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Hnyanko
2026-03-02 23:04:04
6389文字
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慈愛と距離
遠慮がちな🏹を甘やかしたい🧡
雨の音が、壁一枚隔てた向こう側じゃなくて、頭の中で降っているみたいだった。
窓ガラスを叩く細かい雨粒のリズムと、胸の奥で鳴り続ける鼓動の速さが、変なふうに重なっている。耳を澄ませようとすればするほど、逆に音がぼやけて、代わりに自分の呼吸ばかりがうるさく感じられた。
部屋の明かりはつけていない。スイッチに手を伸ばして、結局やめたのは、月あかりに照らされたこの部屋の「ひとり分」がやけに滑稽に見えそうな気がしたからだ。
カーテンの隙間から入り込むネオンの色だけが、弱々しい明かりの代わりになっている。青や赤が、壁紙の上でゆっくりと溶け合い、形にならないまま揺れている。
テーブルの上で画面を伏せた端末が、そこだけ異物のように置かれていた。何度も確認したところで、表示されるものはひとつしかないと分かっているのに、視線が吸い寄せられる。
『ごめん、今日は行けそうにないや』
文字数だけ見れば、申し訳なさも優しさも、ぎゅっと圧縮したみたいな文面だ。
絵文字も、ふざけたスタンプもない簡素な一文なのに、そこにある悠真本来の慎重さが、刺のように引っかかる。慎重に言葉を選ぶ時の悠真を、僕は知っている。相手を傷つけたくない時、あるいは
――
自分がこれ以上傷つきたくない時。
指先でマグカップを押しやり、冷めきったコーヒーを視界の端から追い出す。
一人分だけの湯気は、とっくに消えている。さっきまでそこにあったはずの温度の残像だけが、妙に悔しく思えた。彼は、手放しに人に寄りかかるということに抵抗があるらしい。
ソファにもたれながら目を閉じると、別の夜の光景がすぐに浮かぶ。熱で頬を上気させながら、「大丈夫だって」と笑って見せた彼。その手が毛布の端を掴んでいたこと。冗談めかした声に、震えが混じっていたこと。
本当は怖かったのだろうと気づいた時、喉元まで出かかった「無理しないで」を飲み込んだのは僕だ。代わりにしたことと言えば、肩を抱き寄せてただ、体温を分けるように彼の髪を梳くだけだった。
それを「十分だった」と信じたかったくせに、今になって同じ台詞を自分に向けられたような気がしている。
僕じゃなくても、彼を支えられる人間はきっといる。彼が気を許せるような、そんな遠慮がいらない関係を持つ人もいるだろう。そんな考えが一度頭に入り込むと、追い出すたびに形を変えて戻ってくる。まるで、塞いでも塞いでも隙間から入り込んでくる雨のように。
溜息をひとつ吐いた瞬間、雷光が窓の外を横切った。
続いて遅れて、低い雷鳴が腹の底を震わせる。それに合わせて、心臓も一拍強く跳ねた気がした。
そのとき。
ドアの向こうから、特徴的なノックの音が響いた。
微かに、聞き取れるか聞き取れないかの狭間の扉を叩く音がひとつ。
聞き慣れたリズム。覚えがありすぎる叩き方。
脳が状況を整理するより先に、身体が勝手に立ち上がっていた。足元がわずかにふらつく。床の冷たさを踏みしめる感覚さえ、妙に遠い。
急いで階段を駆け下りて、息を整える間もなく扉を引く。開いた先に立っていたのは、雨に濡れた、見慣れた顔だった。
「
……
やっほー。お邪魔して、いい?」
呑気な挨拶とは裏腹に、その顔はひどい。雨粒じゃない水分が、睫毛の先で光っている。
フードも傘もなく、髪はぺたんと額に貼りついていた。仕事着のままだったのか、薄いシャツが肩口から袖口まで、色が変わるほど水を吸っている。
「悠真
……
!どうしたんだい、その格好
……
」
