二卵性
9725文字
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いつか星を描く致命傷1

人間って結構命を賭けられるらしいと気づいてしまったヌさんが公爵の傷痕を見て暴走する回(ヌヴィリオ)


首を縦に走る傷痕を見て、ぞっとした。
それは、致命傷になり得たに違いなかった。



ヌヴィレットが――水の龍王が、生命の危機というものを感じたことはない。
人の姿で生まれたとて、中身も権能もまったく人のそれではない。水中を漂うことも陸上を歩くこともできるわけだが、水陸の呼吸が同じものかはわからない。そもそも呼吸という行為を必要としているのかも、考えても意味がない事柄だ。
傷を深くすることはない。病を得ることもない。日が沈み、夜が明け、空が白むまで執務室に座っていることが苦ではない。法を犯した者に悪し様に罵られても、かつての部下に糾弾されても、精神的に蝕まれることもなかった。
日々は淡々としている。
投げ入れられた小石が生むさざなみは、大海のごく一部にしか伝わらない。
大きな揺らぎとうねりが生じたのは一度きりで、しかしそれがもたらしたのは権能の返還だ。つまり、ヌヴィレットは今まで以上の超常の存在となった。

対して、人とは脆く傷つきやすい存在である。
五百年を共にしてきたフリーナですらそうだった。死が訪れることがないとしても、幕が引かれるその日までスポットライトを浴びてきた彼女の精神状態がひどく危ういものだったことを目の当たりにした。
肉体的な損傷が死に直結する只人であれば、なおさらだ。
老いれば死ぬ。傷が深ければ死ぬ。血が流れすぎれば死ぬ。病に罹って死ぬ。栄養が足りずに死ぬ。息ができずに死ぬ。水に溶けることだけはなくなったものの、それ以外にも数多の死因があることはヌヴィレットも知っている。
そうして自身が損なわれることを、生命の原理として、誰もが恐れているはずだった。
生命の危機があれば、生きている者はそれを回避しようとするはずだ。死を恐れてなお、自ら断頭台に首を晒す者がいるはずがない。――人であれ、神であれ。
ヌヴィレットは人の死に対する恐怖がわからないが、そう考えていた。

――五百年の審判を経て、その考えは変わることとなった。

認識できていなかっただけで、その覚悟で決闘を選んだ者は何人いたのだろうか。あるいは、裁判の前に死んだ者は?命よりも大切なもののために、命と等しきすべてを擲った者は?
過去に問いかける。記憶と記録を辿る。審理記録上の事実の列挙とヌヴィレットの記憶の客観性には大きな差異は見受けられなかったが。
それでも、知るべきだと思った。ひときわ強い感情で、己が正義を成す者のことを。天地が終わるその時まで、審判を下す最後まで、もっとも高い位置に座する最高審判官は知っているべきだ。歳月が積もらせる塵となり、もはや誰一人覚えていない出来事となったとしても。



白亜の下の執務室に古い紙の匂いが沈んでいる。高く聳えるステンドグラスから射し込む日光を避けるように、机の上には数えきれないほどのバインダーが置かれていた。
その中心に立つ男は、アンティークの調度品のような趣があった。飴色に磨かれた机のように重厚で、百何十年前の陶磁器のように繊細で、年代物のワインのように沈着である。うつろう歳月は彼の美貌に磨きをかけているに違いなかった。

ここのところのヌヴィレットは、過去の審判記録を頻繁に見返しているようだった。パレ・メルモニアにおいて、審判記録の保存期間は永久だ。紙が朽ちる前に書き写す職員がいるくらいなので、五百年前からの記録がすべて残っているのかもしれない。それこそ石板にでも書き写した方が手間が省けるんじゃないだろうか。歴史の探究に興味を持つ者のはしくれとして、古い文献が残っていることは有益であると、リオセスリは信じている。
