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鳥のささみと申します
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カヲシン
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夜を泳ぐ
シンジくんの日なので……
「ねえ、海へ行こうよ、今から」
不意に投げかけられたその言葉に、シンジはノートに落としていた視線を上げた。
そこは静まり返った男子寮の自習室。隣に座るカヲルは、開いたままの本には目もくれず、頬杖をついたまま、窓ガラスの向こうに燈る街灯の色を、視線でゆっくりとなぞるように眺めていた。
「
……
えぇ? もう夜だよ、カヲル君」
急すぎる提案に戸惑うシンジの声に、カヲルは顔だけをこちらに向けた。
「いいじゃないか、夜の海。きっと綺麗だよ」
彼は椅子の背もたれに体重を預け、覗き込むようにして微笑んだ。少し伸びた前髪が、さらりと揺れる。
この寮は十九時以降の外出はできないことになっている。
壁掛けの時計に目をやると、針はすでにその時間を少し過ぎていた。ましてや、何の届出も出さないまま外へ抜け出すなんて、真面目なシンジには本来、想像もつかないことだった。
「やだよ、寒いし
……
それに、夜の海なんて怖いよ」
「怖い、か。確かに、暗闇はすべてを飲み込んでしまうからね。でも
……
」
カヲルは迷わず、シンジの細い手首を掴んだ。
「ふたりなら、怖くない。そうだろう?」
「ちょっ、何言ってるの
……
。ダメだよ、カヲル君!」
抵抗はしてみるものの、その力は驚くほど迷いがなくて、不思議と不快ではなかった。
「さあ、行こう。シンジ君。今夜は、どうしても君に見せたい景色があるんだ」
シンジが「見つかったらどうするのさ」と小さくぼやくのを、カヲルは楽しげな鼻歌で受け流す。こうして、計画性のない「夜の逃避行」が始まった。
裏門の重い鉄扉を音を立てないようにすり抜けると、そこには濃密な闇が横たわっていた。今夜は新月だ。 見上げる空には星々が白く瞬いているが、地上を照らすほどの光はない。寮を囲む高い壁を離れると、シンジは思わずカヲルの袖を強く握りしめた。
「足元、気をつけて」
カヲルの声が、湿り気を帯びた夜気に溶ける。
シンジは小さくうなづきながら、そろりと暗闇につま先を差し出した。
街灯はまばらで、一定の間隔を置いてポツリ、ポツリと、アスファルトの上に頼りなく青白い円を描いている。その光の輪から外れれば、そこはもう底の見えない闇だ。古い住宅街の入り組んだ路地裏は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、自分たちの靴音だけが、壁に反響して追いかけてくる。
角を曲がるたびに、街灯の逆光でカヲルのシルエットが黒く縁取られ、その銀髪が一瞬だけ燐光を放つ。暗がりに慣れてきた視界の端で、誰かの家の庭先に咲く冬の花が、死者の指先のように白く浮かび上がっては消えていった。
「
……
もう、どうなったって知らないから」
文句を言いながらも、シンジはカヲルの後ろを歩いていた。急いで上着とマフラーを掴んで飛び出してきたものの、三月の夜気はまだ刺すように冷たい。
ふと前を行く背中を見ると、カヲルは寮での格好そのまま、学校指定の紺色のカーディガンを羽織っているだけだった。防寒具も身につけず、マフラーさえ巻いていない。それなのに、彼は肩をすくめることもなく、春の夜風に吹かれているかのように悠然と歩いている。
「そんな薄着で、寒くないの?」
思わず足早に隣へ並び、その横顔を覗き込む。カヲルの肌は人工光に透けるほど白く、頬には薄らと赤みが差している。吐き出す息もシンジほど白くは濁っていないように見えた。
「全然平気だよ。君と一緒にいるからね」
「
……
理由になってないよ、それ」
