AZUMA Tomo
2026-03-05 17:14:05
15985文字
Public 市教委怪異対策課
 

辛酸すら

オカタイのふたりが付き合い始めたきっかけの話

 仙谷瑠美華と彼女を中心人物に据えた霊感商法団体の報告書の作成は予想通り時間のかかるものとなった。
 本件は仙谷瑠美華に留まらず、団体主宰の男が仙谷瑠美華を商材として扱っていたことや被害者を含め大人数の聴取資料ならびに集会で用いられていただろう呪術の分析と考察をまとめる必要があったためだ。
 だが、本件の首謀者が逮捕されており、当該団体が他の団体や集団にまで影響を及ぼすほど力を持っていたわけではない。となれば今回の話は一応の終結は見せているわけで、報告書を作成が始まれば必ず終わりもある。
 オカタイ課長の及川聖は被害者のひとりだ。だが、ある程度の危険を承知で潜入捜査をしていた形であり、本人の健康状態もいたって良好だ。一日だけ休養をとってすぐに職務に復帰していた。そしてもうひとりの被害者となった阿部陽美も無事に怪我から回復し、初動捜査の人員としての責任もあってか、報告書の作成を俺――日野皐月とともに行っていた。
 多数の資料を取りまとめる必要がある都合上、時間はかかった。だが、三人寄ればなんとやら。用いられていた呪術もそこまで難解なものではなかったため、毎日残業することにはなったもののその週末には報告書を仕上げることができた。
 すっかり太陽は落ちていたが、報告書作成から解放されたことで気分がだいぶ良くなっていた。椅子に座ったまま伸びをしていると突如男の声が響く。
「ねえ、打ち上げに行こうよ」
 残業で三人しか残っていないオカタイの部屋に課長の号令がかかった。
 花金という言葉がある。次の日、つまり土曜日はオカタイも休日だ。今日はアルコールを入れるには適した曜日だ。しかし、俺は自分の眉同士の距離が自然と縮まるのを感じた。
「お前……仮にも薬物から抜けたばかりの状態だろ……
 確かに、聖の健康状態はいたって良好だ。だが、本件捜査中に微量とはいえ薬物入りの飲料を摂取しており、会場で吐き戻していた。その光景を思い出すと今でもゾッとする。今までにないほど青ざめた顔をした恋人が自分の体へ倒れこんできたのは控えめに言わずとも恐怖体験だった。それを目の当たりにした俺が「打ち上げ」を回避したいと思うのも当然だと思う。
「皐月さん、俺は大丈夫だって。お酒もそんなに飲まないからさあ」
「そんなにって……飲む気なのか、聖……
「だから心配しすぎだって。ね、阿部さんもパアッと気晴らししたいよね?」
 常識的に考えれば酒宴を避けるはずだ。その常識を求めて阿部さんの方に視線を向けると、当の阿部さん本人は聖の言葉に顔を輝かせていた。
 完全に残業ハイになっている。俺の求めていた答えは阿部さんから返ってこなかった。
「私も飲みたい! お酒飲んでパアッとしたい! 日野さんも一緒にご飯に行きましょ!」
 この女子後輩が無類の酒好きであるということを完全に失念していた。何か理由があれば酒を飲む。良いことでも悪いことでも、それにこじつけて酒を飲もうとする。そういう人間だった。ただ俺の中にあるのは「やってしまった」という思いだ。
 打ち上げを開きたい人間と酒を飲みたいという人間が揃ってしまった。聖が阿部さんに話を振るまでの間でもっと強く制止しておくべきだったのだ。そして俺自身も外食自体は否定したくなかった。連日の残業で疲弊していた。その状態の俺と聖がふたり分の夕飯を用意するのはどちらにとっても負担になることは目に見えていたからだ。
 そうなるともう、止めることも億劫だった。
 目の前に吊るされた酒という餌に目をキラキラ輝かせている後輩の意見を真っ向から拒否することなど俺にはできない。
……わかった、わかった。三人でメシに行こう……聖、酒は控えろよ」
 渋々返事をしているのにも関わらず、こちらの表情はお構いなしで後輩たちはふたり揃って拳を作って天に向けて突き上げていた。
 本当に仲が良い。
「よっしゃ! じゃあ、阿部さん、車を家まで戻したら駅前に集合で!」
「了解!」
 先程までは疲労でしょぼしょぼとした顔をしていたふたりの表情に活力が満ち溢れる。微笑ましいが、一方で頭が痛い。酒を控えろと言って聖が控えるかどうか、否、確実に飲酒するだろうという事態は目に見えていた。

 既にほろ酔いで楽しげに大声で会話をする成人集団がポツポツとあり、街全体が浮き足立っているような感覚がした。俺はこういった街の雰囲気が好きだ。妙な集団に近づきさえしなければ俺がどんな見た目――異質な眼帯をしていても誰も気に留めない。皆が皆、自分を中心に世界が回っているというように振る舞う。だから他人に構っている暇などない。そういうときに俺は自由を感じられる。
