猫澤
Public
 

マイルストーン・ポラリス


 ふと。換気扇の音が耳を撫でた。
 昔から工具に触れるのが好きだった僕のために、ガレージを改造して作られた秘密基地。室内は薄闇に包まれ、僕の手元だけを照らすようにスタンドライトが白く光っている。鳩――の代わりにヒヨコが飛び出す壁時計を見遣れば、そろそろ日付を跨ぐ頃合いになっていた。
 嘆息する。机の上にはショーで使う予定の小道具がひとつ。まだ改良の余地はあるけれど、おおむね完成品だ。数時間同じ体勢で過ごしていたせいだろう――すこし背を反らすと、ポキポキと骨の鳴る音がした。
(そろそろ寝た方がいい……と、頭ではわかっているのだけどねえ)
 足りない、と脳が漠然とした不満を垂れている。
 明日は平日だ。当然学校がある。あまり授業の内容に興味はもてないが、僕はきっと、明日も勤勉に学舎へ足を運ぶだろう。
 会いたい人がいる。
 僕の起こす行動ひとつひとつに、笑って、驚いて、怒って、泣いて。そして一緒に喜んでくれる人。彼は僕が寝不足で登校したら、程々にしろと僕を叱るのだろう。だけどあいにく、この両目はすっかりと冴えてしまっていて、このまま大人しくソファに横になったところで、なかなか入眠できないことは明白だった。無駄な時間を浪費するというのも嘆かわしい。
 ……どうしたものかな。
 デスクの上に肘をつき、何気なくハイサイドライトに目を向ける。月明かりに誘われるようにフラフラと立ち上がってドアを開ければ、空のてっぺん近くに灰色の満月があった。
 吐き出した息が白く濁る。真冬の夜の冷たい空気が肌を刺す。その瞬間、そうだ、散歩でもしようかな、と閃いた。理由はない。しいていえばそうしたかったからに他ならない。好奇心と衝動に負けがちな僕は、躊躇いもなく思い立ったままに、コートとスマホだけを掴んでゆっくりと歩き出した。
 歩き慣れた通学路も、時間帯が変われば違う景色に見えてくる。
 それが、疲れた脳みそにちょうどいい刺激だった。住宅街は寝静まり、辺り一面閑散としている。立ち並ぶ信号機も消灯していて、時折見知らぬ車が家路を急いで横切っていく。そんなささやかな非日常が心地いい。
 しかし程なくしてシブヤ駅前の大通りに出ると、そちらは打って変わって、思いのほか人の往来があった。
 くたびれたサラリーマン。それから、ちょっとヤンチャな子供と、ご機嫌な酔っぱらい。みなそれぞれに事情を抱えて、真冬の凍える夜を思い思いに過ごしている。
 他の人から見れば僕も、彼らと同じ風景の中に溶け込んでいるのだろう。
 瞳だけで左右を見て。なんとなくで、進む方向を決めた。目的地はない。どこかへ辿り着けなくても、ただヒヤリとした空気を感じられればそれでよかった。
 やがてスクランブル交差点に差し掛かり、足休めにガードパイプに腰掛ける。
 ――そういえば、ほんの六時間前も、僕はこのガードパイプに腰掛けていた。
 そのときはワンダーランズ×ショウタイムの皆とここで談笑していて。今日のショーの感想と、反省と、新たに生まれた目標を確認して、それぞれが家路につくべく別れたのだった。
 交差点の向こう側へ目を向ける。背筋のピンと伸びた彼が、いつも雑踏のなかに消えゆく方向だ。ぼうっとその先を見つめていた僕は、おもむろに腰を上げた。
 控えめな電光掲示板を見上げ、細く吐息をくゆらせる。
 いくつかの街路樹を横目に過ぎた先で、夜の街を照らすコンビニと対面した。神山高校からフェニックスワンダーランドへ向かう道すがらにあるから、去年は僕もよく彼と一緒に放課後お世話になったものだった。
 あの軒下で、夏にはアイスを分け合って、秋にはホットスナック、冬にはあたたかい豚まんにかぶりついた。食べ歩きは行儀が悪いからと、必ずここで食べ終えるのが僕達の暗黙の了解だった。
