ぷの
2026-03-06 19:24:28
10713文字
Public レイチュリ
 

思い出の味の話

アベンチュリンの記憶に残る三つの味の話。

 これは、昔の夢だ。熱を出して寝込むと、アベンチュリンはよく幼い頃のことを夢に見る。
「ほら、飲んで。……さんが分けてくれたの」
 風邪をひいてきかなくなった鼻と舌でも感じる酸味が、腫れた喉を伝って落ちる。
 ミルクを発酵させて作るお酒は、家畜に仔が産まれた時にしか作れない貴重な栄養源だ。この家に家畜はいないから、よそで生乳か出来上がったものを買わなきゃ手に入らない。でも買うお金もない。分けてくれたと姉は言うけれど、実際は何かと交換したんだろう。労働力か、売り物にするために作った品物か。まぬけな弟が不注意で風邪なんかひいたせいで、姉は下げなくていい頭を下げ、余計な仕事を抱えた。
 姉にも飲んでほしい。看病のせいで風邪がうつったかもしれない。普段からたくさん働いて疲れている姉がもし倒れたら……考えただけで恐ろしくてたまらなかった。
「ぼく、いい。おね、ちゃん……
「さっき半分飲んだわ。残りは全部あなたのよ」
 姉に抱き起こされて寄りかかっている体は重だるく、全然いうことをきかない。口に当てて傾けられた器から、唇に触れるお酒をむせないようにちびちびとすする。ゆっくりね、と言い聞かせる姉の声は微かに震えていた。
「早く元気になるんだよ」
 うん、という短い返事すら喉にひっかかった。声を出し損ねて咳き込む。横でうるさくしたら姉が眠れない。我慢したいのに、喉が火傷したみたいに痛んで止まらなかった。喉だけじゃなく頭も節々も痛い。とり憑いた悪いものと体が全力で戦っている。
「大丈夫、そばにいるからね。マザーにお祈りして寝よう」
 口の周りを綺麗に拭かれ、また床に寝かされた。姉は小声で子守唄を歌いながら、天幕に設けた窓から差し込む星明かりで内職を始めた。水仕事と針仕事で荒れた手が迷いなく動く。
 マザー、お願いです。お姉ちゃんをお守りください。
 小さなアベンチュリンの祈りはいつも同じだった。地母神の祝福は都合よく働いてはくれない。それでも、あの星で縋れるものは神しかなかったのだ。


 なんと、今日の夢は入れ子だった。眠って目覚めたと思ったら、今度は数年前の記憶が出てきた。
 枕元から伸びた手がアベンチュリンの額に触れて離れるところだった。寝室の明かりが落とされていてよく見えず、一瞬さっきの夢の続きと間違えた。
 水仕事なんてしたことがないと言われても信じそうな美しい指先は、不思議と記憶にあるものと似ている。だけど、これは姉じゃない。アベンチュリンの命を握った商人の手だ。美しく塗られた爪を見て感じた落胆が顔に出てしまったかもしれない。暗くて見えなかったことを祈ろう。
「君、忙しいんだろ。僕のことは病院に放り込んだらどうだい? あ、貯金はまだないんだ、入院費用はツケで頼むよ」
「その様子では、まだあなたを表に出すには早いわね。自分でもお行儀がいいとは言えないでしょう」
「ははっ、飲み込みが悪くて迷惑をかけるね」
 ピッ、と非接触の体温計が音を立てる。病人は大人しくしていなさいと言い聞かせるように数値を読み上げて、ジェイドは体温計をケースに戻した。
「高熱が出ていても威勢がいいこと。迷惑料はいずれきちんと出世払いしてもらうわ」
「出世ねぇ。僕の軟弱ぶりを見て投資を後悔してるんじゃないかい。先に謝っておこうか?」
 芝居がかった咳払いをひとつ。腫れた喉が痛んだ。顔をしかめながら開こうとした口は、引き上げられた上掛けの下に埋もれた。
