男は少々焦っていた。長い廊下を走り、目的の場所に向かう。兄貴に命じられていて、客人がきていることを一番上のあの方に伝えなければならない。さっさとしないと誰かしらに殴られるので、つい、いつでも早足になる。広い屋敷の中ようやく着いた部屋の前で呼び声を上げた。どうか起きていますように。眠っている所を起こすのは最悪だ。最低一回は蹴られる。だから兄貴も上の人間に頼まれている役目をさらに下である自分に言いつけるのだ。
返事はない。手に汗が沸いた。今日は駄目な日か。痛みに耐える覚悟を決める。下っ端がそう部屋に入れるわけもなく、もう一度声を張り上げようとして、入れ、と返答が一枚隔てた扉の奥から届く。
暴力から逃れられたことに思わず気が抜けたのが間違いだったのか。その声色が違うことも、今まで部屋に通されることなんて一度もなかったことも忘れていて、なんの疑問も抱かず扉を開き、男は部屋に入ってしまった。
見知らぬ美しいひとがた、がいた。一糸纏わぬ躰である。飛び込んできたその姿にただただ目を剝く。見てはいけないような、つい見入ってしまうような。その感覚に圧倒される。
寝台に腰掛けている男は、日を浴びて透き通るような長髪の隙間から黒いひとつの瞳でこちらをとらえる。
「……茶を淹れろ」
はい。と言葉は勝手に滑り出る。条件反射である。言われたことには全て頷き、即時に行動しなければならない故の。ここ数年で培ったなるべく殴られずに生き残る術である。
それにその声色はどうしてだが言うことを訊かなければならない、という気にさせた。
誰で何であるかなど疑問を抱くよりも先に一度も足を踏み入れたことのないキッチンを探せば茶葉の詰まった缶がある。茶の準備なども自分のような下っ端の役目であるので慣れた手つきで男は準備していく。好みがわからないのが問題だが、ある程度誰でも飲むようなものであればそう外すことはないだろう。
トレーに茶器を乗せ、キッチンから出る。さきほどと同じ場所に座っている男の前に向かってから屈んで差し出すと、その美しい男は赤い色の乗った指先で摘み、口をつけた。身構えていたが拳は振るわれなかった。不興を買うほどの出来栄えではなかったようで安堵する。
しかし、目のやり場に困ると思った。床へ視線を落としていたいのだが、次を注がなければならないかもしれない。下の人間は、相手を良く見て望んでいることを推測し言われる前に察して行動しなけばならないのである。あまり顔をじっと見ているのも不躾であるし、かといってその彫刻のような体躯は何処を見るのも、畏れ多いような、そんな気持ちにさせ、両眼がうろうろと惑う。
仕方なく首、辺りを眺める。気づく。赤い、色が滲んでる。これはいちばん見てはいけない、と本能的に察し、しかし、遅れて状況の認識がやってくる。
あの方の部屋にいることを赦されている惜しげもなく身を晒す美しい男。心臓から厭な軋みが響く。
カップが空になる。もう一杯を、欲している。次、を注がなければならない。自分を優先するならばそんなことをしている場合ではない。今すぐにでもこの部屋から退出すべきである。けれども逃避か思考の選択が狭まる。入り口ではない扉の開く音。呼吸が浅くなる。背中を冷や汗が伝った。
軽装を纏い髪を拭きながらこちらに向かってくる姿から無意味だと知りながら身を縮こめた。
「ユミピコ〜腹減っただろ、どっか食いにいく?」
「黎明、服を着せろ。寒い」
「お前自分で着られるだろ。早く着ろって」
「指一つ動かんぞ、黎明、お前が一晩中、盛って神の躰を弄ぶからだろう。さっさと傅いて奉仕しろ」
「嘘つけ。お前の方が元気だろ。大体、あんま裸でうろうろすんなよ。誰かに見られるだろ」
「もうとうに過ぎた懸念だな」
「は?」
そこでようやくその存在に気づいたように、今まで一度だけしか見られたことのない視線が突き刺さった。
全身が冷たく、小刻みに揺れる中で、注ぐ手の震えだけを必死に制す。零したら。
「ああ? オマエ何?」
乱暴な足音に顔を上げた瞬間、体が吹き飛ぶ。遠くで茶器が壊れる乾いた音がする。
「見た? 見たよな?」
床に叩きつけられた体を、胸を足で強く踏みつけられる。容赦なくかかる重さに骨が砕けたような軋みが耳の内側から聞こえる気がして、同時に圧迫された肺腑が呼吸を詰まらせる。鋭い痛みによって混濁していく意識の端で赤い色が剣呑な光を帯びていた。
