の利息だけを律儀に運ばせる。生活を破綻させない程度に、けれど決して自由にはなれない重石を背負わせ続けるのが、最も効率的な運用の形だと知っていた。
 今や彼は、この界隈で「獅子神にだけは手を出すな」と囁かれる高利貸しとなっていた。
 思考の海から意識を引き戻し、肺に溜まった淀んだ空気を吐き出す。いつの間にか目的の雑居ビルの前に辿り着いていた。明滅する看板の光が、網膜をチカチカと刺激する。ここからは思考ではなく、実務の時間だ。
 馴染みの風俗店の重い扉を開ければ、閉塞的な空気の中に、安っぽい香水の匂いと、行き場のない熱気が暴力的な密度で充満していた。
 獅子神は受付の男に顎で短く挨拶を投げると、慣れた足取りで奥へと進み、事務的なトーンで声をかけた。
「よお、今月分。回収しに来たぞ」
 その声が呼び水となった。待機室の奥から「あーっ、けぇくんだ!」甲高い一人目の声が届く。「ちょっと敬一くん聞いてよぉ!」と、耳を劈くような嬌声が幾重にも重なって押し寄せてくる。
 一応は恐れられる高利貸しの立場なのだが、この店の嬢たちにとって、獅子神は「話を聞いてくれる都合の良い男」という認識が強いらしい。獅子神自身も、彼女たちが抱えるストレスを、利息を滞りなく回収するための管理コストとして計算していた。
「ねえねえ敬一くん! さっきの客、マジであり得ないんだよ。自分の自慢話ばっかりで、挙句の果てに無理なサービス強要してこようとしてさぁ。ねえ、ちゃんと聞いてる?」
「けぇくんこっちもきいて! さっきの黒服、態度最悪なんだよぉ。ちょっと遅刻しただけで鬼の首取ったみたいに説教してきて。マジで何様!? けぇくんからも一言言ってよぉ〜」
 左右から細い腕を絡められ、安価な柔軟剤と汗の匂いに包まれてもみくちゃにされながら、獅子神は「あー、はいはい」と投げやりな相槌を打ち続ける。ネクタイを引っ張られ、化粧の匂いに包まれながらも、その表情にはどこか諦めに似た寛容さがあった。
 右から左にそれらを受け流しながらも、ここの女たちは働いて利息を払うのだから、まだマシだ。こんな愚痴さえ言えず、まともに金すら稼ぐ手段もなくなってしまったら、そいつは、もうおしまいだ。獅子神も、本来なら回収できる分だけでもきっちり回収して後はサヨナラだが、筋を通している分には邪険にすることもない。
……そりゃ災難だったな。じゃあ、そんな奴らの相手しねーように、まずはしっかり稼いで利息分きっちり返せよ。金が溜まれば、そんな客も黒服も視界に入れなくて済むようになるんだからな」
 黒服の男が苦笑ともとれる表情で口角を緩めた。突然矛先が自分に向いたからだろう。獅子神もアイコンタクトで少し呆れるように目元を緩めた。彼女たちに優しい言葉を掛けるより、事実と発破をかけた方がよほどやる気を出す。気遣いは見せるが、甘やかすつもりはなかった。
 金はすべてを解決する。それが獅子神が信じる唯一の真理でもある。無い袖は振れない、それと同じだ。
「結局お金の話じゃん〜! でも敬一くんに言うと、なんかスッキリするんだよね。はい、これみんなの今月分。ちゃんと利息も乗せてあるよ」
 差し出された封筒の厚みを指先で確認し、獅子神はふっと小さく息を吐いた。女という生き物には、欠片ほどの興味もない。彼女たちがどれほど肉薄し、甘い声をあげてすがりついてこようと、彼の心拍数が一拍たりとも乱れることはなかった。
「んじゃ、頑張って稼いでくれよ。無理してパンクすんじゃねえぞ」
「はーい、敬一くんも夜道気をつけてね!」
​ 店を出れば、深夜の冷たい風が、肌にこびりついた女たちの熱を削ぎ落としていく。
 どっと押し寄せた精神的な疲労。このまま自宅へ帰るには、あまりにも脳がささくれ立ち、内面が空洞になりすぎていた。火照った頬を撫でる風は心地いいが、獅子神を癒すには足りない。
