深夜になっても最近は暖かい。少し前まで着ていたコートを脱いで恋人から借りた分厚めのニットの上着を羽織りながら、遠夜は広場までの道を早足で進む。
見えてきたベンチの側に佇む大柄な人影。月を見ているのだろうか、空を見上げる横顔には顔立ちの彫りを表す陰影。
「哲彦くん!」
見えた姿が嬉しくて駆け寄れば、ぱっと顔を向けてくれた哲彦が大きな笑みを浮かべて両腕を広げる。遠夜自身は決して小柄ではないけれど、哲彦の鍛えられた体を知っているので飛びつくことには躊躇がなかった。
「お疲れ!」
「哲彦くんもねえ。大丈夫? 寒くなかった?」
暖かくなってきたとはいえ、じっと待っていたら寒くはなかっただろうか。遠夜のことを待って広場にいてくれた哲彦を心配すれば、彼はぽんぽんと遠夜の背中を叩きながら「大丈夫」と言う。嘘はないだろうけど、遠夜はつい哲彦の背中へ回す腕に力を込めた。少しでも体温が伝わればいい。
「それならいいんだけど……」
「ほんと、平気へいき。それよりさ、ちょっと良いもの見つけたんだよね」
「良いもの?」
「こっち来て」
横に並んだ哲彦に背中を押されて向かったのは、ベンチの程近くに生えている一本の木。街灯にぼんやりと照らされているのは横に筋の入ったような樹皮。桜だ。
「見て」
哲彦が頭上を指差すので遠夜も目を凝らせば、哲彦が差す指の先には枝を飾るようにほろほろと三輪ほど花が咲いていた。日の当たり方によるものだろうか。他の枝は赤く色づくのが精々だというのに、早い春がそこにはあった。
「わ、きれいだねえ!」
「でしょ? 月きれいだなあって見上げたら見つけた」
今年最初じゃない? と得意そうな顔をする哲彦にぶんぶんと頷き、遠夜はふともうそんなに時間が経ったのかと思いながら左手を撫でる。
遠夜と、哲彦の左手薬指には揃いの指輪がある。この指輪は最近、哲彦が贈ってくれたもので、遠夜の指には少しだけ大きい。「測ったのにな……」と不満そうだった哲彦は直そうとしてくれたのだけど、遠夜は最初に贈られた指輪にそれはもう愛着が湧いて「やだ」と抵抗したのであった。とはいえ、落としたくはないのでリングアジャスターで調整している。
哲彦とこうして仕事終わりに広場で会うようになったのは随分と寒い時分だ。
警察官として忙しいだろうに哲彦は遠夜を部屋まで送ってくれて、時間があるようなら話をして。仕事を気にしなくていい日は遅くまでセックスに耽った。
一緒にいて笑い合った。落ち込んだ日に相談したり、甘えて、甘えられることもあって。傍にいたい。できるなら誰よりも、と思っていたのに、ただひと言「好き」と伝えるには随分と時間がかかってしまっていた。その頃にはもう、哲彦のほうはとっくに恋人だと思っていてくれたのだと知ったとき、遠夜はほんとうに自分は意気地なしだと思ったし、哲彦にはベッド以外でも好きと言って! と我儘が湧いてしまいもした。
桜は見た。夏の星、秋の紅葉、降り頻る雪の下を一緒に歩いた。楽しくて、時々切なくて、胸が痛くなるほど幸せ。そんな日々を経て、遠夜と哲彦の薬指には指輪がある。
「……もっと咲いたらさ、お花見しようか」
「いいじゃん。唐揚げ作ってよ」
「うん。大きいの作るねえ。哲彦くんもおにぎり握ってよ」
「俺のおにぎり大分でかいよ」
「具もいっぱい入れて」
「遠夜くん、それだけで絶対に腹いっぱいになるって」
