riririnf
2026-02-28 11:00:00
10948文字
Public
 

──Bonne Saint-Valentin!

恋人になって初めてのバレンタインを迎えるヌヴィフリの話。 
※捏造・ネタバレ注意

……できた……、完成だ……っ!」
 麗らかな午後、フリーナは自宅のキッチンで興奮と感嘆が入り交じった声を上げていた。
 視線の先には王冠──ではなく、王冠を模したロイヤルブルーとゴールドのオペラケーキ。リボンを象った装飾を添え、豪華さと可愛さを両立している。
 周囲にはケーキ作りに使われたボウルや泡立て器、ホイップやトッピングの残骸が散乱しているけれど、それらの悲惨ささえも、この繊細で美しいケーキの前には瑣末事だ。
 何を隠そう、これはフリーナがたった今生み出したオリジナル。これを生み出すために、フリーナは多大な労力を払った。
……間に合ってよかった……
 フリーナはほっと胸を撫で下ろし、ちらと壁掛けのカレンダーに視線を移す。日付は2月7日。決戦の日の一週間前だ。
 来たる決戦の日は、2月14日。つまりはそう、バレンタインデー。
 この恋人たちにとっての特別な日に、フリーナは恋人であるヌヴィレットにチョコレートを渡すべく、奮闘していたのであった。


 ヌヴィレットと恋人になったのは、フリーナが長きに渡る役目から解放されたあと、真実人間として歩み始めて、しばらく経ってからのことだった。
 そこに辿り着くまでにはまた色々とあったけれど、そこはまあ割愛するとして。
 恋人となってから初めて迎えるバレンタインデーとあって、フリーナはそれはもう張り切っていた。そしてそれにはフォンテーヌ・レイクよりも深い事情がある。
 ヌヴィレットをフォンテーヌ廷に招いて四百年余。当然、同じ回数分のバレンタインデーを共にした。
 彼は最高審判官として公平性を保つためと、チョコレートの受け取りを毎年断り続けている。相手がファンであろうが部下であろうが一律同様。──唯一例外だったのが、水神フリーナだ。
 水神は「この僕からの施しを断るつもり?」と迫り、半ば無理やりにチョコレートを押し付けていた。
 神から龍へ。上司から部下へ。最高審判官ヌヴィレットにチョコレートを渡せるのは、水神フリーナのみ。
 それは一種のステータスで、神の威光を演出する絶好の機会だった。
 彼が人間社会の文化を経験出来るように、との想いもありはしたけれど、そこに愛だの恋だのの感傷はなかった。そんなものにうつつを抜かす余裕など、当時のフリーナにはなかったのだ。
 それは逆に言えば、下手な気負いとは無縁であったとも言えるのだけれど、今年は。
 ……緊張もするさ。今の僕には、かつてのような力はないんだもの。
 ぎゅっと胸の前で拳を握る。
 フリーナがまだ在任であった頃は、その時代の気に入りの料理人にチョコを作らせていた。材料費問わず、報酬もたんまりと。
 最高級の食材に、最高級の料理人。素晴らしいものが生み出されることが約束された組み合わせだ。
 かつてのフリーナには、そんな必勝法を選べる財力と地位があった。けれど今はもう、立場も素材も料理人も、全てが整っていた頃とは違う。全てを己の力で賄わなければならない。
 つまり恋人であることは、いわばスタート地点に立てた、という程度のもの。ヌヴィレットにチョコを渡す最低限の権利と立場を得た、というだけなのだ。ここから先、彼を満足させられるかどうかは、フリーナの腕にかかっている。
 やる以上は全力で。フリーナはこの日の為に研鑽の日々を重ね、このスペシャリテを編み出したのだ。
「ふふん、聞いて驚け……その名も──プル・ラ・ジャスティス!」
 フリーナは胸の前に片手を当て、もう片方の手のひらを、フリーナがたった今、『プル・ラ・ジャスティス』と名付けたケーキへと勢いよく向けた。
