史加
2026-03-06 10:43:57
9140文字
Public zzz(アキ悠)
 

殉愛

アキ悠/助手二号のアキラと悠真の話


※ワードパレット18「震える指」「濡羽色」「なにも言わないで」お借りしました



 

「アキラくんは神様ってやつを信じる?」
 静寂に寄り添うように声が響いた。凪いだ海のような、感情の読めない声だった。
 朽ちたコンクリート造の廃屋が群れを成して、アキラと悠真を逃さないといわんばかりに見つめている。立ち並ぶ家屋の形から推測するに、ここはかつて居住区だったのだろう。しかし今や人間の姿はおろか、その人々がこの場所に刻んでいたはずの歴史すら残っていない。
 帰るひとを失くしてただの瓦礫と成り果てた建造物を見るのは、プロキシとしてすっかり慣れていることだ。けれど今日ばかりは自分たちを取り囲むそれらが虚しく、寂しく、おそろしく見えた。
「神様、か」
 恐怖に心を侵食されないようにと、アキラは悠真の問いかけに対する答えを考えることに意識を向ける。
 新エリー都にはあの「始まりの主」を讃える讃頌会を除いて、特に大きな宗教は存在しない。旧都陥落で多くを失い傷付いた人々は、この世界がどれほど残酷であるかを知っている。救いの神が存在するなどと信じて生きていられるほど生ぬるい人生を歩んできた者はほとんどおらず、信仰はそれこそ映画や小説といったフィクションの中で取り扱われる題材のひとつに過ぎないものだ。
 アキラもプロキシとして多くの危機に直面してきたが、死と背中合わせの場面で神に祈ったことは一度もなかった。この世界に神が存在し、人間を愛しているというのなら、なぜホロウの拡大は留まることを知らず、エーテルという未知の物質に侵食され、幸福と平穏を奪われるばかりなのか。その問いの答えを出せる者が現れない限り、神に縋る日はきっと来ないだろう。もし仮にこの世に神がいるのだとしたら、それはせいぜい死神だけなのだから。
「信じたことはないな。そういう映画なら見たことはあるけれど」
「だよねぇ。僕も神様なんて不確かなものは信じてない。僕が信じられるのは今という一瞬だけだからさ」
 言葉のあとに、砂利を踏み締める足音だけが響く。最低限の警戒は緩めず、弓を携え索敵しながら歩く悠真の背に悲愴感はなかった。
 頭上を見上げてもそこに青空はない。並ぶ建物にじっと睨みつけられながら奥へ進んでも、灰色を中心とした世界が続くばかりだ。ふたり分の足音と息遣い以外に鼓膜を震わせる音はなく、物語の終わりに迷い込んでしまったような錯覚に陥りそうになる。
 歩き続ける悠真は何も言わない。確かな足取りで、冷静に辺りを観察し、非戦闘員のアキラに危険が及ぶことのないよう一歩前を歩きながら活路を見出そうとしている。なびく黄色のハチマキだけが希望の色のように見えて、頼もしいのに寂しいとも思ってしまうのはなぜだろうか。
 堂々とした悠真の背を追うように歩きながら、冷静になれと己に言い聞かせる。アキラよりも一足先にホロウに生身で入れるようになったリンは、どんな危機に直面しても希望を失わず、同行するエージェントたちを導こうと立派に振舞っていた。兄である自分が妹に負ける訳にはいかない。
……はぁ〜」
 不意に悠真が立ち止まり、わざとらしく、大袈裟なため息をついた。それからアキラを振り返り、肩をがっくりと落としてみせる。
「びっくりするくらい何もないんですけど。ずっと歩きっぱなしで疲れちゃったし、このあたりはエーテリアスもいないみたいだから少し休憩しない?」
 正直足が棒になっちゃいそうなんだよねぇ、などと軽口を叩く悠真は汗ひとつかいていなかった。アキラを気遣っての提案であるのは言うまでもない。まだ大丈夫だと突っぱねて悠真を先に進ませようとしたって、きっと彼はもう無理と泣き言をこぼしてみせるだろう。
 アキラの足は情けないことに悲鳴を上げている。棒になりそうだと言いたいのはこちらで、状況を整理するためにも少し腰を落ち着けたいのが本音だ。
「ああ、そうしよう」
 厚意に甘えて二つ返事で頷くと、悠真は決まりだね、と笑ってみせたあと、前方に見える建物を指し示した。やや壁に亀裂が入っているものの、他の建物と比べると原型を留めているそれが目に入る。空へ向かって真っすぐと伸びる円錐型の尖塔は、新エリー都であまり見かけることのない建築様式だ。
