ながひさありか
2026-03-04 04:15:16
10518文字
Public STR-Phaidei
 

愚か者につける薬

アナ先生の養子の永劫回帰/モーディスも七賢人/年下→年上/一目惚れした年上の美人が一生応えてくれない!/死ぬほど捏造がある。
ちなみに:卒業数年後にオクヘイマから帰ってきたファイノンに猛アタックされて普通に落ちます(と言うところは書かれていない。これは原稿中の息抜きなので)

……ファイノン、あなたがこれ以上ハンガーストライキハンストをするのであれば、私は無理やり口の中に栄養を『突っ込む』しかなくなります。そうされたいのですか?」
 アナクサゴラスは灯りもつけずにベッドの中で蓑虫の如く丸まっている子どもの掛布を容赦なく引き剥がし、扉の隙間から差し込む光に反射した白い頬に涙の跡が残っている様子を認め、小さくため息をついた。それから、ぎゅっ、と唇を結んで顔を隠し、さらに丸くなる子どもの腰に容赦なく両手を回すと、「そろそろあなたを抱えるのも一苦労なのですが」と言いつつ、暴れる子どもを抱えて部屋を出た。
「さて」
 アナクサゴラスは暴れてぐすぐすと泣いている子どもを無理やり椅子に座らせると、スイッチを押した。椅子から伸びてきた蔓のようなベルトがファイノンの腹と両足首と両手を拘束し、「私も別にこんなことをしたいわけではありません」と無感動に言う。
「ファイノン、そうやって構って欲しがればメデイモスが振り向いてくれるとでも思っているのですか」
 両腕を組み、冷淡にも思える表情と声でファイノンを見下ろすアナクサゴラスをビクッと見上げ、ファイノンは硬直した。
 バレている。まさか、メデイモスが言ったのか? なんで。そう怒鳴りたかったが、羞恥と悔しさと怒りと悲しみで言葉がうまく出てこない。反論する代わりにぼろぼろと溢れてくる涙をそのままに黙るしかなかった。
 ファイノンの保護者兼教師のこの男の言葉は基本的に正しいのだが、子どもに適切かと言えば少しばかり怪しい。食事を嫌がる子どもの体を拘束するのは、かなり倫理的に問題があるだろう。助手がこの場にいれば「何をしてるんですか!?」と大声を上げ、もちもちの精霊に特攻させつつ文句を言ったに違いない。けれども自宅に助手はいなかったし、成長過程にある子どもが「一日も」食事を拒絶していると言うのは由々しき問題で、大人が多少手荒な手段に出るのも仕方のないことだった。そう、アナクサゴラスは考えている。
「困った子ですね……
 アナクサゴラスは狼狽したように一瞬だけため息をつくと、「さて」と両手を打ち鳴らし、ファイノンに向き直る。
「それがわかっているのであれば食事をしなさい」
……先生もメデイモスが言うことが正しいと思ってるんだ」
「メデイモス『教授』です。そう言うところも子どもだと彼に言われているのがまだわかりませんか?」
 容赦のない言葉に、ファイノンは目許を赤く腫らしたまま、「……わかってる」と唇を尖らせて不貞腐れたように呟き、ぐすっ、と鼻をすする。
「別に恋にうつつを抜かすなとは言いませんよ」
 アナクサゴラスは椅子のスイッチを再び押してファイノンの拘束を解くと、助手が昼のうちに作ってくれていた夕食を温め直して食卓に並べる。本来であれば自分こそ食事を取らずに研究室に篭っていたいのだが、あれこれ手を尽くして結局この子どもの保護者になってしまったので仕方がない。そう決まってしまったのであれば、この少年に一日でも早く自立してもらうしかないのだ。
「しかしあなたは誰の目から見ても明らかに子どもで、恋をする相手がとても悪かった。教師は生徒に思慕を抱きません。それだけの話です」
 つまり早く大人になることですよ、と珍しく慰めの言葉を呟いた男に、ファイノンは「でも先生も未婚じゃないか」と余計な一言を口にし、「そう言うところがまさに子どもだと言われたいのですか?」と冷たい一瞥を食らう。
「結婚と恋愛遍歴に因果関係はありません。少なくとも私はそう言う思想です。わかりましたね」
……全然わからない」
「あなたも大人になればわかります」
 なんだよそれ、と文句を溢した子どもは、それでも、食卓に並べられた食事に手をつける。
 その様子を見、アナクサゴラスは内心ほっと息を吐いた。
 子育てはどれほど難しい数式にとりかかるよりも、余程やっかいな問題だ。

