しお
2026-03-01 01:01:13
8967文字
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毎週日曜朝八時半

簓が声優をやっている、女の子向け朝番組を見る盧笙の話。ささろは付き合っています。
掲載前にちゃんとチェックできていないので誤字がある可能性が高いです!すみません!見つけ次第修正します……

……あれ、何でこんなん録れとるんやろ」
 週末、録画した番組の整理をしようとHDDレコーダーを起動すると、録画一覧の一番上にやたらピンクでファンシーなサムネイルが表示された。目が大きな作画の、かわいらしい女の子のイラストの隣には、有名な変身魔法少女もののシリーズらしきタイトルが並んでいる。
 盧笙は首を傾げながら番組詳細を確認した。すると、謎はすぐに解けた。出演者一覧の、キャラクター名とおぼしきカタカナの横に並ぶ声優の名前の中に、見慣れたものが混じっていた。白膠木簓。どうやら、簓がキャラクターの声優をしているらしい。
 そういえばいつだったか、声だけの仕事が入るかも、と言っていたような気がする。ロケでどこそこへ行く・行った、などはチームミーティングの予定のすり合わせや土産でわかることもあるが、基本的に簓の仕事について、公式発表されていない情報を盧笙は聞かないようにしているし、簓も言わない。だからその時も、それが具体的にどういう仕事なのかは詳しく聞かなかった。その場ではぼんやりと洋画の吹き替えか、もしくはいわゆる「天の声」というやつか、と想像していたが、まさか女の子向けアニメの声優だとは予想外だった。
 ちらりと覗いたSNSのトレンドには、アニメの放送終了から既に一時間弱が経っているにも関わらず関連ワードが複数ランキング入りしていた。番組名、キャラクター名、白膠木簓、ヌルサラ。どうやら簓のキャスティングは事前に告知されておらず、今日の放送がサプライズだったようだ。視聴者の反応はポジティブなものが多いが、中には「ただのヌルサラ」「頭の中に糸目が浮かぶ」などのややシビアなコメントもある。
 上出来にしろ不出来にしろ、簓の新たな挑戦である。己自身の目でその勇姿を見届けてやろうと、盧笙は再生ボタンを押した。


 約二十五分後、盧笙はいたく感心していた。
 目当てにしていた簓の出番はエンディング後のワンシーンのみだったため、声優として演技がうまいのかどうかはよくわからなかった。耳に慣れた簓の声だというのはもちろんわかるのだが、発声方法が舞台とも、テレビとも、ラジオとも違うように感じる。それが簓の声優の仕事向けの工夫なのか、単純に不慣れゆえなのかは判別がつかない。どうやら簓のキャラクターは敵組織の幹部クラスのようで今後も出番はたくさんありそうだから、そこは行く末を見守ることとしておく。
 正直なところ、ほとんど一言くらいしか発していない簓のキャラクターよりも、ストーリーの方に興味が引かれた。作品のテーマに笑顔、笑うことを据えているようなのだが、同時に「ネガティブな笑顔を否定する」という要素も含んでいるらしい。
 今朝放送された第三話は、トウホクから転校してきた男子が転校初日の自己紹介でわざときつい訛りで喋るシーンから始まった。誇張したトウホク弁がウケたおかげで、転校生はすぐにクラスに打ち解けることができたが、クラスメイトの前でわざとらしいトウホク弁を繰り返し披露しているうちに、まるで前の学校の友達をバカにしているような罪悪感を覚えるようになってしまう。しかし訛りのネタに頼ってコミュニケーションを取ってきたせいで、それなしで人の輪に入る自信もなく、本心では嫌だと思いながら道化を演じてしまう。そうしてできた心の隙間に怪人が入り込み……という展開だった。
