WJ封神のラストは、WJ封神が主題として終始描き抜いた自立の文脈を“物語や人物たちのこれから”にも適用したものと感じる。すなわち、『物語の、現実からの自立。それにより、登場人物たちの歩みも、現実の我々が見守ってきた道や我々が史実として知る筋書きから自立する(解放される)。WJ封神とは、登場人物たちが、現実世界の観察下になく我々には想像の域でしかない“これから”を勝ち取った物語である』と感じる。
大意はこうであると受け取っているけれど、ディティールについて、いくつか可能性のパターンがあると感じるので整理。
可能性として高めに思っているのは①と②で、③の可能性もそこそこ、④は低めに思っています。
①WJ封神は現実より過去の話/ラストまで描かれた周回は現実世界の今と地続き/物語としての側面が主
→現実世界の歴史観からの、物語の自立(独立)。現実の我々が知らぬ、未知の未来を物語が自ら勝ち取った。(という流れを物語に与えたものである、という受動とするか人物たちの能動とするかで更にパターン分岐はできる。)
これにより、この物語は、自立の手本を現実の我々へと提示するものである。このとき、物語は、自立の主体で在ると同時、自立の動きの主役を現実の我々にスッと譲るような、前線から引き上げるような作用を有する。子としての物語が導という親から自立することで、その完遂という手本の提示により、物語自らも今度は親として現実の我々という子に連綿たるバトンを渡す。このとき物語は、それまで見守りの客体であったのが、現実世界を見守る主体となっていく側面を持つ。
自分は基本的にはこの①の解釈ですが、以下、ディティールの違うパターンの想定。
②も、可能性としては①と同等であり、①か②かは自由に任されていると思いますが、私は自分の好みで①寄りですね。①と②の場合、いずれも、WJ封神のラストは物語全般への普遍的なまなざしを描いた、という解釈です。
②WJ封神は現実より過去の話/ラストまで描かれた周回は現実世界の今より前の周回
→物語が自立を勝ち取ったあと、それでもまたしぶとく繰り返しの歴史がいずれ生じることを示唆するとも考えられるので、このパターンはその場合ですね。
物語としての現実の手強さ、強いられるもののしぶとさを強調することとなるので、このパターンのとき、『手強い敵と戦う自立へのエール』という側面が強調されるのかなと思います。登場人物たちもそんななかでもがんばるから現実世界の我々もがんばれ、という、共同戦線の応援の文脈になりますね。
この①と②については、物語の周回を現実の今と地続きかそれより前の周回とするか、どちらにとるのも自由解釈に委ねられていると感じます。即ち、このあとも始祖の名残などなにかがしぶとくまたなにか起こす可能性があるか否か、に加えて、それを人物たちが阻止できるのか否かを、自由に想像できるものとして、現実世界の我々に、物語として与えてくれているように思います。
③WJ封神は現実より未来の話/ラストまで描かれた周回は現実世界の今と地続き
→今の周回も作品内の“繰り返し”の中の一周である、という、マクロな歴史のなかでの我々の現実世界のミクロ化。これにより、我々のこれからの未来に可能性の一つを提示すると同時、我々“今の周回”がなすべきもの=自立も提示する。これは、一度ミクロ化した我々の今の周回をマクロ化するものである。
このパターンのとき、WJ封神が自立の手本として我々を誘導する側面が、かなり強調される。同時に、我々の今を歴史のひとコマに置く側面も強いため、我々に、“自立の物語”の登場人物、主役としての役割を付与する側面も強くなる。
SFとしての側面と地球史や人類史の壮大さが確認される文脈になるので、可能性としては①や②より少し下がるように思います(WJ封神においてそれらは要素であり、それらがメインになる部分部分もあるが、ラストは、物語というもの全般への普遍的なものが主題となったように感じるので)。
また、以下の④は可能性としてはやや低めだと思うのですが、パターン想定として述べます。
④WJ封神は現実より過去の話/ラストまで描かれた周回は現実世界の今と地続き/現実としての側面を物語に付与
→我々の知る史実がもっと前の周回の記録だったのかもしれないし、史実≠事実だから我々の知っていることは事実じゃなかったのかもしれないね、という、繰り返しの歴史の文脈を強調した解釈となる。また、歴史というものの、いかに文字記録や遺物があっても権力関係やバイアスなどから正しい事実を得ることは不可能である側面を示唆することで、歴史というものの壮大さを強調する文脈ともなる。
このとき、WJ封神は、壮大な歴史を描くことで、導という筋書きのあるその道を外れることの大仕事ぶりと、だからこそそれを成し遂げる意味があること、そしてそうした努力こそが真に活きた歴史をつむいでいくのだというまなざしを有するものという側面が強くなる。
このパターンの場合、WJ封神の持つ自立の手本としての側面は、見守る側になるというよりも現実世界と伴走するものであるように思う。
また、このパターンでは、歴史というものへのフォーカスが強くなるため、可能性として下がるように思う。
上記はいずれも、いずれかを否定するものではなく、『上記全てを含めて様々な可能性と様々な側面とを有しながら、物語というものを描いた』という捉え方をすればいいのかな~と思っております。
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