 阿部さんの家は駅チカであるため、待ち合わせまでに余裕があったらしい。Tシャツとデニムパンツというラフな格好に着替えて駅前に立っていた。
 合流した俺たちは空席があるかわからなかったため何軒か渡り歩くつもりでとりあえず適当な居酒屋に入ることにしたが、残業によってピークタイムがずれていたらしい。駅前の居酒屋であるのにスムーズに客席まで案内された。
「ドリンクのオーダーだけ先にお伺いしますねえ」
 ピークタイムが過ぎたとはいえ金曜日の繁忙時間であるのに女性店員は満面の笑みを俺たちに向けている。大学生バイトといったくらいの若さだ。
「私はとりあえず生で」
「中と大ジョッキもありますが、どちらにされますか?」
「大で!」
「俺も!」
 元気よく返事をする阿部さんに被せるように聖が言う。俺はまたも自分の眉間に皺が寄るのを感じた。
「おい……控えろって言っただろ……
「一杯だけ、ね?」
「ね、じゃない。せめて量は少なくしてくれ――すみません、今のは取り消しで。生大と中と……
 ちらりとドリンクメニューを確認しオーダーし直す。
「俺はハイボールで」
 隣から何やら文句が聞こえてくるが知らんぷりをする。ブーブー文句を垂れる男にさすがの店員も戸惑っているのか苦笑いながら、俺の言った通りに注文を復唱して立ち去っていった。

 モバイルオーダーで注文した料理が続々と運ばれてくる。酒を飲むにはちょうど良いつまみも豊富で、俺が食べるペースと同じくらいの速さで阿部さんも次々にジョッキを空けていく。間違いなく酒豪だ。だが、酔いが回らないというわけでもないらしく、いつもより何段もふにゃふにゃと柔らかい笑顔で機嫌良くしている。
「日野さん、相変わらずよう食べはりますねえ」
「阿部さんこそよくそんなに飲むよなあ」
「飲めるときに飲んどかんと、いつ死ぬかわかりませんから!」
 わっはっはっ、と豪快に笑う女子後輩。良くも悪くも彼女には女性性をあまり感じられない。だからこそ聖が仲良くできているのだろうとも思う。
「酒が原因で死ぬなよぉ」
 聖は聖でモバイルオーダーであるのを良いことに追加の酒を勝手に何杯か注文しており、こちらもそれなりに酔いが回っている様子だった。
「お前……いい加減にしないとスマホ取り上げるからな……
「もー、小言ばっかり言ってたらせっかくの酒が不味くなるでしょ、皐月さん」
「日野さん、この男に次のお酒が来たら私が飲むんで安心してください」
「ちょっと、阿部さんまでひどいって! てか皐月さんももっと飲もうよ」
「お前がベロベロになったら誰が面倒見ると思ってんだよ……
「皐月さん!」
……嬉しそうに言うんじゃねえ。お前を放って俺はひとりで帰るからな」
「ちょっとちょっと、人前でいちゃつくのやめてくれへん? 独り身の私にはきついわあ」
 わかりやすく泣いたふりをする阿部さんに、にこにことジョッキの中身を飲み干す聖。予想していた光景ではあった。別にこの空気感は嫌いなわけではない。むしろ好ましい。実際、聖の体調は悪くないため、ある程度勝手にさせておいた部分もある。逐一釘を刺すことだけは忘れずに、朗らかな飲み会の空間を俺も楽しんでいた。
「そういえば……
 阿部さんが泣き真似をやめて俺と聖の顔を交互に見る。にやにやと何やら企みの表情を浮かべている。
「大学時代のサークルで出会ったってのは聞いてたけど、なんでふたりは付き合うことになったん?」
 恋愛話は酒の席での鉄板ネタではある。だが、懇親会などで詳細を尋ねられたこともなく、俺と聖が恋人関係にあるということだけがオカタイの皆に知れ渡っている情報だった。
「あー、そういえば話したことがなかったな……
「そりゃもう、運命の人だったからだよ」
 聖にも相当酔いが回っているらしい。いつもわりとふざけている男ではあるが、輪をかけてふざけている。そして勿論、インタビュワーはそんな答えで引き下がれるわけもない。
「はいはい。運命の人ってのはわかったから。なんで、って聞いてんねん、私は」
 不服そうな阿部さんの表情に聖はにまにま笑って返す。
「そうだなあ……あれは新歓の……
「新歓?」
 聖の口から飛び出た単語に俺は首を傾げた。すると聖は膨れっ面でこちらに首を向けた。
「新歓だよ! 皐月さんと話したのがきっかけ!」
「え……? いや……普通の会話しかしてねえだろ。少なくとも阿部さんの言う『なんで』の部分に当てはまらないと思うが……
「あのときに『俺には皐月さんしかいねえ』ってなったのに! 何話したか覚えてないの?」
……ハイボールのおかわりでも頼むか」
「おい、俺と話したこと忘れてんのかよ、皐月さん!」
 スマートフォンを操作している横から軽く左肩を殴られる。注文内容がハイボールのおかわりではなくコークハイになってしまった。
