いしえ
2026-03-04 19:13:43
4364文字
Public 封神一般向け
 

解釈/崑崙="先天"、金鰲="後天" ――人工的仙道づくりにおけるスタンス差

宝貝人間づくりにおけるスタンスの、崑崙と金鰲の差異や、趙公明門下におけるそれについて。

 宝貝人間づくり、厳密には人工的仙道づくりにおいて、崑崙と金鰲とでは根本的なスタンス、アプローチが異なる。


 崑崙では人間出身の仙道が多く、竜吉公主のように、仙人を両親に持つ純血型の仙道も存在する。そして竜吉公主の場合、その純血性ゆえに、仙人界の清浄な空気でしか生きられぬ制約がある。
 これを前提としたときに、崑崙における人工的仙道づくりでは、まず大前提として、公主のように生まれながらの仙道でありつつも、両親がともに仙人であることは避ける必要がある、という条件が生じるように思う。
 人間出身の仙道は、仙人骨という要因、即ち生まれながらに先天的に有する素質がなければならない。加えて、その要因を有しても、スカウトが来なければ仙道にはなり損なうという縛りがある。
 これらのことから、崑崙における人工的仙道づくりのアプローチも基本的に、『仙人を両親に持たずに、いかに先天的な仙道をつくるか。いかに、先天的要因を人為的に起こすか』に焦点の当たるものであったと考えられる。仙人が両親でなければ、生まれながらに仙道であっても空気の制約は生じないためだ。
 また、通常の人間出身仙道も、公主ほどの頭抜けた先天性でこそないものの、仙人骨という先天的要因により仙道となったものである。そのため、人間出身の仙道が多い崑崙においては特に、“先天性”という要因が、人工的仙道づくりの基本的なスタンスでありやすかったと考えられる。
 先天的な要因を、いかにつくるか。ヒトをそのまま創造することは、恐らく、技術的にまだ実装段階でなかった可能性もあるが、ヒト出身の仙道においては禁忌になった可能性もある。よって、今後の実装予定があったかどうかは未知なのでさておけば、崑崙においては、人造人間としての人工的仙道ではなく、ヒトの身の部分を借りていかに仙道のフォーマットに仕上げるか、という、ヒトの身体の一部から人工的仙道をつくる作業に焦点が当たったのだろう。これをたすけるものとして霊珠を開発したように思う。


 一方で金鰲では、人間出身の仙道も居るが、妖怪仙人が多い。妖怪仙人の場合でも、その元型が動植物であれば長命の個体であるという先天的特異性が必要となるが、モノや鉱物などの場合には、いかに良く月光を浴びられいかに長く存在し続けられるかという、後天的な、たまたまの要因も仙道化の一助となる。これが、人間出身の仙道との大きな違いであるように思う。即ち、先天的要因の影響もあるが、後天的な要因の影響が、人間出身の仙道よりも妖怪仙人においてのほうが強く生じやすいと考えられる。
 モノや鉱物などが長く存在し続けられるか否かを左右するものとして、自然の超越性ももちろんあるが、ヒトの営みの影響、という要因もある。ヒトの営みは、モノなどを損なう存在としても、それらを長持ちさせる存在としても、どちらの作用にも影響することができる。超越性だけでなくこうした人為性が影響することも、妖怪仙人が元型から仙道になれるのか否かにおいて、後天的な要因、偶発性の側面をある程度大きくさせるものと考えられる。
 妖怪仙人の場合、気に入ったモノを仙道にしようと考える者が居れば、場所を選びよく月光をあてるなど、工夫して効率的に辿り着くことも可能である。つまり、妖怪仙人においては、『妖怪仙人は人為的に作ることが出来る』という認識が、人工的仙道をつくる話が出るよりも前から、自然とあってもおかしくないように感じる。
 妖怪仙人の多い金鰲では、人工的仙道の本格開発が立ち上げられてからも、『既にある生命個体を、いかに後天的に、つよい仙道に仕立て上げるか』というアプローチをとったのではないかと考えられる。呂岳が馬元に霊珠を埋めたのも、既に仙道であるものの強化という手段だった。これは、仙道をイチから作るより効率的な、『兵器づくり』の視点だったように思わせる。即ち、崑崙のように子ども時代から育てる非効率よりも、もっと手っ取り早い手段をとった、と考えられる。このことが、『後天的要因により仙道として強化するが、その対象が先天的に既に仙道である条件を有する』点から、呂岳という人間出身の金鰲仙道における人工的仙道づくりが『後天的要因と先天的要因とを併有するという、妖怪仙人誕生に有する条件に近いものを持つ』ものであったと感じさせる。
 これを、呂岳の研究が崑崙のそれよりも比較的簡単な創造作業の段階までしか進んでいなかったととることももちろん出来る。呂岳の技術ではイチから創造することが出来なかった、という可能性もあるためだ。恐らく、その要因もあるのではないか。そして呂岳の場合、それをだれより理解した結果として、自分に実現可能な手法をとりその実装に持ち込んだ、という、シニカルな現実主義者の側面もあるのではないかと感じさせる。
 呂岳は、その封神時に元型にならなかったことから恐らく人間出身と考えられる。だが、恐らく生来残忍性があったようにも感じさせるし、趙公明門下に生きてきたことで、生来の希望とのマッチングもあり、超越段階のまねごとを望んだし、そこにヒトであれば禁忌、という意識がちらりあったようにも思わせる。だからこそ、というほどの熱でもなくて、それに酔いしれるでも恐らく無くて(趙公明の超越性に酔いしれる可能性はある)、研究者として、『後天的に、強い仙道を作り上げる』という課題にシビアに取り組んだよう感じさせる。最初のうちは苦労するたびギィギィ騒いでいただろうけど、だんだん、身の丈を理解して、スゥッとすごく醒めた状態に入って、ものすごく冷徹に、淡々と取り組んだんじゃないかなぁ。残忍よりももっと冷たい、醒めたものがそこに在ったように思わせる。シビアだな~~。