……一杯だけ、寄るか」
​ 無意識のうちに足が向くのは、路地裏の地下にひっそりと佇む、あの静謐な空間だ。
 重厚な扉を開け、階段を一段降りるごとに、街の毒気が浄化されていくような錯覚に陥る。そこには、獅子神が唯一、自分の思考が通用しないと理解している男が待っているのだ。
 色あせた年季の入った真鍮の取っ手に手をかけ、扉を開けると、そこには地上の喧騒を嘘のように遮断した、静謐な琥珀色の空間が広がっていた。カウンターの奥、磨き上げられたグラスよりも涼やかな顔をして立っている男の姿を認識して、ひとつ瞬きをした。
 店内に客の姿はまばらだった。カウンターの端にカップルらしき二人。テーブル席にはタブレットを操作しながら飲む男が一人。
 獅子神がカウンターの向こうにいるこの店のバーテンダー兼、マスターの男――叶黎明を見る。黒に近い濃紫の髪はダウンライトの下で艶やかに色を変え、右側を重い前髪が覆い隠している。背筋をぴんと伸ばし、黒いサテンの開襟シャツを纏った姿は、暴力的なまでの色気を孕んでいた。片目しか覗いていないアンバーの瞳は、獅子神を見つけると三日月のように細められる。
「いらっしゃい、敬一くん。仕事帰り?」
 叶は、まるで見計らっていたかのようなタイミングで、獅子神の定位置にコースターを置いた。
 獅子神は重い溜息を吐きながらスツールに腰を下ろす。カチリと小気味良い音を立てて、叶が氷を操り始めた。
……ああ。今日の分の回収」
「あは、おつかれ。そんなに険しい顔をしてると、せっかくの綺麗な顔が台無しじゃん」
「お前に言われたかねーよ」
 胡乱げな表情で叶を見つめた。自分の顔は確かに整っている方ではあるが、目の前の男にわざわざ言われると嫌味にも聞こえる。顔の造形で言えば、叶も似たようなものだ。涼やかな目の端に跳ね上がるアイラインが、ぱちくりと瞬きをしてみせた。なにせ、叶の顔目当てに来る女の客も多いくらいだ。
 もちろんそれだけでやっていけるほど、この世界の夜は甘くない。叶の作る酒は確かだったし、客との距離感も絶妙だった。それも相まって叶との会話を楽しみに来る客もいるほどだ。それに、だ。別に話さなくとも、この見目麗しい男がカクテルを作る姿は実に様になる。一九〇近い体躯に見合う手足の長さには、男女共に見惚れてしまうものだった。
 獅子神もまた、叶を始めて見た時には見惚れてしまった一人でもある。
「どう? オレが甘いカクテルでも作って、その疲れを溶かしてあげよっか。ついでに、オレの愛も受け取ってくれるなら、もっと甘くしてあげるけど」
 流れるような手つきでバースプーンを回しながら、叶はいつもの、軽薄な口説き文句を吐く。獅子神がこの店を訪れるたびに、こうして柔らかな言葉の罠を仕掛けてくるのだ。それはまるで、触れれば壊れると分かっているガラス細工の強度を、毎日少しずつ確かめるような、そんなもどかしくも執拗な作業に見えた。
 獅子神が叶に惚れていることを知ってか知らずか――恐らくは前者だろうが、いつだってこんな調子だ。本気なのか判断のつきにくい言葉にはため息を零すしかない。それを受け流すように、鼻で笑って挑発気味に上目を向けた。
「酒が不味くなるようなこと言うなよ。テメーの愛なんて言葉、一円の価値にもなんねえ」
「手厳しいなあ。でも、そうやって拒絶されるとオレはもっと好きになっちゃうな。敬一くんって、本当にオレの好みを分かってるよね」
 叶は楽しげに目を細め、獅子神の前に菫色に揺れる液体が満たされたグラスを差し出した。
「お前の髪みたいな色してんな」
「バイオレットフィズをベースに、底が黒くなるようコーラに変えてみた。味は悪くないけど、まだ試作中。ちょっとだけ、度数は高いかな。ジュースみたいに飲めちゃうかも知れないけど、あんまり飲むとすぐ酔うかもね」