 聖は不満げな様子だが、実際、詳細な会話など覚えていない。新入生歓迎会で何か特別な出来事があったわけでもない。しかし、額から冷や汗が滲んできているのがわかった。
「いや、忘れてるっていうか……『皐月さんしかいねえ』って言うわりに女遊びもひどかっただろう、お前……あと新歓で大した話もしてねえし」
「俺にとっては大したことだったのに!」
 また一発、肩に衝撃を食らう。普通に痛いので勘弁してほしい。
 むくれる聖を気にせず、阿部さんは企みの表情を崩さないまま俺の方を向いた。
「で、日野さんは新歓のときに及川くんのことをどんな子やと思ったんですか?」
「ええ……いや、なんつうか……俺と似たヤツが入ってきたなあって」
「え? 日野さんと及川くんが似てる?」
 俺の回答は阿部さんにとっては不意打ちだったようで、目をぱちぱちと数回瞬かせている。
「全然似てはらへんと思いますけど……日野さんは落ち着いてはるし」
「ちょっと、阿部さん。俺が落ち着いてないみたいな言い方になってんぞ」
「そりゃ聖よりは落ち着いて見えるだろうが……
「皐月さんも否定してよ。なんでそうなるんだよ」
「まあまあ。新歓のときに日野さんとどんな話したん? 教えてぇや」
 待ってましたと言わんばかりの表情で聖は銀髪を掻き上げるとテーブルに頬杖を突いて口を開く。
 俺の左目に映る及川聖の横顔は暖色の照明を受けて楽しそうに煌めいている。スッと鼻梁の通った端整な顔立ちをした男が浮かべる少しだけ幼く見える表情は大学時代から変わらない。本来、喜怒哀楽のわかりやすい男だが、それを表現できるのはこういう気の置けないメンツが揃っているときだけだ。悪く言えば、普段は猫を被っているような男。
 サークルに入ってきたときはそれが顕著だった。人当たりもノリも良く、誰からも可愛がられるような世渡りの上手い人間――他人にそう見えるように振る舞うので精一杯の、俺と似た男だ。

 誰しも他人から良いように見られたいという思いを抱く時期はある。人目を気にしない人間の方が少ないだろう。聖は特にそうだった。音楽は勿論好きだが、積極的に音楽活動をするというよりもむしろ、人間関係を構築することの方に焦点が当たっていた。だからこそ誰にでも好かれるような楽しくて面白い男として振る舞っていた。そして誰が見てもこの男は整った顔立ちをしている。俺ほどではないが周りの人間よりは背も高い。生まれ持った素質を遺憾なく発揮して女を取っ替え引っ替えしてはサークル内で問題が燻ることもあった。だが、この「燻る」という段階で終わっているのが聖の能力といえるだろう。「及川だからなあ」、「及川くんなら仕方ないかあ」で済んでしまうのだ。迷惑な男ではあったが、可愛がられていた。そして俺も「楽しくて良いヤツ」と評価していた。俺と似たような苦しみを抱えながらも、俺よりも遥かに人間付き合いが上手い男だと思っていた。
 だが、その評価がある出来事で一変する。

 大学二年生の冬。
 大学の近くに下宿していた俺の部屋はサークルメンバーの溜まり場となっていた。よくある話だろう。しかし、その当時、同じサークルの女子と交際を始めたため、そのことを知った友人らの足が遠のいていた時期でもあった。同学年のメンバーに預けていた合鍵を恋人に渡したことがもっとも大きな要因だったと思う。だが、そんなことにも構わず俺の部屋に通ってきていたのが及川聖だった。勿論、夜が深くなる前には帰宅するくらいの良識を持ち合わせていたため、恋人との時間が極端に削られていたということはない。むしろ彼女も聖の来訪を歓迎していたため男ふたりと女ひとりの三人で音楽を楽しんだり、映画を観たりして過ごすことも多かった。聖を後輩として可愛がる時間も、恋人とそれらしいことをする時間もバランスよく存在していた。そう俺は思っていた。
 その日はコンビニバイトの時間が伸びてしまった。路面凍結の影響で流通が滞っており、商品の搬入時間がずれてしまった。搬入された商品は検品する必要があり、自ずと残業になるということはわかりきっていた。その日も部屋に恋人が来ていることはわかっていたため、客足の途絶えたタイミングを見計らって帰宅時間が一時間ほど遅れるというメッセージを送信すると「はーい」という返事とともにファンシーなキャラクタースタンプが送られてきた。
 しかし、搬入トラックは俺の予想よりも早く到着して、三十分程度の残業をするに留まり、検品作業を終えた俺は忙しそうな夜勤従業員を尻目にそそくさと帰宅することになった。
 雪は降っていないが、路面凍結するほど寒い日。徒歩圏内でバイトを探しておいてよかったと俺は心底安堵した。寒さにぶるぶると身を震わせながら首元に巻いたマフラーへ鼻先まで顔を埋める。早く帰りたいと思うあまりに自分の夕飯を調達してくるのを忘れていたことに気づき一度足を止めるが、歩くのをやめた途端に爪先から寒さがしみてくるのを感じ、やはりすぐにでも帰宅しようと早歩きになって帰り道を進んでいった。
