Isa
2026-03-02 19:14:32
2052文字
Public 短文
 

ドーナツの穴を埋める

大したことない夢オチのとぅるしす。雰囲気でどうぞ。

 繰り返し、繰り返し、音が聞こえる。
 一定の間隔で──柔らかなようで、荒々しさを孕んでいる──遠く聞こえた次の音は近付いて──絶え間ない。
騒がしい、と評するほどではない。けれど、あまり馴染みのない音だった。でも、聞いたことはあった。各国を巡ってきた今では、自国では決して聞こえてこないその音の正体がわかる。
(海だ)
 その水は、とても塩辛くて、お菓子の国を流れるチョコレートの川や、砂糖水の泉とは、比べ物にならないくらい、大きい。バターの底なし沼に比べても、きっと広く深いだろう。
 夕陽を受けてきらきらと輝いている赤い海は少し異様で、飴菓子の木に実ったキャンディーを、籠いっぱいに拾ってきて溶かしても、こんな風にはならないだろう、と思った。
 その海に、誰かが立っている。見覚えがあるようで、ないような。逆光になっていて、シルエットしかわからない。誰だろう、とぼんやり思って近付いたとき、ばしゃん、と足元で音がした。
「うわっ……
 外の世界の匂いには、以前より随分と慣れたが、用意もなく海水に触れて、濃厚な潮の香りが漂ってきた瞬間、トゥルータは思わず顔を顰めた。靴が濡れて気持ちが悪い。
 それだけならまだしも、こんな格好悪い姿を、あの人に見られたかもしれないというのが、妙に気恥ずかしかった。
「大丈夫?」
 はっとして顔を上げる。いつの間にか、その人が目の前にいた。こちらの顔を覗き込んで、心配そうな声色が聞こえたが、彼──ないし彼女の姿はぼんやりとしていて、どうしても誰なのか思い出せない。知っている気がするのに、わからないという、妙な感覚だった。
「あっ、大丈夫だ。悪い、何か……、ええと、邪魔しちまったかな」
「うん? どうしてそう思ったの?」
「えっ。あ……いや、何か……海の先に、見えるものでもあるのかと思って」
「そうだね、ここは島だから。ワタシの欲しいものは、海の向こうにあったんだ」
 唐突に、相手の声色が変化した気がした。それに、言い方が過去を向いている。不思議に思って尋ねようとすると、また、ばしゃん、と大きな音がして、塩辛い水が跳ねた。
 いきなり手を引かれたから、勢いを殺し切れなかった。声を上げる間もなく、その手に受け止められる。
「でも今は、ここにいるから。邪魔だなんて思わないよ」
……へ?」
「迎えにきてくれてありがとう。またね、トゥルータ」
 ぱちん、と風船ガムが弾けるように、意識が明確になる。と同時、不意に身体を受け止めているものに頼りなさを感じて、慌てて何かを掴もうと、手を伸ばした。すぐにその手はしっかりと掴まれ、支えられることにより、投げ出されかけた体がその場に留まった。
……大丈夫、トゥルータぁ?」
「あ……、ありがとう、シスル……
 続いてあくび混じりに無事を問う声が聞こえて、掴まれた手をぐい、と引っ張られた。寝台から落ちかけていたトゥルータを、同じように寝起きのはずのシスルが、咄嗟に手を掴んで阻止してくれたのだろう。
 落ちかけた、という感覚に驚いた鼓動をなだめながら寝台に座ると、シスルがおかしそうに笑った。
「ふふ、ベッドから落ちるなんて、どんな夢を見たの? 怖い夢とか?」
「ああ、それは………………
……忘れちゃった?」
 ほんの数秒前に見ていたはずの夢の話は、起き抜けの驚きに追い出されて、霧散してしまっていた。かろうじて、断片的に覚えていることを口にする。
「知り合いと話す夢だったと、思うんだけど。二人で海にいて……その人の顔は、夕焼けのせいでよく見えないんだ」
……へえ、トゥルータってばひどいや。夢の中とはいえ、ワタシ以外とデートだなんて」
「ち、違う! そういうんじゃ……ちょっと話しただけだったと思うし……
 シスルが露骨に悲しそうな顔をするので、冗談と知りつつもつい言い訳じみたことを口にしてしまう。
「ふふ、からかっただけじゃない。そんなに慌てるなんて……怪しいなあ?」
 どうしてか、胸のどこかに後ろめたさがあった。理由はわからない。黙っている限り事態は悪くなるとわかっていても、二の句が継げなかった。
 そのうちに、いたずらっぽく微笑んでいたシスルが目を細めたまま、その笑みの色を変えた。思いがけず穏やかな眼差しに見つめられて、少しだけ戸惑う。
「大丈夫。トゥルータはずっと、ワタシのことを見てくれてるって、知ってるから」
「え……
「そんなに不安がらないでよ。ただの夢でしょ? いつか、一緒に海に……エルシアムに行こう。みんな、キミを連れて来いって、うるさいんだ」
 シスルの言葉の意味は、わかるようで、わからない。けれど、自分にも原因のわからない違和感を、取り除いてくれたことだけはわかった。
「夢なんかよりも、きっと楽しいよ」
……ああ、そうだな。楽しみにしてる」
 釣られるようにして笑う。シスルの手は温かい。夢で自分の手を取ってくれたそれと、似ているような気がした。