   *

 三年前、暗黒の潮とその造物のせいで壊滅した村からどうにか脱出したファイノンが、主人を失ったらしい大地獣の背に乗って辿り着いた先は神悟の樹庭だった。
 彼を見つけたのは講義中に「ひらめき」、教室を飛び出したアナクサゴラスで、「運が良かったような悪かったような……」と彼の助手であり医者でもあるヒアンシーは今も時折口にする。
 さておき、アナクサゴラスは怪我をした大地獣が低く鳴いている声を聞きつけ、「どうしましたか」と木々の隙間から飛び降りて声をかけた。まさかその背に、子どもがぐったりと倒れているとも思わずに。
 アナクサゴラスは医者兼助手のヒアンシーを呼びだし、ひとりと一匹の治療を頼むと、すぐさまオクヘイマの女主人へと引き取り依頼の手紙を書いた。聖徒には戦争孤児や暗黒の潮によって親や親戚を失い、身寄りのない子どもを保護している施設があったからだ。
 しかし、その手紙と一緒に子どもをオクヘイマに輸送してもらおうとしたしたところ、子どもの手当を終えた助手に「先生がそこまでの人でなしだとは思いもしませんでした!」と叱られ頓挫した。
「こんなに衰弱した子を今すぐに樹庭からオクヘイマへ連れて行くのは無理があります。少なくとも目が覚めるまで待って、治療と経過を見るべきです! それに樹庭の規律には、身寄りのない子どもを見つけた大人は責任を持って対応をすること、とありますよね? これは樹庭に限った決まりではありません。だからこそアグライア様がオクヘイマで孤児院を運営してるんじゃありませんか。なにより、先生のご自宅には三部屋も空きがあります。それはいつかこう言う事態があった際に誰かを保護するためで、決してご自身の研究資料を闇雲にしまっておく為ではなく、つまりリソースの無駄遣いではない……とかなんとか以前仰ってましたよね?」
…………………………その通りです。しかし片付けを手伝う者が必要ですが」
「勿論お手伝いします!」
 アナクサゴラスは舌打ちをしたいのを堪え、神妙な顔をしたまま助手に頷いた。助手の指摘はあまりに正しかったからだ。しかも困ったことに自宅の三部屋はすべて資料だの資材だのでぱんぱんになっている。彼女からまた真っ当なお説教を食らう未来を想像し、頭の中で完璧な反論を並べておくことにする。
 別段子どもが苦手でも嫌いでもなかったが、「保護をする」と言うことはつまり、子育てをしなければならないと言うことだった。その責任の重さはわかっている。ようは、研究時間を削られてしまうと言うことだ。それだけはどうにか回避したい。
 そもそも未婚で、教鞭を振るう相手は大人か、大人の一歩手前の年齢の「子ども」だけだった。あんな、書物の一冊も読めなそうにな年端の行かない子ども(アナクサゴラスの目では、衰弱した子どもが果たして何歳なのかわからなかった)をどう相手にすればいいのか、彼にはわからなかった。



 ヒアンシーや手の空いた人々に手伝ってもらい、自宅をどうにか片付けると、保護の手続き書類を書いていたアナクサゴラスに、ヒアンシーがそっと耳打ちをした。
「こう言ってはなんですけど、ある意味良かったんじゃないですか? だって、身寄りのない子の保護は奨励金が出ますよね。先生、近頃研究資金のやりくりに困ってましたし……
「それは、思っていても言うべきではありません。勿論あなたの本心でないことはわかっていますが」
 アナクサゴラスは彼女の言葉に眉を寄せ、小さくため息をついた。
 今は眠っている子どもがこの場にいないからこその会話であり、彼女なりにアナクサゴラスに気を遣っての発言だとわかっていたが、教師としては見過ごせない言葉だった。
「ともかく、決まりですのできちんと保護者はしますよ。勿論あなたや他者の手も足も頭も全て借りますが」



