昼下がりの城内の一室は、静かで穏やかな空気に満ちていた。戦の気配が遠のいた今、残されたのは山のように積まれた書簡と報告書ばかり。彩霞は卓に向かい、銀色の髪を耳にかけながら次々と目を走らせていたが、やがて小さく息を吐いた。
「ふぅ……」
その音に反応するように、向かいの席で筆を動かしていた于禁が顔を上げた。眉間の皺はいつも通り深く刻まれているが、彩霞の方を見た瞬間、その瞳にわずかな柔らかさが混じるのを彼女は見逃さなかった。
「ごめんなさい……目が疲れてしまって。少し休憩してもいいでしょうか?」
于禁は一瞬、書簡に視線を戻しかけた。しかしすぐに諦めたように「許可しよう」と短く答えた。彩霞は柔らかく微笑んで頷く。
「ありがとうございます」
彩霞はゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。穏やかに差し込む春の陽光が、彼女の銀髪を輝かせた。
「文則様も、いらしてください」
その声は穏やかで、どこか甘い響きを帯びていた。于禁の手が止まる。筆を握ったままの指先が、ほんのわずかに震えたように見えたが、彼はすぐにそれを隠すように筆を置いた。
「仕方あるまい」
立ち上がった于禁は、彩霞の隣へと歩み寄った。女性としては決して小柄ではない彩霞だが、長身の于禁が並び立つとその差は際立つ。
「春らしいですね」
「うむ」
外は遠くの木々が優しく揺れている。彩霞はゆっくりと、于禁の胸元に身を寄せた。柔らかな銀髪が于禁の鎧に触れ、彼女の体温がじんわりと伝わってくるのに、于禁の喉が小さく動いた。
「ぬ……」
少し驚いたような、掠れた声。けれど拒むことはない。彩霞は顔を上げて彼を見上げ、にこりと笑った。
「次は、文則様の番です」
「……軍務を放棄するわけには」
「今は二人きりです。誰も見ていません」
彩霞はそう両手を広げて、まるで子をあやすような仕草で彼を誘う。于禁は一瞬だけ目を細めたが、観念したように深い溜息をついた。
「彩霞……」
峻厳な常勝将軍の声が、誰にも聞かせたくない甘さを帯びる。彼はゆっくりと身を屈め、彩の胸元へと顔を埋めた。大きな体が折れ曲がる様子は、どこか不器用で愛おしい。
彩は両腕を彼の背中に回し、優しく抱きしめた。固い鎧越しにも伝わる、彼の体温と僅かに早くなった鼓動。
「文則様……今日はとてもお疲れのようで」
愛おしむ声に、于禁は顔を埋めたまま小さく唸る。
「……誰かのせいだ」
「嬉しいです」
彩霞は彼の前髪を指で梳きながら、ゆっくりと背中を撫で続けた。于禁は抵抗する素振りも見せず、ただ彼女の胸に預けたまま動かない。他者の前は決して見せない、完全に気を許した姿。
「もっと甘えてください。私、ずっとこうしていたいんです」
その言葉に、于禁の肩が微かに震えた。顔を上げられないまま、彼は掠れた声で呟く。
「それは……」
彩はくすりと笑って、問答無用で彼の頭を優しく抱き寄せた。窓から差し込む柔らかな光が、二人の影を長く伸ばす。軍務の喧騒も、戦の影も、今はこの小さな部屋の中には存在しない。ただ、互いを求め、互いに甘える時間だけが、静かに流れていた。
于禁の大きな手が、彩霞の背中にそっと回される。強くはない。けれど、確かに離したくないという意思が込められた抱擁。
「彩霞」
名前を呼ばれるだけで、胸が熱くなる。彩霞は彼の耳元に唇を寄せ、甘く囁いた。
「文則様」
于禁は返事の代わりに、ぎゅっと彼女を抱きしめる力を強めた。この瞬間だけは、常勝将軍でも峻厳な武将でもない。ただ、彩霞にだけ見せる、甘えた男の姿があった。
「そろそろ、仕事に戻りましょう」
彩霞の柔らかな声が、于禁の耳元で優しく響いた。于禁の腕が、名残惜しげにゆっくりと緩む。その瞬間――彩霞は于禁の顎をそっと指先で持ち上げると、迷いなく彼の唇に自分の唇を重ねた。
「……は」
柔らかく、けれどしっかりと。甘い吐息が交錯し、短くも深い、どこか意地悪な口付け。于禁の瞳が見開かれ、息を呑む音が小さく漏れる。彩霞はすぐに離れず、唇を軽く啄むように何度も触れさせてから、ようやく顔を離した。
「この続きは、夜に」
囁くような声は、甘く、誘うように響く。彩霞の真紅の瞳が細められ、悪戯っぽく光る。于禁は一瞬、完全に固まった。
「……っ!?」
喉の奥から小さく詰まったような音が漏れ、普段は決して崩さない厳格な表情が、みるみるうちに赤く染まっていく。耳の先まで朱に染まった顔を、于禁は慌てて逸らした。
「そ、そのような言……今すべきものでは……」
わざとらしく咳払いをする。だがその声は明らかに上ずっていて、誤魔化しきれていない。彩霞はそんな于禁の様子を見て、くすくすと喉の奥で笑った。
「文則様、可愛らしいです」
「何を言う……」
于禁は低く唸るように呟き、彩霞に回していた手を離して一歩後ずさる。だがその動きはどこか頼りなく、まるで逃げ腰のようだった。
「仕事に戻る、と言ったのはお前だろう」
「はい。でも、もう少しだけ……いいですよね?」
彩霞はにこりと笑って、再び于禁の胸元に寄りかかった。今度は両手を彼の腰に回し、ぎゅっと抱きつくように密着する。身長差があるせいで、于禁は自然と彼女を見下ろす形になる。
「嫌ですか?」
「……嫌と、私がいつ言った」
彩霞の銀髪に、于禁の顔が埋まる。そこから漂う、柔らかな花のような香りに、于禁は肩から力が抜けていくのがわかった。彩霞もまた、満足そうに目を細める。
「本当に夜まで……我慢、できますか?」
挑発的な言葉に于禁は顔を上げ、彩を真っ直ぐに見下ろした。赤く染まった顔に、いつもの厳しさはどこか遠く、代わりに熱を帯びた瞳が彩霞を捉える。
「善処、する。だが……」
于禁は彩の額にそっと口付けた。優しく、けれど確かに所有を主張するように。
「これ以上されると……私とて、難しい」
「ふふ」
今度こそ、彩霞の身体が離れた。于禁はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて息を吐いてから、卓へと戻った。座した途端、いつもの厳格な表情を取り戻そうとするものの、頬の赤みはまだ完全に引いていない。
「……早急に、処理を終わらせる」
低い声で呟くその言葉は、どこか焦ったような響きを帯びている。彩霞は書簡に目を落としながら、口元に笑みを浮かべた。
「はい、文則様」
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.