ねぶくろ
2026-03-04 19:48:23
1707文字
Public Skeb
 

Silver tongue

Skebにて納品した作品です。

 連れ立って入ったカフェは満席状態で、予約表に名前を記入する必要があった。
 先を歩いていた連れ合い、──無徒むと嵩良たからがペンをとり、並んだ空欄に文字を書き込む。彼の半歩後ろに佇んだ狭霧さぎり愛央あおは、待合の椅子に向かう途中でその手元を盗み見た。嵩良の筆跡で、『狭霧』と記入された予約表を一瞥し、列の先頭の席に腰を下ろす。愛央は、その場に立ったまま予約表の傍に置かれたメニューをめくり始めた嵩良を見上げて、「キミさぁ、」と呆れたように声をかけた。
「なんでいつも俺の名前で予約するの?」
 何かよからぬ理由があるのか、と訝しんで彼を窺えば、嵩良はメニューに目を向けたまま、「無徒よりも読まれるから」と素っ気なく応じた。
 予想外の回答に、意表を衝かれて目を瞬く。確かに、彼の言う通り、無徒という苗字はかなり珍しく、それゆえ読み方がわかりづらい。狭霧もそれなりに珍しい苗字ではあるが、無徒に比べればはるかに読みやすいだろう。店の予約でいちいち読み方についての問答をするのは手間だし、偽名を使うよりも同行者の名前を使った方が、混乱が生じない。
 なるほどね、と納得して相槌を打つ。嵩良は、メニューへ落としていた目を上げて、揶揄うような笑みをこちらへ向けた。
「何か特別な理由があると思った?」
 問われて、顔をしかめる。愛央は嵩良を睨みつけると、「いやな人」と軽いため息を吐いた。見上げる角度で彼と視線を合わせて、赤く燃える瞳の奥に向けて言葉を放つ。
「嵩良くんって俺の名前を呼ばないでしょ? なのにいつも俺の苗字で予約するから、もしかして、たった二文字も覚えられないのかと思って心配してただけ」
 その分じゃ覚えてはいるみたいだね、と厭味ったらしく笑い交じりの声で彼に問いかける。嵩良は大して堪えた風でもなく、むしろ意地の悪そうな笑みを深めて、ゆっくりとその顔を愛央に近づけた。
……そんな風に言うってことは、呼ばれたいんだ? 俺に」
 ゆっくりと嬲るような物言いに、頬に熱が集うのを自覚する。嬲られたことへの怒りか、図星を衝かれたことへの羞恥か。──自身の心情を整理しきらないまま、売り言葉に買い言葉とばかりに、愛央は彼を睨んで、「悪い?」と言い返した。
 まさか肯定するとは思わなかったのか、嵩良が意外そうに目を瞬く。愛央は手にした扇子を口元に当て、「いくらキミでも、『寿限無じゅげむ』くらいは知ってるでしょ?」と上目遣いに彼へ尋ねた。
「あれは極端な笑い話だけど、寿限無に代表されるように、名前には親の愛情が込められている。自分の名前って、大抵の人にとっては何より大事な言葉なんだよ」
 名前は、『生まれて初めてもらうプレゼント』と称されるほどに、その人物にとって特別な意味を持つものだ。たった二文字、されど二文字。落語家として言葉をあきなう愛央にとって、その意味は格別だ。
 嵩良から目を逸らすことなく、言い募る。
「キミがどんな声で僕を呼ぶのか、興味がないと言ったら嘘になる。……呼んでみてよ、嵩良くん」
 真っすぐに迫ってみれば、嵩良は珍しくふいと目を逸らした。固く閉ざされた口からは、いかなる言葉も紡ぎ出されない。何が何でも呼ぶまいと決めたのか、彼はそっぽを向いて、拒絶を示すように腕を組んだ。
「泣く子も黙らす極道者のくせに、自分が黙っちゃってどうしたの?」
 神経を逆なでして口を開かせようと尋ねてみても、彼は煩わしそうにこちらを睨むばかりで答えない。名前を呼ばれないのは残念だが、──言い返してこないのをいいことに、愛央は目を細めて意地悪く口角を持ち上げた。
「簡単に呼べないくらい、俺の名前が特別なんだ?」
 図星を衝かれてか、彼が顔をしかめる。丁度そこで席が空いたらしく、店員がやってきて予約表を覗き込んだ。二名でお待ちの狭霧様、と淀みない声が二人を呼ぶ。愛央は席を立つと、相変わらず黙り込んでいる嵩良の顔を覗き込んだ。
「今回は俺の勝ちみたいだね」
 上機嫌に笑って、店員の先導に続く。泣く子も黙らす極道者は、何か言いたげにこちらを睨むと、重たげな足取りで愛央の後に続いた。