「それじゃあ、あの中に入って休もうか。他の建物より状態が良いからちょっとやそっとのことじゃ崩れなさそうだし、雨漏りはするかもしれないけど、ずぶ濡れにならないで済みそうだ」
「うん? これから雨でも降るのかい?」
 ホロウの空模様は特殊で、突如として大雨に見舞われることがある。特に雨雲の姿は見当たらないが、悠真は何か気配を感じ取っているのだろうか。
 不思議に思って尋ねると、金糸雀色の目がアキラを見つめた。
「ここに迷い込んだときよりも風が湿って、冷たくなり始めてる。こういうときは大体突然雨が降り出すんだ。僕は慣れてるけど、あんたに風邪をひかせるわけにもいかないからね。ほら、早く行こう」
 優しい色をした二対のひとみはすぐに逸らされて、踵を返した悠真の髪の濡羽色がアキラの目に焼き付く。一歩踏み出した悠真の背は、すぐに追いかけないと瞬く間に距離が開いて、遠くへ離れていってしまいそうだ。
 もどかしさと悔しさが胸の奥底から込み上げる。けれどそんなものに気を取られている場合ではないだろうと己を叱咤して、アキラは悠真の後を追った。
 一時的に目標地点とした建物は、近付いてみると他の建物より一回りも二回りも大きく、妙に存在感がある。色とりどりの硝子を組み合わせて作られたステンドグラスも、壁を飾る燭台も、建物の近くに置かれている朽ちた木のベンチも、何もかもが古めかしい。ここまで歩いてきた道に並んでいた一般的な家屋のなれの果てと違い、おそらく人々が集まって何かをするために作られた特別な場所であることが窺える。
 こういう建物を映画で見た覚えがあるのだが、何と言ったか。そんなことを考えているうちに悠真は木製の巨大な扉に手をかけていた。ぎいぃ、と重苦しく蝶番が悲鳴を上げて、積もった埃が舞い上がる。咄嗟に悠真が片腕で口元を押さえるのが見えて、アキラは場所を代わろうと一歩前へ出た。けれど悠真は譲ることなくそのまま扉を開け放ち、矢のように鋭い視線をその先へと向けた。
 舞う埃に視界が煙る。開け放たれた扉の先に広がる空間には、何の気配もない。少しして埃が落ち着くと、いつでも迎撃出来るよう身構えたままの悠真が中へと足を踏み入れる。すぐに後を追いかけようとするも、金の視線がアキラを制した。慎重に中へと進み、辺りを見回し、索敵を終えて、ようやく悠真は振り返った。
「うん、大丈夫だ。入ってきなよ相棒」
 平素を装う声のあと、けほ、と堪え切れずにこぼれた小さな咳の音が、アキラの心臓を重く殴り付けた。
 ――無力だ。
 そう、思い知らされて、震える指をきつく握りしめる。何度も味わった苦渋が舌の根に広がり、胸を塞いで、息を詰まらせる。
 リンとふたり、六分街のビデオ屋で働きつつ、伝説のプロキシ「パエトーン」として活動していた頃にも、無力感に苛まれることはあった。目の前でエージェントが傷を負ったとき、イアスの小さなボディでは応急手当キットを差し出すのが精一杯で、相手を守ることも、肩を貸してやることも出来ず、リンとふたりで唇を噛み締めた回数なんて片手では足りない。それでもプロキシとして自分たちは彼らを正しい方向へと導き、帰るべき場所へ無事に帰られるようにするのが役目なのだと、誇りを胸に秘めてやってきた。強くならなければと己の胸に誓ってここまで歩き続けてきた。
 だが、今はどうだ。リンに遅れを取ったが、やっとアキラもホロウの中に生身で入れるようになった。しかし非戦闘員で、エーテリアスと戦うすべを持たない人間がホロウに入ったところで、出来ることといったらリアルタイムでのナビゲーションとギミックの解除くらいなものだ。ボンプ用の作業台がない場所にあるギミックを自らの手で解けるようになったのは、以前と比べると時間短縮出来ていると言えるだろう。エーテル活性が安定していて、エーテリアスの気配のない場所の探索なら手分けしておこなうことも出来る。
 だがそれだけだ。たったのそれしか出来ない。戦闘になれば少なからず同行するエージェントには気を遣わせてしまうし、アキラを守ろうと立ち回るせいで普段通りに動けない場面も出てくる。
 はたして、彼らに負担を強いてまでホロウの中に入ることに意味はあるのか。それは自分のエゴでしかないのではないか。リンがビビアンを救ったときのようなこともある、なんて言ったって、あれも自分たちの力を正しく理解し、コントロールしておこなったことではないのだ。メリットというには、あまりにもリスクが多すぎる。
