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4506文字
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番長にかわいいと言われ続ける陽介

主花 主人公の名前 鳴上悠

 晩秋の冷たい風が八十神高校の古びた窓ガラスをガタガタと揺らしている。
暖房を入れるにはまだ微妙に早く、かといって制服だけでは心許ない中途半端な季節。放課後の教室にはチョークの粉の匂いと埃っぽい西日の名残が漂っていた。

 暮れの色に染まる教室の片隅で花村陽介は自分の鞄に教科書を放り込みながらため息を一つこぼした。視線の先には静かに外の景色を眺めている鳴上悠の背中がある。
 夕日を浴びて銀色に縁取られたその横顔は整っていて、男前と形容するのがぴったりだと陽介は思った。彼、都会出身だからね、と、百人の前で言えば全員が納得しそうな感じだった。まったく誇らしいが、そんな男前の鳴上は一体今は何を考えているのか。多分今日の夕飯のこととかその辺だろう。この前は冷蔵庫に入っているワサビを食って寝込んだと聞いた。理解に苦しんだ。
 
 陽介にとって鳴上は相棒だ。この田舎町で共に奇妙な事件に立ち向かってきた大切な仲間であり、唯一無二の親友だった。だが時折感じる鳴上の真っ直ぐさは、陽介の胸の奥底にある繊細で厄介な劣等感を爪楊枝で突くようにチクチクと刺激し、時たまに立っていられなくなりそうなまでの鋭い痛みを与えてくることもある。

──今回の件が一体何のせいなのかはわからないが、少なくとも一つのきっかけにあの文化祭の存在があったことは否定できないだろう。

 不可抗力で出場することになった女装コンテスト。顔に液体を塗った後に粉を塗り、再度液体を塗りたくる化粧という行為の面倒くささと二度とはやりたくはない気持ちは料理をした時のそれと似ていた。さらにジュネスの子供服売り場でギリギリ見たことがありそうな髪留めとスースーして落ち着かないスカートの裾は最悪そのものだった。毎日コレをやっている女はすごいと思ったし、生まれ変わっても女にはなりたくないなと思った。観客の笑い声の中で、陽介はただただ屈辱に顔を赤くして耐えるしかなかった。

 問題はその後だった。
祭りの熱狂が冷め、白けるくらいの日常に戻ったある日の放課後。鳴上は陽介に向かって至って真剣に、世界の真理でも説くような凪いだ瞳でこう言ったのだ。

「陽介って可愛いよな」

 耳を疑った。
 
「はあ!?」

 陽介はあからさまに顔を引きつらせ、両腕を擦りながら後ずさった。男に向かって可愛いなんてのは冗談にしても悪趣味すぎるし、少なくとも自分にとっちゃちっとも誉め言葉じゃない。

「急になんだよ!?  風邪でも引いたか!? お前いっつも成績トップだもんな! バカな俺と違って風邪引いちまったか!」

 多弁。
 陽介の言葉は荒く、声は裏返っていた。持ちうる全てを使って茶化した。しかし鳴上は少しも怯むことなく、ただ静かに陽介を見つめ返した。鳴上の誰をも受け入れるような、あるいは全てを飲み込んでしまうような底知れない深さを湛えた双眸。
 鳴上は博愛主義的な危うさを常に纏っている男だ。老若男女問わず惹きつける天性の人たらしでありながら、その好意の向け方は時に狂気じみているほど真っ直ぐだった。

「文化祭の時からずっと思ってた。周りが言うほどじゃないと思う」
「だーっ! もう言うな! 忘れろ! 急に真面目な顔して言うのやめろ! マジっぽくて怖いから!」
「ただ俺は事実を……
「ああぁあもう……!」