 街頭に寒々と照らされた道とその光量のおこぼれに預かって俺の部屋があるアパートの輪郭が見えてくる。
 ――やっと暖かい場所に戻れる……
 そうホッとしたのも束の間だ。一歩近づくごとに何やら人声が聞こえてくる。大学付近ということもあり、学生が騒ぐというのは度々発生する出来事ではあったが、大人数で何か話をしているという様子ではない。そもそもこんなに寒い日に外で馬鹿騒ぎをする集団は稀だ。一歩、また一歩と足を踏み出すと、何やら聞こえてくる声は二種類。男女の声だった。どんどん進んでいくとその二種類の声は明らかに聞き覚えのあるものだとわかった。
 ――聖もいるのか……
 その声は恋人の声と聖の声だった。しかも尋常ではない。どちらも怒声をあげているのだけがわかる。
 俺の部屋で喧嘩をしているとわかった瞬間、路面が凍結していることも忘れて俺は慌てて走り出す。喧嘩を止めに入らないとまずいという思いと、近所迷惑だからやめてくれという思い、そしてほんの少しの戸惑いが俺を焦らせる。
 エレベーターのついていないアパートだが俺の部屋は二階に位置していたためそこまで時間もかからず駆け上がることができた。息を切らしながら俺の部屋の方を階段から見ると、乱雑に放り出された彼女のカバンと靴、そして上着が廊下に転がっており、玄関の外には裸足で半狂乱になっているとも言えるような恋人の姿があった。彼女は俺の部屋の扉を拳で何度も叩きつけながら何かを叫んでいる。その姿を見て心配よりも先に恐怖が俺の胸の内に湧いた。だが、止めないわけにもいかない。
……おい、どうしたんだ!」
 俺の声が届いたらしい。彼女は扉を叩く手を止めてこちらを見る。暗めのブラウンに染められた長髪が乱れ、よく見ると服も少々はだけていた。
 ――聖は何をしたんだ?
 次に湧いてきたのは怒りだった。聖が俺の恋人に何をしたのか、様々に最悪な事態が思い浮かぶ。
 息を切らしたままの俺に彼女は駆け寄ってくると泣き顔で俺に抱きついてきた。それまで半狂乱で暴れていたためか、彼女の体はかなり温かく感じた。
「皐月くん! 違うの、私、私……!」
「何があったんだ……部屋にいるのは聖だな?」
「聖くんだけど、でも、私は違うの……!」
 何やら必死に「違う」ということだけを告げられ、さらに混乱した。何が違うのか。彼女は必死に何らかの誤解を解こうとしているようだった。だが、俺は何かを誤解するだけの情報を持ち合わせておらず、まずは彼女を落ち着かせようと試みる。
 しかし、その瞬間に俺の部屋の扉が開いた。
「皐月さん。おかえりなさい」
 いつもの調子で「おかえり」と挨拶をしてくる後輩が扉から顔を覗かせる。
 その顔は笑顔を作っているように見えたが、明らかにわかる。怒っている。及川聖は怒っていた。
……聖、何をした?」
 これは純粋な疑問だった。一瞬沸き起こった怒りなど本当にどこかへ飛んでいって、戸惑いだけが残っていた。
 聖が何に怒りを感じているのか、そして彼女が何の誤解を解こうとしているのか、すべてわからない。だが、冷静に廊下を観察すると少しだけ何かがわかった気がした。
 考えうる最悪の事態は聖が俺の恋人を強姦しようとしたというものだが、おそらくそうではない。彼女の持ち物はすべて「放り出されている」。聖は彼女を襲うどころか、俺の部屋から閉め出したのだ。
 俺の問いに聖は無表情になると、俺ではなく彼女の方に視線を落として吐き捨てるように言い放った。
「早く帰れよ。あんたに皐月さんは勿体ない。セックスしたいだけならそこらのバカ男でも引っ掛けてこいよ。そんな貞操観念で皐月さんの恋人を気取るのは恥ずかしいよ、あんた」
「ち、違う! 私は……!」
「あんたから誘ってきたんじゃん。俺はあんたのことは抱けねえって言っただろ。俺は誰とでもヤる男じゃねえよ。しつこくしやがって……さっさと帰れ、このクズが」
 聖の女遊びがひどくとも「及川だから」で許されてきたのは、人当たりが良く、人の女には手を出さず、なおかつ遊んだ相手へのアフターフォローが上手いからだ。俺の知っていた及川聖は相手をクズだと思っていても、平気でそれを口にするヤツではなかった。
 だが、そんな男にそこまで言わせてしまった。
 及川聖が遊び人だからこそ俺はわかってしまった。そしてこの男が俺をどれだけ慕っているか知っているからこそ、十分に伝わってしまった。
 可哀想に思えていた女の泣き顔が途端にぐにゃりと歪んで見えた。これはどういうことだろう。はっきりと彼女の輪郭を捉えているのに、彼女の泣き顔に変化はないのに、歪んで見える。