「おしゃべりはそこまで。治ったら謝らせてあげるわ。今は寝なさい」


 今アベンチュリンは、レイシオに看病されている。これは夢じゃなく現実だ。風邪をひいて仮眠室でダウンしていたらなぜかレイシオがやって来て、なぜか医務室ではなく彼の家に搬送されたのだ。
 「仕事が」とか「迷惑をかけるわけには」とか言ったつもりが喉がやられて声が出ず、力が入らない体はぐにゃぐにゃで座っていることも難しかった。そんなありさまでレイシオの馬鹿力に敵うわけがない。
 担いで運ばれてベッドに放り込まれ、薬と水を与えられて一晩こんこんと眠った。びっしょり汗をかいて目覚めたら体が楽になっていた。
 相変わらず声はろくに出ないけど、喉の痛みはかなり引いた。ありがたいことに、カスカスの声でも共感覚ビーコンのおかげで問題なく意思の疎通ができる。ただ、いつもよりまっすぐレイシオを見て口を動かし、レイシオからもじっと見られているのが気恥ずかしい。
「こう見えて鍛えてるんだ。熱くらいすぐに下がるよ」
「平熱まで下げてから言え」
 どうだと胸を張ったアベンチュリンの額に非接触の体温計をかざしたレイシオは、数値を見て呆れ成分多めの溜め息をついた。
「まだ高かったかい? シャワーを浴びたいんだけど」
 汗を流してさっぱりしたい気持ちを人一倍わかってくれるレイシオである。熱を理由に渋られたものの、アベンチュリンをベッドから立たせて動けることを確認すると、バスルームの使用許可が出た。
 風呂上がりにキッチンに呼ばれ、カウンターのスツールに腰掛けて出された水を飲む。火照りが引いたところでレイシオのカーディガンを渡された。パジャマ代りに用意されていた薄手のシャツと同様に、大きくてどこもかしこも余る。手が出ない袖口をぼうっと見ていたら、レイシオに袖を折られた。
 まるで子どもだ。細かなことまで世話をさせて申し訳ないと思いつつ、自分でするのが当たり前のことを人にしてもらうのは、大切にされてるみたいで心地良い。少し大袈裟に言えば、生きていていいのだと感じて安心する。
「ついでに腹に何か入れて薬を飲め。今あるものになるが……パン粥はどうだ?」
 レイシオの口から出てきたメニューをアベンチュリンも真っ先に思い浮かべていたので、驚いた。
「共感覚ビーコンって頭の中も覗けるのかな? 僕がピアポイントで暮らし始めて最初に覚えたのがパン粥でさ、外食に慣れるまでよく作ってたんだ」
 教育というものを受けてこなかったアベンチュリンに人並み以上の知識を叩き込むため、ジェイドはピアポイントに専用の仮住まいを用意した。窓外の景色から日々の食材まで上質なもので満たされた住処は、生活のすべてが教材だった。
 ときどき学習の進捗をチェックしに来ていたジェイドは、どんなに上手く隠したつもりでもアベンチュリンの不調を見破った。きっちりお説教を食らって滅入ったところに彼女が作ってくれたのがパン粥だ。与えられたプログラム以外で習った唯一の料理だった。
「レシピは?」
「シンプルだよ。ヤギのミルクにパンを入れて軽く煮込むだけ。味つけはコンソメと塩コショウ」
「牛乳ではなく?」
「今は平気になったけど、前は牛乳を飲むとお腹を壊したんだ」
「そうか」
 調理をするためにレイシオが背を向けてしまったので、おしゃべりは中断だ。
 アベンチュリンは起きてからずっと聞きたいことを口に出せずにいる。いつもなら雑談に混ぜてなんてことないふうに話題にできるけど、しっかり顔を見られながらじゃ誤魔化しがきかない。
 ――どうして君が駆けつけてくれたんだい?
