めやぬら
2026-03-01 16:50:25
9839文字
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不在

不定期週刊燐一
一ヶ月仕事で海外行く燐音と留守番する一彩の話。
しれっと同棲してます。こういうのが好きなんですよね…へへ…

 狭い玄関は人が二人と大きな大きなスーツケースが一つあれば、もう身じろぎする隙間ぐらいしかない。それにいまはまだ未明、あまり騒いでは近所の住民からクレームが来そうで、爽やかさよりも緊張感のある朝の雰囲気の中での会話はいつもよりひっそりと交わされていた。

「忘れ物はない?」
「分かんね……要るもんは全部入れた、ハズ」
「心配だな。空港までなら持って行くから、途中で気づいたら連絡して」
「まァ大丈夫だって。金さえあればなんとでもなるっしょ」
「なんとでもって……今から行くのは外国だよ。勝手が違うよ」
「ばーか、都会だったら大体一緒」

 燐音は一彩の頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。いつもなら身なりを気にしてやめてとか言うが、未だ寝巻き姿で玄関口に立つ一彩には多少寝癖が増えたところで気にすることもない。戯れて心配をうやむやにしようとする自身の兄へむくれてみても、すっかり身支度を整えた燐音は気にも留めていない。むしろなんだか楽しそうだ。
 大きな鞄を携えて靴を履き、出立の準備は万端の燐音には眠気のかけらも見当たらない。傍の目立つ黄色いスーツケースの中には、ぎっちりと荷物が詰められていて、長旅には充分だ。燐音ときたらギリギリまで準備をしないものだから、一彩も手伝って荷造りしたのは昨夜のこと。身軽さを重視する二人といえど、ひと月も国外になるならばとあれやこれや詰め込んでしまった。キャスター付きの大きな荷物は少し触れただけで重そうにごろごろ転がり、鈍く壁にぶつかって止まる。

「あいつらもいるし大丈夫だろ」
……そうだね、そういえば以前アメリカに行ったこともあったんだっけ」
「そうそう!弟くんより慣れてるやつもいるし、なにより仕事で行くからな」

 だから心配するなとでも言いたげにぐしゃぐしゃにした一彩の髪はそっと撫でて整えられた。
 いつもなら一彩からの心配なんて適当にあしらわれるか、お小言は御免だとばかりに遮られてしまうのに、こんな時ばかり優しいのは、本当に寂しがっているのだと見抜かれているようでなんだか釈然としない。不満げな表情で見上げる弟を見て細められる眼差しには、挑発的でアグレッシブで各方面に喧嘩を売る天城燐音の面影はなく、ただただ純粋に弟を愛おしむ兄の表情が湛えられている。
 燐音に荒らされ、そして軽く整えられた髪を押さえる。そうしている間にも兄が重い玄関扉の鍵をそっと開けるのを見て、一彩は自分もスリッパをつっかけてその後ろに続こうとした。

「なに、お前も出んの」
「下まで送る」
「はぁ?」
「それ、重いだろう?ESまで歩くんなら、エントランスまで持っていってあげる」
……

 まだ離れたくない。だって見送ってしまったら、次に帰ってくるのは一ヶ月後だ。名残惜しさは口にせず、荷物運びを理由に別れの時間を数分先延ばしにしようと、スーツケースに手をのばす。だが、先んじて持ち手を奪われてしまい、半端に広げた指は空を掴んだ。

「ここでいい。いくらお前が早起きでも、まだ寝てる時間だろ。お前は今日学校あンだから、さっさと二度寝しな」
「む……
「ったく、いつの間に起きてたんだか……寝かしといてやろうと思ったのに」
「だってしばらく帰ってこないんだから、見送りたいのは当然だろう。昔、何年も帰ってこなかったのは誰だい」
「あーはいはい分かりました、俺が悪かった!でも見送りはいらねェ。玄関まででいい」
「どうして」
「どうしてって」

 軽々に連絡も取りづらくなるのに平気そうな兄に口を尖らせて非難をぶつけてみれば、マスクをつけかけていた口元が呆れたように笑う。そして顎の下にずらされて晒されている表情がグッと近づき、ふわりと香った香水の淡さ。眼前でそっと伏せられた目元が瞬いて、唇が塞がれる。