 そう言うわけで、ファイノンはアナクサゴラスの家に住んでいた。
 彼は研究者肌すぎて保護者としては言動にかなり問題があったが、暴力を振るわれたり、食事を抜かれたりするようなことはなく(と言っても、食事は助手のヒアンシーや昏光の庭に従事するスタッフが用意していた)、物の多い家で、けれども清潔に、自由に、安全な日々を送っていた。
 日中は樹庭に住まう学者の子どもたちと一緒に勉強をし、夕食の時間までは彼らと遊んだり、昏光の庭で患者たちの話を聞いたり、友愛の館で日がな一日本を読んだりしていた。
 今では研究熱心すぎて講義から失踪したアナクサゴラスを捜索したり、研究室から引き摺り出す重大な役目をヒアンシーから引き継いでいて、近頃はアナクサゴラスから錬金術を習って薬の調合を手伝ったりもしている。なんとなく、将来はアナクサゴラスの研究を手伝うか、あるいはヒアンシーのように医者を目指してもいいかもしれない、とぼんやり考えていた。そんな矢先のこと。



「ようやく実家の問題が解決しましたか」
「ああ。王位は他のきょうだいに譲れと散々話し合いをして、ようやく父上には納得してもらった。そもそもクレムノスは血統主義ではないのだから、きょうだいに限らず祭典での結果を重要視すべきだと言ったが、生憎俺より強い者がいまだにいない。とは言え次回以降は俺は不参加だ、優勝者がきょうだいかそうでないかはわからんが、その者が王位を望むかもしれん」
 アナクサゴラスに言われ、資料を自宅から持ってきたファイノンは、見知らぬ美丈夫と養父を交互に見つめて大きな瞳を瞬かせた。
 養父より随分と背の高いその男は樹庭の学者らしき服装をしていたが、戦士と言ったほうがしっくりくるような、がっしりとした体つきをしていた。
 金色に輝く長い髪を顎の下あたりで一つに結んで右肩から垂らしており、その毛先が炎のように美しい。
「華やかな服を着た大地獣」と称される養父もそれなりに顔立ちの整った男だったが、その男の妙に威厳に満ちたオーラとでも言えばいいのか、不思議な空気感と低く穏やかな声と整った顔立ちと立ち姿は、星空を映した樹庭の美しい永夜と灯りの下でより一層輝いて見えた。
……お前の保護している子か」
「おや、黙って突っ立っているなんてあなたらしくもない。資料は……よろしい、全て揃っていますね」
 アナクサゴラスは対峙していた男——メデイモスの視線の先にいたファイノンにようやく気がつくと、子どもの抱えていた本を受け取り、幼い背中にそっと手を置く。
「ファイノンです。今年で十になります。ファイノン、彼はクレムノスのメデイモス、本来は王子ですが、王位継承権を捨てて学者をやっている変わり者ですので、私と同様『先生』か『教授』と呼ぶように」
「お前にだけは変わり者と言われたくはないが……、ファイノンと言ったか。俺は曳石牽石学派の七賢人の一人、メデイモスだ。ふむ、お前がまともに子育てをできるかいささか不安に思っていたが、一応は教師ということか。聡明そうな顔立ちをしているではないか。それで、将来はアナクサゴラスと同様知種学派を目指すのか?」
…………………
「ファイノン? どうしました。人見知りでもないでしょうに、言葉を忘れましたか」
 手を差し出したメデイモスをじっと見上げたまま固まっているファイノンの背をそっと叩き、アナクサゴラスは訝しげに声をかける。一緒に暮らし始めてから今日まで、この少年が喧しいほどお喋りを続けることはあっても、こんな風に黙ってしまうところは見たことがなかったからだ。
 しかし、ファイノンはアナクサゴラスの呼びかけにハッとすると、慌てて養父の後ろに隠れ、腰の辺りからそっと顔を出し、「こ、こんにちは」と恥ずかしそうに口にした。
……子どもを威圧しないでいただきたいのですが」
「俺が威圧しているように見えたか? これでも子らに好かれる方だが、……万が一怖がらせたのなら謝罪しよう」
 眉を下げたメデイモスは差し出していた手を引くと、両腕を組み、困惑した表情のまま「本当にあまり怖がられたことはないのだが……」と小さく呟く。どうやら少しショックを受けているらしいその姿に、「あの」とファイノンは慌てて声を上げる。
「ファイノン、彼はまるで警備専門のホリプテスのような見た目をしていますが——いえ、真実知より力がよほど優秀なクレムノスの男ですが、それでも私と同じ学者です。怖がることはありませんよ」
「随分と好き勝手に余計なことを言うものだ。まあいい、怖がらせた詫びに後日なにか菓子でも作ってやろう。と言っても暫くは溜まりに溜まった仕事を片付ける必要があるが」
「あまり美味しすぎるものは作らないでください。偏食になっては困ります」
……まともな食事を与えているのだろうな?」
「当然です。ヒアシンシアの献立は完璧ですから」
 助手の仕事を何故か偉そうに口にしたアナクサゴラスの背からようやく出たファイノンは、小さな手を差し出し、「よ、よろしく、お願いします」と恥ずかしそうに口にした。
「ああ、よろしく」
 子ども特有の丸い頬を紅潮させ、きらきらとした瞳でメデイモスを見上げるファイノンに、アナクサゴラスは小さく息をついた。
 なるほど、怖がっていたわけではありませんでしたか、と胸中で呟き、「まあ、この男が相手であれば万に一つも間違いはないでしょう」とぼそりと呟いて頷く。
「? なんだ?」
「いえ、なんでもありません」
 やや腰を屈めてファイノンと握手をしていたメデイモスの不思議そうな表情に、アナクサゴラスは首を横に振る。
 手を離されたファイノンがじっとかつての同級生を見つめている姿を認めると、「さて、私も彼も仕事です。あなたは本を読むなり、誰かと木登りするなりしてきなさい」と小さな背を力強く押した。