 怪人に取り込まれてしまった男子が主人公たちに浄化されたクライマックスの後、クラスメイトたちの前で正直に自分の気持ちを話し、そんなものがなくてももうクラスの一員だと認められるシーンには胸が熱くなった。その頃には視聴を始めた動機を忘れていたから、清々しい気持ちでエンディングを眺めた後に突然テレビから簓の声が聞こえてびっくりしたほどだった。ちなみにSNSにあった糸目云々のコメントは、簓の演じるキャラクターがシルエットでしか登場しておらず顔立ちがわからないのに、簓のイメージのせいで糸目だと思ってしまう、という意味だった。
 アニメの出来の良さは完全に盧笙の予想外だった。馬鹿にしていたわけではないが、どこかで子供向け、女の子向けと侮る気持ちがあったようだ。それを鮮やかに裏切られた盧笙は作品自体が気になり、続けて無料配信されている一話、二話も見た。そして、敵組織の幹部や怪人にお笑い芸人が積極的に起用されていることを知り、作品の中核に強い芯があることを感じて唸った。
 笑いはいいものだが、常にポジティブなわけではない。悪ふざけがエスカレートすればいじめになるし、最近は嘲笑やら冷笑やらという、顔が笑っていてもそこに付随する感情が楽しい・嬉しいといったものでないことも増えている。その場の空気や文脈という曖昧なものによって変化するものを、子供向けのわかりやすい勧善懲悪のストーリーに仕立てつつ表現しようとする点に、作り手のチャレンジ精神を見るような心地になった。
 盧笙は早速、番組名で録画予約を入れ直した。これで、簓が出演しない回も録画を逃すことはない。


 とある日曜日の朝六時頃。盧笙はチャイムの音で目を覚ました。視界には見慣れた自宅の天井が映っているが、頭にはまだ濃い霧がかかっている。チャイムに応対しなければと思うものの、なかなか身体を起こすことができない。
 顔を横に向ける。隣の来客用布団はこんもりと膨れ上がり、その中からは寝息が聞こえる。簓はまだ起きてすらいないようだ。簓が代わりに出てくれないだろうか、という淡い期待は無惨にも打ち砕かれる。
 こうなれば起きるしかない、と腹に力を籠めようとするが、チャイムの直後に玄関からガチャガチャと鍵を開ける音が響いてきたので盧笙は脱力した。この家の鍵を持っている人間が相手なら、わざわざ出迎える必要もないし、見た目を取り繕う必要もない。何せ、泥酔した醜態なら既に何度も晒したことがある。
 チャイムの威勢のよさに反して、玄関の開閉音は隣近所に気遣うかのように大人しかった。それを聞きながら、のそのそと布団の上で上半身を起こす。すらりと開いた襖の向こうから顔を覗かせたのは、予想通りのヒゲ面だった。
 朝っぱらから押しかけてきた零はやけに機嫌がよさそうで、ついでにほのかにアルコールの気配を漂わせている。
「おいおい、なんだよ。二人とも寝坊か? わざわざ時間を教えといてやったっつうのによぉ」
 零が口を開くとアルコールの香りがわずかに強くなる。盧笙はまだ眠気の残る頭を軽く振りながら答えた。
「日頃の行いや……。いっつも遅刻ばっかしとるやつが、ほんまにこんな早朝に来るとは思わんやろ」
「ま、それもそうだな!」
 わはは、と豪快に笑った零の大声で、盧笙の隣の布団ももぞもぞと動き始める。やがて布団の下から這い出てきた簓は、零を見上げて「ほんまに来とる……」と呟いた。
「だから、六時くらいに行くって昨日のうちに予告しといたじゃねぇか」
「あんなんいきなり言われても訳わからんわ……