……行きたくなくなるから?」

 囁きをしっとりと静寂に溶かしきって、放心する一彩を置いて燐音はドアに手をかける。なんとかスーツケースを外に出し、顔半分を白い不織布で覆って家の鍵を取って、ドアの隙間から振り向く顔が見られない。

「んじゃ、イイコにしてろよ〜」
……行ってらっしゃい」

 上機嫌に手を振る兄へ、ろくなことも言えずに返す。なんてことしてくれるんだ、まだスーツケースを転がす音も遠ざかっていないのに、もう寂しくなるじゃないか。ため息をついて壁に肩を預けた一彩の顔は、真っ赤だった。


 結局そわそわしてしまい二度寝なんてできるわけもなく、いつも通りの時間に走りに行っても、ポケットに入れたままの端末が震えないか気になって集中できず、いつもよりずっと早く学校に着いても、時計ばかりちらちら見て、落ち着かなかった。

「おはよう、天城」
「あっ、おはよう友也くん!今日もいい朝だね」
「おー……どうした?そんなこといつも言ってたか?」
「そ、そうかな?いつも通りだよ!」
……?」

 始業前のまだ起ききっていないクラスメイトたちが続々と登校し、ざわめいている教室。グラウンドからは部活動だろうか、朝練をしているのであろう人の声や音も聞こえてくる。陽が差し込む窓の向こうには青空が広がっていて、かの人のように良い日和だなんて言いたくなるような一日の始まりだ。
 そんな中で、時計と自分の端末を交互に見ている一彩は目立ったのだろう。声をかけてきた友也に、少々上擦った返事をしてしまって、首を傾げられた。
 不甲斐ない、けれどもどうしても気になってしまう。たしか搭乗は八時台の便だったはずだから、もう空港には着いているんだろう。朝ごはん、ちゃんと食べたのかな。椎名さんがいるから大丈夫か。そもそも、きちんと合流できたのか。連絡の一つも無いからトラブルは無いんだろうけど、そんなことばっかりが頭の中をぐるぐる巡る。

「なんかそわそわしてるけど、なんかあった?」
「えっ」
「ふっふーん、それは俺から説明しよう!」

 ぎくりと肩を揺らしたのも束の間、ばばーん!なんて効果音を自分でつけて突然現れたひなたは、一彩の様子に心当たりがあるらしい。突然の登場にも驚かず見上げる一彩の肩に手が置かれて覗き込まれ、視界にお日様の明るさが飛び込んできた。

「今日から燐音先輩、海外なんだよね」
「うむ、仕事でね。撮影と、あとイベントに参加するんだって」
「へぇ〜イベントかぁ。お呼ばれされたのか?」
「違う違う、事務所関係のやつ。俺たちは学校あるし、選考落ちちゃったんだよね〜。というわけで、お兄ちゃんがいなくなって寂しい一彩くんなのであった……

 内々の話で知っていたひなたによる、思ったより詳しい説明に他愛ない返事を一つ返して、友也は自分の席に荷物を置く。コンプライアンスなんてものがあるからあまり詳細に教えてくれなかったが、普段とは毛色の違う仕事らしく、家でも色々と調べる姿を見かけた。なんにせよ、一彩と友也は仔細を知るべきでない話だ。教科書を出しながら一彩を伺う甘茶の目線に、そんな大袈裟なことじゃないと首を振った。

「寂しいわけじゃないよ、大丈夫。もうそろそろ飛行機が飛ぶだろうから、すこし時間が気になってしまってね。もうすぐ出発のはずなんだ」
「なるほどな〜、いつ帰ってくるんだ?」
「だいたい一ヶ月後と聞いているよ」
「へ〜……えっ?!天城お前、一ヶ月一人なのか?!」
「うむ、そうだよ?」
「そうだよって……燐音先輩と二人暮らしだったよな?」
「ウム」
「どしたの友くん、いきなり」