 熱を持った肉体を抱えていた腕から自然と力が抜け落ちていく。文字通りの虚脱感だ。苦しかった呼吸も既に整っていたはずなのに、急速に気分が悪くなってきた。そして何より、寒い。
「皐月くん、違うから。聖くんの言ってることは、違うから……
 目の前の女が何を言っているのか上手く理解できなかった。だが、違うと必死に言っていることこそが違うということだけは直感的にわかった。
 女にかけるべき言葉がわからなかった。何を言えば良いのか、どうすればこの場が収まるのかわからなかった。
 だからこそ俺は、途切れ途切れに言葉を紡ぐことしかできなかった。
……事情は……また、聞く。ごめん、ちょっと……時間が、欲しい」
「皐月くん、違う、私は……!」
「ごめん、本当に。ちょっと気分が……
 もはや足を踏ん張ることもできないのかと思った。全身から一気に力が抜けていく。このままではまずいと思うのに、俺は自分の体をコントロールすることができなかった。
 そのときだった。
「皐月さん!」
 何かが俺の目の前に差し出される。崩れる体はそれに支えられた。衣服は温かいのに、俺を抱えている腕はひやりと冷えていた。
 寒かった。ただ寒かった。なのにどうしてだろう。その冷えた腕の中では温もりを感じ取ることができた。

「ほら、食べて。どうせまた腹減ったとかでしょ」
 狭い卓上にはインスタント味噌汁とパックごはんが並べられていた。これは家に常備しているものだ。どちらもほかほかと湯気を立てていて、とても美味しそうに見える。だが。
……食欲、ない」
 喉元に何かがつっかえているような感覚がいつまでも消えない。
 俺の体たらくを見てさすがに今は撤退すべきだと悟った女は既に帰宅していた。
 目の前に置かれた食事はすべて聖が用意したものだった。生タイプの味噌の良い香りが立ちのぼり、普段であればすぐにでも手をつけているところだ。しかし、本当に喉に何かがつっかえているように感じた。
 だが、そんな俺の事情など聖にとっては関係ない。というよりもむしろわかっていると思う。わかっていて、こう言うのだ。
「嘘つき。食べろ」
 今の俺には酷なセリフだ。確かに腹は空いている。だが、本当に喉の違和感が拭えない。
「いや、マジで……食う気力がなくて……
「食べろ」
……無理だって……
 俺の情けない声に、ベッドの上に腰掛けていた後輩は大袈裟に溜め息を吐き出した。それと同時に大量の煙が部屋を満たす。ベッドの上でタバコを吸うなと普段から散々言っていたのに、今は無視してタバコを吸っている。だが、男は吸いかけのタバコを灰皿に乱暴に押し付けると、次はカーペットを敷いた床の上に座っている俺の隣にどかっと音を立てて腰を下ろした。
「皐月さん。絶対エネルギー切れ起こしてるから、食べて」
 端整な顔立ちの銀髪の男が半ば睨むようにこちらを見ていた。迫力がある。本来であれば威圧的に感じるだろう表情なのに、俺はなぜだか、喉の異物感が少しだけ治ったような感覚になった。しかし、それでも気力は湧かないのだ。
……もう放っておいてくれ……
「ダメ。皐月さんがごはんを食べるまで帰らねえから、俺」
……勘弁してくれ……
「いや、勘弁も何もない。一旦、エネルギーを入れて。色々考えるのはそのあと」
「きつい……
……まったく……
 聖はもう一度これ見よがしに溜め息をつくと、卓上に置きっぱなしになっていたふりかけに手を伸ばし、パックごはんの上へ雑にぶちまけた。ふりかけのチャックを閉じると、次は俺の目の前に置かれていた箸に手を伸ばす。
 何をしているのだろうとぼんやり眺めていたが、聖の持った箸の先がパックごはんに差し入れられ、一口サイズのごはんの塊がそこへ乗っかった。
「はい、口開けて」
 ごはんの乗った箸先が俺の口元へ運ばれる。俺は本当に何が起きているのかわからず、首をゆっくり傾けた。
 ――口を開けるってどういう意味だ。
「皐月さん。ほら、あーんして」
 そこで俺はようやく、聖の意図を掴むことができた。
 ――コイツ、無理やりにでも俺に食事をさせようと……
「いや、あの、自分、食べれる、ます」
 動揺した。動揺しかない。俺は自分でも何を言ってるのかわからなかったが、ともかくこの状況が受け入れがたかった。
 だが、目の前の男はムッとした表情で俺を睨みつけたままだ。
「なんでカタコトになってんの。食べれねえって言ってたの皐月さんじゃん。食べさせてあげるから口開けて」
「待て、マジで、待て」
「待たない。ほら、あーん」
 目の前の男は本当に俺の言うことを聞かない。俺のことを慕っている気持ちだけはびしびしと伝わってくるのに肝心なところで俺の言うことを無視する。否応なしに箸先と唇の距離を詰められる。だが、俺も俺でちょっとしたプライドじみたものはあるのだ。口を固く結んで、なんとか聖の試みを中断させようとするが、既に唇にはごはんを押し当てられていた。