 零の『予告』が簓と盧笙宛に送られてきたのは、昨夜の二十時過ぎだった。盧笙が当然のように不法侵入してきた簓にツッコミを入れるお決まりの流れを済ませ、二人で酒でも飲むか、飲むならつまみを軽く作るかと考え始めたところで、二人のスマホに同時に通知が届いた。送信者の名前を見て、零もこれから合流できるのだろうかと期待をこめていそいそ開いたところ、そこには『明日の六時に盧笙の家で大人しく待ってたら、いい土産を持ってってやるよ』と書かれていた。
 簓と盧笙は顔を見合わせ、お互いに首を捻った。一体何のことだか、皆目見当がつかない。それぞれ一回ずつ意味を質問してみたものの、既読にすらならなかった。謎は深まるばかりだったが、零がそう言うのであればきっと何かあるのだろうと、二人は晩酌を軽く済ませて早々に寝ることにしたのだった。
「で、あんなに勿体つけた土産ってのは、何や?」
 ようやく布団から抜け出せそうな盧笙が尋ねると、零は自慢げにふふん、と鼻を鳴らした。それから襖の影に隠れていた腕を高々と上げ、濃い色の瓶——一升瓶を誇らしげに掲げる。
「それはこの……、幻の酒だぁ!」
「幻ぃ~?」
 まだ寝ぼけ半分の目を擦り、盧笙は一升瓶を見上げる。瓶は既に封が切られているようで、本来入っているはずの量の半分くらいしか中身がなさそうに見える。
「幻かなんか知らんけど、随分減ってもうとるやん」
 指摘する簓の声色は既に盧笙よりもしっかりしている。売れっ子芸人のハードスケジュールに身体が適応したのか、寝つきも寝起きもいい簓はすっかり覚醒しているようだ。
 遅れて盧笙もだんだんと意識がはっきりしてきて、零の滑舌がほんの少し怪しいことに気づいた。頬も、普段より血の巡りの良さそうな色をしている。ずいぶん深酒をしてきたようだ。
「こんなもんでも手に入ったのが奇跡みてぇなもんだ。いいか、この酒はなぁ……
 零が上機嫌で垂れた講釈によると、これは市場に流通しないものらしい。蔵元が気に入った人間にだけ売っているらしいのだが、肝心の蔵元がどこなのかすらも隠されており、ちょっとした好事家レベルではこんな酒がこの世に存在していることすら知ることができないのだという。
 零は蔵元についての情報を突き止めていたが、ガードが固くまだ直接会うことが出来ていなかった。そんな折、最近馴染みになった店で偶然同席した常連客が、その希少な酒の買い手の一人だとわかった。それを知った零はその客に近づき、親しくなったところで蔵元に紹介してくれないかと頼んでみたところ、飲み比べで勝ったら蔵元に繋いでやると言われた。プライドを賭けた飲み比べの果てに、後日蔵元から直接購入できる権利とともに、その店に持ち込みのキープボトルとして置かれていた酒瓶を勝ち取って、その足で盧笙の家に来たという。
「飲みさしで悪ぃが、今日のところはこいつでおいちゃんの勝利を祝ってくれよ」
 そう言って零は上機嫌に酒瓶を揺らす。酔っていることを考慮してもその浮かれようは相当なものだ。零がここまで喜ぶほどの酒とはどんなものなのか、簓と盧笙の興味は飛躍的に膨らんでいく。
「ほな、ありがたくご相伴に預からせてもらおかな」
 布団から這い出した二人は、起き抜けだというのにいそいそと酒盛りの準備を始めた。


 早朝の酒盛りはゆったりしたペースで進み、飲み始めてから二時間近く経ってもまだ一升瓶の中にはわずかに酒が残っていた。いつも盧笙の家ではビール中心にどんどん杯を重ねていくことが多いが、寝起きと酔いどれが集まってそんな飲み方はできないので、自然とちびちび舐めて味わうような飲み方になった。