出てきたのは、思っていたよりもずっと掠れた声だった。責めるというより、驚きと戸惑いと安堵がぐちゃぐちゃに混ざった音。
彼は、いつもの癖のように口角だけを少し上げる。
「いやー、思ったより降ってきちゃってさ。歩き出した頃は、こんな本降りになるとは思わなくて。運、悪っ」
軽口に聞こえる。だけども言葉の節々には何かいつもとは違う焦燥を感じた。外気に冷やされたのは身体だけじゃないのだと、その声色が教えてくる。僕は何も言わず、半ば反射的に彼の手首を掴んでいた。濡れた布越しに伝わる体温は、思ったよりも冷たい。お店の前から引き入れるようにして中へ招き入れ、ドアを閉めた音が、雨音より重く響いた。
「とりあえず、話はあとだ。
……
タオルと、シャワー。今すぐ、ね?ただでさえ、君は風邪を拗らせたら大変だろう?」
「うん
……
あ、ね」
素直に頷いたあと、悠真はふっと視線を上げた。その金色の瞳が、真っ直ぐこちらを射抜く。その蜂蜜は、少し迷ったように揺れたあと、瞬きをしてアキラを窺う。
「怒ってる?」
たったそれだけの問いに、喉が詰まる。
怒っているのか。悲しいのか。不安なのか。ただ純粋に心配なのか。
どれかひとつに名前を付けてしまえば、少しは楽になれそうなのに、胸の中の感情は濡れた衣服みたいに重なり合って、簡単に剥がれそうにない。
「
……
怒ってはいないよ。ただ、なんで来たんだい。『今日は無理』って、そう送ったのは君だろ」
言いながら、自分の声の温度を探る。冷たくするつもりはなかったのに、柔らかくもなりきれない中途半端さが、耳にざらついた。
悠真はジャケットの裾から水滴を床に落としながら、小さく肩をすくめた。
「行けそうにないって送ったあとさ、ちゃんと横になって、薬も飲んで、真面目に寝ようとしたんだよ」
咳も出てたし、微熱も少しだけあった。体は資本だからね、ちゃんと休むべきだって分かっていた。彼はそう言い募る。言葉と同時に、自分の胸元を指先でとんと叩く。
「でも、ここがずっとざわざわしててさ。あんたの顔、頭から全然どいてくれなくて。天井見ながら、あーこれダメなやつだって気づいた」
苦笑ともため息ともつかない息が漏れる。
「『行けない方が無理』っていう、自分勝手さ。寝たほうがいいのは分かってたけど、頭の中ではあんたに会わないともう休めないって」
アキラくんと付き合ってからは初めてのことばかりで心は儘ならないし、本当、困っちゃうよね。と、冗談めいた口調の中に、自嘲と少しの怖さが混じっているのが分かった。
「
……
雨、ひどかっただろう。連絡を入れてくれれば迎えに行ったのに、馬鹿だな、本当に。」
少しだけ呆れて。あとは特大の心配と、頼って貰えなかった無力さと。体調が悪い彼に当たるのは違うと思いつつも、少しだけ言葉に棘が出てしまう。
「馬鹿だよ。知ってるでしょ?」
即答しながら視線を落とした彼の前髪から、ぽたり、と雫が落ちる。
その一滴が床に弾ける音が、やけに大きく聞こえた。
「ほんとはさ。メッセージ送った時点で、ちゃんと電話して説明して、会えないことも謝るべきなのも分かってて」
濡れた前髪の影に隠れて、表情が読み取りづらい。
けれど、唇の端が細かく震えているのは見える。
「でも、声聞いたら、たぶんそこで泣くなって。アキラくんに会いたくなって
……
でもあんたは気を遣うでしょ?分かりきってるからそれだけは絶対やだなって」
軽く笑う。その笑いが、あまりにも頼りない。
「はは、泣いてもいいよ。君のそんな顔が見れるなんてレアだね」
「だから泣きませんー!僕も好きな人の前では恰好つけたいんですー!」
早口の反論と同時に、俯いた視界から、またひとつ水滴が落ちる。その瞬間、僕の中で何かが決壊した。距離を詰めるのに、躊躇はなかった。腕を伸ばし、濡れたシャツごと彼の身体を引き寄せる。びしゃりと水音がして、冷たさがシャツ越しに染み込んでくる。