 今回の風邪は朝に違和感程度だったものが午後から一気に悪化した。仮眠室で少し休むと知らせたのは、数人の部下たちだけ。
 まさかレイシオに連絡が行くと思わなかったし、アベンチュリンが体調を崩したと聞いたところで、せいぜいお小言をメッセージで送ってきて終わりだと思っていた。ところが、レイシオはアベンチュリンが仮眠室に引っ込んで早々にやってきて、問答無用で自宅に連れ帰った。部下たちがレイシオに協力的だったところを見るに、知らせたのは彼らで間違いない。
 一体どういう風の吹き回しでアベンチュリンを看病すると決めたんだろう。もしかして厄介な病気なのかと疑ったけど、風邪と診断したのはレイシオだ。たかが風邪なら仕事のはずがない。かといってプライベートではレイシオに何一つ得がない。
 アベンチュリンがぐるぐる考えている間に手際よく作られたレイシオのパン粥は、自分で作るよりずっと手が込んでいるように見えた。まず、パンが高級そうなバゲットだ。仕上げにパセリまで散らしてある。
「わお、お店みたいだね」
「君のレシピに寄せてコンソメスープをベースにしている。牛乳を入れているが、その程度なら腹の負担にならないはずだ。飲みこめるか?」
「平気だよ。お気遣いどうも」
 こんなふうに気遣われたら、浮かれずにいるのが難しいじゃないか。ここで世話になっている時点で戦略的パートナーの分は超えている。あとは友人の分を超えないよう、レイシオに傾いていく気持ちを戒めなきゃいけない。体調不良で弱った足場は今にも雪崩ていきそうにゆるんでいるけど。
 パン粥は想像通りの優しい味わいだった。出された一杯をぺろりと平らげたら、デザートにヨーグルトが出てきた。
 一口食べたアベンチュリンは手を止めて、どことなく懐かしい味に頬をゆるめた。不思議なものだ。ヨーグルトなんて何度も食べてきたのに、風邪で鈍くなった舌で味わったことで、今まで忘れていた記憶の扉が開いた。
「どうした? 食べるのが辛ければ無理せず残せ」
「あ、違うんだ。子どもの頃病気をしたとき、似たようなものを飲んだのを思い出して」
「ほう」
 話す前に食べてしまえと促されて、アベンチュリンは小瓶から小さく一匙ずつ掬ってせっせと口に運んだ。冷たいのどごしが熱を奪って気持ちいい。これもぺろりと平らげ、薬を飲んで一息ついてから、もうずいぶん遠い過去のことに感じる故郷の記憶を辿った。
「故郷で体調を崩したときに飲んだのは、ミルクを発酵させて作ったお酒なんだ」
 町に行けば強いお酒が売られていたけれど、生活に必須じゃないものにはなかなか手が出ない。買う前にまず作るのは、貧しい少数民族の常だった。
 アベンチュリンが昔を思い出しながら説明すると、レイシオは興味をひかれたようだ。
「乳酒か」
「そう。僕のところではヤギのミルクを使ってた。馬のミルクを使う集落もあったかな。砂糖は貴重品だからミルクの甘さだけでね。大人が飲むために作るんだけど、栄養があるから食が細い子どもにも与えてた」
 あの厄介な岩と砂の星は、天候に恵まれるということがほとんどない。餌が足りずに母ヤギの乳の出が悪いこともあれば、うまく発酵せずに腐ることもあった。毎年決まった量ができるわけじゃないうえに、日持ちしないから短期間でどんどん飲んでしまう。期間限定の大人の贅沢だ。
 滅多に体調を崩さなかったアベンチュリンは数えるほどしか飲んだことがなく、当時の味をはっきりとは覚えていない。すっぱかったことと、ほろ酔いになって眠くなったことが印象に残っているくらいだ。
「何を酒母にして発酵させていたんだ?」
「たしか、前に作ったお酒を使うって聞いた」
「なるほど」
