青色
2026-03-03 22:10:59
2799文字
Public
 

燭鶴「春のおとずれ」

春が来たことをお互いの体温で感じる二人の話です。春が来たなと感じるとき、日中よりは夜に感じることがけっこうある気がします。

 明かりを落として、部屋は障子戸越しに差し込む月の光でほの青くなった。

 許しをねだるように光忠は鶴丸の軽く口づけたら、彼は唇を穏やかに受け止めた。おいで、と言われたような気がして、光忠はその寝間着の浴衣の合わせに両手を添えると、そっと、少しだけはだけさせる。彼の白い素肌が夜気にさらされた。
 なんとなく鼓動を確かめたくなって、光忠はあらわになったその平らな胸元に右手で触れた。手袋は先ほど鶴丸に外してもらっているから、生身の手のひらで。

 手のひらを胸に当てるとそこには確かな心音が感じられて、光忠はなんだかとても安堵するような心地になった。そのタイミングで、鶴丸が口を開く。

「あぁ、春だな、光坊」
……?」

 光忠は彼の言葉の脈絡が分からなくて首を傾げた。きょとんとした光忠の表情が何やらおかしかったのだろうか――たぶん、腑抜けていたのかもしれない――、鶴丸は軽やかに笑うから、手のひらを当てている胸元が震える。

「きみに触れられると、季節の移ろいが分かるのさ」
「そうなの?」

 光忠が相変わらず首を傾げたまま尋ねたら、彼は頷いて、続けた。

「光坊の手のひらはどんな季節でも、いつでも、あたたかい。それは違いないんだが、こと冬のあいだのきみの体温は、闇夜の唯一の灯りのように感じられてな」

 鶴丸は大事なものを慈しむような口調で言う。灯火のようなあたたかさ。もし自分の体温がそうであるなら、と光忠は思う。とても光栄だと、思う。

「だが今、光坊の手のひらは、昨晩までのような唯一さとまではいかなかった。温度が違う。だから、春が来たんだと分かった」

 そう言いながら鶴丸は胸元にあった光忠の手を取って、自分の左手と手のひら同士を合わせた。冬のあいだのようには際立たなくなった体温を、探して確かめようとするみたいに。

「そうなんだ。確かにもう暦では春だもんね。鶴さんは、えっと――、冬のほうが、好き?」

 光忠は手のひらをされるがままに合わせたままで尋ねた。先ほどの彼の言葉はなんとなく残念そうに聞こえたからだ。

 こちらの問いに、鶴丸は少しのあいだ考えていた。あらゆることが始まる、光が明るく輝く春の到来が、誰にとっても喜ばしい季節であることは間違いないけれど、と少し言い淀む。

「だが、そうだな……、冷えた肌にきみの確かなぬくもりを感じる瞬間にしかない幸福がある。それとしばらく別れることになるのは、少しばかり淋しいかもしれん」
「そっか」

 光忠は頷いて、合わせている手のひらの角度を少しずらすと、互い指を組むようにして鶴丸の手を握った。できるだけ体温を感じさせてあげたくて。

「光坊は好きか?春は、」

 質問を返されて、光忠も少しばかり考えた。
 考えているあいだに握っている鶴丸の手にぼんやりと意識が逸れる。二人の指の長さはさほど変わらないけれど、手のひらは彼のほうが小さい。だから全体では彼の手のほうが小さく、厚みも光忠と比べると薄くて、繊細な手のひらだと思う。
 そしてその手は、今はほのかに、しかし確かにあたたかかった。その体温を感じて光忠も、あぁ、今晩確かに春が来たのだ、ということを理解した。

 だからほんのりとぬくもりのある手のひらをぎゅっと握って、手を離す。

「僕は、春はけっこう好きかも」
「春の味覚は美味いもんな。料理の腕が鳴るだろう。それとも、兄弟で世話をしている花がたくさん咲くからかい?」
「あはは、料理やお花の話じゃなくて」

 光忠は笑った。春が好きな理由は、花でも団子でもない。
 手を伸ばして鶴丸の頬に触れる。その頬もやっぱり、昨晩までとは違ってほのかに体温のぬくもりを帯びている。

「こうして鶴さんに触れたとき、鶴さんの体温が感じられるようになるから好き、っていう感じかな。冬の透きとおるみたいに冷たい鶴さんの肌は綺麗だけど、ときどきちょっと、心配になるからね」
……、そうか」

 頬に添えられた光忠の手のひらにすり寄って、鶴丸は微笑んだ。猫のような仕草でかわいい。

「こうして春が来たら、俺の体温はきみにあたたかいか?」
「うん、あたたかいよ、冬よりもずっとしっかりとね」
「それは光坊をぬくめられるかい?」
「うん。……あぁ、もちろん、冷えているのが悪いってことじゃなくてね、心配になるだけ。僕は体温が高いから余計そう思うのかも」

 凛と冷えている肌は、それはそれで、そこにしかない美しさがある。それを否定したいわけじゃなかったので、フォローを入れた。

「きみは子供のような体温をしているからな」

 こちらの言葉に鶴丸が少しからかうような声音で返したので、光忠は彼の頬から手を引いて、む、と口をとがらせた。幼いと言われたような気がして、格好悪い。

「子供ってわけじゃないよ、筋肉量の問題で」
「はは、すまんすまん、拗ねないでくれ。俺は好ましく思っているぜ」

 今度は鶴丸が手を伸ばしてきて、光忠の頭をあやすように撫でた。

「しかしまぁ、光坊はいつでもあたたかいが、そういうきみが体温を感じてくれる程度には、春の俺はぬくいようだ」
「うん、春の――今の鶴さんは冬よりずっとあたたかくて安心するよ」
「そりゃあ、いいい」

 鶴丸はこちらに少しだけにじり寄って、両手で光忠の頬を包んだ。こうやって触れられるとさらによく分かるけれど、その手は昨晩までとは違ってはっきりと確かに冷えていない。

「光坊があたたかいと思ってくれるなら、春も悪くないな。そういうことなら俺も、春が好きだ」

 そう言ってこちらを愛おしむように微笑んだ鶴丸の頬は、慈しみからくるはにかみなのか、あるいは照れによるものなのか、わずかに薄紅色を帯びている。
 それはまるで色づきはじめる桃の蕾のようだと光忠は思った。とても、綺麗だと。

「うん、僕もやっぱり春は好き。鶴さんがあたたかいし、それに綺麗な季節だから」
「あたたかいは分かるが、綺麗ってのは、それ理由になるか?」
「うん、なるよ、すごく。まぁ、鶴さんは一年中いつでも綺麗だけど」
「おいおい、だったら理由にならないだろう」

 鶴丸は少し呆れたように笑って、むぎゅ、と両手で光忠の頬を茶化すようにこねくり回した。綺麗というまっすぐな賛辞が少しむずがゆかったのかもしれない。

「さて、与太話をすまんな、続きをしよう。冬ほどはっきりとは光坊の体温を感じないが、それでも俺はきみに触れられるのがあたたかくて好きだ。だから、今晩もきみのぬくもりをくれ」
「うん、春が来たって言っても鶴さんは僕よりはいつだってひんやりしてるから、僕の体温、あげるね」

 光忠は再び鶴丸の肌に触れた。二人の体温が触れたところから溶けあって、春の夜にやわらかな温度になっていく。