それでも、手放したいとは思わなかった。
「うわ、ごめ、服
……
」
「いい、いいよ。」
短く遮る。
胸元に額を押しつけてくる感覚が、じわじわと温度を取り戻していく。
髪から滴る水の匂いと、シャンプーの残り香と、外気が連れてきた湿った空気。全部混ざって、僕の知っている「悠真」の匂いになっている。それが酷く愛おしくて、同時に少しだけ怖かった。こんなにも簡単に、僕の感情のスイッチを握ってしまう人間が、この世にひとりしかいないことが。
「困らせてもいいからさ」
「迎えに来て、会いたいって言ってほしかったよ」
胸元に押しつけられていた額が、かすかに揺れる。
返事はすぐには返ってこない。ただ、濡れたシャツ越しに布を掴む指先の力だけが、少しだけ強くなった。
「
……
うん」
くぐもった声は、思いがけないほど素直だった。
「ごめん。そういうの、ちゃんと言えるほど余裕なくて」
その一言だけで、胸の中に残っていた棘のようなものは、もうほとんど形を失っていた。
会いに来てくれた安堵と、こんな身体でここまで来させてしまった痛みと、これ以上この人を冷やしたくないという焦りだけが、静かに残る。
「謝らなくていいよ」
そう言いながら、濡れた前髪を指でそっと払う。
額に触れた指先に、外気に冷えた皮膚の下で燻る、うっすらとした熱が移った。
「
……
とりあえず、こっち」
頬に手を添えたまま少しだけ身体を離し、僕は彼の顔を覗き込む。
「話はあとでいい。君、冷えすぎてる」
「え、でも」
「でもじゃない」
自分でも驚くほど、声はやわらかかった。
怒っていない。責めたいわけでもない。ただ、もうこれ以上ひとりで立たせておきたくなかった。
「シャワー、浴びよう。熱すぎない温度でね。着替えは出しておくから」
手首を取ると、やっぱり驚くほど冷たい。
こんな身体で、よくここまで来たものだ。呆れるより先に胸が痛んで、僕はそのまま洗面所まで彼を連れていった。棚から大きめのタオルを引き抜いて、半ば包み込むみたいに悠真の頭へかぶせる。
「アキラくん、僕、自分で
――
」
「知ってるよ」
言葉を重ねるより先に、タオル越しに濡れた髪をぽんぽんと軽く押さえる。
「でも今日は、僕にやらせて」
悠真が少しだけ目を見開く。
その表情がおかしくて、愛おしくて、泣きそうなくらいほっとして、僕は小さく息を吐いた。
「ほら。浴室、あったまってるから」
観念したように頷いた彼を送り出して、扉が閉まる音を聞いた瞬間、ようやく肩の力が抜けた。
壁一枚向こうにいる。その事実だけで、ついさっきまで部屋の中に満ちていた寂しさの輪郭が、ずいぶん曖昧になる。
手早く着替えを用意して、ついでに湯を沸かす。
ケトルの小さな作動音さえ、今は妙に落ち着いた。何かをしていないと、自分の心臓の音ばかりが耳につく。来ないと思っていた人が、今こうして僕の家の風呂を使っている。その当たり前じゃない事実に、安堵はしているくせに、身体の奥はまだ少しだけ震えていた。
しばらくして、湯気をまとった悠真が出てくる。
僕の部屋着を着ているせいで、いつもより少しだけ線が細く見えた。頬には薄く熱が残っていて、けれど雨に打たれていたさっきよりずっと人らしい色をしている。髪の先からはまだ完全に乾ききらない湿り気が落ちて、石鹸の匂いがふわりと漂った。
「座って」
ソファへ促して、肩から膝までぐるりとブランケットをかける。
その上から逃がさないみたいに包み込むと、悠真はひどくおとなしくされるがままになった。
「はい」
差し出した白湯を、彼は両手で受け取る。
指先はまだ少し冷たくて、僕はカップごとその手を包むみたいに支えた。
「
……
甘やかしすぎじゃない?」
「そうかもね」
隣に腰を下ろしながら答える。
「でも、無理してここまで来た人には、これくらいしても足りない気がする」