……うん、流石僕。素晴らしい名前だ」
 『プル・ラ・ジャスティス』とは、フォンテーヌの言葉で「正義のために」という意味になる。フォンテーヌの司法の要、いわば正義の象徴たるヌヴィレットに贈るに相応しい名付けと言えるだろう。
「けど、お披露目の仕方には改善の余地あり、かな? みんな、どう思う?」
 フリーナは周囲にふよふよと漂っていた三体のサロンメンバーに意見を仰いだ。すると皆口々に、もっと間を作った方が、それにしても素晴らしい出来栄えのケーキだ、など賑やかに意見をくれる。
 しばらくの間、ふむふむと彼らの議論を傾聴していたフリーナだったが、そのうちに今日の仕事がまだ残っていたことを思い出した。
……おっと。こうしちゃいられない。ナヴィア達と食べる分のチョコも用意しないとね」
 ナヴィアとクロリンデとは、バレンタインデー当日の午前中、ヌヴィレットと会う前に集まって、チョコを渡し合う約束をしている。所謂女子会、それも友チョコ交換会だ。
 ……この僕に、友人と呼べる存在ができるなんてね。
 誰にも知られてはならない秘密を抱え、ずっと孤独に生きてきた過去の自分に、こんなことを伝えたとしても信じてもらえないだろう。
 ──キミは将来、気の置けない友人たちと友チョコを交換することになるんだよ、だなんて!
「うーん、何がいいかなぁ?」
 そう思えば、メニュー決めにも気合いが入るというものだ。ヌヴィレットに対してとはまた異なる意味合いで、ナヴィアとクロリンデもまた、フリーナにとって大切な人たちだから。
「ナヴィアはきっとマカロンだろうな」
 ナヴィアはお菓子作りが得意で、特にマカロンはプロにも引けを取らない腕前だ。想像するだけでワクワクと心が踊る。
「クロリンデは……どうなんだろうね?」
 クロリンデとお菓子作りはあまり結びつかない。
 フリーナの護衛役では無くなった今、共にテーブルを囲み、お茶会に興じることもある。だからスイーツそのものは比較的好んでいるようではあるけれど。
「何にせよ、楽しみだ」
 持ち寄ったスイーツで彩られたテーブルと、鼻腔をくすぐる甘い香りを想像してみる。この景色を一層素敵なものに出来るよう、フリーナも特別素晴らしいものを用意しなければ。
 何がいいだろう? フォンダンショコラにガトーショコラ。少し捻って、他国のレシピをフォンテーヌ風にアレンジするというのも、いいかもしれない。
 スイーツに対する造詣には五百年の長がある。とびきりのサプライズを用意しなければ、フリーナ・ドゥ・フォンテーヌの名が廃るというものだ。
 顎に手を添え、うんうんと唸る間も、心はわくわくと浮き立っている。悩むことすら楽しいなんて。こんな悩み事なら大歓迎だ。
 そんな時、ふとテーブルに置いていた新聞記事に目がいった。
 見出しには『件の審判が長期化──これには最高審判官様も溜息を隠せず』と書いている。
 近頃、ヌヴィレットはとある事件に手を取られていて、随分と忙しそうにしている。何でも様々な人々の思惑が複雑に絡み合い、収集がつかなくなっているらしい。
 それ以外にも彼はパレ・メルモニアのトップとして、大小様々な仕事を抱えている。おかげでここ一ヶ月程まともに会えておらず、バレンタインデーの約束が久しぶりの逢瀬という有様だ。
……ちゃんと休めているといいんだけど」
 ……いや、無理だろうなぁ。
 悲しいかな、言った瞬間に否定出来てしまう。忙しさも然ることながら、そも本人に休む気がないのだから、頭の痛い話だ。食事も忘れて職務に没頭してしまう日すらあるのだ。
 丸一日の休暇とまでは言わずとも、せめて小休憩だけでもこまめに取ってくれたら、また違うのだけれど。
 さっきまでの楽しい気持ちはどこへやら、フリーナはハァ、と溜息をついた。

◇◆◇◆
 
