大衆の力というのは恐ろしいもので、あっという間に【田中ゲゲ郎】の名は世間に認知されるようになった。ゲゲ郎の役は、鬼気迫る演技と狂気に満ちた言動で視聴者を震えあがらせたのだ。
【この殺人鬼、本当にいそう】
【怖いけど見ちゃう。癖になる】
SNSではそんな声が溢れている。彼の出演作をまとめたアカウントや動画までできていて、水木は複雑な気持ちになった。今まで自分は一度もこんな風に騒がれたことはない。しかし、演技を始めたばかりの男がこんな風に動画まで作られているなんて。
――――たかが深夜ドラマだ。
そう考えて心を落ち着けようとしていたのに、周囲はそれを許してくれなかった。
「聞きました? 田中さんのこと」
事務所でスケジュール調整をしながら、音子がそんなことを言いだした。
「ああ、殺人鬼役だろ。話題になってるみたいだな」
「そうなの。今度は水木さんの出てる刑事ドラマで犯人役のオファーも来てるし、夏には映画もね」
「……映画?」
「そ。主演は女優のR・Mさんで、その旦那の役よ。家族愛を描いた作品らしいわ」
家族愛、主演は女優でその夫役。だとしたら、かなり重要な役なのではないか。おそらく二番手か三番手あたりの。それに水木の出ている刑事ドラマは、シリーズ物として長く愛されている。出れば多くの人に目に留まることになる。
「すごいじゃないか」
内心の動揺を押し隠して、水木は笑顔で答えた。
「ええ、本当に田中さんには驚かされてばっかりよ」
音子は感心したように頷いている。
「しばらくは、田中さんにつきっきりになるかも。水木さんはこの業界が長いから安心だけど、あの人、何にも知らないから」
「俺は大丈夫。ゲゲ郎についててやってくれ」
売れっ子というわけでもない水木に終始付いてもらうことはない。それより、名前と顔が認知され始めたゲゲ郎を売り出した方がいいという、上の判断なのだろう。音子は申し訳なさそうに頭を下げ、「田中さんについて行く時間だから」と事務所を出て行った。
珍しく、ゲゲ郎の方から連絡があった。大家の奥さんが趣味で作っている野菜を大量にもらってしまい、一人では処理しきれないのだという。
「鍋をしようと思うんじゃが、一人だと味気なくてな。来てくれんか」
何か理由をつけて断りたかったが、人のいい男の誘いを断るのは良心が咎め、水木は「分かった」と答えていた。
ゲゲ郎の家を訪れるのは初めてだ。寂れた住宅街を歩きながら、何度も地図アプリを確かめた。
『目的地です』
ポーン、と軽快な音と共に表示された現在地のマーク。水木は頬を引きつらせた。目の前に広がっているのは墓場だった。何の冗談だと頭が痛くなって引き返そうとすると、ガラッとどこかの窓が開く音がした。
「水木、こっちじゃ」
墓場の隣に立っている廃屋の二階の窓から、ゲゲ郎が顔を出している。いや、そんな。まさかこの、お化け屋敷みたいな所に人が住んでいるだなんて。激しく動揺する水木のことなどお構いなしに、ゲゲ郎はにこにこと手を振っている。
「すまんが、上がってきてくれんか」
「お、おう……」
恐る恐る階段を上る。ギシギシと鳴る階段は今にも抜けそうで怖かった。二階の廊下は埃だらけで、人が住んでいるようにはとても見えない。廊下の突き当りのドアが開き、ゲゲ郎が笑顔で出迎えてくれた。
「よう来てくれたのう。さあ、入っとくれ」
部屋の中は殺風景ではあったが、外観ほどひどい有様ではなかった。小さな本棚の中に詰め込まれた本、年季の入ったちゃぶ台。
「狭くてすまんな」
確かに男二人が部屋に入るともういっぱいという感じだ。
「隣が墓場だなんて聞いてねえよ」
「うむ、それゆえ格安の家賃なんじゃ」
胸を張ってそう言うと、ゲゲ郎はさっそく鍋の用意をし始めた。白菜、大根、きのこ類がたっぷりと入った鍋は、確かに一人で食べるには量が多すぎる。水木は手土産に買ってきたビールと焼酎を机の上に置いた。
「手ぶらじゃ悪いからな」
「気が利くのう。さすがは水木じゃ」
鍋の中身はくつくつと煮えている。二人は早速食べ始めた。ポン酢と七味で味を付けた野菜は、熱いがシャクシャクとした歯触りでうまかった。外食続きだった胃に、野菜の優しい味が沁みる。