シンジは呆れたように溜息をつき、マフラーの端を鼻先まで引き上げた。けれど、カヲルはどこまでも穏やかに微笑んだまま、言葉を継ぐ。
「僕には、それだけで十分な理由さ」
迷いのないその声を聞いていると、寒さに震えている自分の方がどこか間違っているような、奇妙な錯覚に陥る。
「
……
変なの」
シンジが小さく呟くと、カヲルは楽しそうに目を細めた。
「あ、見て、シンジ君」
その声に促されて目を向ける。
視界の端にどこまで続いているのかわからないような黒が広がっていた。
「真っ暗だ」
「夜の海はね、空と地上の境界線が消えてしまうんだ。まるで僕たちだけが、宇宙の真ん中に取り残されたみたいじゃないか」
家々の合間を縫って前方に見え隠れする海を指差しながら、カヲルはくるりと振り返り、あどけない少年のように笑う。その瞳には、シンジが今まで見たこともないような、悪戯っぽい光が宿っていた。
「
……
意味わかんないよ」
そう口では言いながらも、視界いっぱいに広がる黒を見ていると、確かにそんな気がしてくる。
遠い潮騒の音に混じって、自分の心音が耳元でやけに大きく響く。波の届かない場所を歩いているはずなのに、足元の境界が消えて、このまま夜の深淵に吸い込まれてしまいそうな──そんな奇妙な浮遊感に、シンジは思わず自分の足元を確かめるように、アスファルトを強く踏みしめた。
いつもはどこか大人びていて、すべてを見透かしているような超然とした雰囲気を纏っているのに、今の彼は年相応か、それよりも幼いはしゃぎ方をしている。
そんな姿を一瞬、可愛らしいな、と思ってしまった。
頬が火照るのを感じて、シンジは慌てて、マフラーへ顔を埋める。けれど、隣を歩くカヲルの指先が不意に自分の手に触れたとき、薄いカーディガンの袖口から覗くその熱い体温に、心臓が跳ねた。
「寒いなら、走ろうか。そうすれば体も温まる」
「えっ、まっ、まってよカヲル君!?」
繋がれた手に力がこもる。カヲルが弾かれたように走り出し、シンジは引きずられるように足を動かした。冷たい夜風が耳元をかすめ、肺の奥がツキンと痛む。ただ、隣で笑う彼の横顔と、指先から伝わる確かな体温が、闇に対する不安を少しずつ溶かしていった。
二人はもつれるようにして、砂に足を取られながら波打ち際で止まった。荒い息が白い熱となって、二人の間で混ざり合う。
「
……
はぁ、
……
もう、無茶苦茶だよ」
膝に手をつき、肩で息をするシンジの隣で、カヲルは平然とした顔で夜の海を見つめていた。そこは、本当に境界線のない世界だった。真っ暗な水面が延々と広がり、どこまでが海でどこからが宇宙なのか判別がつかない。
「ねえ、シンジ君。ごらんよ。波が星を運んできているみたいだ」
カヲルが指差す先、空と地平線が溶けて無数の星が海の中に吸い込まれていくみたいに見える。
視界の端まで、どこまでも続いていく果てしない黒。
けれどその黒は、決して冷たい無ではなく、空からこぼれ落ちた無数の星々をその身に宿し、静かに、深く拍動していた。寄せては返す波の輪郭が、星の光を拾って白く、繊細に、レースのように暗闇を縁取っている。
「わぁ
……
すごいや」
シンジの口から、感嘆の溜息が漏れた。
寒さで強張っていた肩の力がふっと抜け、ただ目の前の光景に目を奪われたように立ち尽くす。
その横顔を、カヲルはすぐ隣で見つめていた。
シンジの瞳が、波間に揺れる星の欠片を映して、潤んだようにきらめいている。
「綺麗だろう? これを君に見せたかったんだ」
カヲルの声は、潮騒に溶け込むほど穏やかだった。口元には、春の陽だまりのような、どこまでも満足げな微笑が浮かんでいる。
美しさに言葉を失って見入っていると、打ち寄せる波がかすかに白く光り、シンジの靴先を濡らす。
「冷たっ」
声を上げたシンジに、カヲルは微笑んでシンジの手を引く。
波の届かない、乾いた砂の上。手を引かれるまま腰を下ろすと、ひんやりとした砂の感触がズボン越しに伝わってきた。
二人の間には、それから長い沈黙が流れた。