「あなたがゴシップ誌に好かれるほどの美貌の持ち主だと言うことを、すっかり忘れていました」
 名残惜しそうに去っていく小さな背中を見つめながら、アナクサゴラスは隣で笑顔を浮かべて手を振っている男に聞こえるよう、盛大なため息をつく。
 確かにこの男は子どもには好かれるタチで、それ以上に、たびたび「玉砕」する学生が出ることを思い出したからだ。三年も樹庭を留守にしていたのですっかり忘れていた。
「なんの話だ」
「いえ、私もそう言った低俗な物は好みませんが、生徒から時折相談があるもので。教師を好きになって困っている。そう言った類のものです」
……お前に限って万に一つもないとは思うが、魔が差したのであれば、」
 緊張した顔で拳を握るメデイモスに、アナクサゴラスは慌てて一歩距離を取る。
「あるわけがないでしょう。誤解です。私のような文弱な男はあなたに指先でつつかれただけで、全身複雑骨折をしてしまいます。そうではなく、互いに賢人の中では年若い方ですから、あなたこそ魔が差さないよう、気をつけてください」
 アナクサゴラスの「ありがたい」忠告に、メデイモスは困惑したように眉を下げ、答える代わりに沈黙した。昔から奇行の多い学友だ。彼の思考を読もうとするのは、ずっと前に諦めている。



 牽石学派に入りたいんだけど、とファイノンが言い出すのに一月もかからなかった。
 アナクサゴラスはたった二日で破られた籠城に苛立ちながらも、「そうですか、どうぞお好きに。要件はそれだけですか? 私は実験に戻ります」と扉を閉め、ファイノンがどうやってかこじ開けた暗号鍵を再度扉に施そうとした。遅かれ早かれファイノンはそう言い出すだろうとわかっていたからだ。
 しかし、ファイノンが再び扉を開けて「ヒアンシーからの伝言。『アナイクス先生、予算会への召喚をお忘れですね? 今度こそ出席しないと研究資金を出してもらえませんよ!』」と助手のように、腰に両手をついて怒る姿に舌打ちをしてそれを断念した。すっかり忘れていた。
 渋々中型石板を持って研究室を出ると、それを操作しながら「要件はそれだけですか」と小走りについてくるファイノンに声をかける。
「メデイモスがおやつを食べにきてもいいって言うから、行ってきてもいい?」
「ファイノン、何度も言っていますが、『先生』あるいは『教授』です。彼は私と違って特別に子どもに甘い男ですが、私はあなたをそんな礼儀知らずに育てた覚えは——待ちなさい!」
「わかったわかった! 夜ご飯までにはちゃんと帰るから、アナイクス先生はお仕事を頑張って!」
 アナクサゴラスの小言に両手で耳を塞ぎながら、ファイノンが笑って逃げて行く。その背を追いかけて説教をしてやりたいのはやまやまだったが、今はそれも難しい。風のように駆けていく背中に舌打ちをし、まあいいでしょう、と溜め息をついた。
 少なくともあと五年は待たなければ、ゼミに入ること自体が難しいので、焦ったところでそこまで接近することもあるまい——身体的に、ではなく、精神的に——と考えていたからだ。
 ファイノンはそれほど頭の悪い子どもではなかったが、かと言って自分の教え子たちに比べればまだまだ子どもだったからだ。自身の好意が果たしてどんな種類なのか気付くには、もっと時間がかかるだろうとアナクサゴラスは考えていた。少なくとも、ゼミを決める頃ではないか、と。そんな風に。