さて。ヌヴィレットがどうして過去の審判記録を見返すようになったのか、リオセスリは知らない。
水の上で会談をする際、ここ数年の相手はほとんどヌヴィレットだった。リオセスリの身分が――メロピデ要塞の管理者という肩書と公爵という地位のどちらかはわからないが――そうさせているのか、正直ありがたいことこの上ない。リオセスリの望みは、なるべく水の上の人に知られないことだ。すべての判断ができる相手が対面に座っているのなら、それ以上に都合のいいことはなかった。
そんなわけで、それなりの頻度で最高審判官様の執務室に招かれることになるリオセスリだったが、彼がこの古い紙の匂いを漂わせはじめたのは、あの洪水の後からだったと記憶している。
「何か調べものかい?」
「そんなところだ」
最初に打った軽いジャブはそんな言葉で躱された。「事件の調査等ではないので安心してくれていい」とお墨付きももらったので、その線も却下。新しい法律でも制定するつもりかと思ったが、検律庭が関わっている様子もなかった。
となると、単純に、個人的な調べものだろうか。
公平無私の最高審判官様の個人的な調べもの、というとなんだか密やかな響きがする。ただし、相手はあのヌヴィレットであるから、結局のところ職務につながるのだろうとリオセスリは思っていた。

その日のヌヴィレットは、どこか余裕のない様子だった。
報告すべき事項、確認すべき取引が終わり、紅茶でもいかがか、と声をかけられて断らなかったのは、そのせいだ。ヌヴィレットを思いつめさせるようなことなら把握しておくべきだと思った――そういった、利己的な思考で。
お茶の時間、リオセスリはソファに座るが、ヌヴィレットは執務机が定位置だ。休憩できているか怪しいのだが、分厚い壁のように思えて、リオセスリが指摘したことはない。そう、これは、最高審判官様が万人の前でとる適切な距離なのだ。
審判席と被告人席と同じような距離だ。あるいは、水の上と下の。
「ところでヌヴィレットさん、何か悩み事でもあるんじゃないかい」
「ふむ。なぜそう思う?」
角砂糖を二つ入れ、リオセスリはティースプーンでかき混ぜた。お茶に誘った張本人の前のカップは、供されたときのそのままだ。
「なんとなくそう思っただけだ。根拠はないさ」
否定しないのは肯定だと、このひとも知っているはずだろう。肯定を引き出した時点で、リオセスリは馬鹿正直に「いつもよりまばたきが多くて、声が低くて、動きが緩慢だから」と言うつもりはなかった。
「君の観察眼のたまものというわけか」
「そこまで大げさなもんじゃないさ」
「だが、気づいたのは君だけだ」
あんたに気安く声をかけられなかったんじゃないか、とリオセスリは言わなかった。ヌヴィレットの感情表現が豊かでないのは事実だからだ。
ヌヴィレットは水面に視線を落とし、呟いた。
「ここのところ、過去の審判結果を見返していた」
「そうらしいな」
「カロレとヴォートランの件についても、調べ直していた。新しい手掛かりが見つかったわけではないが」
とうに審判が終わり、当事者たちもいない事件だ。そりゃまあ、手掛かりを探したくて見直していたわけではないだろう。
しかし、ヌヴィレットを悩ませる事実はあったらしい。
「私はカロレたちに信じられていなかったのだろう」
姿かたちはいつも通りなのに、その声の響きだけはどこかなげやりだった。そう感じたままに眺めると、伏せられた瞳には憂いが見て取れる。睫毛の影が長く落ち、陶器のような肌を暗く覆っていた。
……どうしてそう思うんだい?」