 ――どうすればいいってんだよ……
「口開けて、ほら、あーん。子どもでもできるよ」
 うるせえ。そんなことはわかってんだよ。バカが。
 心の中でいくら悪態をつこうが、聖には届かない。だが、悪態を届けようとして口を開けばその瞬間にほかほかの温かなごはんを口内に突っ込まれることは火を見るより明らかだった。
 謎の攻防戦が繰り広げられている。俺は成人男子としてなんとしてもその矜持を維持したかったのだが。
「ちょっ、落ちるって! 早く食べて!」
 男ふたりで無意味なことをしているうちに、絶妙な均衡の上に保たれていたごはんが箸からこぼれ落ちようとしていた。それを目撃した俺は俺で慌てて口を開き、箸の上に載っていたごはんが床へ落ちることを回避した。
 口内にはふりかけのしょっぱさと米特有の甘さがじわりと広がっていく。そして流れに任せるまま、それを飲み込んでしまった。
「どう?」
 どうもクソもねえよ。
 そう言ってやりたいのは山々だった。だが、目の前の男は先程までのいかめしい顔から一変、明るい色の瞳に安堵と心配とを滲ませてこちらを見ていた。そんな表情を見せられては、俺も何も言えなくなってしまった。
 何よりも、ごはんを一口胃の中へ入れてしまうと、自分がいかに空腹であったか、そして思ったよりも食べられそうだということがわかった。
 やられたと思った。全部、聖の思う通りだっただろう。圧倒的にエネルギーが足りていない。だが、それを素直に認めるのも癪だった。俺は聖の手から黙って箸を引ったくり、味噌汁の入った汁椀に手を伸ばす。
 途端、隣の男の空気が和らいだのを感じた。横目でちらりと聖を見ると心底安心したような微笑みでこちらを眺めているのがわかった。
 ――コイツは良いヤツなんだ。俺はそれを知っている。だが、良いヤツとはいえ、ここまで世話を焼いてくるのはなぜだ。
 ごはんと味噌汁というシンプルな夕飯を勢いよく完食し飢餓感が癒されると、次にやってきたのはとてつもない睡魔だった。あくびが止まらない。講義を受けて、バイトに行って、家に戻ってきたら訳のわからないことになっていて、後輩に無理やりメシを押し込まれ――疲労の理由はいくらでも思い当たる。
「皐月さん、眠たいの?」
 食事を終えるまでは黙っていた聖がタバコをふかしながら俺に尋ねる。煙の中で微笑みを浮かべているこの男の色っぽさは同性の俺でもわかった。わかるからこそ今度こそ本当に情けなく、見すぼらしい気分になってしまった。
 聖の言葉を信じ、あの状況をよくよく思い返せば、俺の恋人が聖に抱かれようとしていたのだということがしっかりと理解できた。そしてその誘いを目の前の男は断固として拒絶したという事実も、俺を慕って甲斐甲斐しく世話をしていることも、すべてが俺の矜持をへし折る。本当に情けない。
 そのとき、疑問が蘇る。この男はどうしてここまで世話を焼いてくるのか。
 だが、その疑問を聖に直接ぶつけるのはなんだか違う気がした。
……眠い」
「そっか」
 ふふ、と聖が笑う。甘い目つきだと思った。
 今の俺には劇物だと感じた。
 俺と似ている男だが、聖は俺と違う人間だ。しかし、違うからこそ心地良いのだと気づいた。
「今日はそのまま寝たら? 風呂入るのも大変でしょ。それとも俺が皐月さんの背中、流す?」
 上手く働かない思考は、聖がとんでもない提案をしてきていることにも気づけなかった。
「風呂、入りたい……でも眠い……
「俺はどっちでもいいよ。皐月さんが決めなよ」
……わからない……
「うーん……とりあえず湯船にお湯張る? まだ体、冷えてるでしょ」
 真っ白なシーリングライトの下、紫煙をくゆらせて男は笑う。派手な銀髪がきらきらと俺の目を突き刺すのに、甘い視線が俺を包み込んでいるようだった。そしてその視線は俺を包み込むだけでなく丸め込む。
……風呂、浸かりたい」
 そうぽつりと溢すと、男はまた「ふふ」と笑い声を漏らして、吸っていたタバコの火種を揉み消した。
 甘い色をした瞳が急接近してきたかと思うと、そのまま肩を抱き寄せられ、男の手が俺の頭を優しく撫でた。
「ん、わかった……ちょっと待っててね」
 耳のすぐそばで聖の穏やかな声が囁く。外で支えられたときとは違って、その体はとても熱く感じた。俺とは違う銘柄のタバコの匂いで肺が満たされる。聖の匂いだ。
 それを知覚した瞬間、俺はとてつもない激情が胸の内から湧いてくるのを感じた。
 ――俺には聖しかいない。
 焦燥に似た、だが確実に自覚した恋慕だった。
 俄かには信じがたい自身の気持ちに、俺は混乱した。心の中で嵐が巻き起こっている。だが、俺はそれをどうすれば良いのかまったくわからず、そのまま聖の肩口に額を押し当てる。