 一瞬流しかけたが、この場に欠けている危機感を指摘できるのは友也しかいない。至極真っ当に思えるツッコミをしても不思議そうに見つめる二人に、友也は内心頭を抱えた。

「大丈夫か?もしなんかあったらとか……
「大丈夫、野宿していたときに比べれば安寧だ」
「そうだよ〜!むしろ一人だし自由じゃん。夜中にお菓子食べても怒られない、夜更かししても叱られない!最高!」
「ひなた、一ヶ月もなんだぞ。そんな楽しんでばっかりじゃいられないだろ」
「うーん、確かにそうかも」
「一応色々と困らないよう、僕も準備しているよ。あまり頼りにしすぎるのは良くないけど巽先輩とかマヨイ先輩にも言っているし、兄さんとは事務所経由でも個人的にでも連絡を取れるからね」
「そ、そうかもしれないけど……何かあった時とか、俺でもいいからすぐ言ってくれよ」
「ふふ、ありがとう!もしもの時は頼らせてもらおうかな」
「俺も、寂しかったらいつでも言ってね。泊まりにいったげる!」
「お前は行ってみたいだけだろ」
「えへ、バレた?」

 ちゃめっ気たっぷりに笑う友人と、かたや気遣ってくれる友人。賑やかな声に囲まれながら、一彩は時計を見やる。指す針が飛行機の出発時刻を示していて、あぁもう行ったのかな、なんて思い馳せた。
 飛行機雲もないような快晴、出立には些か明るい気もするが、旅程への心配や不安がつきまとうような空模様よりずっと良い。
 何事もありませんように。そっと心の中で唱えて、続いていく友の会話に混ざった。

 --

 帰宅して誰もいないのにただいまと言ってしまうのは、なんとも表し難い寂しさがある。それぐらい兄と共に暮らしていることが一彩自身に馴染んでいることの証であり、同時に今、兄が長期不在であることを突きつけられるから。
 最初の二、三日はまあ良かった。居ないことが頭の片隅にずっとあって、寂しさよりも落ち着かなさの方が勝ったのだ。一人で家事をすることに不慣れで具合がよく分からず、気が紛れていたというのもあるし、藍良が教えてくれた兄のユニットのSNSアカウントで元気そうな姿が垣間見えて、特にトラブルもなさそうでほっとしたのもある。発った初日からずっと追いかけている投稿の隙間から、兄達は兄達なりに海外の仕事を楽しんでいるんだなというのがよくよく分かり、微笑ましさに慰められた。

 だけど、今日でちょうど一週間目。不在にも慣れて、一人で日々の生活を回すことが手についてきて、色々と物思いに浸る時間ができてしまっている。
 作り置きしていた煮物も今日で最後、ぎりぎりバランスが良いといえる食事を前に、明日からのご飯をどうしようかと思いながら手を合わせた。共に囲む人のいない食卓の端には、普段置くことのない自分の端末を置いている。行儀はあまり良くないかもしれないが、暗いままの画面をチラチラと見ては、沈黙を守るそれにため息をつきたくなった。
 この一週間、兄からの連絡はない。ユニットのSNSの更新はたまにあるし、頼りがないのは無事の証というけれど、こうも音沙汰がないと寂しくもなる。もの侘しくなって明日は外食しようかと思い、煮物のじゃがいもを口に放り込んだその矢先。視界の端の端末が明るく閃いた。
 なんだろうかと深く考えることもなく手に取れば、それは本日もレッスンで顔を合わせた藍良からのメッセージ。そこそこ長い文なのか、『ごめんヒロくん!』のあとの表示が消えてしまっている。
 一瞬見ようかどうしようか悩んだが、食事中だが咎める人もいまい、今日だけだと誰ともなく言い訳をして、メッセージの画面を開いた。

『ごめんヒロくん!おれ、今日の練習でヒロくんのタオルとプレーヤー、持って帰っちゃったみたい!』

 そのすぐ後、連続して手を合わせて謝る絵文字が送られてきている。ぼんやりして上の空だったからか、荷物の確認もしないで帰ってきてしまったようで、『持って帰っちゃったみたい』と言われても今自分の鞄にそれがあったかどうかもよく思い出せない。メッセージを読んでしまったが確認してみないと本当にそうなのかどうかも判然としないので、とりあえず急いで箸を進め、碌に味わいもしないまま飲み込む。何かやることがある方が、気が紛れていいな、なんて思った。