 そう言って考えこんだレイシオは、顎に手を当ててどこか遠くを見ている。アベンチュリンは食後の白湯をちびちび飲みながら、レイシオが帰ってくるのを待った。
「飲んでみたいかい?」
「ああ。だが、売り物を見かけたことがない」
「うん、僕も。売ろうにも儲けが見込めないんだろうな。アルコールなしで飲みやすくアレンジしたものや、蒸留酒を足したものならあるけど」
 そうなってしまっては別物だ。かといって気軽に作ってみることもできない。ピアポイントでは、お酒の醸造は免許がなければできないのだ。
「そのうちどこかで試せるといいね」
「そうだな」
 レイシオはさほど期待したふうでもなく頷いた。だからアベンチュリンはてっきり、話はそれで終わったと思っていた。


 アベンチュリンの風邪が治ってしばらく経ったある日、レイシオの個人所有の艦船に招かれた。位相霊火で直接連れてこられたその船は、少々特殊な人工星に停泊しているという。
「どうしてそんなところに」
「酒を作っているからだ」
 アベンチュリンは呆気にとられて船内を見回した。ときどきレイシオの行動力に驚く。スピード感もだけど、それ以上に手段の規模感がおかしい。
「ふーん、法律がゆるいんだ。危なくないよね?」
「問題ない。安全対策の費用も込みで停泊料が高く設定されている」
 金持ちの道楽用の施設というわけだ。窓から外の景色を見て、アベンチュリンは場所のあたりをつけた。
 乳酒の話をしたときから、レイシオは自分で作ることを考えていたそうだ。だけどピアポイント同様、レイシオが拠点にしている星でも免許なしに酒を醸造するのは違法だ。一度やってみたいというだけでわざわざ許可を取ったり、普段寄りつかない場所に拠点を増やすのは面倒である。
 そこでレイシオは居住艦を買い、停泊する場所を選ぶことで法の問題をクリアした。艦船内に適用される法は、航行中は船を登録している星に従い、停泊中は滞在している場所の管轄に従う。
「そんな理由でポンと船を買う発想がね……。中古とはいえ、どう見積もってもその辺の家より高いじゃないか。それに、かなり手を入れたんだね。内装が新しい」
「キッチンを整えたついでだ」
 個人向けの小型の居住艦でも一人で使うには十分に広い。威圧感を上手く隠し、狭さをおこもり感に昇華した居心地のいい空間に仕上がっている。レイシオのことだからきっと、キッチンだけでなくそれなりのバスルームと寝室も備えていることだろう。長期滞在が可能で気分で場所を移せるなんて、趣味用の拠点として理想的かもしれない。
 艦内をざっくりと案内されながら、アベンチュリンはここを制圧するならどう攻めるかということを考えていた。つまらない職業病だ。船ごと手に入れてレイシオを監禁したら、衣食住が整った環境で宇宙の宝の頭脳を飼い殺しにできる――べつに楽しくないな、そういうのはアベンチュリンの趣味じゃない。レイシオはのびのびと楽しくやってる様子をすぐ横の特等席で眺めるのが一番だ。今してるみたいに。
「それで、肝心のお酒は完成したのかい?」
「これから開封する。君にも味をみてもらいたい」
「ご相伴にあずかれるとは光栄だね」
 到着したキッチンはカンパニー製のビルトインで、アベンチュリンも勝手知ったるものだ。ただし、一般的な居住艦に入れる個人向けより大がかりな業務用である。これを小さな船に詰め込むには、水や空気の循環から燃料の配管に至るまできちんと設計しなければならない。どうやら改装なんてものじゃなく、改造レベルで手を入れたらしい。隠れ家的なレストランでも始めるつもりだろうか。
「この船、要らなくなったら僕に買わせて」
「売る予定はない。君になら貸そう」
「それはどうも。レンタル料は友情価格にしてくれると助かるよ」
