ぬす
2026-03-07 19:36:26
11325文字
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沈む体温

お題箱でいただいたネタで書いたもの。怪異パロンポ夢です。名前の元ネタを意識しています。名前変換あり

ユメユメユメユメユメユメ こつこつ、こつこつ。
裏通りに二人分の靴音が響いている。
片方は私のヒール。もう片方は、私の後ろの男から。
先程から何者かにつけられている。
尾行を隠す気もない、わざとらしさまで感じる足音。
暗くて明確な姿はわからないが、体格の良いシルエットが見える。
心当たりはないし、ただひたすらに気味が悪い。
知り合いだったとしても夜道で男が跡をつけてくるなんて恐ろしいことに変わりはない。
早歩きで道を進めばぴったりと歩数まで合わせてその靴音が付き纏う。
鞄をぎゅっと握りしめて恐怖の中で震えながら息をする。
気持ち悪い、助けてほしい、誰か助けて。
そう念じながら、暗闇から逃げるようにひたすら足を早める。
そんな私の頭上でふと、何者かの声がした。
「お嬢さん、大丈夫ですか」
驚いて見上げれば、前方から現れた青髪の男性が心配そうにこちらを見つめている。
路地裏から出てきたのだろうか、足音もなく姿を見せた彼に警戒心を見せれば「落ち着いてください」と優しく宥められて。
彼の反応を見るに、どうやら私は相当ひどい表情をしているらしい。
彼に助けを求めるか、問題ないと巻き込まない選択を取るか――どちらにしてもうまく言葉が出てこない。
そんな私と、そして背後の男を見つけたのか彼は真剣な眼差しでこう切り出した。
「事情はわかりました。
 僕が表通りまで一緒に歩きましょう。
 そこまで行けば、シルバーメインが見回りをしているはずですから」
 まさに光明が差したと言えよう。
お願いします、と必死に頷いて彼の助けを得る。
状況を考えるのであればもう少し冷静になって彼も共犯ではないかと疑うべきであったが、今の私にその余裕はなかった。
差し伸べられた彼の手を取って、二人で夜道を歩く。
時折彼が気を紛らわせるように振ってくる会話に曖昧な返事をして。
そして表通りに出た時、背後にあの男の気配は無くなっていた。
「あの、本当にありがとうございます。
 コースキさん……
「サンポとお呼びください。
 ああ、お代は必要ありませんよ。困った時は助け合わなければ。
 そうでしょう?」
「いえ!それでは私が納得いきません。
 もしよろしければ連絡先を交換しませんか?
 お礼をさせてください……!」
 半ばもぎ取るように彼の連絡先を聞き出して、別れを告げる。
彼の言った通り表通りはシルバーメインが巡回中で、彼らに不審者の報告をして、見張られた明るい道を通り無事に我が家の扉を開く。
今日ほどライトが愛おしい日はないだろう。
リラックスできるハーブティーを一口飲んで、先程の男性について考える。
 サンポ・コースキさん。
彼との会話でわかったことは少しだけ。
彼は商人で、おそらく普段は愉快な人なのだと思う。
先程はそれどころではなく返事も碌にできなかったが、平常時であれば彼との会話はきっと楽しいものだっただろう。
――彼へのお礼は何を贈ろう。
いつしか思考はそのことでいっぱいになっており、次の休日の予定を確定させていた。

 

 そして日曜日、待ち合わせの場所へ向かう。
まさか、時間を取って会うことになるとは思わなかった。
メッセージによれば、お礼の代わりに頼み事をしたいという。少し怪しい気もしたが、恩人を相手に断るのも失礼な気がして話だけでもと予定を立てたのが今日だ。
仕事ばかりで中々着ることができなかったお出かけ用の洋服を着て、メイクをして、髪も巻いて――と「せっかくだから」を繰り返しているうちに非常に張り切った見た目になってしまった私を、サンポさんが笑顔で迎えてくれる。
「前と雰囲気が違いますね」
「あの時は仕事帰りでしたから」
 はしゃぎすぎだとは思われていないようだ。
ゆっくり話せる場所に行きましょう、と促されるままに表通りに面したおしゃれなカフェに入る。
それにしても、随分と静かに歩く人だ。
話振りはどちらかというと賑やかなのに、足音は全くと言っていいほど聞こえない。
席について、私がハーブティーを頼み、彼も同じものを注文する。
運ばれたそれを飲みながら、世間話もそこそこに例の頼み事について話を伺った。
「頼みというのは、これのことなんです」
 そう言ってサンポさんが取り出したのは綺麗なジュエリーボックス。
青いベルベット生地の底を除いた全ての面がガラスでできており、銀の装飾が施された、手のひらに収まる程度の大きさのそれ。
透明な蓋からツヤツヤとした何かが覗いている。
どういうことかと尋ねれば「これを預かってほしいんです」と言う。
ほぼ初対面に近い人間への頼みにしては奇妙だ。
恩人の彼を疑いたくはないが、危険物や盗品の可能性もある。
「これ、中身は何ですか」
「ご安心ください、怪しいものではございません!