 フリーランスの道を選んでからは自然と足が遠のいてしまっていたけれど、店内の様子は記憶と大きく変わらない。せっかく通りかかったのだからと、思い出の豚まんでもいただこうと思ったが、どうやらこの時間は売っていないらしい。仕方がないのでホットコーヒーをひとつだけ購入して、僕はふたたび、夜の街の散策に踏み出した。
 上り坂を数分も歩けば、今度は乃々木公園が見えてくる。
 ここは彼のランニングコースのひとつだ。僕も広い場所で自走型ロボットの試運転をしたいときによく訪れるから、示し合わさずともこの場所で鉢合わせることはままあった。
 彼のスタートラインは決まってこの花壇の側のベンチで、僕は勢いよく駆け出す彼の背中を見送ってから、悠々とベンチに腰掛ける。そしてロボットのメンテナンスに勤しむうちに、やがて公園を一周した彼がまたこのベンチに戻ってくるのだ。
 ベンチ越しに覗き込む。春には色とりどりの花を咲かせる花壇も、今ばかりは寂しい佇まいだった。それでも、この土の下であたたかな季節を待つ息吹がたしかにある。
……
 飲み切ったコーヒー缶をダストボックスに投げ入れて、空に浮かぶ月を追いかける。敷き詰められたレンガの路。駅前の雑踏はとうに遠ざかり、いつしかひっそりとした住宅街へと差し掛かる。
 靴の裏が磁石で地面にくっついたみたいに、ふと、僕は往来の真ん中で立ち止まった。
 シャッターの下りたガレージ。石造りの塀の先に、庭を構える大きな家。見間違えるはずもなく、彼の――天馬司くんの住む家だった。当てのない逃避行の終結を悟り、ただ淡々と、二階にある彼の部屋を見上げる。
 とうに日付を跨いでいたが、まだ明かりがついていた。
 何をしているのだろう。コートのポケットの中でスマホを撫でる。撫でるだけだ。こんな遅い時間に連絡をするのはさすがに憚られた。けれども、それでも、困った顔をされてしまってもいいから――彼の顔を見たいという気持ちも、僕の中にあることを否定はできない。
 十秒。二十秒。逡巡して、小さく首を振る。どうにも肝心なところで僕は意気地無しだ。
……帰ろう)
 冷たいため息とともに、ゆっくりと踵を返す。そうして一歩踏み出した、その瞬間に。――ガラッ、と、背後から勢いよく窓の開く音がした。
――類⁉︎」
 深夜の住宅街に、彼――司くんの声が響き渡る。さらに後ろの方で「お兄ちゃん! ご近所迷惑になっちゃうよ〜!」と窘める声は、妹の咲希くんのものだろう。
 思わず振り返った部屋の窓は、開きっぱなしになっているもののすでに司くんの姿はなく、ただただカーテンが夜風に吹かれ棚引いているばかりだった。
 十も数えないうちに、やがて玄関のドアが開け放たれる。
 スニーカーを履き潰し、パジャマにストールを巻いた司くんが転がる勢いで飛び出す。……本当に転んでしまいそうだったから、門扉越しについ手を伸ばしてしまった。その手を力強く掴んで、間合いを知らない司くんが僕の懐へと踏み込む。
 風呂上がりだろうか。濡れた花の香りがした。
「やあ、こんばんは。司くん」
「こんばんは、ではない! なぜうちの前に……。いや、話は後だ。まずは中に……
「ああいや」
 こんな時間にお邪魔してはご家族に迷惑だろう。琥珀色の双眸の前に手を翳す。
「たいした用事はないんだ。ただ夜の散歩をしていたら近所を通りかかってね」
……たまたまオレが気がついた、ということか?」
「まあ、そんなところになるね」
 運命的だとは思ったけれど、結局のところ偶然のひとつでしかない。
 平静を装って、空々しく言葉を重ねる。司くんは訝しむように僕を見つめ、すこし、考えるような素振りをして――それから、やっぱり僕が想像していたとおり、困惑した表情をしてみせた。
「あまり夜道をふらふら出歩くものではないぞ。こんな時間では補導をされてしまう」
……以後気をつけるよ」
「あと。出歩くにしても、もう少しあたたかい格好をしてくれ。心配だ」
 ふわりと鼻先に風が舞う。かと思えば首元に、司くんが羽織っていたはずのストールが巻かれていた。