そう言うと、悠真は困ったように笑った。
その笑みはいつもの飄々としたものよりずっと弱くて、だからこそ、今は余計に手放したくないと思う。
「髪、まだ少し濡れてる」
「あとで自分で
――
」
「駄目」
今度は少しだけ強めに遮って、ドライヤーを取りに立つ。
戻ってきて隣に座り直すと、悠真は白湯の入ったカップを抱えたまま、諦めたように肩の力を抜いた。
「
……
はいはい。お世話焼きだねえ」
「知ってるだろう」
温風をあてると、濡れた髪がふわりと揺れる。
指を通すたび、少しずつ整っていく黒髪の感触が掌にやさしい。悠真は目を伏せたまま、されるがままになっていたけれど、やがてほんの少しだけこちらへ傾いた。
その重みが、たまらなく愛おしい。
「寄りかかっていいよ」
風の音に紛れないよう、耳元でそっと言う。
「今日は格好つけなくていい。僕の前では、ちゃんとしようとしなくても大丈夫」
睫毛が、かすかに震える。
「
……
そういうこと言うから、来ちゃったんだけど」
「うん」
髪を乾かしながら返す。
「知ってる」
くぐもった沈黙が落ちる。
責めるつもりで言ったわけじゃないのに、その二文字だけで胸の奥が少し熱くなる。彼がこうして弱い声を出すのも、素直に寄りかかるのも、たぶん簡単なことじゃない。それを今、僕の前でしてくれている。それだけで、どうしようもなく満たされてしまう自分がいる。
「寝ようとはしたんだよ」
ぽつりと、悠真が言う。
「ちゃんと薬も飲んで、横になって。これで大丈夫だって思おうとした」
「うん」
「でも、だめだった」
白湯の湯気の向こうで、その横顔が少しだけ曇る。
「あんたの顔が、頭からどいてくれなくて。会えないまま休むの、なんか無理だなって思った」
言葉が落ちるたびに、胸の内側の張りつめていたものが静かにほどけていく。来てくれたことが嬉しい。嬉しいなんて一言では足りないくらい、救われている。けれどそれ以上に、そんなふうに僕を求めてくれたことが、どうしようもなくあたたかい。
ドライヤーを止めると、部屋の中にまた雨音が戻ってきた。けれど、もうさっきみたいに冷たくは聞こえない。僕は手を伸ばして、ブランケットの端を整えながら、悠真の肩をそっと抱いた。
「次は、こんなふうに無理して来なくていい」
肩口へ重みが預けられる。拒まないまま、むしろ少しだけ深く寄ってくるのが分かって、胸が甘く痛んだ。
「会いたいって、それだけ送って。迎えに行くから」
しばらく黙っていた悠真が、やがて僕の肩に額を預けたまま、小さく笑った。
「
……
ほんと、甘いよね。アキラくん」
「君にはね」
迷いなくそう返すと、彼は何も言わなかった。ただ、カップを持つ手の力がゆるみ、代わりに僕の服を摘まむ指先だけが、そっと縋るみたいに動く。だから僕は、そのまま濡れ気の消えた髪を撫でる。
「もっと、僕に寄りかかってよ」
独り言みたいな声になったけれど、たぶん彼にはちゃんと届いていた。
肩に預けられた重みが、ほんの少しだけ深くなる。
「君がひとりで大丈夫なことくらい、知ってる。それでも、僕の前では少しくらい駄目になってくれていいんだ」
言ってから、胸の奥が静かに熱を持つ。こんな言葉を口にしてしまうくらいには、僕はもうこの人に甘い。甘くて、弱くて、たぶんどうしようもない。でも、それでいい気がした。
外の雨はまだ止まない。
それでも今は、腕の中に収まる体温のほうがずっと確かだった。冷えた指先も、濡れた名残も、少しずつ僕の部屋の温度に馴染んでいく。
今夜くらいは、ひとりでちゃんとしていなくていい。僕の前では、弱って、甘えて、困らせて、そのまま寄りかかってくれればいいのだと、そう思った。
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