ながひさありか
2026-03-02 05:25:29
5200文字
Public STR-Phaidei
 

またたきで合図して

転生(再創世後・原作と違い独自の新生オンパロス)/記憶がない×記憶がある/樹庭の同級生/早くファイノンに抱かれて安心したいモーディスがぐるぐるしている話。

3.7前に更新しようと思っていたものの間に合わず、ラストを見届けて続きどうしようかな…と数ヶ月悩んでいたのですが、ようやく自分の中で折り合いがついたのでのんびり続きを書きます。

前回まで→ https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=26002046


 ——懐かしい匂いだ。
 微睡の中、腕の中の熱い体を強く抱き寄せ、髪に鼻先を潜り込ませて息を吸う。嗅ぎ慣れた草と少しの汗が混ざった匂いがやはり懐かしく、どこか郷愁さえも覚えた。
 ファイノン。目を閉じたまま口の中で呟き、身動みじろぎひとつしない男を抱きしめる。
 懐かしい匂いから、かつての記憶を現実のものとして取り出せるようになったと信じてしまったかのように何度も深呼吸をし、髪に鼻を埋めたまま、ファイノンの体を撫でる。一番「新しい」記憶のファイノンからしてみれば、少しばかり細い体だった。腕周りの筋肉のつき方も、太腿の太さも違う。だが、三千を超える輪廻の中であれば、どこかでこんな体つきの男と触れ合ったような気がした。少なくとも、肌の熱さと匂いは確かに、俺の知るファイノンと変わらない。
 ファイノンを抱きしめたまま、「本当に何一つとして俺を覚えていないのか?」と頭の中で考えていた。
 忘れてしまっていたとしても構わない。思い出す必要はない。何故なら、忘れてしまいたいほど辛く苦しい記憶がお前にはあるからだ。お前よりもしかすると、俺の方がよくわかっているだろう。——そんな傲慢な考えと諦念を持っていた筈だと言うのに、ファイノンが俺の記憶を何一つとして持っていないことに、本心では少しだけ不満を感じている。
 当然口にする気はない。何故覚えていないのかとファイノンを詰るつもりもない。だからこれは一生、俺が密かに抱えるだけの小さな不満だ。しかしその不満を捨てられないのは、今の「俺」がたかだか二十年しか生きていないからだろう。頭の中に住まうもう一人の老成した「俺」は、こうしてファイノンと邂逅した奇跡を純粋に幸福に感じている。もう一度この男を腕に抱き、髪に鼻先を潜り込ませ、その体温を感じている。それだけで十分だろうと喧しく俺を諭していた。確かにそうだろう。新生後のオンパロスで、何度目かの転生の果てにようやく邂逅を果たしたのだ。たかが記憶がないだけで、俺たちの繰り返した三千万を超える人生で出会った様々な困難に比べれば、「覚えていない」ことは大した問題にはならない筈だ。
 俺とお前はどの輪廻でも必ず出会い、ゼロから互いを知り、認め、尊敬し合い、俺はお前に必ず不死の弱点を教えた。今回は俺がたまたまお前をよく知っていると言うだけの話で、今までに何度も繰り返した生涯と変わらない。俺はお前に好意を抱き、愛するようになる。お前も同様に。その筈だった。
………………
 ファイノンの髪から顔を上げ、ゆっくりと目を開けると、すっかり陽の落ちた暗い天井が目に入った。二年暮らした見慣れた寮の天井を数秒見つめてから、もう一度瞼を下ろす。
 俺に抱きしめられても間抜けに穏やかな寝息を立てたままのファイノンを再び抱きしめ、そっと目許と頬にかかる髪を指先で払う。薄暗い室内でやや不鮮明なファイノンのまだ幼さの残る甘い輪郭を顎先から指でそっと辿り、耳の付け根を撫でた。昔から変わらずピアス穴のない耳朶にそっと口付けを落とし、耳の付け根から頬骨の上へとゆっくり唇を辿らせる。ファイノンが小さくぐずるような声を上げたが、それ以上の反応はない。それに何故か安堵する。
 眠っている人間にこんなことをしてはいけない、と罪悪感が一瞬だけ浮かんだが、いや、と思い直す。この男と俺は再び恋人になったのだから、この程度の触れ合いに否定的な感情を持つ理由はない、筈だ。
 今世のファイノンは俺への支配欲のようなものを見せた次の瞬間、妙な自制心でもって耐えてしまう。それを意気地なしだと感じない「べき」なのだろうが、これだけ俺が隙を見せてやっているのだから欲望のままに手を出せ、と言ってしまいたかった。……もしかすると、本当にそう言うべきなのかもしれない。