 ——しかし。
「お前に報告しておくべきことがある」
……なんですか、藪から棒に」
 メデイモスが賢人に復帰して二年後のことだった。ファイノンの背が自分の胸あたりまで伸びていることにアナクサゴラスが感心していたその頃、メデイモスの研究室に呼び出されて顔を出すと、真剣な顔をした学友がそこにいた。
「私の研究分野とあなたの研究は被っていないはずですが」
 学者らしからぬ肩周りの太さに瞳を細めて呟いたアナクサゴラスに、メデイモスは「いや、研究の話ではない」と首を振る。
「保護者であるお前にこそ言い難いことだが、ファイノンに懸想されている」
……ハ?」
 頭を鈍器で殴られたような衝撃に、アナクサゴラスは片目を見開き硬直した。眼前の男は剣呑そうに表情を歪め、そっと溜息を溢す。迷惑がっているようには見えなかったが、元来表情から本心の読めない男だ。実際はどうなのか、全くわからない。
「勿論お前を責める気はない。『親』以外の身近な大人に憧れると言う時期は誰しもあるものだ。とは言え、それに真剣に向き合うつもりない。あれが本当に子どもだからと言うのもあるが、少なくともここから十年近くは学生だからな、その間、俺が何か感情を抱くことはない。……そう本人にもはっきりと伝えたが、かと言って必要以上に冷たくするのもそれは違うだろう。お前が子どもだから無下にはせぬが、決して期待するなとも言ったが、それをすぐに理解してもらうのは難しいこともわかっている」
…………………とんだご迷惑を」
 アナクサゴラスは片手で顔面を覆うと、盛大なため息をついて肩を落とした。見通しの甘すぎた自分を脳内でタコ殴りにしつつ、これだから子育ては難しい、と小さく唸る。
 自分には他人に恋をする気持ちが本当にわからない。愛することはわかるし、理屈で脳内ホルモンの動きが人々にもたらす多幸感による盛大な勘違いのメカニズムもわかるが、少なくとも自分には当てはまらない。
「いや、慰めるお前の方が大変だろう。俺はファイノンをあしらってそれで終わりだが、お前はそうは行かん。馬鹿な真似をせぬよう、しばらくきちんと見てやってくれ」
……わかっています」



 アナクサゴラスはメデイモスに迷惑をかけたことをもう一度謝罪すると、真っ直ぐに自宅へ帰った。嫌なことがあると、ファイノンはどこかへ消えずに家に帰ってくる子どもだったからからだ。
 予想通り、ファイノンは自室に鍵をかけ、扉の前に「起こさないで」と書き殴った紙を貼っていた。
 無理やり鍵を開けてしまうのは勿論簡単だったがそうはせず、扉に耳をつける。小さく嗚咽が聞こえている。
 その声にないはずの良心がちくちくと刺激されるのを感じつつも、恋をした相手があの真面目堅物のメデイモスでよかった、と息を吐いた。
 本当に子どもの今はさておき、あと五年もすればファイノンは立派な青年になり、もしかすると自身の背を抜いてしまうかもしれない。その頃になってももしまだ彼が好意を捨てられていなければ、間違ってしまう輩もいるだろう。相手が自分やメデイモスでなければ。
 アナクサゴラスは物置に戻ってしまった部屋から簡易スキャン装置を探すと、扉越しにファイノンをスキャンして、鼓動や体温が正常かどうかを確かめた。数値を記録すると、三秒停止か二度以上の変化でアラートが鳴るよう設定した。
 今夜は朝まで起きているつもりだったが、万が一眠ってしまってもこれで目を覚ますだろう。