 今ここで箱を開けて見てもらっても構いませんよ」
 言われるがままに手を伸ばして箱を開けてみる。
中に入っていたのは緑色の美しい宝石だった。
ターコイズのように不透明で、黒い菱形の模様が入ったやや大きめのもの。
ベロブルグで採れるものなのだろうか?それとも他の星のものなのかはわからないが、あまり見ない珍しい石だ。
何故か手元に置いておきたくなるような、不思議な魅力を感じる。
「大切な物じゃないんですか?なんで私に?」
ユメさんなら丁寧に保管してくれると思いまして」
 彼の意図が読めず質問を繰り返す。
この宝石は彼にとって大切なお守りのようなものらしく、商品の整理や拠点の移動などの際にこれをなくしてしまわないか心配なのだという。
だとしてもやはり私に預けるのは不自然だ。彼にももっと信頼できる友人はいるだろうし、なくさないようにする方法なんていくらでもある。
しかしせめて拠点の引っ越し作業の間だけでも預かっていてくれないか、と真摯な態度で頼み込まれ、結局最後は彼の困り眉に負けて引き受けてしまった。
「ありがとうございます。
 一目見た時からユメさんしかいないと思っていたんですよ!」
「サンポさんったら。あの時そんなこと考えてたんですか?」
「ああいえ、あの時はただあなたが心配でした。
 女性一人で夜道を歩くのは危険です」
 そう言うと彼はまた眉を下げて、心配そうな目でこちらを見つめた。
あの時も今も、深く交流したわけでもないのに随分とこちらを気に掛けてくれる。
商人という職業故に観察力が優れているのか、それとも彼の生来の優しさかはわからない。
だけど、助けられたこともあって私の中で彼は信頼したい、良い人の枠に入り込んでいた。
「先程も言いましたがその宝石、僕にとってはお守りなんです。
 あなたに預けている間はそれがあなたを守るでしょう!」
「心強いです。あんなことはもうごめんですから」
「そうですよねぇ。何かあったらまた連絡してください、いつでも相談に乗りましょう!」
 ハーブティーを飲み干して席を立つ。
今日はこれでお開きだ。預かったジュエリーボックスをそっと紙袋にしまって帰路につく。
――サンポさん。
謎も多いが、話しやすい人だった。
また会いたい。少なくとも、この宝石を返す際に会うことになると考えるとそれが楽しみでたまらない。
棚の上を整理してスペースを作り、ジュエリーボックスを飾る。
傷付けてしまったらと思うと先程のように蓋を開けることはできないが、それでもガラス越しに見える宝石が美しくて心を奪われる。
何より、恩人との約束の象徴でもあるのだ。
私にとっては何より価値のある宝石と言えるだろう。
サンポさんにまた会う日まで、こっそりと楽しませてもらおう――そんなことを考えながら、その日は眠りについた。


 あれから何日か経って。
寝ても覚めてもサンポさんのことばかり、なんてことはなく毎日仕事に出ては家に帰っての繰り返し。
しかし家に着けばあの宝石があると思うと少し心が弾んで、日常が色付いたのを感じていた。
今日も真面目に働いて、ヒールで帰り道を歩く。
 こつこつ、こつこつ。
裏通りに二人分の靴音が響いている。
片方は私のヒール。もう片方は、と考えて頭が真っ白になる。
あの靴音だ。わざとらしく、気付けとばかりに鳴らされるあの男の足音だ。
――どうしよう。
表通りに出ればシルバーメインがいるだろうか。しかし、それもかなり距離がある。
だからと言ってのんびりと歩くわけにもいかない。
恐怖心に負けて立ち止まらぬように、早歩きで明かりを目指す。
あの時のように都合よくサンポさんが助けてくれるわけではない。
逃げ切らなければ。
 こつこつ、こつこつ。
十分程度の道程が永遠のように長く感じる。