 何に追われるでもないのにそそくさと皿を空にして、無理やりに理由をつけた忙しなさに押されるまま、自室へと飛び込む。かろうじてベッドと机がある部屋、その隙間の床に置いたままのリュックを探るが、目当てのタオルとプレイヤーは出てこない。レッスンで使った記憶はあるし持って行ったのは確かだが、持ち帰ってはいないらしかった。どうやらそのまま藍良の元へ遊びに行ってしまったようだ。

『すまない、今確認したよ。取りに行けばいいかな?』

 他人の使用済みのものだなんて、繊細な友は嫌がるだろう。そう思っての提案の一文にはすぐに既読の表示がついた。返事を待ち構えられていたみたいだ。

『わざわざ取りにこなくても大丈夫!ヒロくんが気になるなら、こっちが渡しに行くよ』
『おれが持って帰ったせいだし。ごめんね』

 ぽこぽこと小気味よく送られてくる文面からは、どうやら相手も申し訳なく思っていることが伝わってきて、なんだか少し笑ってしまう。画面越しに慌てている藍良が想像できてしまったのだ。

『気にしなくていいよ。次に会う時、返してくれたらいいから』
『でも今週末はレッスンも予定も無いし会わないじゃん。困らない?』

「あ、そうか……

 気に病まなくていいと伝えるのにいっぱいで忘れてしまっていたが、明日からの週末は二連休でレッスンもないのだった。藍良と会う予定だってなく、次に顔を合わせるとしたら月曜日、学校で、になる。
 音楽プレイヤーは普段使わないが、兄の不在を紛らわす良い相手になりそうだったから持ち歩いていたもの。それを忘れてしまっては、この二日の休みはそれなりに持て余すだろうということが容易に想像がつく。
 やはり取りに行かせてもらうかと文章を打ち込み始めた途中、ぽこんとメッセージが飛んでくる。

『明日予定無いんなら、渡しに行っても良い?ヒロくんの家、遊びに行きたいなぁ』

「えっ」

『でも、今は兄さんがいないから』
『気にするかなぁあの人。連絡取って聞いてみたら?あっ、本当に迷惑じゃなければなんだけど』

 同居人不在の間に誰かを連れこむなんて、あまり礼儀があるものでない。もちろん兄と藍良は知り合いだが、それでも無断は良くなかろう。
 だけど、そんなことで連絡してもいいのだろうか、迷惑じゃないだろうか。兄は兄で海外を楽しんでいるようだし、時差もあるだろうし、水を差すのは気が引ける。旅行感覚というと聞こえはわるいけれど、仕事だからといって楽しんじゃいけないわけじゃない。
 入力窓に『そうする』とも『申し訳ないけど』とも打ち込めず指先が文字の上を行ったり来たりして悩み、その間にも藍良を示すアイコンは返事を待っている。あまり返事をしないのも会話が止まったようでなんだか落ち着かず、とりあえず思いついたことをそのまま打ってみた。

『ううむ』
『数分悩んでそれ?!なに?!』
『僕としては藍良が遊びにきてくれるのは嬉しいんだけど、わざわざ兄さんに連絡を取るのは忍びない気がするよ』
『いやいや、普通にメッセージ送れば良いじゃん。時差あるけど、暇な時に返事くれるでしょ』

 そうだろうか、暇な時なんてあるんだろうか。弟からのメッセージなんかよりも楽しいことなんていっぱいありそうだ。でも、藍良の言うことにも一理ある。普通に聞いてみたら案外普通に返ってくるかもしれない。

『わかった、聞いてみるよ』
『はーい!返事待ってるね。明日になってもいいから!』

 元気な返事が背中を押してくれる。そのままやり取りの画面を閉じて、今度は兄とのやり取りを開けば、つい二週間前ほどまえの履歴が表示されていた。僕からの返事で終わっていたところからの続き、新しい一文を送って、画面を暗くする。すぐに返事は無いだろう。大体いつも、メッセージを見てから返事まで間が空くことの方が多いのだ。その間に風呂を済ませてしまおうと、着替えを手に誰もいない家の中を横切る。どこか外から、車の走り去っていく音が聞こえた。