 そして迎えたバレンタイン当日。フリーナは女子会を満喫していた。
 場所は千織屋横の休憩スペースを提供してもらった。店主の千織と仲の良いナヴィアが、事前に頼んでいてくれたらしい。
 千織も少しだけ顔を出してくれたので、皆こぞってチョコレートをお裾分けした。いつも辛口な彼女が、「うん、なかなか好きな味よ」とクールな表情を綻ばせた時など、最高に盛り上がった。
「あたしからはマカロン・ショコラ! 自信作よ!」
 ナヴィアが快活な笑顔と共にお披露目してきたのは、やはりマカロンだった。生地にはハートを用いた可愛らしい表情が描かれていて、しかもそれぞれ微妙に顔つきが異なっている。
 味も然ることながら、サクサクとした食感や見た目でも楽しませてくれる、ナヴィアらしいセンス溢れる一品だ。
「私からはこれを」
 クロリンデからはブラウニーを貰った。ナヴィアとは正反対に凝った意匠はなく、粉砂糖を振るっただけのシンプルな一品だ。クロリンデらしいチョイスだと思う。
 しっとりと濃厚な味わいの他、断面がやたらと綺麗なのが印象的だった。いったいどうやったら、あんな風に切れるんだろう。……包丁、だよね?
「おお、チョコレートがいっぱい……! 美味そうだな!」
 途中、偶然にもフォンテーヌを訪れていた旅人とパイモンが通りかかり、彼女たちも友チョコ交換会に参加した。
 食べることが大好きなパイモンは、テーブルに広がるチョコ菓子の数々に目を輝かせ、もきゅもきゅと幸せそうに頬張っていた。
「じゃあ、私もなにか作ろうかな」
 料理上手な旅人は、ナタのショコアトゥル水という飲み物を即興で作ってくれた。ミルクとチョコレートの絶妙なハーモニーが絶品で、何故だかパイモンが得意げに胸を張っていた。

「──そろそろ僕は失礼するよ。この後、約束があるんでね」
 楽しい時間はあっという間に過ぎていき、気づけばヌヴィレットとの約束の時間が近付いていた。
 断りを入れて席を立てば、皆揃ってニヤニヤと見つめてくる。ヌヴィレットと交際していることは、互いのビックネームを考慮し秘密にしているのだけれど、彼女たちは例外だ。
「いってらっしゃい。頑張って!」
「が、頑張るって、何をだい!?」
 からかい混じりの生温かな視線に見送られ、フリーナはその場を後にした。

◇◆◇◆

……ふふっ、フリーナはこれからヌヴィレットさんに会うのよね。恋する乙女、って感じの可愛らしい顔しちゃってさ」
 フリーナの背を見送りながら、ナヴィアがくすくすと笑う。その隣では、クロリンデが優雅にコーヒーを飲んでいる。
「もっと突っついた方がよかったかしら?」
「やめておけ。お付き合いをされて初めてのバレンタインだ。ただでさえ緊張されているだろうし、変に茶化さない方がいい」
 淡々と制止するクロリンデに、ナヴィアも「ま、それもそうね」とあっさりと返す。元々そんなつもりもなかったのだろう。
 フリーナとヌヴィレットの交際を誰より喜んでいたのは、彼女達だ。今も二人が素敵なひと時を過ごせるようにと願っているのだと思う。
 旅人から見て、ナヴィアとクロリンデはいま、とても優しい眼差しをしている。
「フリーナといえば、あいつのチョコも凄かったよな。美味しかったし、見た目もめちゃくちゃ凝ってたし!」
 食いしん坊パイモンは、まだまだ目先の幸福に頭がいっぱいらしく、甘ったるい恋人達の話題など耳に届かないようだ。まあ、パイモンらしいけれど。
「名前もなんか凄かったよな。えーっと、ぷ……ぷら……
 ふよふよと空中を漂いながらハテナを飛ばすパイモンに、旅人はニヤリと笑って教えてやった。
「──プル・ラ・ジャスティス、でしょ」
 
◇◆◇◆

「ごきげんよう、フリーナ。よく来てくれた」