 一時の、いわゆる気の迷いなのかもしれない。しかし今抱えているこの気持ちは確実にここに存在している。自分で自分の気持ちが飲み込めず、そんな自分がまたより一層情けなく、とんでもない熱が胸から込み上げて鼻をつんと刺激し、ついには自身の目が潤んでくるのを感じた。
「そんなにくっついてたら風呂に入れないよ?」
 またも優しく、低く囁かれる。その低くて穏やかな声に胸がキュウと締め付けられる。締め付けられた弾みで熱が再び駆けのぼり、目頭から一雫、何か熱い液体が溢れてきた。暖房の効いた部屋ということもあり、薄手のシャツを着ていた聖も俺が涙を流していることは気づいただろう。
 傷心して、後輩の胸を借りて、あまつさえその後輩に恋慕を覚えているという今の俺は一体何なのか。何度も何度も自分の情けなさを突きつけられる。それを言葉にすることもできず、たださめざめと涙を零すことしかしない俺はどこまでいってもダメな男のように思えた。
……泣いちゃった? やっぱり風呂、やめとく?」
 表情は見えないが気遣わしげな声色。俺がどこまでいってもダメな男であるなら、目の前の男はどこまでも俺に甘い男だった。
……風呂は、入る……
 なるべく声が震えないように返事をしようとすると、とんでもなく小声になってしまった。しかし、男はそんな俺を笑い飛ばすこともなく、また優しく言うのだ。
「でもこんなにくっついてたら、俺も皐月さんから離れられないよ」
 聖の言うことは理解できる。同時にこの泣き顔を見られたくないという気持ちと、何より、一度離れてしまえば聖がどこかへ行ってしまうのではないかという、意味不明な思いが渦巻いていた。
……ごめん」
「皐月さんが謝ることじゃないでしょ。大変な目に遭って、しんどかったんだし、仕方ないよ」
 後頭部に添えられた手がゆっくり繊細な動きで何度も撫でる。その手つきがさらに俺の激情を煽る。熱が目頭に留まらず脳天にまで届いて、支配する。その熱が恋慕であることはもはや疑いようもなくなっていた。ずっとこのままでいたい。そんな甘えた考えが俺の思考を邪魔する。
「ご、めん……ごめん、なさい……
 そんな考えが俺を後ろめたい気持ちにさせる。口をついて出るのは謝罪の言葉しかなかった。それ以外に思い浮かばなかった。聖は俺のことを可哀想な先輩として慰めてくれているだけだろう。それなのに俺は邪な思いを抱いている。だがこれをすべて説明することは難しく、ただ謝る。俺にできるのはこれだけだ。
 謝罪の言葉すらすんなりと紡ぐことができない。途切れ途切れの謝罪が自分の耳に響くたび、俺は俺自身の存在がどんどん小さなものになっていくように思えた。
 俺の後頭部を撫でる手が余韻を残すように静かに止まる。
 やめるな、お願いだ、離れないでくれ。そう思うのに、それを言葉にするのは憚られた。
 聖は良いヤツだ。だからこうして俺を慰めてくれているだけなんだ。だから、「離れないで」なんていう身勝手は俺には許されない。
 案の定、聖は後頭部に添えていた手を離して俺の肩に滑り下ろすと、ゆっくりと押し返してきた。流れに身を委ねるしかない俺は、胸中では離れたくないと強烈に思っているのに、聖の熱が離れていくのを受け入れる。
 泣き顔を見られたくなくて、そして聖の表情を視界に入れたくなくて、俺は床に敷かれたカーペットを見つめていた。止まることを知らない涙は、カーペットをぽつりぽつりと濡らして、いくつかシミを作っていく。
 次々出来上がるシミを見つめていると、肩を支えていた聖の手が俺の濡れた頬を撫でてきた。その手はとてつもなく熱い。否、俺の頬が熱いだけなのかもしれない。とにかく、聖に触れられた頬が発熱しているかと思うほどだった。
 聖が俺の頬を撫でている理由がわからず、そして触れられて俄かに浮上した喜びと、そんな邪な思いを抱いた罪悪感でまたも思考が錯綜する。そんなふうに俺が固まっていると、低い声が優しく囁く。
「ねえ、謝らないで、皐月さん。俺はこうやって皐月さんの弱いところを見せてくれるのも嬉しいんだ。だから、ごめんなんて言わないで」
 涙は止むことを知らない。そうしているうちにどんどん聖の手が濡れていくのに、なおもその手は熱い。
 ――頼むから、そんな言葉を俺にかけてくれるな。そんなふうにされると、俺は。
「大丈夫、ね。皐月さんの顔、見せてよ。俺はこんなことで皐月さんを嫌ったりしないよ――本当に今、嬉しいんだ」
 ――そんなふうにされると俺は。
「やめてくれ……勘違い、するだろ……! 俺、俺は……
 涙がさらに溢れてくる。零れ落ちる。既に濡れきっていると思っていた頬がさらに濡れて、俺の顔も聖の手もぐしゃぐしゃになってしまう。寸前で堰き止められていた言葉がぐちゃぐちゃとした濁流となって口から吐き出される。