 ほのかな温もりと立ち込める花の香りに、一瞬、僕の動力源が大きく鼓動する。掠め取るように悴んだ指を引かれ、あたたかな手のひらで包まれてしまっては、それを押し隠すのも容易ではなくて。悟られぬようにぐっと奥歯を噛み締めた。
 心が、むずむずする。自分が笑いたいのか泣きたいのかも定かではない。けれども、たったひとつだけ、僕の中にたしかな解が生まれていた。
 僕は、君に会いたかったんだ。
 漠然と満たされない想いがあった。今日も放課後まで一緒にショーをして、そして明日だって学校で会えるのに。それすらも待てないくらい、僕は君が恋しくて仕方がなかったようだ。
 ――だから。司くんが僕に気づいてくれたとき、どうしようもないくらい――本当に、この体だけじゃ抱えきれないくらいに、僕は、たぶん、うれしくて。
「司くん」
「ん?」
…………つかさ、くん」
……。なんだ?」
 舌先で転がした、彼の名前。
 街灯を浴びた金糸がさらりと揺れる。司くんは口元に薄く微笑みを浮かべ、じっと僕の言の葉の先を待っている。
 指の腹で爪の表面を撫でて。触れた皮膚から、じわりと彼の体温が伝播していく。命を吹き込まれているようだった。互いの白い呼気が浮かんでは消えて、耳鳴りさえもするような静寂を、月だけが見つめている。
 奇跡なのだろう。この広大な宇宙に存在する、小さな惑星のさらに小さな島で。過去でもなく未来でもない、今、この瞬間に僕達が巡り逢えたことは。
 僕の幼気で身勝手な、未定義の感情を、こうして彼が素のまま受け止めてくれることは。
……なんでもないよ」
 口の端を持ち上げる。彼は「そうか」と頷いたきりで、それ以上の言及はなかった。面倒見がいいな、と悔しくなってしまう。どこまでいっても、彼は立派な「お兄さん」だ。
「もう帰るのか?」
「ああ。あまり長居しては君に風邪をひかせてしまうからね」
「そっくりそのまま、こちらの台詞だ。……だが」
 こほん、と不自然な咳払い。視線を持ち上げると、わずかに俯いた前髪の隙間から、かすかに朱のさす頬が見え隠れした。気のせいだろうか。……気のせいじゃなければいい。
「驚きはしたが、まったく迷惑などではない。むしろ……会えてうれしかった」
……明日また学校で会えるのに?」
「大切な友とは一秒でも長く過ごしたいと思うものだろう」
「そういうものかな。……いや、うん、そうだ。そういうものだね」
 僕が顎を引くと、司くんは満足そうに目を細めた。力強い眼差しがまっすぐに僕を見据えている。だから僕も、まっすぐに彼を見つめ返した。
「少し待ってくれ。父か母を呼んでくる。家まで車で送ろう」
「気持ちだけ受け取っておくよ。そう遠い距離でもないし……今夜は少し、歩きながらアイデアをまとめたい気分でね」
「ふむ……。まあそういう日もあるか。ではくれぐれも気をつけて……また明日、学校で会おう」
「そうだね」
 存外あっさりと指先の温度は離れていった。名残惜しさを表面には出さないようにして、けれどもそのぬくもりが北風に拐われてしまわないように、そっとコートのポケットにしまう。
「おやすみ、類」
……おやすみ、司くん」
 何か特別な呪文でも唱えた気になって、僕は今度こそ、丁寧に踵を返した。
 しばらく歩いて、ふと振り返る。司くんはまだ僕の背中を見つめていた。僕と目が合うなり、背伸びをするほど大きく手を振って。彼らしい熱烈な見送りにおのずと頬が緩む。
 空の高いところで月が踊っていた。今日は一段と冷えるからそう見えるのかもしれない。下り坂では視界がうんと広がって、星もより近く思える。
(ああ……
 はやく朝がくればいいのに――。だけど、いま僕が感じている待ち遠しさは、きっと今夜だけの特別なものだ。星の煌めきが導いた尊いものだ。失くしてしまうのも、それはそれで惜しい。大事に抱えたままブランケットに包まりたい。
 ポケットの中でスマホが震えた。やや軽くなった足取りで、僕は再び軌跡を辿っていく。
 きっと次は、穏やかに眠りにつけるだろう。



end.