 ヌヴィレットの執務室を訪れると、既に来客用のテーブルと椅子が用意されていた。テーブルの中央にはレインボーローズの一輪挿しが飾られていて、華やかな空間を演出している。
 事前に約束をしていたのだから、当たり前といえば当たり前のことなのだけれど、多忙の中きちんと出迎えの準備をしてくれていたことに、とくりと高鳴るものがある。
「久しぶり。元気にしていたかい?」
 逸る心をぐっと抑えて、淑女の笑みで訊ねれば、ヌヴィレットは穏やかに微笑んだ。
「うむ。少々忙しくはあったが、問題はない」
 そんな返しがあまりに白々しくて、フリーナはじとりとヌヴィレットを睨みつける。
「少々、だなんて過小評価が過ぎるんじゃないかい? 新聞にも載っちゃうくらい忙しくしておいてさ?」
 一ヶ月も僕を放っておいて、とは言えなかった。ヌヴィレットはフォンテーヌのために身を粉にして働いているのだ。そんな彼に我儘を言って、困らせるような女にはなりたくない。
「人間の尺度で図れば、確かにそれなりの忙しさなのだろう。だが知っての通り私は龍の為、人間よりも余程頑健だ。君の言う新聞記事は、あくまで事情を知らない記者によって書かれたもの。気にする必要はない」
 事も無げに語るヌヴィレットの顔色は、一見いつもと変わらないように見える。彼の言う通り、龍の肉体は容易に翳りを見せたりしないのだろう。
 それでもまったく疲労を感じないわけではないだろうし、それらの蓄積を軽く見てはいけない。時間をかければ、水すら岩に穴を空けるのだから。
「キミねえ……
 フリーナは溜息をつきつつも、敢えて追及しない道を選んだ。折角一ヶ月ぶりに会えたのに、しつこく絡んで気まずい雰囲気にはしたくない。
「君の方こそ、恙無く過ごせていただろうか。何か困っていることや物資の不足等があれば、遠慮なく教えてほしい。速やかに対応しよう」
「キミ、会うたびに絶対聞いてくるよね」
「それだけ君が心配なのだ」
 ……それは後見人として? それとも恋人として?
 咄嗟にそんな捻くれた疑問が浮かぶ。……あれ、おかしいな。僕って、こんなに面倒くさい女だったっけ。
 飲み込まなきゃ。隠さなきゃ。そうでなければ、何のためにフリーナは彼に会えない一ヶ月を耐えたのか。
 いや……そもそも、たった一ヶ月程度、大した期間でもないではないか。フリーナが市井を降りてから彼と交際を始めるまで、何ヶ月も会わない時期だってあった。実際、今日彼の顔を見るまでは、そんなものだと受けとめていたではないか。
 言いようのない重い感情が、漣のように静かに広がっていく。
 どうやら自分は、この一ヶ月ぶりの逢瀬に入れ込みすぎているようだ。
 恋とは、こんなにも人をダメにするものなのか。
「ハァ……僕ってそんなに信用ない?」
 ……あ、まずい。
 すごく険のある声が出た。とにかく何か言わなきゃ、と焦った結果だ。募る苛立ちを隠せなかった。
「そういうつもりではないのだが……
 ヌヴィレットは困ったような顔をしながら、それでも紳士然と椅子を引いてくる。
 なんて出来た対応だろう。そういうさり気ない優しさが好きだ。そして同時に苦しくなる。
 キミの彼女はキミに優しくされている時でさえ、自分本位にモヤモヤしているような女だよ、と。
 もうどうにも感情が吐き出せず、お礼も言わずにストンと椅子に腰掛ける。
 それは明確に自分の首を絞める行為だ。罪悪感と自己嫌悪が天井知らずに膨れ上がっていく。
 いったい何をやっているんだろう。折角久しぶりに会えたのに。多忙なヌヴィレットが、こうして貴重な時間を捻出してくれたのに。
 募る嫌悪がどんどん口を重くして、執務室に静寂が満ちていく。
 こういう時、水神を演じていた頃ならば、神として相応しい振る舞いを選べばいいだけだった。けれど今、フリーナは彼の恋人としてここにいる。だからこそ分からない。恋人としての正しい態度って、なんだろう?