聞こえるのは、規則正しく繰り返される潮騒の音と、時折混じる遠い風の鳴る音だけ。新月の闇は、二人の存在を世界から切り離し、ただ「今、ここにいる」という事実だけを浮き彫りにさせていく。
シンジは膝を抱え、じっとその光景を見つめていた。
波が寄せるたびに、海面の星々が砕け、また静かに形を成す。そのあまりに完璧で孤独な美しさに、胸の奥が締め付けられるような、言いようのない不安と安らぎが混ざり合う。
隣に座るカヲルは、彫刻のように静止していた。彼もまた、同じ海を見ているはずなのに、その視線はもっとずっと遠く、宇宙の果ての深淵までもを覗き込んでいるような気がする。
「
……
ねえ、カヲル君」
重い沈黙の幕を透かすように、シンジがぽつりと、消え入りそうな声で呟いた。
視線は海に向けたまま、けれどその意識のすべてを隣の少年に預けるようにして。
「
……
どうして、これを僕に見せたいと思ったの?」
その問いは、夜の静寂の中に静かに波紋を広げていった。
カヲルはすぐには答えず、ただ寄せては返す波のきらめきを瞳に映していた。やがて、彼は握ったままだったシンジの手の甲を、自分の頬へ寄せるようにして小さく首を傾ける。
海風に揺れる髪が、手元をふわりとくすぐった。
「美しい景色は、大切な人に見てほしいから」
その声があまりにまっすぐで、シンジは言葉を失う。ただの好意というにはあまりに切実で、けれど温かい何かが、胸の奥に静かに流れ込んできた。
カヲルの言葉は、いつも少し重い。けれど、今のシンジにはそれが心地よかった。寮の自習室の、あの窒息しそうな静けさとは違う。波の音に守られた、二人だけの聖域。
本当はずっと、あの退屈で少し息苦しい部屋から、こうして力ずくで連れ出してほしかったのかもしれない。
シンジは、まだ熱を持っている自分の手をそっと見つめた。カヲルに引かれた手首には、指の熱が残っている。その痕跡は、自分がここに生きている証拠のように思えて、シンジは少しだけ胸が高鳴るのを感じていた。
「いつか、もっと自由に
……
誰もいない場所へ行けたらいいのにね」
闇に溶けた境界を見つめながら、波の音に消されそうなほど小さな声で、カヲルが呟いた。その視線は、遠く水平線の向こう、あるいはもっとずっと先を見つめているようで。
「
……
カヲル君?」
シンジが聞き返すと、彼はすぐにいつもの穏やかな微笑みに戻って、「なんでもないよ」と首を振った。そのとき、シンジのズボンのポケットの中でスマホが震えた。慌てて確認すると、画面には無機質なデジタル時計の数字。
「
……
っ、やばい、門限! あと十分しかないよ!」
「おっと、それは大変だ。また走らなきゃいけないね」
カヲルは楽しそうに立ち上がると、砂を払う間もなくシンジの手を再び取った。来た時よりもさらに速いスピードで、二人は暗い夜道を駆け抜ける。
寮の裏門が見えてきた頃、懐中電灯の光が遠くで揺れた。見回りの舎監だ。
結局、こっそりと寮へ戻ってきた頃には、門限を五分ばかり過ぎていた。
「しっ
……
こっちだ、シンジ君」
カヲルに引かれ、二人は冷たいコンクリート壁の死角に身を潜めた。すぐそばを通る足音。心臓の音がうるさくて、見つかって連れ戻されたら明日から外出禁止だとか、そんな現実的な不安が頭をよぎる。けれど、隣を見れば、カヲルは口元を抑えながら、宝物を見つけた子供のように目配せをする。
足音が遠ざかると、どちらからともなく、堪えきれないといった風に笑いが漏れた。
「
……
っ、ふふ、
……
見つかったら明日から草むしりだね」
「それもいいさ。僕たちの秘密が、また一つ増えたんだから」
暗闇の中で重なる、低い二人の笑い声。
明日になればまた、退屈な授業と、決められた寮のスケジュールに戻らなければならない。
けれど、今この瞬間だけは、夜の冷たさと隣の体温を確かに分け合っていた。
この先も、きっと、一生忘れられない。
そんな夜になった。
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