リオセスリはといえば、声すらもいつも通りだった。軽すぎず、重すぎない響き。気安すぎず、緊張しすぎない音の幅で、ヌヴィレットの次の言葉を引き出そうとする。ただ、一呼吸おかれたことだけが、わずかな戸惑いの表れだった。
「もし彼女が私を信じていたのなら、自死という手段を取らぬと思ったのだ。あのような暴動を治める能力がないと思われていたのだろう」
息を吐くように、かすれた声でヌヴィレットが答えた。
四百年前の出来事だ。当時のことをリオセスリは知らない。ただ、事件と審判の記録だけが残っていて――この人の中に悔恨が根付いている。
「メリュジーヌの生は長い。しかし彼女はほんの数十年で……その生を手放した」
今もなお生きているメリュジーヌたちを思えば、確かにその生は短かったのだろう。人間にとっては人生に値しても、彼女たちにとっては須臾にすぎないのかもしれない。
だとしても、だ。
リオセスリは、生まれて十と数年で、その人生を賭けていいと思ったことがある。似ているかどうかはわからない。どこまでも純真で無垢なメリュジーヌと、薄汚い殺意を抱く人間が同じとはとても言えないからだ。
もはや語れる者がいない以上、真実を手で探ってもたどり着くことはない。この瞬間に重要なのは、語り手と聞き手の心情だけに違いなかった。
「個人的な意見を言わせてもらえば、それは傲慢というものだな」
……君の意見を聞こう」
公正な語り手は、聞き手の言葉にも耳を傾けてくれる。ありがたいことだ。
「カロレさんは誰も傷つけたくなかったんじゃないか?犯人として責められるなか、このままだと誰かが犠牲になると気付いた。彼女がそのとき取れる一番の手段が自死だと思ってしまったのは悲劇的だが、自分ができる最善を尽くすというのは、そんなに悪いことかい」
「その選択をしたことが、信頼のなさの表れだろう」
「何もかもをあんたに頼ることが信頼とは思えない。人には――カロレさんはメリュジーヌだが――自我があるからだ」
当時、暴動を止められなかった事実は記録に残っている。
ヌヴィレットにそれを止める能力があったのか?可能だったとして、彼を余所者だと反発する民衆に対して火に油を注ぐだけではないのか?少なくとも、カロレはそこまで考えただろう。リオセスリだったら、そこまで考えるだろう。
犠牲になるのは目の前の民衆に限った話ではないからだ。
「では、己を害する者のために命を擲つことすらに、正義があると言うのか」
「正義か。それが主観的な概念を指すのであれば、あるんじゃないか?理由さえあれば、人は死ねるんだよ」
口元に持って行った甘い紅茶を、視線に気づいてそのままソーサーに戻す。ヌヴィレットは縦長の瞳孔をすべて晒して、目の色を変えていた。
夜明けの色。原始の海の色。すべての命の源の色。ひたりとリオセスリを見据えて、ヌヴィレットは口を開いた。
「それは、君も、同じなのか」
かみより高い瞳は、リオセスリの顔ではなく、もう少し下に向けられていた。首元、あるいは、開いた襟が隠さないもの。
――赤錆の水溜まりを思いだした。
ちがう袋からあふれたはずなのに、同じ色が混ざりあって、何も変わりがなかったことを。
脳裏に浮かぶ映像をそのままに、リオセスリはなんでもないように肩を竦める。
「一般論さ」
「ではなぜ、それがある」
ヌヴィレットは音を立てて、立ち上がった。何らかの衝動に突き動かされているとしか思えない。最高審判官の威厳の形をした布がどこかに引っかかって、ちぎれる音がしたからだ。
大股で近づいてきたヌヴィレットに見下ろされ、リオセスリは顔を上げる。そうすると喉の傷がよく見えてしまうことに、後から気づいた。
「見苦しいなら隠した方がよかったかな」
「答えになっていない。なぜ――
すこし早口で、ヌヴィレットはリオセスリの首に手を伸ばした。