……すまない。君を不快にさせてしまった。それ程に私の発言は無神経だったのだろう」
 俯き口を噤むフリーナに、流石に察するところがあったのだろう。テーブル向こうに座るヌヴィレットが、申し訳なさそうに謝ってくる。彼は何にも悪いことなんてしていないのに。
 あんまり情けなくて、じわりと目の奥が熱くなってくる。ああ、もう、僕は本当に何を。
「僕……
 なんとか言葉を探そうとして、身動ぎをする。その拍子、指先が懐に隠した硬い感触に触れた。
 それは今日の為に用意したとびきりのサプライズだ。
 ──頑張って!
 ふと、友人たちの声と優しい眼差しが蘇る。……そうだよ、うじうじ悩んで、時間を無駄にしている場合じゃない!
「ヌヴィレット!」
 フリーナはガタンッと勢いよく椅子から立ち上がった。突然の行動にヌヴィレットが目を見張る。フリーナはそんな彼の様子には構わずに、懐から〝それ〟を取り出した。
「こ、これ……っ!」
 フリーナは青いリボンで彩った長方形の白い箱を、ヌヴィレットの眼前に突きつけた。
 散々練習した披露目のパフォーマンスや口上なんて吹っ飛んでいた。差し出す手はかたかたと震えている。ただ情けない顔で、縋るようにヌヴィレットを見つめることしか出来ない。
……これを、私に?」
 ヌヴィレットはそんなみっともない様子には触れず、ただ静かに訊ねてきた。こくこくと頷けば、彼は立ち上がってフリーナの隣に歩み寄り、その箱を受け取ってくれた。
 受け渡す際、一瞬だけ震える手にヌヴィレットの手が触れる。不思議なことにたったそれだけで、ふっと呼吸が和らいだように感じた。
「開けてみても?」
 訊ねる声には僅かに期待がこもっているようにも感じられる。わざわざバレンタインデーに約束をしたのだ。彼もこの箱の中身に察しはついているのだろう。
……うん」
 存外分かりやすい反応に勇気をもらったフリーナは、控えめに、けれどハッキリと頷いた。
 丁寧な手つきで青いリボンが解かれ、箱の蓋が開けられる。──現れたのは、小さな仕切りに区切られた小さなチョコレートの数々。形や色も様々で、球体や花、ハート、変わり種ではルエトワールを模したものもある。
 すべてフリーナが一つ一つ形を選び、作ったものだ。
「──美しいな。一つ一つが、まるで宝石のようだ」
 ヌヴィレットの声は感嘆に満ちていた。いつも冷静な薄い紫色の瞳が、僅かに輝いているような気さえする。
「それは流石に大袈裟だよ」
 フリーナはくすりと笑う。そうは言っても、先までの強張りは解れていて、すっかりいつも通りの呼吸が出来ている。あんまりな単純さにいっそ面白くなる程だ。
……最初は、特別な一品を用意しようとしたんだ。でも、それじゃあ今日一日で食べ終わってしまうと気付いて」
 だからプル・ラ・ジャスティスは女子会用にして、新たに彼のためのチョコレートを用意した。製法は急遽エスコフィエに教わったもので、オリジナルのオンリーワンではないけれど、それでも。
「今日だけで食べてしまっては駄目なのか?」
「そうだね。これは一日一個まで」
 チョコレートは全部で十個。単純計算で食べ終わるまで十日かかる計算だ。少々先の長い話に、ヌヴィレットがぱちりと瞬く。
 けれどそれが見た目からして完璧なプル・ラ・ジャスティスではなく、小粒なチョコレートアソートにした理由なのだから仕方がない。