「うまいのう」
「おい、肉はないのか」
「底の方にちょびっと入っておるよ。鶏肉しか買えんかったが。でも味は悪くないじゃろう?」
そう言ってゲゲ郎は底の方の白菜を箸で掬い上げている。
最初は気乗りしなかったものの、ゲゲ郎と二人で囲む鍋はおいしかった。腹がくちくなると心が落ち着く。ビールから焼酎へと切り替え、水木が酔いに身を任せていると、ふと棚の上に飾られた花に目が留まった。小ぶりな向日葵が、花瓶がわりの牛乳瓶に生けられている。肉を買う金はないくせに、花を買う金はあるらしい。その隣に置いてある写真立てには、ゲゲ郎と美しい女性、そしてゲゲ郎にそっくりな子どもが写っている。
――――ああ、これは彼女に供えた花か。
水木の視線に気づいたのか、ゲゲ郎は写真立てを棚から下ろした。
「倅が小さい頃、初めて写真館で写真を撮ったんじゃ」
そう言って在りし日を思い返すように、ゲゲ郎は写真を撫でた。
「可愛いな、息子さん」
「そうじゃろう? 自慢の倅じゃ。これが目に入れても痛くないほど可愛くてな……」
水木が素直に褒めると、ゲゲ郎は誇らしげに息子の自慢をし始めた。息子の話は、次第に妻の話へ変わり、ゲゲ郎はいかに彼女が素晴らしい人間だったのかを語り始めた。
「妻は、本当にできた女じゃった。料理がうまくて、器量もよくて、気立てもよくて」
「そうか」
「わしなんかと一緒にならなければ、もっといい人生が待っていたかもしれん。そう言うと、殴り飛ばされたことがあってな」
「ええ、ほんとかよ」
「岩子は気が強くて腕っぷしも強くて、わしはますます惚れ直した。今でも思う。彼女に出会っていなければ、わしは今頃どうなっていたのかと」
ゲゲ郎は、まるで夢見心地のように呟いた。よほど彼女を愛していたのだろう。水木は何か相槌を打とうと思ったが、上手く言葉が出なかった。それほど愛し、愛される存在に出会えたのは、少なくともこの男にとっては幸せなことだったに違いない。
「おぬしには、そういう人はおらんのか」
「さあ……そんなこと考えたこともない」
話をはぐらかしたつもりはない。本当にそんな人はいなかった。色恋沙汰に時間を割くくらいなら、演技のために本を読んだり武道やダンスのレッスンを受ける方が有益だと思っていた。
「水木は真面目で優しい男じゃからのう。いつかきっと、おぬしの運命に巡り合える」
ゲゲ郎の大きな手が水木の背中を優しく叩く。その温かさに、なぜか胸が苦しくなった。
「もうこんな時間か」
時計を見ると、すでに日付をまたいでいた。辺鄙な場所だ、終電もあるか怪しい。タクシーを呼ぶかと水木が携帯をいじっていると、ゲゲ郎は「泊まっていけ」と言い出した。
「いいいのか」
「水木は大事な友人じゃからな。遠慮はいらんよ」
ゲゲ郎はにこにこと笑いながら、押し入れから布団を取り出した。
「倅の布団があるが、干しておらんのでな。わしの布団でよければ使ってくれ」
「ああ、ありがとう」
シャワーを先に浴びさせてもらい、寝巻代わりのTシャツとスウェットを借りる。どちらも大きくて、水木が着たら裾も袖もだぼついていてしまった。腹立たしいが、背の高さがまるで違うのだから仕方ない。先に寝ていていいぞ、という家主の言葉に甘え、布団に潜り込む。薄っぺらい布団からは、森と土と薄い線香のような香りがした。これがゲゲ郎の匂いなのかと思いながら、目を閉じるとすぐにとろとろとした眠気がやってきた。
ゲゲ郎はいい奴だ。素直で穏やかで、愛情深い。その反面、演技の才能はずば抜けている。共演した女優が命の危険を感じるほど役に入り込む演技力。水木にはない、人を引き付ける光がある。その光に人々は魅了される。水木もまたそうだ。この男の輝く姿をそばで見ていたいのに、自分にはないその光が憎らしくて、目障りで、そして――
――――そういえば、面と向かって友人だと言われたのは、生まれて初めてだな。
眠りに落ちる瞬間、そんなことを考えた。
If you make a mistake, you can cancel it by pressing the reaction.