身体の震えが止まらなくて、頭から心臓が冷えたように苦しくて、妙な汗がだらだらと溢れ出る。
あの足音は一定の距離を保ったままどこまでも付き纏って、確実に私を追っている。
早く、早く、早く。
表通りの街灯が見えた時にはもう、一心不乱に走り出していた。
「助けてください!」
巡回中のシルバーメインに大声で助けを求める。
彼の仲間が男の影を追って夜の闇に消えていったのが見えた。
恐ろしかっただろう、もう大丈夫だ、と優しい言葉を掛けながら一人の兵士が私を家まで送ってくれる。
ああ、家に着いた。鍵も閉めた。もう大丈夫だ。
そう思って、呼吸を整えるためにソファに座った時だった。
――誰かが私を見ている。
 本能的にそう直感した。
家の中?いや、クローゼットの中は洋服でパンパンだし、風呂場にもトイレにも誰もいない。
ならば、外?
まさか、先程追ってきた男に家を特定されたのだろうか?
震える手でカーテンを少し捲って外を確認する。
人の姿はない。誰か覗いている、ということもなさそうだ。
「気のせい……気のせいだ、気のせいだよ」
 恐ろしい目にあったせいで少々過敏になっていたのだろう、自分を落ち着かせるために何度もそう繰り返す。
リラックスできるハーブティーを淹れても今はただの熱と香りを持った液体でしかない。
どうにかして恐怖心を取り払いたい。
そうスマートフォンに縋り付いて、彼の顔が思い浮かぶ。
サンポさん。あの時助けてくれた、優しいひと。
こんな夜に迷惑だろうか、だけど話だけでも……と悩んだ末に、メッセージの送信ボタンを押す。
怖い目に遭ったとは言えなかった。だけど彼と話せば落ち着く気がして、取り繕ったその言葉を送った。
相手もちょうどスマートフォンを見ていたのか返信は驚くほど早く、「何かありましたか?」とシンプルな言葉が通知欄に浮かび上がる。
どう返そうかと悩んでいると、続いて「電話しますね」というメッセージが表示され、着信音が鳴った。
「は、はい!ユメです……!さ、サンポさん、どうして」
「何かあったんじゃないかと思ったんです。
 前もこの時間帯でしたから」
「あ……ああ……!」
 心配して、わざわざ電話までしてくれたのか。
ぼろぼろと涙が溢れ出る。ここで泣いたらサンポさんを困らせてしまうのに、止めることができない。
突然泣き出した私を面倒臭がることもなく、その声で穏やかに宥めてくれる。
サンポさん。何故こんなにも優しくしてくれるのだろう。
……落ち着きましたか?」
「は、はい。ごめんなさい、いきなり泣いてしまって」
 恐怖心が消えて、じわじわと申し訳なさと恥ずかしさが湧き上がってくる。
この手の話は男の人からしてみればあまり実感が湧かないだろうに親身になって聞いてくれるなんて、彼はなんて親切な人で――そして、私はそれに甘えてばかりだ。
「また、つけられてしまって。家の中でも見られている気がして、怖くて」
「ストーカーの可能性がある、ということですね?」
「それは、その……そう、ですね」
「まずはシルバーメインに相談しましょう。あとは……
 無力な女一人、ストーカー男相手にできる対策など限られている。
この先もシルバーメインを頼る他ないだろう。
どこまで助けてくれるだろうか。落ち込んだ私の溜め息を遮るように、思いついたとばかりに彼が声を上げた。
「そうだ!ユメさんのお家にお邪魔してもいいですか?」
「家に、ですか?」
「ええ。男が出入りしている家だと思われればストーカーも迂闊に近寄れないでしょう?」
 確かに、それは説得力がある。
一人暮らしの女性というのは狙われやすいものだ。身近な男性の存在は防犯につながる。
願ってもない申し出だ。しかし、そんなに彼に頼ってばかりでいいのだろうか、と不安になる。