「食べる時の心得も伝授しよう。……食べる間は仕事の手を止めて、じっくりと味わうこと。そして最大限に美味しく感じられるよう、環境整備に努めること。例えばコーヒーをお供にするとかね」
「それは……
 この小さな一粒を味わう為の環境整備は、翻ってヌヴィレットの休憩時間へと寄与する。
 こう言えば、真面目なヌヴィレットは毎回きちんとコーヒーを淹れるだろうし、カップ片手に公文書を広げるような真似もしないだろう。
 そうやって強制的に手を止める時間を作ってしまえば、そのままなし崩しに休憩を取ることも視野に入ってくるかもしれない。そんな小さな悪巧みだ。
「味も見た目も一つずつ違うから、毎日飽きずに楽しめるだろう?」
 そうして一日の僅かな間でも、彼の時間を彩れたなら、こんな素晴らしいことはない。
 知らずふわりと微笑んでいたフリーナに、ヌヴィレットは目を細めた。その視線は一度手元のチョコレートに落ち、それからまたゆっくりとフリーナに戻ってくる。
……ありがとう。君の心遣いが、とても嬉しい」
 そう言って、薄い唇をほんのりと綻ばせる。
 まるで全てが報われるような想いだった。お礼を言われている側なのに、ありがとう、と勢いよく返してしまいたくなる。
「早速ひとつ貰っても?」
「勿論さ! ……あ、でも一個だからね? 一日一個!」
「ああ、分かっている」
 フリーナの念押しにくすりと笑ったヌヴィレットは、しばらくチョコレートをじっくりと見定めた後、慎重な手つきで栄えある一粒目を摘んだ。それはレインボーローズを模したピンク色のチョコレートだ。
「ふうん、いいチョイスだね。それは本物のレインボーローズの蜜をシロップにして、チョコレートに混ぜ込んでいるんだ」
「確かに花の香りがするな」
 ヌヴィレットはチョコレートを顔に近づけて香りを堪能した後、ゆっくりと口に運んだ。目を伏せられると、睫毛の長さがよく分かる。上品に口を小さく動かす姿は色っぽくて、なんだかドギマギしてしまう。
……美味だ」
「ほ、ほんとう!?」
「ああ、本当に」
 何度も試食をしたし、最終的にはエスコフィエのお墨付きも貰った。だから味に間違いがないのは分かっていたけれど、それでも褒められるのは嬉しい。
  ぱっと身を乗り出したフリーナを見つめる薄い紫色の瞳はあまりに優しくて、どきん、と胸が鳴る。
 頬がほんのりと熱くなるのを感じるのと同時、縦長の瞳孔がすぅ、と細められた。
……君も味わってみるか?」
「え……っ?」
 意味を問う間もなく、ヌヴィレットがそっとフリーナの腕を引く。
「ん……っ」
 そして唇に柔らかな感触が触れた。
「ン、んぅ……っ」
 ぬるりと舌を差し入れられ、フリーナのそれを絡め取られる。すり、と舌が擦り合わされるたび、とろけるような風味が口内に満たされていく。
「ふ、はぁ……
 ようやく唇が解放される。思わず零れた吐息からは、レインボーローズの香りがした。
……ほら、美味だろう?」
「な、な、な……っ」
 キスをしたことはある。深いやつだって経験済み。けれど、こんなにも甘ったるいのは初めてだ。
 全身の体温が急上昇して、頬どころか耳まで熱い。ぱくぱくと口を動かすも、吐き出したいのは悲鳴か文句か、フリーナ自身さえ分からない。
「それから、長く合間を開けてしまって申し訳なかった。あまり頻繁に会いたいと願望を口にすれば、君の迷惑になるのではないかと思っていたのだ」
「は、え……?」
 突然の謝罪にフリーナは面食らった。今、なんて?