 玄関のドアマットにでもなった気分だった。
 陽介の激しい抵抗も虚しく、その日から鳴上の奇妙な日課が始まった。
 
 ジュネスのフードコートで向かい合って長っげえポテトを食べている時。
 河川敷で並んで歩いているとき。
 あるいは今日のような放課後の誰もいない教室で。唐突に、しかし極めて自然なタイミングで鳴上は陽介に「可愛い」と言うようになった。何百回と聞かせてきたカラオケの十八番で合いの手を入れる時くらいそれはもうスーっと花村陽介の生活に入り込むようになった。
 最初のうちは陽介も毎回大袈裟に悪態をつき、顔を真っ青か真っ赤にして怒っていた。それやめろ、早く飽きろよ、と。

「これ以上叩いても何にも出ねえって!」
「叩いてない」
「比喩って分かるか? 分かんねえ訳ねえよなぁ、お前成績いいし」
「思ったことを言ってるだけだから……
「いい加減にしろよ……

 だが、人間の慣れというのは恐ろしい。
鳴上の声は常に低く、落ち着いており、揶揄うような響きは一切含まれていない。ただ純粋な称賛として、あるいは慈愛として、その言葉は陽介の鼓膜を震わせ続けた。

 陽介の心境に変化が訪れたのはいつ頃からだっただろうか。

(俺って、もしかして、マジで可愛いのか……?)

 ある夜、風呂上がりに洗面台の鏡の前で陽介はふと自分の顔を見つめていた。
 水滴の滴る茶色い髪。少しタレ目気味の瞳。自分で自分を男前だとは思わないが、同性にさえ「可愛い」と言われるような容姿――間違ってもクマのような美少年が自分だとはもっと思えない。普通だ。何の変哲もない男子高校生に他ならない。

「いやいやいや、ねーよ! 馬鹿か俺は! いや馬鹿は鳴上……!」

 鏡の中の自分に向かって悪態をつきながら陽介は頭を掻いた。こうやって女子たちは鳴上に懐柔されたんだろうと思うと妙に苛立った。具体的に何に苛立っているのか言葉にして理解することを頑なに避けようとしている自分に一番苛立った。


 陽介は、自分のことがあまり好きではない。
 
 都会から越してきたというだけで浮いてしまい、ジュネスの店長の息子という立場で地域の大人たちの冷たい視線に晒され、自分なりに色々と努力はしてきたつもりだが、どうにも空回ってばかりだ。特別に頭が良いわけでも、鳴上のように圧倒的なカリスマ性があるわけでもない。常に誰かの顔色を窺い、道化を演じることでしか自分の居場所を確保できない小心者。
 
 鳴上と出会い、不本意ではあるがシャドウという自分の弱み――本音を見られ、特捜隊の一員として仲間たちと活動していくうちにそんな部分も少しずつは弱まってきたものの、地面にへばりついたガムのような自己評価が陽介の根底には常に横たわっていた。

 だからこそ鳴上からの揺るぎない肯定は、猛毒のように陽介の精神を侵食していった。
頼りがいがあって、なんでもできる完璧な相棒が。唯一自分が気を許し、誰よりも信頼しているあの悠が。
 自分だけをじっと見つめ、菜々子に接するときのような優しい声で「可愛い」と言う。
 一体自分は鳴上に何だと思われているのか。小学生扱いされているのか、それにしたって言葉のチョイスってもんがあるだろう。
 けれども最初は嫌悪感しかなかったその言葉は、いつしか干からびた心を満たす水のように変化していった。
 相棒が本人なりの好意的な言葉を自分にかけてくれる。言葉選びは変としか言いようがないが、その妙さも含めて自分が知っている鳴上悠だ。これを嫌だと思い、本気で拒絶するのは陽介には大変に難しいことだった。

 親友以上、恋人以外。強いて名前を付けるのならば相棒という関係性の中で、陽介は鳴上の言葉に完全に飼い慣らされつつあった。口では拒絶の言葉を吐き散らかしながらも日に日に陽介の表情は緩んでいった。

 そして、今日。
教室の時計は午後五時を回ろうとしていた。
夕日はさらに沈み、教室はオレンジ色から深い紫がかった薄闇へと移行しつつあった。
 鳴上が、ゆっくりと振り返った。夕闇の中で彼の端正な顔立ちが影に沈む。だがその双眸だけは静かに陽介を捉えていた。

 ……来るのか!?

