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果南(カナン)
2026-03-05 01:10:23
1998文字
Public
さめしし
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特別な日常
さめしし。2026年のさしの日ということで書きました。何でもない日が嬉しいさめ先生の小話です。(初出:2026/03/04)
本を抱えて、ソファーの定位置に陣取る。
いつも通りにクッションの位置を整え、ゆったりともたれて足を伸ばした。挟んでおいた栞を抜き取り、開いたページに眼を走らせる。すぐに中断していた文脈が蘇ってきて、滞りなく脳内を走り始めた。
さらさらと流れるように、文字が意識の内に滑り込んでくる。自由に巡り、互いに結びついて、理解と知識に変わっていく。その実感が心地良い。
胃は獅子神の作ってくれた夕食で満たされているし、舌の奥にはまだデザートの甘い名残りが感じられる。キッチンからは片付けを進める彼の動作が、音と気配で逐一伝わってきていた。水と食器の触れ合う音、洗剤の微かな香り。グラスや皿に付いていたワインやトマトソースの匂いが、すっきりと消えて静かな空間になっていく。
満ち足りて、寛いで過ごす、このひと時。
当たり前のようにこうして居られる、日常。
共に健康で過ごし、美味しいものを食べ、自然に寄り添う。互いが互いを、愛おしく手放したくない相手として求め、大切に慈しんで。
獅子神と、暮らしていく日々。
これは、誕生日や何かの記念日ではなくても、十分に祝うに値することではないだろうか。
「『何でもない日、おめでとう』というやつだな」
口に出すと、獅子神がキッチンで訝しげな顔になった。
「は?」
大きな手が掴んでいたスポンジを置き、流れていた水を止める。声を遮る音が無くなったところで、私は獅子神に向かってもう一度言葉を繰り返した。
「『何でもない日、おめでとう』だ」
「
……
何だよ、その皮肉な寓話みたいなヤツ」
「当たらずとも遠からじ、といったところか。元は『不思議の国のアリス』に出てくる言葉だ」
「へぇ
……
」
歯切れの悪い相槌が返ってくる。半分納得したが、真意は掴めていない、というところだった。
私は本に栞を挟み、脇に置いた。ほどなく獅子神が手を拭いて、キッチンを出てくる。
まっすぐに歩いてきて、私の隣に腰を下ろした。
「獅子神」
呼びかけると、薄青色の瞳が私を見つめた。
逞しい腕が伸びて、私を抱き寄せてくれる。
「ふふ」
厚い胸に頭を乗せ、胴に腕を回すと、ひとりでに笑みが漏れた。馴れたニットの布地越しに伝わってくる、体温と心拍に感覚を浸す。
ふふ、と獅子神も笑った。
「なんか、猫みてぇ。お前」
「猫?」
「ゴロゴロ、って喉鳴らしそう」
「
……
ふん」
私は軽く口を尖らせてみせたが、それ以上反論はしなかった。かわいいという意味で言われたのは、わかっていたからだ。
それに、この状況に満足しているのは事実だ。
どう言われても、仕方がない。
「村雨? 怒った?」
「いや」
小さく首を振って、顔を上げた。
薄青色の瞳が、微かに揺れている。綺麗で、偽りのない輝きが愛おしかった。
私の大切な獅子神。
「あなたと、こうして」
視線を離さずに、言葉を紡いだ。
「何でもない日に満足していられるのは、とても得難く、素晴らしいことなのだと考えていた。あなたの、おかげだ」
「村雨」
「ありがとう、獅子神」
「えっと
……
うん、こちらこそ」
素直な頬がじわりと赤く染まり、厚い大胸筋の奥で心拍数が跳ね上がる。汗の香りが立ち昇り、ふわりと鼻腔をくすぐった。
ぎゅっと強めに抱きしめられる。
私も腕を広げて、改めて彼を抱きしめた。温もりをいっぱいに感じて、匂いを吸い込む。
ふと、耳元に唇が寄せられた。
「お前、いま満足してるの」
「そうだな。概ね」
「
……
もうちょい、上げてみたくね?」
艶を含んで、囁く声。
わかりやすくて、自ずと私の口元も綻んだ。
「ほぅ。例えば?」
「この後、一緒に風呂入るとか」
「それだけか?」
「そりゃ
……
その時次第だろ」
色香と照れを半々に交えて、獅子神が言う。ぶっきらぼうな口調では隠しきれない期待を覗かせて、愉しげに私を誘う。
退けることなど、できるはずもない。
元より私も、また望んでいるのだ。
「では、獅子神」
ちゅ、と目の前のうなじに吸いついて、了承を返した。
「あなたの、望み通りに」
「おぅよ。じゃあ風呂沸かしてくるか」
「コーヒーも頼む」
「へーへー」
苦笑しながらもキスをしてくれて、獅子神が立ち上がる。その背を見送って、ソファーのクッションにもたれ直して、足を伸ばした。
脇に置いていた本を取り、開く前に眼を閉じる。
何でもない日が、幸せなこと。
特別ではないからこそ、それが特別で。
明日も、その先もずっと、私は獅子神を手放す気はない。
これがただの日常として、何でもない日として、寿がれ続けること。
私たちだけの特別が、これからも当たり前であり続けますように、と。
強く、強く祈ってから眼を開けて、読みかけの本の栞をそっと摘んだのだった。
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