 レイシオはアベンチュリンをカウンターテーブルに着かせ、保温庫から小ぶりなポリ容器が並んだケースを取り出してきて目の前に置いた。
 まずは一本目。蓋が開くと、懐かしい香りがした。アベンチュリンは促されて容器を上から覗き込んだ。中には白く泡立った液体が入っている。
「これこれ。混ぜるの大変だっただろ?」
「蓋をして振るだけだ。機械がやる」
 レイシオの説明によれば、ベースはヤギの生乳で、酒母は工業的に作られた乳酸菌などを調合したもの。温度管理も混ぜるのも機械任せだ。
「工場みたいじゃないか。手作りの達成感があったのか疑問だなぁ」
「材料や手間のかけ方を変えて試作するために条件を揃える必要があった。達成感は十分に得ている」
 陶器の平盃に最初の乳酒を注いで渡された。赤褐色の釉薬に白が映える。一口含むと、まだ発酵しているお酒の柔らかな炭酸が舌に触れた。レイシオのお手製は雑味が少なく、記憶よりずっと丸い味だ。
「少し甘いんだね」
「それは出来たてだからな。さらに発酵が進めば糖分が分解されて甘さは消える。一つ一つ菌や発酵具合を変えていて、飲み比べれば風味の違いがわかるはずだ、君の記憶に近いものがあればいいが」
「えっ、まさか、昔僕が飲んだものを再現するためにいくつも試したのかい?」
「ああ。君の思い出の味を知りたくなった」
 アベンチュリンはびゃっと跳ねた心臓をぐっと押さえこんだ。待て待て落ち着け、今のは本場の味を知りたいという意味だろう。人を勘違いさせる言い方はやめてほしい。
 ケースに並ぶポリ容器に目を落とす。やり方を少しずつ変えて二ダース、凝り性とは恐ろしい。何種類も作り分けたのは、てっきりレイシオが自分好みの味を探すためだと思っていた。いくつか摘まんで飲ませてもらおうと暢気に構えていたのに、一気に味見の責任が増してしまった。
 レイシオは作り方の説明をしながら、干された二つの盃に次々とお酒を注いでいく。ケースの容器を順番に開けて試す様は商品開発のようだ。一つずつよく味わうと、なるほどそれぞれ微妙に違っている。故郷で飲み比べたことはないけれど、作る家によって味が違うとは聞いていた。
「初めて飲む人の感想を聞きたいな。君の口には合うかい?」
「体に良さそうだ」
「ははっ、正直」
 かくいうアベンチュリンも、食べ物に困らなくなってから舌が肥えてしまった。それでも素朴な味を美味しく感じるのは、慣れと思い出補正が大きい。
 自分の舌で味を確かめ、アベンチュリンの感想と合わせてメモをとっているレイシオは、研究家の顔になっている。思い出の味を知りたいと言ったわりに、アベンチュリンに昔話をさせようとはしない。人の柔らかいところをむやみに踏み荒らさない優しさがレイシオにはある。
 期待に応えられないことを申し訳なく思いつつ、アベンチュリンはその優しさに甘えた。昔のことは、まだ冷静に話せるほど心の整理がついてないことばかりだ。
 そうしてお酒と口直しの水を交互に飲んで、だいぶお腹がふくれてきた。
「アルコール度数が低いとはいえ、たくさん飲むと酔いそうだね」
「次で終わりだ」
 手渡された最後の一杯は、鼻を近づけるとどれよりも酸味が強く香った。口にした瞬間、アベンチュリンはぱちぱちと瞬いた。
「あ……
 ふと、やわく自分を抱く姉の体温がすぐそばにあるように感じられた。一瞬のことだ。それでも、こっそり唇の内側を噛んで堪えなくちゃならないくらい胸が軋んだ。
 今ならわかる。姉はもらったお酒を半分飲んだと言ったけれど、優しい嘘だった。もし姉が倒れてアベンチュリンが看病する側だったら、同じ嘘をついただろう。