「でも……それだとサンポさんが危ないですよ」
「僕は大丈夫ですよぉ!それより、ユメさんが心配で心配で」
「サンポさん……
 やはり迷惑をかけてしまうのでは、いやそれより男性を家に招くなんて、とぐるぐる考えた後に彼に協力を頼もうと決める。
今の私にとって彼ほど安心できる人はいないのだ。
サンポさんなら大丈夫。そう信じて、お願いしますと伝える。
「それでは、今週の土曜日にそちらに向かいますね」
「ありがとうございます。えぇと、住所は……
「表通りの方でしたよね?」
「あ、はい!そうです」
「それでは週末に……ああ、そうだ」
 また何か思いついたように彼が話を止める。
どうしましたか、と聞けばあの宝石は手元にあるかという確認だ。
勿論あると答えると彼は笑って、やはりあなたに任せてよかったと言う。
それが少し照れ臭くて、私もふふ、と笑ってしまった。
「気が向いたら、あれを耳に当ててみてください。
 海の音がするんです。僕はそれをよく聞いていました」
「そうなんですか?不思議ですね」
「ええ、そうなんです」
 少しだけ他愛のない話をして、ではまた、と通話を終える。
サンポさんと話したことで恐怖心は消えて、それより彼を迎える準備をしなければと期待に胸を膨らませてしまっていた。
心配をかけてしまっているのに彼に会える日が楽しみで仕方ないのだ。
表通りのお店でお茶菓子や茶葉を買って、そうだ部屋も掃除しなければ。
 そんなことを考えながら、彼との約束の宝石を眺める。
――海の音がするんです。
その言葉が気になって、ガラス越しにそっと耳を当ててみる。
すると微かだが確かに水のような、泡のような音がする。
数千年前はこの星にも美しい海があったらしい。きっと、そこではこんな音がしたのだろうと想像してしまう。
サンポさんもこうして、この星では遠い存在となった海に想いを馳せたのだろうか。
少しだけ彼に近付いたような気がして、何度もその音を確かめた。



 楽しみにしていた土曜日なのに、心は鉛のように重い。
あの日以降もまた帰り道では足音がして、そして部屋の中でまで視線を感じる日が続いた。
今でも誰かに見られている気がする。
だんだん外に出ることすらも恐ろしくなって、昨日は仕事を休んでしまった。
サンポさん、早くサンポさんに会いたい。
あんなにおもてなしの準備をしようと息巻いていたのに、せっかく彼に会えるというのに今の私はとてもひどい顔をしている。
こんな姿では嫌われてしまうだろうか。せめてクマだけでもメイクで隠して、なんて考えているうちに玄関のチャイムが鳴る。
……はい」
「少し早く来てしまいました。
 ……顔色が悪いですよ?大丈夫ですか?」
「サンポさん……
 大丈夫、とは言えなかった。
いつ襲われるかもわからない恐怖の中で過ごしていて、胸が張り裂けそうだった。
シルバーメインは相談に乗ってくれたし、見回りも増やすと約束してくれたがそれでもあの男はついてくるのだ。
「お茶を淹れますね。ソファで寛いでいてください」
「ありがとうございます。
 そうだ!ケーキを買ってきましたよ。
 手土産もなしにお邪魔するわけにはいきませんからね」
「ふふ。ありがとうございます、ではお皿も出しますね」
 彼を見ると心が落ち着いたように思えた。
手渡されたケーキの箱を開けてみると、驚いたことに私の好きな店のお気に入りのケーキが二つ。
どうしてかと聞けば彼にとってもお気に入りだったそう。
それならばとっておきの、このケーキに合うハーブティーを淹れなければ。
病んだ心が喜びに満ち溢れて回復していくのを感じる。
やはり、サンポさんはすごい。彼に会うと心の底から安心できる。
「元気が出たようで何よりです!