この組で二番目の地位にいる呼び出された男の気分は最悪だった。訊いた詳細にこめかみが痛む。主と仰ぐあの方の、美しい男のことを知っているのは、自身とそのことを知らせてきた補佐の者だけである。他に囲っている幾人の女たちとは違い、明らかに一線を画しているので慎重に扱うべきだとこの若頭の男は理解していた。
天堂という一定の人間から教祖のように崇められている同業の男は、正面から来ることはなく、いつの間にか屋敷に入り込んでいる。気配を感じさせないので、知っている者もほとんどいない。
あまりにも神出鬼没であの方の部屋で勝手に眠っていたりする。その一瞬を見てしまった己はそれから二度と部屋には入らないと決めているし、部下にも徹底させていたが、何処からか綻んでしまったようだった。
どんな問題も半歩違えば自身にも飛び火してくる。この世界の物事の正しさは主人の機嫌しだいだ。どれほどの忠誠があっても、あの恐ろしく、苛烈で美しい男は誰の首を切るのに躊躇いなどない。この組があるのもささいな気まぐれだ。つまらなくなったら、いともあっけなく全てを崩して、殺して、消して、ふらりと何処かに消えてしまうのだろう。
しかしその生き方に魅せられているから己はこの場にいるのだろうとも思うし、ここに居ついている他の人間もきっと同類なのだろう。
今後の頭痛のする対応からの逃避ゆえか詮なきことをつらつらと考えているうちに部屋へ着く。
中に入ると問題の渦中である男がすでに虫の息で床に転がっていた。
寝台に腰掛ける二人の前に、微動もせずに舎弟たちが並んでいる。視線は皆一様に床へ落ちていた。下穿きに派手な着物を一枚だけ素肌に羽織った男、天堂は、あの方に凭れるよう胡座をかいて、優美な仕草でカップを傾けている。
この男も怖い。その瞳に真っ向から対すると、すべてを見透かされているような、心の中の、自身ですら分かっていない奥深くを引きずり出されそうになる。並んでいるのは同じ種類の化け物だ。だから、すぐに視線を切り、隣に向けた。
ああ、本当に最悪だ。かなり機嫌が悪い。赤い目が合う。心底ぞっとした。だが今は逸らしてはいけない。
「ソイツさあ、ユミピコのハダカ見やがった。オレだけのなのに。許せねーよな」
口元が歪んでいる。愉しそうに。表面上だけそう模っている。隣の美しい男は至極どうでもよさそうに、あくびをして、呟く。腹が減った。それだけである。あの方は少しぐらい我慢しろよ。なんて言って、頭を撫でようとした手を振り払われている。それに機嫌を悪くしたわけでもなく、笑っていた。笑って、その延長線のまま何でもないように告げる。
「なあ、最後に綺麗なもん見れたんだし、その目、もういらねーだろ」
静かな声色だった。問いかけているわけではない。決定されたことをただ口にしている。無造作に投げられた短刀が床に伏している男の前に叩きつけられた。
「さっさと自分で抉って取り出せよ」
もぞりと動いた塊がその短刀を手に取る。しかし、恐れか、体の傷の深さかにそこから動きはない。
「黎明、腹が減った」
「わかったって、何食いてーの」
「寿司」
補佐に目配せする。店を用意させ車を回しておかなければならない。隅に寄って電話をかける姿を横目に勿体ないと、心中でこっそり嘆息した。
この横たわっている舎弟、気が利いて、弁えているので傍に置こうか迷っていたくらいなのに、眼球がなくなったらさすがにもう使い物にならなくなるだろう。しかし、否と唱えるわけにはいかない。この機嫌の悪さの時に口出しをすれば同じ目に合う。成り行きをただ眺めるしかなく、これ以上の問題に発展しないよう注視していればその赤い目がぐるりと周りを見渡した。
「コイツにオレのこと呼びに行かせたヤツもいるだろ。誰」
屋敷内の舎弟たちがこの場に並んでいる理由を理解した。息が詰まる沈黙の中、名乗り出るものはいない。しかし、ぴたりと止まった視線が如実に暴く。
「オマエか。オマエも、やれよ。元々オマエの役目だったんだからな、同罪だろ」
宣告された男から喉に悲鳴が詰まる音がする。それをかき消すように黎明、と響いた。赤い爪先が床に転がる男を差す。
「そっちは片目で赦してやれ」
「なんで? 気に入った? んなわけねーよな、ユミピコ」
「茶を淹れるのが上手い」
ぼろ雑巾のようになったものへの情けをかけたのかと一瞬思ったがその発言であっという間に翻る。その片目に哀れみなど一切感じられない。あるのは純粋な己の欲求のみだ。
天堂の部下たちはこの男を慈悲深い神さまだと崇めているらしいが、何処がだ。狂信者たちの戯言であったことが証明されただけである。
