いを
2026-03-01 22:34:24
3640文字
Public くらくら
 

氷点下の蟲

マルタ
ふらふら
・慶さん【ppy_op】
お借りしています。

 本当のところ、父が死んだのかどうかは分からない。だが骨しか遺らなかったものの骨格は父であったし、歯のならびやつくりも問い合わせた結果99パーセント、その真っ白い骨が父であると証明した。書類上の証明であるし、マルタが信じようが信じまいが関係のないとでもいうように――アンチドートが設立されて1年足らず、だ――当時の職員がそういったことを覚えている。凶悪な事件の通報や被害が多数寄せられ、彼らも疲弊しているようであった。その気持ちは分かるとまでは言わないが、仕方のないことだと自分に言い聞かせ、マルタもまた、アンチドートの研究員になった。諦められないことがあったから。今もまだ、諦められないことがあるのだ。
 
 2月14日は事件が起きた日、すなわち父の命日である。世はバレンタインに浮き足立ち、飲食店をとおればチョコレートの香りがかおった。
 今年もきっと、そうなのだろう。どこかで誰かの命が失われても、つつがなく世界は進んでいく。
 それを嘆いたところでどうにもならない。意味がないのなら意味と意義がいずれ見つかるかもしれないと考えて働いたほうが精神面においても健康的である。――が、この日ばかりは休みを取った。父の墓参りをしなければならない。頭の中で、線香を用意して花屋に行き、菊を包んでもらい、それから――と、考えたところでふと視線をあげる。
「齋穏寺」
 上背のある男だ、気配で分かるようになった。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
 たんぽぽ色の髪がきらきらと陽に当たって煌めいている。思わず目を細め、眩しげに彼を眺めた。
……これから昼飯か?」
「ハイ。やっとひと段落です。飛白センパイは?」
「俺も」
 一緒になったのだから、中華が美味い店にでも行くかと伝えると、慶はハイと頷いた。
「よく行くんですか?」
「まあな。深夜までやってるし」
 さすがにスクラブでは外出できないので、シャツに着替えて外に出た。ビルの冷たい色と、おなじくらい冷たい風がうなじを撫でる。ストールでも持ってくればよかったと思うが、引き返すには忍びない。
 朱色の地に白い文字の派手な看板。ここ、と指差すと彼はぱちぱちと瞬きをした。
「こんな近くに中華料理店あったんですね」
 ふいにむずむずとして、あの文字と同じくらい派手なくしゃみが出た。花粉か、寒暖差か。ずずと鼻を啜ってため息をついた。
……入ろう。混んでなけりゃいいけどな」
 今どきめずらしい引き戸をガラガラと引き、店の中に入る。ねっとりとした油の匂いを感じる。天井も壁も油が飛んで少々黄色い。中華鍋をころがす部分の天井なんかは真っ黒になっていた。
「中華料理店って感じのお店ですね」
 やや背中をかがめて、カウンターに座る。あいにくテーブル席は埋まっていた。知った顔が数人いるが休憩時間に声をかけるのも無粋だろうか。自分はもう注文するものを決めているので、少々ぎとついているメニュー表をそのまま慶に渡した。
「たくさん種類あるんですねぇ。飛白センパイはもう決まっているんですか?」
「ん。俺は担々麺。激辛のやつ」
「辛さだけでこんなに……。じゃあ、俺も同じのにします」
 エプロンをつけた、ポニーテイルの少女がお冷やをふたつ置いて、ご注文は?と小首をかしげた。
「担々麺の激辛ふたつ」
「はぁい! ありがとうございますッ! お待ちくださいね」
 手もとの注文票にサラサラと書き、元気よくポニーテイルをゆらして奥に入っていった。「オヤジさん、担々麺激辛ふたつッ」という大きな声がこちらまで聞こえてきた。それよりも大きな「ハイヨッ」という野太い声が店内に響く。
……いつも忙しそうだな。ここのオヤジさん」
「なんだかいいですね。生き生きしている感じがします、こういうお店」
 ひとつ頷いて、コップにくちびるつけた。すこしばかりぬるい水が、喉の奥にすうっと流れていく。
「助かるよ。俺がこういう職業してること知っても、変わらず接してくれるから」
 最近、きな臭い動きをしている団体がいることは知っているし、アンチドートに対するデモもあちこちで見かける。それでも、ここの店は変わらずあるのだ。
「まあ、安心しろ。俺と一緒だからってお前まで疑われることは――