 長い間行列に並んだ甲斐がありました」
「ふふ、人気ですもんね。ここのケーキ」
 いただきます、とテーブルの上に並べたケーキを一口食べて、口一杯に広がる甘みに目を閉じる。
――美味しい。幸せだ。
ちらりと向かいを見ればサンポさんも同じように目を閉じてケーキを味わっていて、その姿に愛おしさまで感じて、慌ててその思考を中断した。
彼をなんだと思っているのか、私は!
「いつもすみません、サンポさん。こんなに優しくしていただいて」
「いえいえ!構いませんよ。
 いつかあなたが最愛のお得意様になる日が来るかもしれませんからね」
「ふふ、そうですね。いつか商人としてのサンポさんにもお世話になれたら、と思います」
「それはもう、是非!いつでもお待ちしておりますよ」
 にこにこと手を揉む姿がいかにも思い描いた商人の姿で、思わず笑ってしまう。
助けられてばかりではなく、私も彼の生活の助けになりたい。
そうして顧客を増やしているとしたら大したものだ。
何を売っているかと聞いて返ってきた話では正直ピンと来なかったが、知らない世界を見にいくのもいいだろう。
しばらく彼の話に耳を傾けて相槌を打っていると、彼がふと「ところで」と話題を変えた。
……嫌な話になってしまいますが、ストーカーの方はまだあなたをつけ回しているのですか?」
……はい。家の中でもずっと、見られている気がして」
「今も視線を感じますか?」
「今は……大丈夫です。サンポさんがいてくれるからだと思います」
 サンポさんが来てくれてから、不思議と見られている気はしない。
私の激しい思い込みのせいなのか、それとも彼という男の姿を見て逃げ出したのかはわからないが。
「困りましたね。証拠が無ければシルバーメインも動きづらいでしょうし」
「証拠……あ、写真を撮ってみる、とか」
「いえ、それではユメさんが危険です。逆上して襲う、ということもありえるでしょう」
 恐ろしくなって口を閉ざす。
そうだ、根本的な解決はできていない。
ストーカー男が何を考えているのかわからない以上、油断はできないのだ。
何が待ち受けているのかわからない。女としての尊厳を奪われる暴行を受けるかもしれないし、命を狙われている可能性だってあるのだ。
「もう少し、一緒にいられたらいいんですけどねぇ」
「いえ、それはサンポさんに悪いです。こんなに時間を割いていただいているのに」
「気にしないでください、僕だってタダで動いてるわけではありませんよ。損は嫌いです」
……?」
 私を守ることが彼にとって得のある行動だとはとても思えなくて、その言葉に首を傾げる。
タダ働き以外のなんだと言うのか。そんな私を見て、彼は棚の上のジュエリーボックスを指差した。
「あれがあなたの手元にある限り、僕に損はありません」
「どういうことですか?」
「言ったでしょう?大切なものなんです」
 そう言うとサンポさんは席を立って、ジュエリーボックスを手に取って私の隣に座った。
距離が近くて驚いたが、彼に他意はなさそうだ。
蓋を開いて、彼がその緑色の宝石を手に取る。
黒い菱形の模様が入った、謎の多いそれ。
一体なんなのか、と聞いてもふふふと笑ってはぐらかされる。
「当ててみてください。
 そうしたら、真実をお話ししますよ」
「え?うーんと、そうですねぇ……
 様々な仮説を立ててみる。サンポさんの家に代々伝わる家宝だとか、彼の故郷でしか取れないものだとか。
そういえば、海の音がすると言っていた。まさか海から来たものなのだろうか?