「神の座を降りてからの君は、仕事に精を出し、友人にも恵まれているようだったから、そこに私が割り込めば、君の邪魔をしてしまうと思っていた。だがそれが、却って君を苦しませていたのだな」
 ヌヴィレットは身をかがめ、フリーナと視線を合わせて語る。
「チョコレートを食べた時、作り手である君の感情が伝わってきたのだ。作成時、君がどれだけ私のことを想ってくれていたのか。そして、会いたいと願ってくれていたのかを」
……っ!」
 ヌヴィレットは水から感情を読む。それは菓子に溶けた水分すらも例外ではないらしい。その権能を以て、ヌヴィレットはフリーナの感情を読み取ったのだ。
 フリーナ自身、今日彼に会うまで気付かず蓋をしていた、〝さみしい〟という感情を。
「これから一日に一度、君の想いを味わえるわけだな」
「ちょ、ちょっと、それ返して!」
 うっとりと微笑むヌヴィレットに危機感を感じて箱に奪還せんとするも、彼はひょい、と箱を上にかざして遠ざけてしまう。身長差を武器にされてしまっては勝ち目はない。
「ひ、卑怯だぞ……!」
「それを言うなら、一度渡したものを返せと言ってくる君は理不尽だ」
 懸命に背伸びをして手を伸ばすフリーナに、ヌヴィレットは平然と言い放つ。
「むしろ十個などでは足りない程だ。故にこのチョコレートが無くなる前に、今度は私から君に会いに行きたいと思う」
「え……
 それって、つまり。
「私も……君にもっと会いたいと思っていた」
 さっきヌヴィレットはこう言っていた。あまり頻繁に会いたいと願えば、フリーナの迷惑になると思っていたと。それはそのままフリーナが彼に対して思っていたことでもある。
 要するに、お互い変に気を使っていたのだ。
 そして同時に気づく。最初、ヌヴィレットの態度に無性に腹が立ったのは、彼が久しぶりの逢瀬にも関わらず、平然としているように見えたから。
 想いが等分でないと勝手に決めつけ、勝手に虚しくなっていたのだ。気付いてしまえば、あまりにしょうもない。
 そして互いに、あまりに言葉が足りなかった。
……これからはもっと、思ったことはちゃんと言葉にして伝えないといけないね」
「ああ、そのようだ」
 お互いに見つめ合い、自然と笑みが零れた。
 やはり恋とは、どうしようもなく人をダメにする。けれど同時に、ほんの少し絡まった糸が解けただけで、こんなにも満ち足りた気持ちにさせたりもする。とんでもない劇薬だ。
 用法・用量を守って、とはよく言ったものだと思う。適切な取り扱いは、これから探っていこう。まだまだこの関係は始まったばかりなのだから。
 何だか気恥ずかしいけれど、この際だ。思いきって、ぽすん、とヌヴィレットの懐に身を寄せる。男性としては細身な方だと思っていたけれど、その身体は存外に逞しく、びくともしない。
 ヌヴィレットは箱をテーブルに置き、フリーナの背中に優しく両手を回してくれた。
「この僕を一ヶ月も放置するなんて、とんだ重罪だぞ。次やったら酷いんだからな!」
「ふふ……それは恐ろしいな。心得ておこう」
 ぐりぐりと額を彼の胸板に押し付けながら文句を垂れる。対するヌヴィレットは楽しげに笑うだけ。
「あ、本気にしてないな? そんな態度なら、こっちにも考えがあるからな!」
「ほう?」
「今回の件だって、そう簡単には許してやらないぞ。ちゃんと誠意を見せたまえよ」
「誠意?」
「そう、誠意」
 フリーナはそっとヌヴィレットから一歩距離を取った。じっと彼を見上げれば、チョコレートみたいに甘い眼差しと視線が絡む。
 とくとくと高鳴る鼓動はもう誤魔化しようがない。頬の熱さだって、きっと一目瞭然なのだろう。
 けれども下手に想いを押し殺そうとしても、煮詰めた形で歪に噴出するだけだ。それで拗れてしまうくらいなら、吐き出してしまった方がずっといい。
 だからフリーナは意を決して口を開いた。
……もう一度、チョコの味を教えてほしい。さっきのだけじゃ、よく分からなかったから」
 ヌヴィレットは一瞬虚をつかれたような顔をしたが、すぐさま得心がいったように微笑んで、フリーナの望みを叶えてくれた。
 それは今まで食べたどんなスイーツよりも、濃厚で甘美な味がした。