「アキラくん?」
 入口に立ち尽くしたまま動かないアキラを見て、悠真が呼びかける。その金糸雀色のひとみには心配の色が滲んでいた。
「もしかして無理させちゃった? 実はもう足が棒になって動かないとか」
 だったら出口まで運ばないとなぁ、要救助者と同じ担ぎ方になるけど、なんてすぐに明るい声で軽口を叩いてみせる悠真に、アキラはかぶりを振った。
 落ち込むことはいつだって出来るが、こんな場所で自分の身勝手さから生まれる劣等感に悠真を巻き込んでしまっては、それこそ本当の意味でお荷物にしかならない。
「いや、大丈夫だ。休憩している間に通信が復旧したらいいなと思っていただけだよ」
「確かに。あんたのナビは正確だけど、リンちゃんたちと情報を共有出来ないのは痛い。まあ、そのあたりもゆっくり考えつつ少し休もうよ。ずっと眉間にしわ寄せて肩肘張ってたら、あんたのやわらか〜いはずの頭もうちのお偉いさん方みたくカチコチになって、思いつくものも思いつかなくなっちゃいそうだし」
 ほらほら、と手招きをする悠真に頷いて、アキラは一歩踏み出す。
 ホロウの中で起きる出来事は予測不能だ。まだリンだけがホロウの中に入れた頃からそれはたびたび起こっていて、助手としてホロウの外でサポートをしていたアキラはそのたびに何度もFairyと協力し、状況の把握と通信の回復のため策を講じてきた。だからある程度のノウハウはあるし、それをリンにも共有している。きっと今頃、かつてアキラがそうしたように、リンが策を講じてくれているに違いない。アキラに出来ることといえば、こういうときこそ冷静に状況を分析し、機を見て行動を起こすことだろう。
 そもそも今回の仕事は対ホロウ六課から直々に協力を依頼されたもので、共生ホロウの活性化の原因を探りつつ被害の拡大を防ぐため、異変を調査する悠真と、エーテリアスの掃討に当たる雅たちに分かれて行動するという内容だった。ゆえにアキラが生身で悠真と、リンがイアスと感覚同期して雅たちと行動し、外にいるリンがアキラから受け取った情報を雅たちに伝えることで任務を円滑に進められるよう役割を分担している。通信障害というトラブルも、裏を返せばそこに異変の正体があると考えられるのだ。焦らず慎重に事を進めていけば、任務の完遂に近付ける。そう己に言い聞かせて、アキラは辺りを観察することにした。
 奥行きのある建物の中には、木製の長椅子がずらりと均一な感覚で並べられており、その奥には古びた巨大なパイプオルガンが置かれている。本棚に並べられている擦り切れた教本の数々を見るに、ここは旧時代に人々が神に祈りを捧げ、誓いを立てるために使われた場所――いわゆる教会に違いない。溶けた蝋の痕跡のない燭台とうすく被った埃が、ここがもう久しくひとの訪れていない場所であることを物語っている。特定の神を進行するためにつくられたのか、それとも形式上の祈りの場としてつくられたのかは定かではないが、巨大なステンドグラスを通って差し込む光に照らされたその場はなんだか厳かで、神聖なように思えた。
 きっとここでかつては多くの人々が形のない存在に祈り、明日に希望を見出していたのだろう。その頃はまだホロウというものが存在したのかどうかもわからない。ただ、もし今のアキラたちにとっては当たり前として存在するこの世界の残酷さをまだ知らぬひとたちが、輝かしいばかりの明日に夢を見ていたのだとしたら、今の教会の姿こそが世界の残酷さそのものであることは間違いないと言える。
 アキラが物思いに耽っている間に、悠真は落ち着ける場所を探していたらしい。いくつも並ぶ長椅子の中でもとりわけ状態の良いものを見つけると、ハンカチを取り出してそこに積もる埃を静かに払い落とし、汚れたそれを丁寧にポーチにしまってから腰を下ろしていた。
「アキラくん、こっち」
 悠真の声に頷いて、アキラは隣に座った。当たり前のように埃を払われているのがたまらなく胸を締め付けた。
 木の板に体重を預けると、途端に疲労が押し寄せてくる。長くホロウの中を歩き続けた足の裏はじんじんと痛み、ふくらはぎも腿も重く、自分の身体ではないように感じられた。思わずため息をつくアキラを、こういう時に限って悠真は茶化さない。ただ静かに、おそらくは外の気配に神経を研ぎ澄ませながら、黙っていた。