 ファイノンの頬骨にもう一度口付けを落とし、眠っている男をゆっくりと仰向けに転がす。こうまでされても目を覚さない男の鈍感さに段々と腹を立てているのは、かつてのオンパロスでこんな平和ボケをした男は、到底英雄にはなり得なかったからかもしれない。この姿こそがきっと、オンパロスが平和になった証拠だろうに。
 仰向けに寝かせたファイノンの体を両膝で跨ぎ、顔の横に両手を付いた。暗闇に慣れてきた俺の視界には、すやすやとまるで幼な子のように愛らしく平和で、穏やかな寝息を立てているファイノンの寝顔が映っていた。その姿を微笑ましく思うのと同時に、胸が締め付けられるような感傷と切なさを覚えた。
 ファイノン。ごくごく小さな声で呟き、目を覚さない男の頬を撫でる。
 俺はこんなにもお前を愛おしく感じているのに、お前は呑気に俺の前で寝顔を晒し、俺をこんなにも長い間放置している。何故だ? どうして、お前の欲望を俺にぶつけてしまわない。……海上列車の車中のやり取りを思い出し、理不尽な怒りが込み上げ、すぐに霧散する。あそこで俺の提案——ホテルを探すか?——に乗らず、「自分を大事にしてくれ」と心配そうに俺を窘めるお前の優しさが好きだった。その優しさを確かに俺は愛している。
……ファイノン」
 お前があのどうしようもなく行き詰まったオンパロスで、どれほど俺を愛したのか、俺は俺の身を持って知っている。
『恋なんてしてる場合じゃないってわかってる、だけど』
 お前が苦しみに眉を寄せながら、俺にそう何度も吐露したことを俺は覚えている。お前はいつでも、オンパロスに黎明をもたらすことに必死だった。たったひとりで世を背負い、孤独に、何度も何度も同胞と俺を手にかけ、人々が死に絶える姿を見届け、途方もない徒労の始まりに何度も一歩を踏み出した。ただの一度も足を止めず、最後まで、ただの一度も屈しなかった。何度言い聞かせても俺の死に苦痛を覚え、なるべく死なないでくれと言ったはずだ、と時には苛烈な怒りを声に乗せて俺を叱るような、心の優しく、繊細な男だった。他者の死をなかなか受け入れられないお前は戦士には向いていない。そんな精神性では早々に潰れてしまうと俺が説教をしたのも十度や百度ではない。……しかし、俺の予想に反し、お前は壊れ切らなかった。どれほど傷つき血を流そうとも、救世の名を開拓者に継がせるまで耐え切った。だからこそ、今のこの戦争もこの世の終わりもないオンパロスを迎えることができたのだ。
 ——そんなお前を、俺は傲慢にも誇りに思う。誰よりも研鑽と鍛錬を怠らず、貪欲に強さを追い求め、戦術書を頁の端が擦り切れるほど読み込む姿を覚えている。
 だからこそ、お前は、俺の殺し方をゆいいつ教えるに相応しい男だった。かつての俺が信仰し、クレムノスの象徴として掲げていた「紛争」を譲るにも相応しい男だった。隣に並び立つのも、背中を護らせるのも相応しい男だった。
 お前のその強さと、強くあろうともがく脆さと優しさ、その善性を俺は愛していた。……今も変わらず愛している。そんなお前に、何千何万と愛されたことを幸福に思う。
 俺はこんなにもお前に愛されて幸福だったと言うのに、お前にとってはそれが深い傷となっているだろう現実に苦痛を感じている。お前が俺を深く愛せば愛しただけ、俺を手にかける苦しみは増しただろう。どれほど愛しても俺を殺さなければならないお前の苦しみを俺が本当に想像することは難しく、わかってやれるとは、傲慢にも言えなかった。
 お前が永遠にも思える輪廻の中で受けた傷を思えば、平和になった今、全てを忘れてしまいたいと考えてしまうのもわからなくはない。ファイノンが前世を覚えていないのは、苦しみと悲しみが深すぎるからだろう。覚えていないことは罪ではない。ファイノンに過失はない。俺も含め、誰も彼も前世の記憶を持ったまま再びこの世に生まれてくるかどうか、その確率や仕組みはまだ解明されていないからだ。もしかすると今回たまたま覚えていないだけで、出会わなかった前回の人生では俺を覚えていたが、会いまみえることが叶わなかったのかもしれない。
 そう、何度も何度も、再会してから二年で、何度も言い聞かせてきた筈だった。覚えていないことは悪ではない。仕方のないことだ。それを責めるわけにはいかない。