   *

「牽石学派のゼミに落ちた。と言うより、先生のゼミ以外入れないって言われたんだけど、まさか変な操作をしてないよな?」
「私のゼミでは受け入れませんと会議では主張していた筈ですが」
 一週間の籠城を破られたアナクサゴラスは、七徹、正確には数時間の仮眠で一週間を過ごしてぼんやりした頭で、迷惑そうにファイノンに答えた。
 数年前にファイノンに身長を抜かれ、今では凝り固まった首をどうにか傾けて見上げなければならない事実を苛立たしく思いながら(私に用があるのであれば屈みなさい、と胸中で吐き捨てた)、決まってしまったものは仕方がありません、と溢す。定員割れを常に起こしているゼミは自分のところくらいで、他に受け入れる余裕のある教授の顔は浮かばなかったからだ。
「一旦卒業してからであれば再入学もできるでしょう。しかし、私がそう簡単に単位を与えるとは思わないことです。例え保護者であろうと、甘やかしたりはしません」
「先生が勉強の面では全然僕に甘くないのはよく知ってるよ。そうじゃなくて、本当に意図的に邪魔したんじゃないのか確かめたかったんだ」
……邪魔とは、あなたの恋路の話ですか」
 馬鹿馬鹿しい、と吐き捨て、髪を掻きむしる養父の姿に、ファイノンは「ま、まあ、そうだよ……」と恥ずかしそうに口にする。
 青い瞳をきらきらと濡らして頬を染める姿に、アナクサゴラスは養父としても教師としても「万に一つもありません」と冷たく低い声で答える。
「第一に、疑うのであれば私ではなくメデイモスの方でしょう。彼があなたを拒絶したのかもしれません」
「っ、それは言わないでくれよ。……聞きに行くのが怖いんだ」
 ファイノンはぎくりと肩を跳ねさせると、籠城を諦めて食卓に腰を下ろしたアナクサゴラスの前に、妙に刺激臭のするお茶を入れた杯を置いた。長い間この男と食卓を共にしているが、どうにもこのお茶だけはファイノンには受け入れ難い。
「そんな迷惑なことはやめなさい」
 杯を持ち上げ、じろり、と濃いクマの浮いた視線をファイノンに向けたアナクサゴラスは、「いいですか」と教え子に向き直る。
「あなたは生徒で、メデイモスは教師です。昔から私も彼もずっと口にしているように、学生に特別な感情を抱くような輩は教育者として失格です。大体、彼に浮いた話が出たことがありますか? 私以上にないでしょう。つまり、あなただけが受け入れられないのではなく、誰であってもその席に収まることはないと言うことです」
「それは先生の考えだろ。もしかしたら僕が卒業するのを待ってくれてるのかも、」
「私の友人を侮辱するようなことを言うのはやめなさい」
「そんなつもりじゃない! ……なかったけど謝るよ。確かに、そう受け取れるなとは思った。わかった、メデイモスに馬鹿なことを聞に行ったりはしない」
「『教授』か『先生』です。……もう何もわからない子どもではないのですから、こんなことを言わせないでください」
「とにかくアドバイスありがとう。確かに卒業する方が近道だなってわかったよ。それに、牽石学派の資料は別に読み放題なんだし、別に僕と会話をしてくれないわけじゃないから、講義の合間に研究について聞きに行くくらいは問題ないよな」
 よし! と何故か明るい声を上げるファイノンをジト目で見つめながら、アナクサゴラスは長いため息をついた。
 やはり子育てはどんな難問よりも答えを当てるのが難しいし、恋ほど、人を愚かにするものもない。

   *

「卒業したら僕とのこと真剣に考えてくれる?」
…………そう言うことは、本当に卒業してから言うものだ。今は仮定すら『ない』と何度もはっきり伝えているだろう」
 メデイモスは真顔でファイノンにそう返し、二人きりになるタイミングを作ってしまったことを後悔した。もう何年も「諦めろ」と伝えているのに、いまだにこの「子ども」は自分に執着している。初恋が叶わなかったせいで拗らせてしまったのだろうが、いまだにファイノンに嫌悪感も恐怖も覚えない己も己だ、と感じていた。
「卒業後はオクヘイマに行くことだ。三年も過ごせば考えも変わるだろう」
 メデイモスの言葉に、ファイノンは不満そうにしつつも、わかった、と静かに頷いた。
 その精悍な顔立ちは、もうとっくに子どものものではない。目線もいつの間にか同じになってしまったファイノンの姿に、メデイモスはまさかこんなことになるとはな、と胸中で呟き、ファイノンの脇を通り抜けて、研究室へと向かう。
 今の自分はあの青年に何一つとして心が動かないし、卒業したとて、教え子のようなものであることに変わりはない。そもそもは友人の養子だ。どうしたって子どもだと考えてしまうに決まっている。
……まさかこれほど諦めが悪いとは」
 せめて樹庭外から来た学生と友人になり、彼らと対話をするうちに目が覚めて欲しいものだ。
 メデイモスにはそう願うことしかできなかった。


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