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 狭いビジネスホテルのなか、贅沢にも一人一室与えられたそこで少し早めに戻った部屋の固いベッドに倒れ込むと、家のとは違うスプリングが軋んで受け止めた。出国して約一週間、仕事はそれなりに順調だ。とはいえ、慣れない土地での仕事には無意識に気を張るのか、肉体的にはともかく精神的疲労はそれなりに蓄積している。
 本日はもうアイドル屋さんは店じまい、各自自由時間となっている。目を輝かせてご当地グルメ回りっす!とダウンタウンへ赴いたニキを除き、あとの二人は大人しく部屋に引っ込んだのを見送った。
 ごわつくシーツの上で仰向けになって見つめた天井は、照明が煌々と眩しく光っていて、すでに深めの思考を手放した頭では馬鹿みたいに見入るばかりだ。晩飯を食うには早い時間、眠気にも似た倦怠感に身を任せてシーツに身を沈める。
 いっそひと寝入りするか?とぼんやりして何分経ったのか、不意に上着に入れっぱなしの端末が震えた。くぐもったバイブレーションを鬱陶しく思いつつ、どうせスタッフかなにかだろうと寝転がったまま画面を見ると、見慣れたメッセージアプリの通知が。

『明日、藍良を家にあげてもいいかな?』

 一気に目が覚めた。疲労なんてすっ飛んで、寝転んでいたのから勢いよく起き上がると、スプリングが弾み、一際大きく軋む音が鳴る。
 この一週間とんと連絡もよこさなかった弟からの、急なメッセージ。それがまさか“友達を家にあげて良いか”の確認とは寂しい気もするが、忘れられていなかったことが分かって少し安心し、こんなことで疲れていたことなんてどうでも良くなる自分が単純で呆れてしまう。
 メッセージアプリを開くと、やはり通知と同じ文章が表示されていた。いったい何があったのだ、もし事件や事故、アクシデントなのだとしたら、一彩が頼るのは藍良ではなく自分や巽だろう。だが、弟はその出会いや縁からあの子をよくよく信頼している。もしなにか、例えばそう、深刻な悩み事の相談とかなのだとしたら、真っ先に頼るのはあの子だ。
 事情はよく分からないが直球で聞き出すのは得策では無い気がして、少し悩んだあと、キーボードに指を滑らせる。

『別に良いけど、なんで?』

 深い意味などは匂わせずに、単純な疑問を投げた。するとすぐに既読のマークがついて、しばらく待てばまた次のメッセージが届いた。

『僕の物を持って帰ってしまったから、届けるついでに、遊びに来たいと言っている』
『構わないだろうか』

 なんだ、そんなことか。何かがあったわけでなくて胸を撫で下ろし、息をついた。まったく、驚かさないでほしい。勝手に驚いたのはこっちだが、とはいえ音沙汰なかったのだからいきなり本題を切り出す前に、ジャブ打ちの挨拶程度のワンクッションは欲しかった。

『藍ちゃんなら構わねぇよ』
『ありがとう。今暇なの?」
『まあ暇してる。今日はもう自由時間』

 そう返すが早いか、突然着信が入った。発信者はもちろん一彩。国際電話の通話料とか時差とか一瞬いろいろ頭を過ったが、鳴り続ける呼び出し音への焦りと一彩への懐かしさが勝ってしまい、結局緑の通話ボタンを押してしまった。

「はいもしも」
「兄さんっ!」
「うるさっ」

 途端、大声で叫ばんばかりの声が鼓膜を劈いた。音割れした弟の声で、静けさがキーンと耳鳴りを誘発している。

「ンな叫ばなくても聞こえるから、もっと声量落とせ」
「あ、ウム、すまない」

 慌ててそっと低めてくれたおかげで耳鳴りはすぐに止み、ほっと息を吐いた。

「んで?何の用だよ」
「う、えっと、藍良が僕たちの家に遊びに来たいと言っていて」
「返事したろ?別に構いやしねェよ、藍ちゃんなら家の場所知っても悪用しねえだろうし。なんなら泊まらせてやってもいい」
「えっ?い、いいの?」
「弟くんよォ〜、保護者がいないこういうときは、黙って連れ込むもんだぜ?せいぜい楽しんでみたらどうだよ、友達同士のお泊まり会」
……ウム、ありがとう。誘ってみる!」
「まあ、藍ちゃんじゃない間男だったら許さねェけど。留守だからって浮気すんなよ?」
「しないよ!もう!」