 また、これは私の願望なのだが、趙公明門下における人工的仙道づくりについて、一点、こうだったらいいなを述べる。
 私は、飛刀は、刃物マニア余化が気に入って意図的に月光を当て妖精化させたものであったらいいなと思っている。趙公明門下の余化に限らず、趙公明も人工仙人骨の移植という人工的仙道づくりを行なうため、この門下においては、仙道の人工性というワードが重点的に割り振られているように感じるのだ。もちろん呂岳という実例も含めて。
 飛刀は普通の大剣であり、痛がり方から、実戦経験が恐らく無いか、ほぼ無い。それは飛刀を振り回せるほどの者がそうそうおらず、けれど処分もされなかったためではないか。
 飛刀が妖精となるためには、実用にさほど向かずとも、長く保管された必要がある。飛刀がたとえばヒトの作ったモノで大事に飾られたのならばこの条件を満たせるが、派生ゲーム『仙界伝弐』の設定からは、飛刀の作者は宝貝の名工であり、普通の大剣である飛刀を気まぐれに作っている。これを踏襲すると、刃物マニア余化がこの名工と交流があるなどして、たまたま作ったという飛刀を刃物マニアとして気に入り、せっかくなので妖精化しようとした、という経緯を考えるとロマンがあっていいなと思うのである。
 妖怪仙人においては、同族を増やすための人為的な仙道づくりが、人工的仙道の本格開発より前からちらほら試みられていたのではないかと感じる。これは創造の真似事というよりは、被造物として仲間、“伴侶”を求める側面かもしれないし、所有物に対する支配性かもしれない。『フランケンシュタイン』で喩えるならば、妖怪仙人における仙道づくりとは、人造人間をつくったフランケンシュタイン博士ではなく、つくられた“怪物”側、即ち、創造者であるフランケンシュタインに伴侶づくりを嘆願した被造物側の立場であると感じさせる。

 ここで趙公明の超越性に触れると、楊任に移植した人工仙人骨が特記できる。人工仙人骨が趙公明と呂岳いずれの研究成果かは判らないが、趙公明の個人的な趣味でつくったものにも思うし、呂岳(もしくは呂岳と趙公明との共同研究)が宝貝人間づくりにおいて霊珠より前段階の産物としてつくったもの、とも考えられる。後者の場合、人工仙人骨は移植対象が強ければある程度強い素体とはなるが、それが仙道として強くなることは保証できないし、拒絶反応の可能性もある。しかも、既に仙道である者を強化対象に使えばわざわざ骨からいじる必要は特段ないので、呂岳の研究が進めば、人工仙人骨よりも霊珠の形式に段階が進むことが考えられる。
 だが趙公明においては、これは、超越性の表現でもあるなぁと思わせる。即ち、『先天的であるはずの要因(仙人骨)により生じる人間出身の仙道』を人為的につくる、という、創造の領域の道楽なのだ。
 趙公明は妖怪仙人の自身に誇りを有していると同時、人間の産物にもたいそう関心があって、でもヒューマニズムの者ではなくて。趙公明が人間出身の仙道を人為的につくるとき、それは、ヒトの禁忌を犯すそれでは決してなく、自身がヒトより上位の者である認識から自然と来ている、めちゃめちゃものすごく当たり前の行為で。『この者を気に入ったから仙道にしたい』というだけの軽い理由を、自分の美意識、美学という唯一重んじるもののためだけに容易く用いることが出来て。趙公明にとっての価値の全ては、『美しいものとは楽しく、楽しいものとは美しい』という、自分が美しい・楽しいと感じるか否かだと感じる。それが一般論である必要がまるでないのだ。
 金鰲の霊珠では、既に仙道である者の強化しかできない。つまり、先天的・後天的要因で仙道化した者を対象にしかできない。だが、人工仙人骨を用いれば、趙公明は、仙人骨という先天的要因を有さぬ者でも、“自分が気に入ったから”という唯一の理由のためだけに、仙道をつくることができるのだ。ここに、自分の趣味・美意識のためだけにすべてを用いれるという趙公明の超越性が輝いている。


 以上が、人工的仙道づくりにおける崑崙と金鰲との差異である。
 ゲル化作用で喩えるならば、人間出身の仙道とは、材料の修正が効かぬ寒天である。その場合、テングサを材料に先天的に含む必要があり、可塑性がない。一方で、妖怪仙人の場合はゼラチンである。タンパク質にコラーゲンを有する必要もあれば、後天的にゼラチンを加えることもでき、一度固まっても温度が上がればまたジェル状に戻るという可塑性がある。こうした根本の違いが、人工的仙道づくりにおいて、崑崙と金鰲とに根本的な視点やアプローチの差異を自然発生させたと考えられる。もちろん、意図的に、それぞれ異なるアプローチを有することで強さや生存条件を多様化し、導との闘いにおいての戦力として生存可能性を上げようとしたことも考えられる。


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