 つまみは盧笙の家の中にあった乾き物と冷凍の枝豆、それからこの酒に関する零の蘊蓄。存在を知った経緯から、蔵元を探す道のり、そして飲み比べの一部始終。酒に関しての知識が一つ増える度、うまさもまた引きたっていくように感じる。その変化が面白く、普段は話の主導権を握りがちな簓もほとんど聞き役に回っている。
 八時をまわると、休日の遅い朝が動き出したようで、家の外から聞こえてくる物音の種類が増えてきた。もうじき酒が尽きたら、一味違うこの会もお開きになりそうだ。もったいないような気持ちでグラスを傾けた盧笙は、何気なく時計に目を遣ってからハッと顔を上げた。
「すまん、テレビつけてええか!?」
 ええよ、構わねぇぜ、という快諾の声を耳にしながら盧笙はテレビのリモコンに飛びつき、慌てて電源をつける。迷いなく盧笙が切り替えたチャンネルでは、特撮ヒーロー番組が放送されている。ヒュウ、と零が短く口笛を吹いた。
「先生、いい趣味してるねぇ。俺も大抵の娯楽は嗜んできたつもりだが、朝っぱらに酒飲みながら子ども向け番組を見るっつうのはさすがに未体験だ」
「そういうんとちゃう! 俺は真面目にエミリーたちの行く末を見守っとんねん!」
「はぁ? 誰だよエミリーって。こいつら、どう見ても男だが?」
 ローテーブルの天板に手のひらを打ち付けながら力説する盧笙を、零が訝しげに見る。その構図に傍らの簓が大笑いし、それからこの特撮ヒーローに続く枠で放送される変身魔法少女アニメに自分が声優で出演していること、そのアニメの主人公の名前がエミリーであることを説明した。
「それで盧笙は、簓目当てにそのアニメを見てみたらまんまとハマっちまった、と」
「子ども向けやと思って甘く見んなや零。お前もいっぺん見てみたらええ、そしたらもう馬鹿にでけへんようなるで。俺のおすすめは三話や。三話はトウホク弁の子がおってなぁ、」
「まあまあまあ、その辺にしとき。内容を知らんもんにネタバレすんのはあかんで」
……それもそうやな」
 熱弁をふるいかけた盧笙は、簓に宥められて口を噤んだ。零は盧笙からテレビ画面へと視線を移し、上機嫌に酒を一口舐める。画面の中ではメタリックな装甲を纏ったヒーローたちが敵と戦っている。
「俺は詳しくねぇが、こういうのも結構大人に人気あるらしいからなぁ」
「そうらしいなぁ。俺も出てみるまでは、大人でこういうんを見とるんはコアなファンだけやと思うとったんやけど、俺のファンの中にも長くシリーズ追っとるって言う子がそれなりにおってびっくりしたわ。昔からずっと好きなシリーズに出てくれて嬉しい~って言われて」
「へぇ、シリーズのファンにも一応認めてもらってんのか、簓の声優っぷりは」
「はは、それはどないやろねぇ~。最初の方は俺も、他の芸人も棒読みやって叩かれたわ。声優さん方がいろいろ教えてくれはって、こっちも多少は慣れてきて、最近は多少マシになったとは思うけどな」
「簓はようやってんで。最初は確かにちょっと違和感あったけど、最近は聞いてても簓の顔が思い浮かばんようなってきとる」
「お、先生のお墨付きとは嬉しいな~!」
 うんうん頷く盧笙に、簓は満面の笑みを浮かべる。
「そこまで言われるとさすがに興味がわくな。この後三十分から始まんのか?」
「番組はな! けど俺は毎回おるわけやないから、今日の回に出とるかどうか」
「今日のはおるで。先週の次回予告に出とったからな」
 横から盧笙が注釈を入れると、簓はまた嬉しそうに相好を崩す。零はそれを眺めながら、酒瓶の残りを自分のグラスへ全て注いだ。