濃紺の手袋の肌触りを、そんな部位で知ることになるとは。触れた指先は一瞬で離れてしまったが。爆発物のように扱わなくともいいのに、とリオセスリは苦笑する。この手に首を絞められても、別に爆発する予定はない。
「人は、驕りの代償を支払うもんだ。俺はまだ取り立てられていないがね」
……自身を損なうことを、そのように言うべきではない」
「最高審判官様が言うなら、一般的にはそうかもしれない。今後控えよう」
……
中途半端に腰を曲げたまま、ゆらり、と視線をさまよわせて、ヌヴィレットはどう言うべきか探っているようだった。待つべきか、待たぬべきか。いや、ここで必要なのは語り手と聞き手の心情だけだ。
リオセスリは彼の手を取って、広いソファの隣に座らせた。真珠色の前髪が流れて、先ほどから変わらない色で見つめられる。
「なあヌヴィレットさん。ほとんどの人は未来予知なんてできない。目の当たりにした事態に対処するのに精いっぱいなんだ。その手段が合法であれ、違法であれ、な」
「君であれば、予知ではなく、予測をすることができるのではないかね」
カロレの話じゃなかったのか。目の前の個人を糾弾し始める相手に、やはり冷静じゃないと思う。珍しいことだ。
「起こりうるすべての事態を?最高審判官さんにここまで買いかぶられているなんて、光栄に思うべきかな」
「ウィンガレット号を作ったことがその証左だ。何が起こるか、高い精度で予測できている」
「あれは予言があったからで――
たまたま一致した結果だけに注目しては誤解を招く。そう諭そうとしたが、ヌヴィレットの言葉が先だった。
「なぜ」
雫を受け止めた水面のように、さざ波が立つ。
ふと、外の雨音に気が付いた。
「理由があれば、と言ったな。その理由が、何に値するのだ」
「誤解を招いた。あれは群集心理の話だった」
「だが、これは、致命傷だ」
ヌヴィレットの指が、再度リオセスリの喉元に触れた。同じ高さにある瞳から視線を逸らせないまま、息をのむ音を聞く。このひとも呼吸をしているのか。
――ヌヴィレットさんには、俺が幽霊にみえるのかい」
「リオセスリ殿」
「ふざけているわけじゃあない。死んでなかったら致命傷じゃないだろう?俺は死んでないし、死ぬつもりもないさ」
「証拠が多すぎる」
つう、と指が落ちて、リオセスリのネクタイをつかんだ。「は?」と間抜けな音が喉から漏れる。次の瞬間にはその結び目がなくなって、ボタンが一つ穴から抜け落ちていた。
「ぬ……ッ、ヌヴィレットさん!」
執務室で人を脱がせる趣味があるなんて、という軽口を叩く余裕もない。リオセスリが手を振り払うと簡単に離れていったが、ヌヴィレットの眼光だけはそのままだった。
ひとに恐れを抱くほどか弱いつもりはない。だが、ヌヴィレットは違う。ぞくりと悪寒に似たものが背筋を這い上がり、リオセスリは思わず言葉を詰まらせた。演じる理性を剥ぐほどの重苦しさが、ひたひたと満ちていく。行き場を失った雨のように。
このひとの前では、ちっぽけな子どもに戻ってしまうのかもしれない。数十年しか生きていない、矮小な人間であれば、誰だって。
「い、ったい、なんのつもりだい」
「君の言い逃れを許さぬためには、証拠をすべて確認する必要がある」
「人を裸に剥く言い訳としては最悪の部類だ。先に告発が必要だな」
「これは法に則った行いではない。……待て。君が私を告発するのか?」
急に正気に戻ったらしいヌヴィレットは、はっとして周りを見回した。執務室には二人きりだ、幸運なことに。
「水の下の公爵に迫る大審判官、ソファで服を脱がせ――。いや、もっと刺激的な見出しが必要かな。どう思う?」
……ゴシップ誌に駆け込んだ場合、君の品位も下がる。おすすめしない」
「脅迫かい?ヌヴィレットさん」
「いや。君には告発の権利がある。ゴシップ誌ではなく、適切な方法で行うべきだ」