 父はアベンチュリンが生まれる前に、母もそれから数年のうちに亡くなった。衣食住だけでなく、生きるための知恵も、人に優しくする方法も、アベンチュリンの基礎はみんな姉がくれたものだ。ただでさえ名前で悪目立ちするうえに無鉄砲な弟を抱えて、どれほど大変な思いをしていたことか。だけど、姉はいつだってアベンチュリンを第一に据え、何より大切なものとして守ってくれていた。
 たった一人の家族だった姉の存在は、アベンチュリンにとってなによりも大きかった。頼りきりになっているお返しに、何かひとつでいいから姉だけのものをあげたかった。だけど姉は、小さな弟からのプレゼントすら二人のものにした。食べ物も、花も、綺麗な石も、人からの感謝も。あの人は、自分のものは何もかも弟に分け与えると決めているようだった。
 それが家族への愛か、それとも神に祝福された子への捧げ物だったのか、知るすべはもうない。最後には一緒に砂に埋もれるはずだった命をつながれて、結局もらうばかりのまま亡くしてしまった。
 この手にたったひとつ残された最期の願いを叶えたい。
 姉から託された計略を完遂するのだ。そのためにアベンチュリンは生かされたのだから。
「どうした?」
 目の前で大きな手がひらりと舞い、アベンチュリンの意識を呼び戻した。心配そうにこちらを覗き込むレイシオの顔がかつての姉の表情と重なり、カードをシャッフルするように記憶がパラパラと無秩序に流れて、また別の一場面が脳裏をよぎった。
『いつも僕ばっかり。お姉ちゃんはどうしたら嬉しいの?』
『それじゃ、遠慮なく』
 そうだ、すっかり忘れていた。本当にささやかだったけど、姉にあげられたものもあった――あったと思いたい。ほっぺたを揉みほぐされて、親指で口角をぐんと持ち上げられて、変な顔になるからやめてと声を上げて笑った。あのときたしかに、姉は嬉しそうに笑っていた。
 アベンチュリンは過去の幻から顔を上げ、レイシオの目をまっすぐ見て微笑んだ。思い出に引っ張られて崩れた笑顔にならないよう、少しだけ格好をつけた。
「ありがとう、レイシオ。これ、昔飲んだ味にすごく似てるよ」
「そうか」
 レイシオの口元にも柔らかい笑みが浮かんだ。
 姉の教えは正しい。本物の笑顔ってやつは、心の奥の喜びを感じるところに深々と刺さるのだ。
「よりによって目分量で大雑把に作ったものが当たりとはな。まあいい、一度で引き当てたことをよしとしよう。次回はこれを酒母にする」
 次回ってなんだ。近いものができたんだから十分じゃないのか。凝り性にもほどがある。
 もし姉が生きていたら飲ませてあげたかったな。この場に彼女がいたら、アベンチュリンと一緒に昔を懐かしんでくれたと思う。
 せめて墓所に供えられたらいいのに。故郷の星系に接触することを禁止されているアベンチュリンは、両親を埋葬した場所に行くことができない。姉に至っては遺体がどうなったかさえわからないままだ。
 いつか、すべてが片付いて故郷に帰れるときが来たら。寝酒に一杯分けてくれと、レイシオに頼んでみよう。
 そんなことを考えていたら、レイシオからの頼まれごとが降ってきた。
「帰りにこれと同じものを預けるから、君から渡してくれないか」
 レイシオはメッセージカードを取り出してサラサラと書きつけた。『約束の品』の一言と、最後に開けた容器に貼られたラベルの番号だ。
「誰にだい?」
「ジェイドへ。情報提供の見返りに」
「情報って、僕について?」
「いいや、君の故郷の自然環境についてだ。一口にヤギと言っても様々な品種がいて、生育環境によってミルクの味も変わる」
「そんな細かいところから……仕事以外でも教授は教授だねぇ」
「細部に拘るという意味なら同類がもう一人いるようだが。ジェイドは親切にも、近縁種のミルクが買える牧場を教えてくれた」