 藍良なら大丈夫だ。同棲ということは隠して同居だと伝えているため少し後ろ暗くはあるが、一彩もそれがバレるようなヘマはしないだろうし、そんな痕跡は片付けてある。無遠慮に棚やクローゼットを家探しされない限りは、一彩と俺の関係性もバレないだろう。そして、あの子はそんな非常識なことはしない。
 お遊び程度、いたずらに釘を刺してみてからかったが、不純な影などかけらも窺えなかった。

「そんだけのために電話してきたのか?」
「ウム、暇なら電話に出てくれるかと思って」
「あのな、別にいいけど、今度からは電話する前にかけていいかどうか聞けよ。出らんねェかもしれねぇだろ」
……一週間声を聞けなかったから、もの寂しくなってしまって」
「は……

 驚いて続く言葉が出ない。全くなんということだ、俺から連絡しなかったことは棚に上げるとして、弟からだって連絡を寄越さなかったというのに、寂しいとか抜かすとは。電話口の声のトーンからでも、電話回線の向こうで一彩が今どんな顔をしているか、手に取るようにわかる。きっと、困ったように眦を下げて笑っているに違いない。

「SNSを見て元気なことは分かっているんだけど、声が聞きたいなと思ったら、つい」
……お前ね」
「ふふ、ごめんなさい。連絡する理由が突然できたものだからね。メッセージだけにしようと思っていたけど、歯止めが効かなかった」

 素直な言葉は捻くれ者の心を優しく刺す。気恥ずかしさが押し寄せ、がりがり頭を掻いた。顔が見られないのは好都合だ、きっと今自分は兄にしては情けない表情をしているはずであろうから。

……連絡ぐらい、いつでもしてきていいンだぜ」
「えっ、いつもやたら連絡してくるなって言っているのに」
「そりゃお前がひっきりなしに電話してくっからだ。常識的な範囲なら何も言わねェよ」
「常識的な範囲って、どれくらい?」
「時と場合による。けどまあ……海外いる間は多少お目こぼししてやる」
「本当?嬉しいな。毎日電話してもいいの?」
「お〜い調子乗ンなよ?」
「ふふふっ、冗談だよ。兄さんも海外を楽しみたいだろうし……邪魔になっちゃうから。必要外のことでの連絡は避けるよ」

 寂しさを絡めつつ一歩引いた声音は、それじゃあ藍良を誘ってみるね!とすぐに明るくなり、今にも電話を切りそうな勢いでなんやらと捲し立てている。なんというか、強引なくせに変なところで遠慮するのだ、我が弟は。しょうがないな、とニヤついてしまうのは不可抗力だろ。

……そうだな、二日か三日に一回」
「え?」
「そんぐらいなら構ってやんよ。気が向いたら電話もな。弟くんはずいぶん寂しがりみたいだし、大サービス」
「えっ、えっ?!じゃあっ」
「そんじゃ藍ちゃんと仲良くな。戸締りだけちゃんとしとけよ」

 一気に舞い上がった弟の言葉をさえぎったのは、際限がなくなりそうだったのと、どうにもくすぐったくなってしまったから。念押しだけ言い逃げて、通話終了のボタンを押すと、部屋の静けさが戻ってきて、妙に落ち着かなくなった。
 通話時間が表示された味気ない名残の画面を手に再びベッドへ倒れ込むと、ばふっと海外サイズのマットレスがしっかり受け止めてくれる。硬い荒いと嫌な特徴ばかり気になり始めていたが、大の男が重力に任せて倒れ込んでも大袈裟に揺れない丈夫さは、さすが海外といったところか。
 久々に聞いた弟の声は元気そうで、一週間前と特に何の変わりもなかった。子犬みたいにきゅんきゅん寂しがるほどガキじゃないのは分かっていたが、それなりに恋しがっていた弟を、不覚にも可愛らしいと思って。

……疲れてんな」

 自分も疲れが回ってしまったようだ。やはり仮眠をとった方がいいのかもしれない。どうせ日が沈む頃には、ニキかこはくあたりが晩飯だと連れ出しに来るだろう。それを目覚ましアラームがわりにすることを決めて、枕元のブランケットを引き寄せた。