丹羽燐
2026-03-01 21:00:00
2600文字
Public lim(n→∞)1/n
 

留守番電話4

lim(n→∞)1/n内,留守番電話の小話
季節外れにもほどがある,夏の話

 白線からはみ出ないようにゆっくりと足を進める。前もちゃんと見てくださいよ、なんていつかの声が聞こえた気がした。もちろん正面も隣にも人はいない。幻聴、気のせい。探そうとする目を閉じて、また足を踏み出した。
 時折目を開けて歩くうちに三十歩を超えた。何歩目だかわからなくなったところで、ようやく十字路に辿り着いた。カーブミラーには暗い夜道と疲れた私だけが亡霊のように写っていて少し不気味。
 家に帰るなら右折で三十メートル、四十一歩。たしか安室さんは三十七歩。何とかが一緒だから、背が高い人ほど足が長いのは自然だとかなんとか言っていたっけ。安室さんから聞いたはずなのに思い出せない。スマホで調べる気にもなれなくて、そのまま右に曲がった。
 たしかその蘊蓄を聞いた日も、今と同じように白線ゲームをして歩いていた。安室さんはさておき私は少しだけ酔っていて……そう。公園で手持ち花火をしながら、ビールを一缶だけ飲んだ。ザルで酔わないせいか、安室さんがどこか寂しげな顔をしていたのをはっきりと覚えている。
『学生の頃みたいだ。懐かしい』
 そう呟く安室さんは二度と会えない人たちを惜しむような、そんな雰囲気を漂わせていて、何と返せばいいのかすっかりわからなかった。まとまらない思考の末に、
『白線ゲームしませんか』
 と持ちかけた。見下ろした私の両手は花火のゴミと空き缶を持っていて、まだまだ遊び足りない子供のようだと少し恥ずかしかった。
『懐かしいですね』
『安室さんも子供の頃やりました?』
『ええ。小学校の帰り道に』
『あはは、一緒だ。ルールは』
『白線から先に足を踏み外した方が負け』
 遮るように続いた安室さんの声は、寂しさなどどこかへ飛んでいっていて、私がしょうもないうっかりをした時の様だった。要は楽し気。
『ですね。ローカルルールとか、ありました?』
『いえ、特には』
『白線がなくなった時も?』
『あー……あったような。どうだったかな』
 敬語でも丁寧語でもない、崩れた言葉に胸がときめいたのを覚えている。ポアロの同僚から、一歩プライベートに踏み込めた気がしたからだった。
『私のとこは、白線がないときはアスファルト以外ならオッケーでした』
『じゃあそうしよう』
『安室さんはどうしてたんですか?』
『忘れたよ。梓さんよりずっと昔だから』
 空き缶をゴミ箱に入れながら安室さんは言った。これはスチール、アルミ、アルミ、スチール。一個ずつ丁寧に分別されていく。
 空になったお酒の缶は、過ぎ去った時間の長さの様だった。
『そういえばそうでした。じゃあ私の方が有利ですね。ブランクが安室さん寄り短い』
『おや、梓さんには日々の運動不足が』
『うっ……しかも安室さんの方が足が長い』
『ハンデは何がいい?』
『あっさり認めるんですね!?』
『僕のほうが背が高いのは事実だ』
 隣にぴったりとくっついて立ってみれば、差は歴然。腰の位置が違う。自分の腰の位置からゆっくりとこちらにスライドしてくる手を拒み、二人で顔を見合わせて笑った。
『もーっ。ブランクとトントンということでハンデ無しで』
『いいんですか?』
『女に二言はありません!』
『それを言うなら男でしょう。……負けませんよ』
『私だって』
 普段通りの声に戻った安室さんに安心して、公園横の白線からゲームを始めた。
 黒いアスファルトははみ出たらサメが泳ぐ海だとか、底なしの谷だから踏むと死んでしまう。アスファルトの部分はなんでも良くて、ただ白線しか踏めない、そんな適当なルール。
 歩数は覚えているのに、勝敗は忘れてしまった。どちらかがアスファルトを踏んだような気もするし、踏まなかった気もする。そもそも真っすぐ家まで帰った気もするし、遠回りをして帰った気もする。アルコールのせいか、何もかもが曖昧だ。
 記憶をたどるように白線の上を歩く。一人しかいないのだから、ルールを破ったって何も言われない。それでも踏み外したくなかった。
「十一」
 あと三十歩でエントランス前。十二、十三……十五。花火大会の客で大忙しだった体は早くシャワーを浴びて寝たいと主張するのに、突然足が止まってしまった。家に帰りたくないわけでも、まさか一昨年のように花火がしたいわけでもない。白線の上で向きを変えて、立ちすくむ。振り返った後ろには誰もいなかった。一日立ちっぱなしだった足が浮腫んでいて重い。
 ポケットからスマホを取り出すと、時計は午後十時二十五分。ゲームアプリで遊ぶには時間も場所も悪すぎる。かといって誰かに電話するにも非常識な時間。あてもなく画面上を滑っていた指が無意味に写真フォルダを開いた。大尉とご飯、ポアロの限定メニュー、たまに友人たちとの写真。季節が二巡したところで、線香花火の写真が出てきた。
 七月二十日。
 たしかビール片手に花火をして……まさに白線ゲームをした日だ。今日はやけに安室さんのことを思い出す。隣に安室さんはいなければ、手にはスマホだけだというのに。目を逸らすように写真アプリを閉じた。
 安室さんは、元気かな。
 考えないようにしていたことが一瞬で頭を占拠した。さっきの懸念なんて忘れた指先が着信履歴を遡る。お母さんにお兄ちゃん、友人、それからマスター。随分と遡ってから、見慣れた名前の中に安室さんの名前を見つけた。埋もれるように一つだけ。二ヶ月前の発信履歴だった。
 通話ボタンの数ミリ上で指が止まった。これまでにも何度かかけたけど、安室さんが出たことはない。それどころか折り返しすらない。
 探偵業が忙しいのはいいことだと、便りのないのは良い便りと言い聞かせていた。辞めてしまう前だって音信不通になってはポアロに戻ってきたのだから、いつか返事が来るかもしれない。そう信じていたかった。
 午後十時半も回った路地を通る人も車もいるわけなく。暗い道にただただ一人。暑さのせいか道路に面した家の窓は閉まっている。大きな声を出さなければ聞かれることはない。
 少しの緊張と、どうせ出ないというやさぐれた感情と、恋しさが通話ボタンを押した。
「こんばんは、梓です。今日は花火大会で、花火が上がる前後は大忙しでした。でも、去年教えてもらった通りポアロの窓から建物の隙間に見えました! 安室さんがきたらまた花火しましょうね!」


マシュマロはこちら