けらけら笑う哲彦に釣られて笑い、遠夜は彼の手を握ってゆるりと振った。すぐに握り返された手。絡めた指が嬉しくて、遠夜は哲彦の肩に頬を寄せる。すり、と懐く振りで見上げた哲彦は穏やかに目を細め、とても優しい笑みを浮かべている。そういう表情を見ると彼が年上のひとなのだと遠夜は特に感じる。元気いっぱいな大型犬のような面を見せてくれることも多いのに、そういう柔らかな目をするのは少しずるいと思う。遠夜はずっとときめき通しだ。
「……桜、もうちょっと見ててもいい?」
「いいよ。ベンチ座ろ」
繋いだ手は哲彦の片膝に。並んで座ったベンチは緩やかに視線を上げれば月が、喉を反らすように見上げれば桜がある。月に叢雲花に風ということもなく、空は透き通っているし肌を冷やすような風は吹いていない。静かで落ち着いた夜だ。
「明日、お休みだったよね」
「そう」
「じゃあ、お泊まりしてもいい?」
「来ないつもりだったの?」
む、と哲彦が少しだけ眉を寄せる。さっきまで年上らしい顔をしていたのに、と遠夜はその眉間の皺が可愛くて指先でちょん、と突く。
「哲彦くんがお泊まりしてくれる場合もあるでしょ?」
「そりゃそうか……なに、来たい気分?」
「うん……」
哲彦の部屋は当たり前だけれど哲彦の匂いや気配がする。その空間に身を置くのが遠夜は好きだ。例えば触れ合っていなかったとしても、哲彦の腕のなかにいるような心地がするから。好きなひとの気配はなによりも心が安らぐのだ。
「哲彦くんのベッドで寝るのが一番よく眠れるんだよねえ」
「ふうん?」
「……なあに?」
語尾を上げた哲彦に、なにかおかしなことを言っただろうかと首を傾げれば、彼は遠夜がしたように額を突いてくる。
「俺のベッドだけじゃ足りないでしょ」
俺が必要でしょ。
言われて、遠夜はそんな当たり前なこと、と思う。思ってから、改めてなんて贅沢になってしまったのだろうかと照れて、哲彦の肩へごちっと頭をぶつけた。言わなくても哲彦は自分を腕に抱いてくれるのだと、遠夜は頭から信じ切っている。
「だって……だってえ……!」
「真っ赤じゃん」
「暗くて見えないでしょ……」
「見えるよ。街灯あるし……遠夜くんのことよく見てんだから」
髪を耳にかけて、頬が哲彦の手に包まれる。顔を上げれば間近に哲彦が遠夜を見ている。言葉通りで、言葉では分からなかったくらい熱っぽい目。きっと、遠夜も同じような目をしている。目の前のひとが大好きだという、恋をしている目。
遠夜はとても堪らない気持ちになって、哲彦の首へ両腕を絡めると、彼の唇に触れるだけのキスをした。花弁が掠めたくらいの、ほんとうにささやかなキスだった。
「……好き」
「ん。俺も愛してる」
哲彦の言葉に、空気の塊が喉でつっかえたように遠夜はなにも言えなくなる。
愛してる。
哲彦が自分を。好きなひとが、自分を。
遠夜は込み上げる気持ちに突き動かされるまま哲彦に抱きついて、頬を彼の肩口に擦り付ける。
「俺も……」
哲彦の頸へ添えた左手に見える指輪。
──遠夜は随分と自信がなかった。
人前に出ることも、自分を表現することも。
好きなひとに気持ちを伝えることにも自信や勇気がなかった。
けれども、いまの遠夜はそうではない。胸にはドッグタグがあり、左手には指輪がある。そうして、目の前には大好きな恋人がいる。
遠夜にはもう、なにも怖いことなどないのだ。
「俺も、愛してる」
伝えることになんの躊躇もいらない。
離れる哲彦の体。すぐに隙間を埋めるように唇が重なり合う。触れ合って、求め合って、それだけでは足りなくなってしまうのはきっともうすぐ。
「だいすき」
春の夜はきっと遅くなることだろう。
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