 やがて前番組の次回予告が終わり、CMで紹介される商品が男の子向けから女の子向けに変わった後、いよいよアニメが始まった。冒頭は主人公たちの登校風景だ。今日の話も舞台は学校らしい。煌びやかなオープニングに繋がり、さらに数本のCMを挟んだのち、敵組織の本拠地がパッと映る。
 暗い画面の中には、簓が声を担当している若い男の他に、女性幹部と十歳前後の男の子の姿をした幹部がいた。前回の話でこの子どもの幹部が大きな失敗をしてしまい、本拠地が主人公サイドにバレそうになったのだ、とこれまた盧笙の親切な注釈が入る。へぇ、という零のリアクションを掻き消すように、女性幹部がヒステリックに叫び、男の子を責めている。
 簓のキャラクターはしばらく黙ったまま幹部二人のやりとりを眺めていたが、お前も何か言えと水を向けられ、ようやく口を開いた。
『せやねぇ。ま、今回はもう許したってもええんとちゃう? 結果的に、まだあちらさんにはバレてへんのやし』
「ほぉ~、なるほどねぇ」
 零は酒を口に運ぶ合間にそう呟く。感情の薄い声音に簓が突っ込んだ。
「なるほどて、何がなるほどやねん」
「上手いかどうかはよくわかんねぇけど、まあ悪くねぇんじゃねぇか?」
「適当やな~」
『せやけど自分、ここんとこ失敗続きやん? あんま醜態晒されると困るんよなぁ。お前のせいで俺らの威厳まで傷ついてまう』
 簓のキャラクターは嫌味を言いながらへらへらと笑う。その両目がぱっちり開いて瞳が見えているのに気づいた零が、くつくつと笑いを堪えて肩を揺らした。
「こいつはしっかり目を開けてんだな、声優さんと違ってよ」
「いや俺かて普段から目は開いとるやろがい!」
「お前らうるさいで! ちゃんと集中せぇ!」
 声を抑えずに笑いあっている二人を、一人だけ黙って画面に見入っていた盧笙が一喝する。簓と零が、はーい、へいへい、と口々にゆるい返事をしている間に、簓のキャラクターが画面に大写しになった。さらに画面はキャラクターに寄り、底意地の悪そうに笑う口元がアップになる。セリフに合わせて滑らかに唇が動く。
『次、失敗したらお仕置き、やからな?』
「はっ、……はぁ!?」
 思わず、といった様子で盧笙が大声を上げる。
『おしりぺんぺんとか、ええよなぁ? なぁ、どう思う?』
 今度は目元がアップになり、凄むように瞳がぎらりと光る演出が入った。怯え切った男の子は本拠地を飛び出していき、シーンは再び明るい昼間の学園に切り替わる。主人公たちの会話が始まるが、盧笙の頭はさっきのシーンでいっぱいになってしまい、次の展開が入ってこない。
「どうしたんだよ、いきなりでけぇ声出して。なんかあったか?」
 零に声をかけられ、盧笙はハッとした。耳の奥にはさっきの簓のセリフがぐるぐる回っているが、それを振り切って二人の方に向き直る。そして、主に簓に向けて問いかけた。
「あっ、あんなん、放送してええんか!?」
「え? なんか悪いとこあった?」
 きょとんと簓が首を傾げる。どうにも意図が伝わっていないらしい様子を見て、盧笙はもどかしそうに零に視線を向けた。
「教育に悪いやんか! なぁ!?」
「そうか? 特になんてことない流れだったと思うが」
「いや、あかんって! これ女の子向けやぞ!?」
 言い募る盧笙を前に、簓と零は顔を見合わせる。お互いに首を傾げあってから再び盧笙を見て、簓がおずおずと尋ねる。
「もしかしてあれか? 『おしりぺんぺん』が体罰やからあかんとか、そういうこと?」
「ちゃう!」
「ちゃうの?」
「そこやない! そこやのうてお前、その、あれや……!」
 怒っていた盧笙がいきなりトーンダウンした。真っ直ぐに簓を睨んでいたはずの視線はうろうろとあちらこちらに飛び、何か言おうとする様子はあるが、急に口ごもって発言が不明瞭になる。もともと酒で赤みを帯びていた頬の色は一際濃くなった。