 沈黙が落ちる。それに気まずさを覚えるよりも先に、ばたばたと屋根を叩く音が響き始めた。悠真の予想通り、雨が降り始めたらしい。
 ホロウで降る雨は特殊だ。あっという間に勢いを増して、ただでさえ瓦礫とエーテル結晶だらけで生気のない世界を陰鬱な鈍色に染め上げてしまう。ざあざあと降る雨の音は教会内にも大きく反響して、隣に座る悠真の息遣いをかき消してしまうほどだ。
 雨が止むまではこのままここで休んでいた方がいいだろう。ホロウの中で降る冷たい雨はひとの身体に障る。だから今は立て直すことに時間を費やすべきだ――プロキシとして隣にいる悠真を、きちんと導かなければならないのだから。
「あんたっていつもそんな難しい顔してリンちゃんのサポートしてるの?」
 不意に尋ねられて、アキラはぎょっとした。すぐ目の前に悠真の、金糸雀色のひとみがあった。
 いつの間に動いたのか、椅子から立ち上がった悠真がアキラの前で屈み、顔を覗き込んできている。まばたきを繰り返し、何と返すべきか迷っていると、とんと眉間になにかが触れた。ほんのりと温かい、悠真の人差し指だった。
「それとも、僕みたいなやつと一緒じゃ不安だったりとか? まあ無理もないよね。課長や副課長ならともかく、病弱な僕が途中で倒れたりなんてしたらあんたをエーテリアスから守ってくれるやつがいなくなるわけだし」
「それは、」
「こうしてあんたと一緒に仕事をするのは初めてだし、あの時のことも知られちゃってるからこんなことを言っても信じてもらえないだろうけど、あの化け物共の指一本だってあんたには触れさせないよ。だからさ、そんな思い詰めた表情してないで、もう少し肩の力抜きなって」
 いつも通りの声が悠真自身の価値を下げる言葉を紡ぎ、その胸に秘めている真っ直ぐな決意の重さを隠してしまうのに、アキラは今度こそ自分を殴り飛ばしたい衝動に駆られた。
 サボり魔で昼行灯のような青年の本質を、その身に抱える事情を知っていながら、なんてことを言わせてしまったのだろう。胸の奥が塞がり、首を絞められているような感覚に苛まれる。そんなアキラの表情がますます強張るのだってきっと悠真は気付いてしまうのに、どうにも上手く取り繕えやしない。
 無力さがあらゆる形で、幾度となくアキラを殴り付けてくる。だがここで己の愚かしさを嘆いたところで何も変わりはしない。むしろ悠真はますますアキラを気遣い、自らを軽んじる言葉を口にしてしまう。そうやってお互いを傷付け合ってどうするというのか。
 情けなさに震える指を握り締めて、アキラは俯いていた顔を上げる。
 少なくとも、アキラの想いを偽りなく伝えなければならない。たとえ格好悪くて不甲斐ないものだとしても、悠真にこれ以上自分自身を蔑む言葉を紡がせたくなどないのだから。
……聞いてくれ、悠真」
 固い声で名を呼び、アキラは立ち上がって悠真と目線を合わせた。
 金糸雀色のひとみに動じる気配はなく、ただアキラを見つめ返してくる。逃げ道を探るように揺れることのない視線が、アキラに寄せる信頼と彼自身の誠実さを如実に物語っていた。
 それを、アキラは今度こそ間違えることのないように受け止める。
「僕は君のことを頼りにしているし、ホロウの中で君がどれほど僕やリンのことを気にかけてくれているのかを知っている。霧島の一件のときも、君は満身創痍の状態でありながらリンが感覚同期しているイアスを身を挺して守ってくれただろう」
「そんなこともあったね。あれは僕の都合にあんたたちを巻き込んだ訳だから、当たり前のことをしただけだよ」
「それを「当たり前」だと言える人間はそう多くない。だから僕は君を信頼しているし、今も一緒にいるのが君で良かったと思っているよ。……自分の無力さを思い知らされるほどにね」
 きちんと悠真に伝わるようにと言い切って、一旦アキラは息を深く吐き出す。
 自らの心中を明かすのはどうにも勇気のいることだが、きっと悠真はそれを笑ったりしないだろう。現に目の前の彼はただ静かに、アキラの言葉の続きを待っていた。
 からからに乾く喉を唾液でわずかに潤して、再び唇を開く。
……僕はリンとは違って、生身でホロウに入れるようになるのに時間がかかった。やっとリンのようにホロウに入れるようになったけれど、武器を持ってエーテリアスと戦えるわけでも、俊敏に動けるわけでもない。安全地帯では探索を手伝えるし、ギミックの解除も前より手早く出来るようになったけれど、それだけだ。僕が生身でホロウに入ったところで君たちの足を引っ張ってしまう場面のほうが多いんだと、痛感したよ」