 いずれにせよ、今世のファイノンは俺について何ひとつ覚えていないにも関わらず、再び俺に恋をした。まるで俺とお前はどのような形であれ、やはり結び付くことを運命付けられているかのように。
「ファイノン、」
 瞬きをした瞬間、ファイノンの頬にぽたりと水滴が落ちる。それを皮切りに、目の奥と鼻の奥がツンと痛み、視界が熱を持ってじわじわと潤み、歪んで行く。ファイノンは目を覚さない。いや、覚さなくていい。こんな姿を見られるのは失態だ。王たる俺に相応しくない——否、俺はもう王ではない。ただの一市民だ。
 頭が混乱していた。目の前がぐらぐらと揺れ、体の内側から引き裂かれるような胸の痛みに呻き声が漏れそうになるのを、歯を食いしばって耐える。濡れたファイノンの頬を指先で弾き、涙の跡を服の裾で拭って消した。
 ファイノン、俺はお前を愛している。俺は昔と同じように、一刻も早く、お前に愛されていることを全身で感じたい。お前が俺を愛おしく思ってくれていることはわかっている。その心を疑ってはいない。だからもう、お前の体が欲しいのだ。
 かつての俺たちは心が後から寄り添うことが多かっただろう? お前はそれを忘れてしまっているから、仕方のないことだとわかっている。わかっているが、もう、
……モーディス?」
 掠れた低い声が響き、激情に荒れる頭に冷水をかけられた気分だった。ハッと息を吐き、慌ててファイノンの体の上から飛び退くと、暗闇の中で濡れた自分の頬を素早く袖で拭う。
 混乱している。頭痛と眩暈を再び感じ、ふらついて家具に手を付く
「寝過ぎた。夕飯を作ってくる」
 学生の身分でなければ、いや、せめて俺が寮住まいでなければ、お前をさっさと襲ってしまえたものを。
 不埒な妄想を頭から振り払うよう、足早に部屋を出て——いこうとした俺の手を、ファイノンががっしりと掴んでいる。
「そんな顔で出て行くつもりか?」
 硬く低い声に、意思に反して俺の足が止まる。しかし、痛いほど掴まれていた手の力が緩み、室内の灯りがつく。ファイノンが付けたのだろう。
「泣いてた理由を話したくないなら言わなくていいよ。だけど、そんな状態でどこかへ行かないでくれ。ただでさえ昼間に倒れかけたんだ。まさか忘れたのか?」
 振り返らない俺を背後から強く抱きしめ、ファイノンが耳許で口にする。詰るような言葉が含まれているくせに、心から心配する音が滲んでいる。その声のやわらかさと甘ったるさに胸が打ち震え、体が勝手に弛緩する。
 そんな風に俺を心配する男を、両親以外に、今も俺はお前しか知らない。
「ファイノン、」
 俺を抱きしめる男の腕を撫で、さすり、背中に体重をかける。少しふらついたファイノンは、「おっと」と声をあげて踏み止まり、俺の顔を覗き込む。
「君みたいな美人の泣いてる顔を見るのは辛いよ。……どうかしたかい? 具合が悪くて不安になった?」
 優しい声で、しかしどこか茶化すような空気で口にした男は俺の目尻に口付けを落とし、あやすように体を優しく揺すってくる。寝起きのファイノンは小さくあくびをし、「寝起きだから寒いな」と嘯いて、俺から暖を取るようにさらに強く抱き寄せた。
 俺よりファイノンの方がやや体温が高く、熱に包まれるような感覚がし、それが心地よかった。
……俺をいくつだと思っている」
 離せ、と本心とは裏腹に憎まれ口を聞いてしまう俺を、ファイノンは離さない。頬に何度も口付けを落とし、「君が浪人や留年したって話は知らないな」と笑う。
 じわじわとファイノンの体温が俺に移り、段々と熱の差を感じ難くなっていくのがわかった。その感覚に身がほどけるような錯覚を覚えた瞬間、がくん、と膝から力が抜ける。
「うわっ、……ぶない……!」
 慌てて俺を支えたファイノンが声を上げ、「なぁ、本当に病院に行った方がいいんじゃないか?」と言いつつ、ずるずる俺をベッドに引きずって座らせる。
 真正面から俺を見つめ、頬に手を当てるファイノンの表情は心配そうに曇っていた。そんな顔をさせてしまうのは苦しかったが、それと同時に、この男がこんな顔をするのをどこかで喜ばしく感じてしまうのも事実だった。
「キスしてくれ」
…………え?」
「今すぐ俺に口付けろと言ったんだ」
 そう言うや否や、ファイノンの襟ぐりを掴んで引き寄せる。


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