「お前は、良いヤツだ。本当に、本当に……俺は、お前がいてくれて良かったって、思ってる。でも、お前の優しさは、俺が勘違いしてしまうだろ……! お前は誰にでも優しくて、楽しくて、良いヤツで……俺、俺は……!」
「勘違いじゃないよ。俺は誰にでも優しい人間じゃない」
「じゃあ、なんなんだよ!」
 この言葉は完全なる八つ当たりだとわかっていた。俺は勢いのあまりとうとう顔を上げてしまった。
 間近で聖の端整な顔を見つめることになってしまい、その男がいつになく真剣な表情でこちらを見ているのがわかった。
……皐月さんだけだよ、俺がこんなふうになるのは」
 甘さを宿した明るい色の瞳は真剣に俺だけを見つめていた。その瞳の中に映る男の表情は悲壮と呆然が混じり合ったものだった。聖の発した言葉が上手く飲み込めない。勘違いじゃない、皐月さんだけ、とはつまりどういうことなのか。
「まだ、わからない?」
……わかるわけ、ない」
「そうだね、皐月さんはそういう人だよね。そこが可愛いんだけど」
 可愛いとは。
 混乱がさらなる混乱を招き、脳内は混沌としている。俺の思考が半ば停止状態になっていることは聖にも見透かされている。それくらいのことはわかった。
 ごちゃごちゃと色々考えているうちに、甘い色をした瞳がゆっくり目蓋に閉ざされ、整った造形をした顔がさらに距離を詰めてくる。
 そして強烈な熱を、唇に感じた。
 唇や聖の手が触れている頬だけではない。その強烈な熱はやがて全身を駆け巡り、今までに感じたことのないほど心臓が馬車馬のように動き猛烈に胸を叩く。
 思考が止まりきってしまった俺は、あとはもう、自身の衝動に身を委ねるしかなかった。

「はあー。大学生のときから日野さんはそんな達観した人生観を持ってはったんやねえ」
「何よりも大学で学んだ知識を人生に入れ込んで、それを俺にもわかりやすく語ってくれたってのが本当にすげえってなってさあ。俺はこの人についてこうってなったわけ。最初は退魔師なんか目指してなかったけど皐月さんがその道に行くなら『怪異が見える』俺もそうなろうと思って」
「及川くんってバカは嫌いな偉そうな人間やもんなあ。そら賢そうな人に惚れるわけやわ」
「おい、今サラッと俺の悪口言わなかったか」
「悪口やなくて事実やろ」
「はい、事実陳列罪! 逮捕、逮捕!」
 大学時代の苦い出来事に思いを馳せている間に聖の演説が終わったらしい。後輩ふたりは楽しそうに盛り上がっている。仲が良さそうで実に良いことだ。
 腹も満たされ、良い具合に酒も入って、気持ちが良い。これくらいにしておくのがちょうど良いだろうと思い、そろそろお開きにしようと思ったのだが。
「で、日野さんはなんで及川くんと付き合おうってなったん?」
 酔いが回っていつもの敬語がどこかへ行ってしまった阿部さんが今度は俺の方に視線を向ける。
 聖と交際するきっかけになった出来事を思い出していた俺にとって、正直なかなか答えにくい話だった。だが、聖が長々と俺の良さを語るのを聞いていた阿部さんにとって「なんで」はまだ伝わりきっていないはずだ。新歓でのことはあくまで聖が俺に惚れたきっかけであって、交際を始めたきっかけではなかった。
 俺は少しだけ考えを巡らせる。どう話せばわかりやすいだろうか。
……そうだな……
「わ、教えてくれるんや。はぐらかされるかと思ってたのに」
「さすがにな。聖の長話に付き合ってもらったお礼はしないと」
 長話じゃない! と何やら横がうるさいが、俺は自然と口角が上がっていく。
 苦い思い出も、コイツがいるから悪くないと思えるんだ。
「簡潔に言えば『どうしたの、話聞こうか?』、『俺ならそんな思いさせないのに』案件だな」
「うっわ……ええ……それってつまり……
「傷心していた俺がつけ込まれたんだよ、聖に」
 聖の方へ阿部さんの冷ややかな視線が注がれる。傷心の人間相手にアプローチをかけること自体は否定されるようなものではないが、これは日頃の行いの結果と言えるだろう。及川聖とはそれくらい、いろんな人の心に潜り込んで、可愛がられる男だ。しかし、それ故に聖の本性を少しでも知っている人間からすれば「やったなコイツ」と思われるのだ。
 阿部さんの冷たい視線に耐えかねたのか聖は再び俺の肩を軽く叩く。
「なんだよ、その表現! 誤解だ!」
「誤解じゃねえ。事実だろうが」
「いやあ……さすが、及川くん……やるなあ……
「『やるなあ』じゃないよ、阿部さん! 俺はずっとずっと皐月さんのことしか見てなかったの! たまたまそういう流れになっただけだから!」
 聖がどう弁明しようと阿部さんからの評価が変わるわけでもない。
 だが、その聖の必死さはやはりどこか愛らしくて、自然と自身の口から笑い声が漏れてしまった。