……なるほどね。それでずうっと難しい顔してたんだ、アキラくんは」
「ああ。僕たちプロキシは君たちエージェントの命を預かり、帰る場所へと導く存在だ。間違っても君たちの命を脅かす存在になってはいけない。だからもっと強くならないといけないなと思ってね。……決して君を傷付けたかった訳じゃないんだ。本当に、ごめん」
 自らのうちがわに巣食う焦燥や無力感を打ち明けたとて、息苦しさがましになる訳ではない。これはだれかに話したからと言って軽くなる類のものでもないとわかっていたから、ずっと胸に秘めていたことでもあった。
 だが、何も言わずに秘め続けることが相手を傷付けることもある。相手を大切に想っているのなら、明かさなければならないこともある。ほかのだれでもない悠真がアキラたちに示し、教えてくれたことだ。だからこれはアキラなりの精一杯の、彼から預けられた信頼に応えることだった。
 視線を落としたくなるのをぐっと堪えて、アキラは悠真を見る。
 エーテルに侵食されひび割れたステンドグラスが偏光を放っている。空恐ろしくもどこか清らかさのあるそれが悠真を照らして、色の白い彼の輪郭を浮き上がらせていた。淡く輝く金の目が穏やかなまなざしをアキラへと向けるさまはまるで神様のようだ。物寂しい神聖さの中で、アキラの胸にひとつの感情が浮かぶ。 
 アキラは決して悠真に、神様になってほしいわけではない。彼にゆるしてほしいわけではない。祈りを捧げて、輝かしい明日を約束してほしいわけではない。
 ただ対等に、隣にいたい。そうして出来ることなら、その手をそっと握り締めて、大切に出来るようになりたい。
 その切なる願いの、名は。
……言いたいことはわかったよ。アキラくんが僕を信頼してくれてるんだってことも。だからもう、あんたの首を絞めるようなことはなにも言わないで」
 花緑青のひとみに宿る思慕と熱を認めた悠真がそうささやいて、固く握り込まれたままのアキラの手の甲に触れる。冷えた指先の温度が胸の奥をざらりと逆撫でした。
 ほぼ無意識のうちに握り締めていた手を開き、悠真の手を掴んで、包み込むように握り直す。今のアキラに出来ることは少ない。これだって自分のエゴでしかない。けれど悠真はアキラの手を振りほどくことなく、静かに握り返した。
 遠くで雨音が聞こえる。悠真の読み通り、ホロウの中で雨が降り始めたらしい。あちこち亀裂の入っている屋根の隙間から漏れ出した雫が床を静かに打つ音が響く中、アキラはただ黙って悠真の手に己の温もりを分け与え続ける。
 沈黙は、決して居心地の悪いものではなかった。廃れた教会の中に風は吹かないが、悠真とポート・エルピスで風に吹かれているときのような、やわらかな安堵感が胸を満たしていく。
 雨音と滴り落ちる雫の音、それからふたりぶんの息遣いだけが世界を支配していた。刹那にも等しい時間の中で、アキラの胸に先ほど浮かび上がり、あるひとつの名を冠した感情は、確固たるものとして根付いていく。
 この残酷な世界で、神に祈るような真似はしない。いつだって信じられるのは今と、目の前にいる相手、それから自分の手の届く範囲にある、自分が大切にしたいと思うものだけだ。
 友人、家族、仲間、そういったいくつかのラベルを付けられたものたちのなかでも、アキラはとりわけ悠真のことを大切にしたいと思う。きっと、彼のひたむきさや健気さに惹かれている心は前からあった。それが今明確に形を帯びたというだけで、世間一般の人々のように多くを――果てのない未来を望むことはない。けれど。
……
 相手への誓いをそっと自らの胸に立てる。指先に力が込められるのはほぼ同時だった。
 きっとお互いに、同じことを願い、決意したのだろうと思った。言わなければ分からないことばかりの世界で、言葉にせずとも分かち合える想いがあるというのは不思議なことだが、今、アキラと悠真は同じ誓いを刻み合ったのだと確信を持って言える。
 痛いくらいに固く握り締め合った手の温度と互いの指の感触が、この非日常を現実のものとして縫い留めている。最早この不確かで、けれど確固たる誓いには口付けすら要らない。今ふたりがいっときの羽休めのために身を隠している教会のように、誰に知られることもなく、いつか互いが朽ちるその日までただ互いの胸の中にさえあれば、それでいい。