 仮住まいに定期的に運ばれていた食料品も大半が教材で、ジェイドの指示のもと手配されていた。その中に当たり前にあったヤギのミルクは、賞味期限だけを印字したそっけない容器に詰められていた。
 世間知らずのアベンチュリンは、あの住処を出て一人で暮らしはじめてから知ったのだ。ヤギのミルクは牛乳ほど流通していないことを。それから、あのそっけない容器のミルクがアベンチュリンには買い付けられないことも。
「あのさ、もしかしてジェイドって不器用なのかな?」
「僕に聞くな。彼女のことは君の方が理解しているだろう」
 空いた盃二つに当たりの容器からおかわりが注がれた。レイシオはアベンチュリンの手の中の盃に自分の盃のふちを当てた。
「君の思い出に」
「教授の……好奇心に」
 アベンチュリンが選んだ言葉に、レイシオはフッと笑った。
『大きくなったらわかるわ』
 また一つ記憶の扉が開く。滑りをよくするお酒のおかげで今日は大盤振る舞いらしい。顔形はまるで別物なのに、レイシオの今の表情は姉によく似ていた。大人の顔をしてもったいぶるときの憎たらしい笑い方に。
 アベンチュリンは思わず子どもっぽくむくれた。
 看病だって、このお酒だって、どう考えても仕事仲間や友人にしては踏み込みすぎだ。これが他の誰かなら、世話になったり誘いに乗ったりしない。レイシオだから警戒心がバカになるのだ。アベンチュリンの方はもう答えが出ている。
 なら、レイシオは? 思わせぶりな行動を意識してるんだろうか。そんなつもりじゃなかったと引くための言い訳をあげたのに、笑うなんてさ。
「いいかいレイシオ、僕は察しが悪いわけじゃない。君に合わせてあげてるんだ」
「ほう?」
「疑うなら試してごらんよ、お酒を作り分けたみたいにさ」
 お酒を飲み干すと、平盃の底を彩る緑色の結晶釉が見えるようになる。加工前の原石のような複雑な模様が綺麗だ。試飲をするだけなら器なんて安物でいいのに、こんなものまで用意して。
「僕はこの前の看病と今日のお酒のお礼がしたい。なんでもいいから言って。君は僕から何をもらったら嬉しい?」
 声が出なかったときのようにレイシオの目を見つめ、まっすぐに問う。
 顎を撫でて考えること数秒。レイシオは盃をカウンターに置き、アベンチュリンのものも取り上げて横に置いた。それから、口の前に人差し指を立てた。黙って聞けってことかな。アベンチュリンが頷くと、その指をゆっくりとアベンチュリンの顔の前に近づけて止める。
 唐突にスッと横に引かれた指につられて顔を横に向けたそのとき、レイシオが体を屈めてアベンチュリンの頬にキスをした。
 吹きかけられた吐息が頬をくすぐる。レイシオはくつくつと肩を震わせてカウンターに肘をつき、顔を伏せた。初めて見るレイシオのいたずらにときめいた心臓がまた大きく跳ねた。手のひらで押さえた頬が熱い。
「もしかして酔ってる?」
「酔っていない」
 顔を上げたレイシオにはまだ笑いの余韻が残っている。鋭い可愛らしさがアベンチュリンの心の弱点をざくざくと切り刻む。
「ねえ、僕はお礼に何が欲しいか聞いたんだけど?」
 レイシオは顔を傾けて、アベンチュリンに頬を差し出した。
「今やってみせただろう。僕に礼をしたいなら、ここに」
 トン、と指先で自らの頬を叩く。アベンチュリンは示された場所に唇を寄せた。ゆっくり押し当てて離すと、レイシオの指が今度は自分の唇を叩く。
「これがお礼になるんだ?」
 レイシオは無言でトン、ともう一度唇を叩いて催促した。
 いいかいレイシオ、先にふざけたのは君だ。アベンチュリンはいたずらっ子の顔でにんまりと笑い、その指を追いかけて先端にぱくりと噛みついた。
 その指が、口を開かせるための罠とも知らないで。