「な、何? 盧笙先生は何をそんなに怒ってはるの?」
「せやから、その! あれや!」
……すまん、もうちょい具体的に言うてくれへん? もしなんかまずいことがあったんなら、スタッフさんに相談せな」
 戸惑いながらも、簓は真面目な顔で盧笙に頼み込んだ。相談、という単語を耳にして、盧笙は再びハッと目を見開く。うろついていた視線が簓を正面から捉えた。それから覚悟を決めるように盧笙は深呼吸を一つすると、どうしても簓を見ていられないのか目を伏せて、小さな声で呟くように吐き出した。
「お……、お仕置き、っちゅうのは不健全やろ……
 盧笙宅のリビングに沈黙が落ちる。テレビからは相変わらずアニメの音声が流れているが、身動きを止めた三人の大人たちは誰も耳を傾けていない。
 一番最初に動いたのは零だった。グラスを思い切り煽り、内側を伝う一滴まで飲み干すと、ローテーブルにグラスを静かに置いて立ち上がる。
「零? どこ行くんや?」
「おいちゃんはそろそろお暇させてもらうわ。ちょうどそろそろ眠くなってきたしな」
 これ見よがしにゆったりと大きな欠伸をしてから、零はのっそりと玄関に向かって歩き始める。
「ちょ、ちょうどって何やねん、」
「盧笙」
 零につられて盧笙も立ち上がろうとするが、畳についた手に簓の手が重ねられ、やんわりと止められた。
「簓?」
 振り返ると簓は微笑んでいた。よく見慣れた表情のはずだが、どこか底知れなさを感じて盧笙は怯む。簓の思考を汲み取ろうとじっとその顔を見ている間に、玄関ドアの開閉する音、さらには鍵をかける音まで聞こえてきた。
 二人きりになったリビングの空気を、アニメのBGMが上滑りしていく。簓がリモコンに手を伸ばしてテレビを消した。それから、静かに口を開く。
「盧笙。俺な、思うんやけど」
……な、何や、」
「『お仕置き』って言葉でエロいこと考えるんは、大人だけやない?」
「んなっ……!?」
 カッ、と盧笙の頬が赤くなる。盧笙は何か言いたげに口をぱくぱくさせるが、意味のある言葉は一向に出てこない。盧笙が文句を言う前に、簓が盧笙の手の甲を意味深に撫でたので、盧笙はとうとう何も言えないまま口を閉じた。
「なぁ、ええ? 昨夜、早よ寝なあかんって言うて何もせんかったやん」
 なぁ、なぁ、と簓が懇願してくるが、それは口先だけだった。盧笙はまだ許可を出していないのに、手の甲を撫でていた手はするすると腕を辿って肩を掴んでいるし、もう片方の手は頬に添えられている。それに留まらず、親指の腹で盧笙の唇の端を撫で、そこから自分の望む言葉を引き出そうとしてくる。
 咄嗟に、簓の思い通りになるのは癪だ、という思考が頭を過ぎる。しかし簓の腕を振り払う気にはなれない。昨夜、突然の零からの連絡のせいで予定外の早寝をすることになったのは、盧笙も心残りに感じてはいた。簓がその気だというのなら付き合ってやってもいいのだが、リビングに差し込む朝の光の眩しさが目に入ると、朝から事に及ぶことの不健全さに気が引けてくる。
 欲と理性の狭間で揺らぐ盧笙は、後ろめたさから逃れようと目を閉じた。簓が小さく息を吐く音と衣擦れが聞こえ、すぐに盧笙の唇が柔らかいもので塞がれる。
 不意に、簓のキャラクターがアニメの対象年齢の女の子たちから人気らしい、とどこかで聞いたのを思い出した。少女たちがアニメに夢中になっている時間に、憧れられているキャラクターの声を生み出す男とこんなことに耽っていると考えてしまうと、脳が痺れて眩暈がして、その全てが熱に変換されて、どうしようもなかった。