 グラスの底には黒のコーラが沈み、巧みなグラデーションで上が紫になっている。「完璧な愛って意味のね、パルフェタムールも使ってるんだ」そこだけは、獅子神は聞かなかったフリをする。確か、菫の香りがする酒だったはずだ。それとジンが混ざっているのであれば、確かに度数が高いのも頷ける。
……完璧な愛、ね。詐欺みたいな名前だな」
「そうかな。敬一くんにぴったりだと思ったんだけど」
 叶はカウンターに手を突き、少しだけ身を乗り出した。サテンの生地が擦れる微かな音さえ、この静かなバーでは妙に艶かしく響く。獅子神は視線をグラスのグラデーションに固定したまま、逃げるようにその液体を一口含んだ。菫の華やかな香りが鼻に抜け、その直後にコーラの甘みと、ジンの鋭い刺激が喉を焼く。
……お前みたいな、味するな」
「あは、ちょっとその感想は、刺激が強いな」
 叶の長い指先が、獅子神の置いた空の左手の、すぐ近くまで這ってくる。触れるか触れないか、そのギリギリの距離で止まる指先。獅子神は動悸を悟られないよう、無理に酒を煽った。
「バカ言ってねえで、仕事戻れよ」
 そもそもまだ、まばらに客はいるのだ。恥ずかしいというよりは、人目を気にして欲しいというモラルの問題でもある。叶自身は、恋愛対象の相手の性別を両方だと公言している。今のターゲットは獅子神敬一だというのもこの界隈では知られていることで、いつ叶に陥落するかという賭けが、公然の秘密としてされていることも獅子神も知っている。叶がそれに加担しているかと言えば「ノー」だった。曰く「オレは本気だから、敬一くんが落ちてくれるのを気長に待ってるだけだよ」とのことだ。
 それに今はその期間も長くなり過ぎて、結局賭けの話題も立ち消えていた。
 獅子神自身は、恋愛の相談をしたことが無いのでノーマルだと多数には思われているが、実際のところ昔から女には興味がない。男が好きなのだと自覚したのは、いつだったか。目の前で微笑むこの男が、自分の好みに完璧に合致していることにも、とうの昔に気づいている。
 けれど、獅子神は首を縦に振るつもりはなかった。
 今のこの、軽口を叩き合い、一定の距離を保っている関係が、獅子神にとっては最も「安全」な時間だからだ。
 もし、一歩踏み込んで、この関係が壊れてしまったら。その後には、かつての自分を縛り上げたような、救いようのない喪失感だけが待っているのではないか。その恐怖が、獅子神の喉元まで出かかった本音を、いつも鋭い言葉へと変えさせる。
 扉の開閉する音がして、獅子神の思考を現実に引き戻す。気が付けば、客は獅子神一人になっていた。叶の姿はカウンターから立ち消えている。バックルームにでも入ったのかも知れない。閉店時間を明確に聞いたことは無かったが、時計の針はすでに深夜二時を指し示していた。
 グラスを浸食していた菫色の液体は、すでにその半分以上が獅子神の喉を通り過ぎていた。度数が高いという言葉通り、じんわりとした熱が胃の辺りから広がり、パルフェタムールが孕む、早すぎる春のような甘やかな芳香が、鼻腔から脳の奥へとねっとりと絡みつく。
 ふと、視界の端でサテンの布地が微かに揺れた。すぐ近くで叶が、獅子神を凝視している。その眼差しは、先程までの軽薄なものとはどこか異なり、深海のような静かな熱を孕み、慈しむような視線を獅子神に注いでいた。
……たまに一人で全部背負い込んでるような顔するよね、敬一くん」
 もはや接客用のそれではない。重力を含んだその響きに、獅子神は心臓を冷たい指で直接掴まれたような錯覚に陥った。
 カウンターではなく、すぐ隣のスツールに腰かけて獅子神に笑みを浮かべる男の顔は、ダウンライトの偏執的な陰影によって、嫌になるほど美しく、そして底知れぬ恐ろしさを湛えていた。