 直後、店の外で大勢の人間のどよめきが聞こえて来る。反射的にだろうか。慶が椅子から立ち上がろうと腰を浮かす。
「なんだァ? オーイ昕玥シンユエ、見てき……
「アイヨ!」
「おい、」
 ポニーテイルの少女が店主の言葉を最後まできかず、店を飛び出していった。マルタの制止のようなものもきかず――だ。
 けれども昕玥と呼ばれた少女はすぐに戻ってきた。
「オヤジさんッ! ちょいとしたゴタゴタだ! 怪我人もない、大丈夫だよ」
「そいつァよかった! 手伝いに戻ってくんなぁ!」
 張り詰めたわずかな緊張が、空気にとけるようにゆるんでいく。慶も、またゆっくりと椅子に腰かけた。
 店主と店員も、なにごともなかったように忙しなく行き来しはじめる。こうも敏感になってしまうものなのだろう。――クリスマスのあの事件がおきてから。アンチドート側にも死者がでた。一般人もアンチドートも研究員も、気が立っている。無論、苦々犯罪者も。
 東々とは、こんな街だっただろうか。否、苦々が、あの薬が人間の欲望を増幅させて狂わせてしまったのだ。もとから持っていた人間の本能が、これほどまで大規模に広まってしまった。
……よかった、とは言いづらいですね」
 彼も思うことがあるのだろう。それについて、マルタは東々が「こう」なってしまったことへの責任を少なからず感じている。自分たち大人が、始末をつけなければならないとも。それでも彼は――慶はこの道を選んだ。だれかに強要されたわけではないだろう。自分などよりよっぽど責任感が強く、優しい男だと思う。
「おまちどおさまッ」
 どんどんと器を目の前に置いた少女は、頭にかぶった三角巾を指先で少々いじりながら「いつもありがとう。お兄さんたち」と小声で呟いた。それから、片目を閉じて明るく笑ってみせ、クルリと背中をむけて先ほどと同じように忙しげに動き始めた。
「いい人ですね。ここの店員さん」
「そうだな」
 割り箸を真ん中から割り、どんぶりに箸先をつっこんだ。いつもと同じく、スープは真ッ赤だった。
「飛白センパイ、明日お休みなんですか?」
「ん? ああ」
 じんじんとした辛さがするどく脳を刺激する。この辛さが好きなのだ。たまに咽せてしまうけれど。
 そういえば辛いものが好きな人間はマゾだと聞いたことがある。本当かどうかは分からないが、至って自分はノーマルだと考えているのだけれど。
「あの、よかったらごはん行きませんか?」
「明日は……父の命日でな。墓参りする日なんだ」
 箸をとめ、スープを眺める。自分の顔が、ぼんやりと浮かんだ。
……そうでしたか。それじゃあまた今度、」
「いや」
 かぶりを振った直後、思わずゲホゲホと咳き込んでしまった。背中に手のひらの体温を感じる。大丈夫ですか、という言葉と一緒に。
「気管に入った」
 情けなく泣き言をいいながらティッシュを引き抜いて、鼻をかむ。
……断っていいんだけど」
「? ハイ」
「墓参り、一緒に行ってくれないか」
 慶の視線がいっとき、顔に注がれた。どうして、といっているようにも感じた。
「お前を、会わせてやりたい。俺のことをよく知っていてくれているから。……墓参りなんて縁起でもないし、面白くもないだろうし。だから断ってもらっても全然――
「行きます」
「え」
 スープからようやく視線をはずし、慶の顔をまじまじと見つめる。
 いつもどおり、なつこい表情をしていた。思わず、こちらが息をのむ。
「行きます。お墓参り」
……そうか。ありがとう」
 どこかで、彼ならば着いてきてくれると甘えていたのかもしれない。また、自分は16も年下の男に甘えてしまった。
 麺と具がすっかりなくなったスープだけの器。この妙な満足感と、すこしの負い目。割り箸をようやく手放し、机の上でそっと手を握りしめる。
「墓参り終わったら、メシでも行こう。奢る」
「ハイ」
 慶も割り箸をおき、「すっごく、辛かったです!」と笑った。
  

 2月14日、大規模デモと東々タワーの爆破事件が発生した。
 そのとき齋穏寺慶がとなりにいたことは、幸いだったのかそれとも――不幸せなことだったのか、いまは分からない。
 引き金の重たさを、はじめて知った。この男が背負うものもはじめて知った。
 自分以外の存在の内面を知ることは幸せでもあるし、不幸せでもあるだろう。
 けれども底抜けにやさしいこの男だけは、幸せになってほしいのだ。こんな地獄のような街のなかでも、生きているのだから。この男も、自分も。

「お前だけは、どうか」