唯一を好むのに、他の人間に意識を向けたことでただただ、あの方の機嫌をさらに悪くした天堂だが、当然その願いは聞き届けられると信じている態度で、また茶を一口飲んだ。それを忌々し気に睨んでから舌打ちを響かせる。
「ぜってえやだ」
「黎明」
小さい子を宥めるような呼び方だった。それなのに伸びた白い手先が胸倉を掴み、唇が重なっていく様はやけに妖艶でちぐはぐさが際立つ。
赤い舌が口端から覗く。短い吐息が耳朶を震わせた。
慌てて目を逸らす。これを見ることが、怒りに触れると男はよくわかっているから、それなり重宝されていてこの地位にいるのである。見るべき時と見てはいけないことの判別を誤ってはならない。死にたくなければ。
水音が止む。熱を帯びた甘い声色がまた名前を呼んだ。
「神が口づけてやったのだ。聞き入れろ、黎明」
「はあ? こんくらいで言うこと聞けって?」
「……あ? お前は神からの尊い行為を軽んじるのか?」
「ダメに決まってんだろ。示しがつかねーし」
「ならば代わりを出させろ。親兄弟配偶者恋人、大事な人間の目玉でも持ってこさせれば良い」
「ああ、いいじゃん。それなら、本人は赦してやるよ」
どうする、とふたつの目が同時に歪む。
「は、はい、言う通りにしますから! 今から差し出させますから!!」
「か、勘弁してください! 他のもんは! 俺、俺が、責任取ります!」
真逆の言葉に神さまが美しく悍ましく笑っている。天堂に仕える狂人たちとは違い信仰心など己にはないはずなのにそう思った。
自分を差し出すつもりである伏した男の前に歩み寄る天堂はその手からそっと短刀を抜き取る。
「神からの恩赦だ。その両目、粗末にするなよ」
その脚でもう一方の男に近づいた天堂は、間髪入れずに首を掴んでその体を引き倒す。
「お前は神自らのこの手で取り出してやろう。有り難く思え」
悲鳴に混じって、部屋汚れんじゃん、最悪。なんて、ぼやきが聞こえる。
「こういうの好きなヤツに売れるだろ、ユミピコの顔映んないように撮っといて」
近くにいた舎弟二人にそう言って、男に馬乗りになっている天堂に視線を飛ばす。
「ユミピコ、さっさと終わらせろよ。オレも腹減ってきた」
「意外と簡単なものだぞ。すぐ終わる」
そう言った瞬間に血を引きずりながら床を転がっていくそれ、をつまらなさそうに一瞥だけして、こちらに視線を向けた。
「踏んでいいぞ」
ただただ厭な感触が靴底にこびりついた。これがもう一度あると思うと男はいつものこととはいえ、ひどく憂鬱な気分になった。
白い体が跳ねた。恍惚混じりに黎明、と呼ぶ音が耳朶を打つ。天堂の絶頂に合わせてうねる腹の中に促されるままに吐き出す。快楽の波が引くのを紅潮した天堂の顔を眺めながら待つ。その瞳が惚けていても黎明を見ていることに満足する。深く息を吐き切って、ぴったりと重ねていた熱い体から惜しむように離した。
引き抜いたところから、出したものが溢れ出す様は劣情を再び煽られたが気だるさに負けて、黎明はその身を起こす。同じように体を立てた天堂は、黎明にその気がないことを見て取ると不満げに舌を打った。
「もっと体力をつけろ」
「つけたってお前の化け物じみた体力と同じになるわけないだろ」
黎明が欠伸を噛み殺している横で天堂は手招きしていた。
茶器の乗ったトレーを持った包帯男はしかし、床を見たまま微動もしていない。
「別にユミピコのこと見たってもう目ん玉とらねーよ」
「神が恩赦を翻すことはない。さっさと茶を捧げろ」
ようやく動いて寝台近くに寄る男を黎明は観た。鼻を鳴らす。
「それよりユミピコでおっ勃ててたらそれ、切ってやろーって思ってたけど」
その体には全く変化がない。つまらない。この男に天堂がかすかにでも意識を割いているのが黎明は気に入らないから、何かしらの瑕をあげつらいたくて、わざわざ部屋に呼び込んだのに。
その考えを見透かした天堂の笑い声が弾けた。
「黎明、この美しく神に惑わない者は少数ではあるが仕方がないこともある」
「なんで」
「もっとよく観ろ。そいつはお前のことが好きなのだ」
「はあ?」
「お前についてきているヤツらは大体そうだろう? こいつは筋金入りだが」
「え、気持ち悪りぃんだけど」
顔を顰める黎明を天堂は可笑しそうに眺めながら受け取ったカップをゆっくりと傾けた。
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