 至近距離で交差する視線。伏せられた睫毛の数まで数えられそうな静寂の中で、獅子神は自分の鼓動が耳の奥で早鐘を打つのを聞く。瞬きの音さえ、鼓膜を震わせる鋭利なノイズになりそうだ。耐えきれず、獅子神は乾いた喉をこくりと鳴らした。
……何のことだよ」
 絞り出した声は、自分でも驚くほどに掠れていた。
「風俗嬢たちの相手して、金を持って来させるんじゃなくて、自分で回収なんかして。敬一くんがやってることはただの仕事かもしれないけど、そうやって自分を削ってこの街に溶け込もうとしてる。オレは全部、観てるぞ」
 剥き出しの真実を突きつけられ、獅子神は何も言い返せなかった。
 ――必死で、必死で取り繕ってきた。
 このギラつくネオンの海に、毒々しい原色の欲望が渦巻く街に、食い殺されないように。お前はいつまでもあの頃の、泥水を啜っていた底辺の餓鬼のままだと言われないように。高価な靴を履き、冷徹な仮面を貼り付け、自分を美しく虚飾しなければ、この巨大な口を開けた虚無に一瞬で飲み込まれてしまう。
 だが、喉を焼くアルコールの刺激さえ、今、獅子神を射抜いている叶の真摯な眼差しに比べれば、あまりにも温く、頼りないものに感じられた。
 鉄壁だったはずの自制心が、酒の熱と、鼓膜を愛撫する叶の声に煽られ、音もなく解けていく。
 獅子神の首が、重力に逆らえずに僅かに傾いた。ふっと肩の力が抜ける。それは、彼がこの街で唯一、叶という男の前でだけ許してしまった致命的な「隙」だった。
……オレだって、楽に生きてるわけじゃねーのに」
 吐き出された言葉は、深夜の空気の中に溶け、消える。
 その瞬間だった。
 叶の瞳の奥で、静かに燃えていた火が、一瞬で鋭く細められた。
 彼はこの刹那を、獲物の頚動脈が露出する瞬間を待ち構えていた肉食獣のように、静かに、執拗に狙っていたのだ。獅子神がこれまで幾千の夜を重ねて築き上げてきた、あまりにも脆く、あまりにも美しい均衡が、今、決定的な音を立てて崩落した。

……あーあ。敬一くん、そんな顔して。オレに甘えちゃうんだ」

 耳元をかすめたのは、夜の闇よりもなお深く、逃げ場を完全に断つような慈愛を孕んだ響きだった。低く、鼓膜を直接愛撫するようなその声は、獅子神の項から脊髄へとなぞるように伝わり、防衛本能さえも痺れさせる甘い毒となって全身を駆け巡る。
「かの、う」
 獅子神がその声の主を拒むために顔を上げるより、叶の動きの方が圧倒的に速かった。
 バーテンダーとしてのしなやかな所作からは想像もつかないほど強引に、長く骨張った指が獅子神の顎を掬い上げる。サテンの開襟シャツの袖が擦れる艶やかな音が、静寂を切り裂くような重みを持って響いた。
 不意を打たれた獅子神の視界は、瞬く間に琥珀色の深淵へと塗り潰されていく。至近距離で見下ろす叶の瞳は、ダウンライトの光をその内に閉じ込め、獲物を底なしの泥濘へと引き摺り込むような、逃れようのない熱を湛えていた。
 触れ合う寸前の距離で交差する、熱い吐息。
 先程まで喉を焼いていたパルフェタムールの、人工的で耽美な菫の香りが、叶の纏う夜の匂いと混じり合い、ねっとりと肺の奥まで侵食してくる。それは、獅子神がこれまでの人生で必死に積み上げてきた理性の最後の一片を、容赦なく、そして無慈悲に溶かしていく高熱の塊だった。
 この男の腕の中に堕ちれば、自分という個の形さえ失ってしまうのではないか。そんな根源的な恐怖さえも、今は心地よい絶望として脳を麻痺させていく。
 獅子神は、見開いた瞳を逸らすことさえ忘れていた。
 網膜に焼き付くのは、前髪の隙間から覗く鋭いアンバーの光。その光の中に、無防備な自分自身が憐れなほど鮮明に映り込んでいる。
(もう、逃げられない)
 その矛盾した欲求が、獅子神の乾いた唇を僅かに震わせた。叶の指先に込められた力が強まり、逃げ道を塞ぐように彼の顔がさらに近づく。
 ――すべての音が消え去り、獅子神の視界には琥珀色の世界だけが支配していた。