 陽介の心臓が大きく跳ねた。空気が張り詰める。そして鳴上が一歩陽介の方へ近づく。
 衣擦れの音とかすかに柔軟剤の匂いがした。
 陽介は息を飲み、無意識のうちに少しだけ目を伏せた。

『なんだよ、またかよ! お前マジでしつこいっての! まあ言ってくれんのは勝手だけどさ……

 いつもの照れ隠しの台詞を脳内で準備する。
心拍数が上がり、耳の奥で血の巡る音がうるさいほどに響いた。

「陽介」

 呼ばれた名前に肩が震えた。
 さあ言え。いつもの真面目腐った顔で言いたいように言え!

…………
…………

 数秒の沈黙。風が窓を叩く音がやけに大きく聞こえた。
 陽介は伏せていた目をゆっくりと上げた。鳴上と視線が合う。

「そろそろ帰るか」
「えっ?」

 間の抜けた声が陽介の喉から漏れた。鳴上の表情はいつもと変わらない。ただ静かに帰宅の提案をしただけだ。そこには「可愛い」という言葉も、それを見越した熱も一切存在しなかった。
 鳴上は陽介の返事を待つことなく、自分の鞄を手に取ると、教室の扉へと歩き出してしまった。

「あ……

 陽介は伸ばしかけた手を空中で止めた。扉に手をかけた鳴上が振り返る。

「どうかしたか?」
「いや……なんでもねえ! すぐ行く!」

 陽介は慌てて鞄を掴み、鳴上の後を追おうとした。だが、足が鉛のように重い。教室の扉が閉まる音が妙に冷たく響いた。廊下で待つ鳴上の気配を感じながら陽介はその場に立ち尽くした。

 急激に血の気が引いていくのがわかった。
 それと同時に、内側から爆発するようなどす黒い自己嫌悪の波が陽介の全身を飲み込んでいった。

 俺は…… 俺は一体何を期待してんだ……!?

 ガクガクと震える両手で自分の顔を覆う。顔面が焼けてんじゃないかってくらい熱い。鼻先なんか特に冷えているはずなのに羞恥でどうにかなってしまいそうだった。

 男のくせに。
 親友に向かって。
 「今日も可愛いと言ってくれるんじゃないか」と。
 女子みたいに目を伏せて大人しく待っていたというのか。

 馬鹿じゃねえのか……! マジで洒落になんねえっての……!!

 声にならない絶叫が頭蓋骨の内側で反響した。
ただの気まぐれだったのだ。毎日言っていたことにも、今日言わなかったことにも、深い意味なんてないのだろう。鳴上はそういう奴だ。あいつはマジで変な奴なんだよ。よく知ってる!

 だというのに、自分だけが、勝手に期待して、勝手に体をこわばらせて、勝手に裏切られたような気分に陥っている。

「クソ、クソッ、クソ……!!」

 奥歯を噛み締める。このまま欠けてしまえば笑い話にできると思ったが、永久歯は一度欠けてしまうと元には戻らないから大切にした方がいいという当たり前のことがぼんやり脳裏に浮かび、踏みとどまった。

 自分の自意識過剰さが、鳴上に対しての承認欲求の醜さが、これほどまでに憎いと思ったことはない。
 廊下から「陽介?」と、少し心配そうな鳴上の声が聞こえる。その声の優しさが今はたまらなくむごく感じた。

……わりぃ! 今行く!」

 陽介は両手で思いきり自分の頬を叩いた。パン、と乾いた音が夕闇の教室に響く。無理やり作ったいつもの笑顔を顔に貼り付けて、陽介は重い足取りで扉へと向かった。
 
 その晩、珍しく陽介は風邪をひいた。