淡々と言うヌヴィレットに、再度空気の重さが戻ってきている気がして、リオセスリはじり、とソファの隅に寄った。なんだってこのひとをソファに座らせてしまったのか、と後悔する。
「ただ、証拠はすべて確認すべきだ。その主張に変わりはない。服を脱いでほしい」
「おいおい、地位を棒に振ってまで確認すべきことなんてないだろ?」
確認した後であれば好きなだけ訴えればいいなんて、やけくそでないと出てこない発言だ。ヌヴィレットさんもやけくそになることがあるのか、と現実逃避気味に考える。
「地位を棒に振ったところで、私のすべきことは変わらない。持てる権能も損なわれない」
「最高審判官さんの地位と名誉が損なわれたら社会は大混乱に陥るだろう!」
「ならばその前に君に答えてほしい」
神の目を持つ者は、フォンテーヌの水底でだって呼吸ができるはずだ。
はく、と息を詰まらせる。じゃあなんで、こんなに息苦しい。
「君が死んでいい理由とは、なんなのだ」
白状するか、社会を混乱に陥らせるか。天秤にかけようとして――やめた。リオセスリという男は、そこまで殊勝ではない。
「なんでそんなことを知りたいんだい?」
質問に質問で返すのも、行儀のいい行いではない。だが、プライベートに踏み込む無礼さを見せたのは相手が先だ。
「なぜ……?」
「あんたを悩ませているのは俺なんかじゃなかったはずだ。言っておくが、俺は統計においては外れ値だ。公爵になるようなやつが平均に収まったら、この世は公爵だらけだろうさ」
一般論の参考になることはない、と言いつつ、震える指でボタンを閉めた。恨めしそうな視線は気づかぬふりをする。ネクタイはいつもよりキツく絞めた。
行儀よくソファに腰かけたままのヌヴィレットを横目に、ソーサーを手に取る。紅茶はとうに冷めていた。一気に飲み干しても火傷をしないくらいには。
「君の」
リオセスリの喉が鳴るのを見て、ヌヴィレットが口を開く。
「君に傷があるから」
「あるから?」
「知らねばならぬと思った」
「どうして」
「致命傷が……
声が震える。このひとは、表情よりも声がわかりやすい。音の幅がわずかにぶれて、感情が乗る。
「君が死んだら、理由をきけないから」
ひとを勝手に殺さないでくれ、と言えなかった。
リオセスリはこのひとより絶対に先に死ぬ。
首の傷を見て、リオセスリがいつか死ぬのだとようやく気付いた子どもみたいな発言に、言うべきじゃないとも思った。
かといって、何を慰めにすべきかわからない。ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜてため息をついた。
「ケースバイケースなんだが……
「やはり死ぬ理由があるのではないか。その首の傷だけではない、全身に残る傷が証拠だ。シグウィンに後で君の治療履歴を提出するように言っておこう。君は自分の生存を第一に考える必要がある」
「うおっ……
認めた瞬間に立て板に水といった勢いでまくしたてられ、のけぞってしまう。というかカルテの提出は越権行為だ、ふつうに。裸に剥かれるよりはマシかもしれない――どうだろう。
「そりゃ、だから、死ぬつもりはないって言っただろう」
「理由がわからないままでは、私も死ねない」
「は?」
「死んでも死に切れない、というやつだ」
それは、笑えないジョークの類だろうか。
四百年前の出来事をここまで引きずることのできる御仁だ。リオセスリが何かのために命を張って、その理由がわからないまま死んだら、一生考え続けるとでもいうのか。このひとが何百何千何万年生きるいきものかはわからないが。
――いやだから、なんで?
純粋な疑問が再度頭に浮かぶ。なんだってこのひとは、ここまでリオセスリの理由を知りたがる?