サンポさんはそのどれも違うと言って、よく見てください、とその宝石を私の手に乗せる。
彼の手の中にあったにも関わらずひんやりとしていて、重さは見た目から想像できる程度。
特徴的な黒い菱形は自然にできたものなのだろうか。
それにしても、どこかで見たことがある気がする。
緑色の、綺麗なそれ。
――緑色。
……あ!」
 点と点がつながって、サンポさんを見上げる。
その目は緑色で、菱形の瞳孔が特徴的なのだ。
ああ、そうか!この宝石は彼の目と同じ色、同じ模様をしているのだ。
だから彼はこの宝石に特別なものを感じて、大切に扱っているのだろう。
そう結論を出して伝えると、彼は「惜しいですね」と笑った。
「本当に、あなたは僕を信頼してくださっているんですねぇ。
 嬉しくて涙が出そうです」
「それは、勿論ですよ。サンポさんですから」
「あはは!それではそろそろその宝石についてお話しましょうか」
 私の手からまたそっと宝石を取ると、彼はそれを自分の手に乗せて見せる。
やはり、彼の目にそっくりだ。そういえば天眼石というものもあるという。これはその一種なのだろうか。
そんな私の純粋な信頼を裏切って、彼は恐ろしい言葉を口にした。
「これは僕の左目ですよ、お嬢さん」
……え?」
 ぞく、と背筋が寒くなる。
冗談だろうか。だけど、それにしては彼の様子がおかしい。
そもそも彼には両目があるではないか、と彼の目を見て愕然とする。
長い前髪から見え隠れする左目。その白目の真ん中に、瞳がない。
そこには空洞ができていて、中から青緑の淡い色がうっすらと漏れて、時折泡のような白い光が見える。
おかしい。瞳がないだけでなく、血肉も見えていない。
「サンポ、さん?あの、どういう」
「ずっと、あなたを見ていましたよ。
 あなたと出会う、その前から」
 す、と彼の手が伸びて、私の頬を撫でる。
手袋越しのその手は水のように冷たくて、恐ろしくなって一歩後ずさる。
見ていた?左目?まさか、家の中で感じていたあの視線は――
 ここにいてはいけない、そう直感した。
この人は、サンポさんは人ではない。
まさか裂界の?いや、違う。もっと恐ろしい、何か。
弾け飛ぶように走り出して、裸足で家の外へと駆ける。
幸い私の家の前の道をまっすぐ抜ければ表通りはすぐだ。
あとはシルバーメインを探して、とにかく助けてもらおう。
 こつこつ、こつこつ。
あの靴音が聞こえる。振り向けば、愉しむような笑みを浮かべたサンポさんがゆっくりと歩いて追ってきている。
わざとらしい、私に知らせるような足音を鳴らして。
――ああ、そんな。
引き裂かれた信頼が悲鳴をあげて、ただ逃げろと警鐘を鳴らす。
足の裏が痛むのも構わずひたすら表通りへ向かって走る。
歩いて五分、走ればもっと早いはず。
それなのに一向に出口が見えない。
どうして、どうしてと周りを見れば、まるで水の中にでもいるように風景が歪んでいる。
「追いかけっこはおしまいですか?」
後ろからはまた一定の距離を保って、歩いたまま彼が追ってきている。
まるで、走らなくともすぐ追いつけると言うように。
「ひっ……!助けて、助けて!」
 すぐ近くの家の扉を叩く。返事はない。
路地裏に逃げ込んでも、今度はその先がぐにゃぐにゃと捻れて伸びていく。
それでも、ととにかく走って逃げて、やがて足は疲れ果て、息も上がって、動けなくなる。
「休憩にしましょう。ハーブティーを淹れませんか?」
「ひ、い、いや」
「あなたの大好きなケーキも、まだ食べかけではありませんか」
 ぽん、と肩を叩かれる。
捕まった。捕まってしまったのだ。
彼が抱きしめるように私の身体を支えて、足についた泥を払う。
その手つきは気味が悪いほどに優しい。
「なんで、なんで……
「言ったでしょう?
 一目見た時から、あなたしかいないと思ったんです」
「死にたくない……
「やだなぁ!殺したりなんてしませんよぉ」
 少し前まであんなに信頼していた彼の腕に抱かれているのに、今はこの状況が恐ろしくてたまらない。
ああ、あの靴音でわかった。私をつけ回していたのも、家の中でじっと監視していたのも、この男なのだ。
どうして、何の目的があって。
わけがわからなくて、また逃げようとしても腕の力が緩まることはない。
ただ彼の胸からはごぼごぼと、あの宝石と同じ海の音がしていた。
「僕はあなたと一緒にいたいだけなんです。
 ですが、あなたをあの冷たい海底に連れていくわけにはいきませんからね」
 その言葉の意味も理解できぬままに、私の左目の上からあの宝石があてがわれる。
彼が何をしようとしているのか。察して悲鳴をあげた時にはもう遅く、左目の視界が闇に染まっていた。
不思議と痛みはない。しかし恐ろしくてたまらない。
今私の左目には、あの宝石が捩じ込まれているのだ。
「いや、いや……や、やめて、やめてください!ひっ、ひぃっ……!」
「ああ、やっぱり埋め込んでも僕と同じにはなりませんか」
「なに、なにこれ、あ、あああっ……いやっ……!」
 海の音が聞こえる。彼の胸からではなく、私の頭の中から。
視界いっぱいに彼が映っているはずなのに、暗闇しか見えない。
冷たくて、寂しくて、気が狂いそうだ。
「ああ、この感覚は初めてですか。
 大丈夫ですよ、あなたには僕がいますからね」
 ぽんぽんと優しく背中を撫でられて、彼の胸にしがみつく。
彼こそがこの恐怖の元凶なのに、誰かに縋り付いていないと頭がおかしくなりそうだった。
まるで永遠の孤独の中にいるよう。それが彼の見ている世界だと理解して、涙が溢れ出る。
「ふふ。これであなたは、僕の一部です。
 もっと融け合って、ひとつになりましょうね」
その言葉を最後に、私の意識は途切れた。



 ごぼごぼと、海の音がする。
全身が冷たくて、寒くて、凍え死んでしまいそうだ。
はっと目を覚ました時、私はソファの上に転がっていた。
飲みかけのハーブティーもケーキもそのままで、サンポさんだけがいない。
悪い夢でも見たのだろうか。顔を洗いに行こう、と洗面所で鏡を見ると自分の顔に違和感があった。
――左目が緑色になっている。
まさか、そんな。現実だったとでも言うのだろうか。
あの悪夢を鮮明に思い出すと同時に、地獄のような孤独感に襲われて、息ができなくなる。
真っ暗で、誰もいない。腕も脚も上手く動かなくて、どこにあるのかわからない。
間違いない。この感覚は、彼のものだ。
「はぁ、あ、助けて、助けて、誰か……!」
 この緑色の目がいけないのだと、何度目を洗っても元の色には戻らない。
いっそ抉り出してしまおうか、と半狂乱で爪を立てたその手を誰かが優しく掴む。
誰か、なんて一人しかいない。
私をこんな目に遭わせた、サンポさんだ。
いつの間にやら背後に現れて、恋人を慰めるように私を抱きしめる。
「なんで、何で」
 恐ろしい。恐ろしいことに、彼に抱きしめられた途端この寒さが、恐怖が消えていく。
まるで自分の身体が彼とひとつになりたがっているかのように、優しい声が、腕が、ひどく愛おしくて。
震える手を彼の腕に重ねて、理性とは裏腹に心が口付けを求める。
その願いを見透かしたかのように、彼の顔が近付いて、唇が重なって。
「ずっと、僕がいますからね」
「う……うう、あ……ああああ……!」
 もう私は彼がいないと生きていけないのだと思い知って、涙が止まらなくなる。
彼のせいなのに。全て、彼が仕組んだ罠なのに。
彼に出会わなければよかった。頼らなければ。甘えなければ。縋らなければ。
そんな私をただ優しく抱擁したまま、サンポさんはにっこりと笑った。