カロレの件は分かる。眷属であるメリュジーヌのことだし、人間社会に連れ出してきたという負い目があるのだろう。
しかしリオセスリは人間で、罪人で、メロピデ要塞の管理者で、つまりフォンテーヌ社会の外に追放されている。最高審判官のヌヴィレットが死んでも死に切れないなんて冗談を言う相手では、ない。
「審判を下し、天地が終わっても、君の正義を私が覚えている。だから教えてほしい」
まっすぐな瞳で迫る相手ではない。
水底のような重苦しさで脅迫する相手でもない。
「ヌヴィレットさん、あんたもしかして」
リオセスリは喘ぐように言った。いつのまにかヌヴィレットの顔が眼前にある。膝に何かが触れていて、それがヌヴィレットの膝だったらどうしようと思った。左胸が小動物のように忙しない。
「人付き合いが下手なのか?」
……
きゅっと口を結び、ヌヴィレットは瞬いた。戸惑っている。その隙に、リオセスリはやんわりヌヴィレットの肩を押し返した。近すぎるから。
「その距離感はおかしいだろう。俺はメリュジーヌじゃない……
「見ればわかるが?」
見てわかってるやつはこんなことをしない。リオセスリは首を横に振った。
「一般の市民だ。いや、一般市民ではないか。まあ、とにかく、急にそんな話をされても困るんだ、普通は」
「君は平均値ではないと、さきほど申告していたはずだ」
「人付き合いにおいてはぜひ平均を参考にしてほしいところだな」
「ふむ……
ヌヴィレットが姿勢を正したのを見て、ほっと息をつく。あのまま頭からがぶりといかれるかと思った。鼓動の速さを自覚しながら、リオセスリは余裕を見せるために表情を作った。
「あんたと俺は、そう仲良くなれるわけじゃない。何せ水の上と下の関係だからな。互いに職務ってもんがあるだろう?」
癒着だのなんだの、つまらない槍玉に挙げられるほど馬鹿馬鹿しいことはない。リオセスリはそのつもりで言ったが、ヌヴィレットは眼光を鋭くした。
「私は君を信頼している」
「ありがとう。俺もヌヴィレットさんを信頼してるよ。職務上、あんたは期待を裏切らない」
「であれば問題はないはずだ。個人的な関係は、職務に影響を及ぼさない。その信頼があるからな」
「あんたはそうかもしれないが……
「私は、君を、信頼している」
ぐいぐいくる。どう言い負かすか考えたが、リオセスリは素直に降参することにした。ティータイムを共にするような個人的な付き合いが一切ないというわけではないし、恩人のご要望にこれっぽっちもお応えしないのは不義である気もしてしまったので。それくらいの義理固さは、メロピデ要塞の管理者になっても存在していた。
「わかったわかった、じゃあいいだろう。でも今の関係では、人をいきなり裸に剥いたりソファの上で迫ったりすべきじゃない。法典には書いてないかもしれないが」
「どのような関係であれば、許されると?」
「そりゃまあ、恋人であればいいんじゃないか?一般的には」
きっと気が緩んでいたのだろう。そうでなければ、ヌヴィレットにこの手のジョークが通じないことを失念などしなかった。
「わかった」
「そりゃあよかった」
そしてあっさり頷かれたことにも、疑問を持つべきだった。獄守犬が尻尾を巻いて逃げることしか頭にないなんて、滅多にない。
「ずいぶん長居しちまったから、そろそろお暇するよ」
「うむ。引き留めて悪かった。だがまた、ティータイムを共にしてほしい」
「ヌヴィレットさんのお誘いならよろこんで」
先に立ち上がったヌヴィレットが手を差し出すので、リオセスリは内心戸惑いながら手を重ねた。自分の力で立ち上がるつもりが、ぐっと引き上げられる。
「おっと。最高審判官様のエスコートなんてなかなか受けられるもんじゃないな」
「これからはいつでも君のものだ」
……は?」
執務室の外までどんな顔をして手を引かれていたのかわからない。
ただ、ヌヴィレットは目を細めていた。呆けた男の顔を映す瞳が、暗く光る。
「ではまた、リオセスリ殿。濡れぬように気を付けて」
バタンと重い扉が閉まり、たたらを踏む。息を詰めていたことに今気づいて、リオセスリは呆然と扉を見つめた。
丸呑みにこそされなかったらしいが、今さっきまでの会話すべてが白昼夢のようだった。現実味がなく、しかし扉を開いて確認する勇気もない。
無意識に首元に手をやると、締めなおしたネクタイに触れた。
――雨はまだ降っていた。
ひたひたと足元まで迫っている。
「公爵様?お忘れ物ですか?」
受付に座るメリュジーヌに声をかけられるまでそうしていて、リオセスリはようやく我に返った。
「いや、なんでもない……
気を遣ってくれてありがとうとか、そんなことを口にした気がする。別れの挨拶を交わし、ようやく踏み出す。
ぬるい空気を振り切るように、リオセスリは足早にその場を立ち去った。