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南篠
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夜を紡ぎ直して
/ ほしとともにおちる
/ ティアラとクレドさん
少女が廊下で倒れていた。
それは、少なくとも基地の職員にとっては通俗的な意味を持たない表現である。
少女とは即ち戦闘機の核であり、ゆえに、人に寄せるような心配などは到底無用のものだったためだ。ただ機器が床に散らばっているようなもの。故障に怯えることはあれど、無事を案じるような人は、数少ない人情派の指導官くらいなものだ。
温度のない壁や床は少女の身体を冷やすには十分だった。
月の裏にも夜はある。基地がいくら二十四時間体制であっても、指標としての目覚めの朝は存在し、そうして眠りの夜が来る。夜間はエネルギーを無駄にしないためにも灯りは最小限だ。廊下は薄暗く、人気もない。
多くの軍靴が踏みしめたであろう床に頬をあて、少女はぼうっと、反対側の壁を見つめている。
淡い緑色の瞳は何を映すわけではない。ただ、瞼を開いて、生理的反応によって瞬きをして、それだけだった。
「
…………
ティアラ?」
青年の声が聞こえる。
少女の無意識はその言葉を単なる音と認識し、あえて反応することはなかった。
次いで、足音。
駆け寄ってくる音は直接床に耳を寄せている少女の鼓膜を否応なく刺激したが、やはりそれも、ただの音でしかなかった。
青年が傍にしゃがみ込み、それから少女に腕を伸ばす。僅かに躊躇われたその指先はしかし、すぐに迷いなく少女の上体を抱え起こした。過酷な生活の割には艷やかな金糸がさらりと落ちる。
青年の手袋越しの体温を、少女のそれまで冷たかった服越しの皮膚は、鈍くも受け止めつつあった。
知っている、と思った。
今まさしく視界に映っているこの青年を、少女は知っていた。だが、青年の視界に映っているものが何なのか、「知っている」のは誰なのか、それがうまく繋がらない。ただ、知っているのだという事実だけが、未だ虚ろな瞳の奥で鼓動していた。
青年は少女を見下ろし、外傷のないことを確かめた。それから、原因は恐らく十中八九エーテルの影響によるものだろうと判断を下した。こと戦闘機に限れば、その判断は概ね間違いない。それだけエーテルという神秘は多岐に渡る不具合を機械に与え、そして人にも不調を与えるものだ。
青い瞳は心配そうに細められて少女を見ていたが、何を思ったのだろう、不意に柔らかな色を浮かべた。
「ティアラ、少し待っててね」
言うが早いか、青年は少女の反応を待たずに少女を壁に寄りかからせるように座らせた。少女はぼんやりとされるがままになり、ゆっくりと冷たい壁に体重を預ける。
冷たい、と皮膚が知覚したのは一瞬だけだった。
すぐに青年が自らのコートを少女にかけてやったからだ。まだ人の温もりの残るコート。座り込んだままの少女は、立ち上がろうとする青年を視線で追った。
彼は、ティアラと少女を呼んだ。
――
それがわたしの名前、らしい。
ティアラは先ほどよりも短かな間隔で瞬きをしながら、廊下をぱたぱたと走っていく青年の背を、ぼうっと見届けていた。
数分後。少女にとっては数秒後でも一時間後でもある時間。青年は簡素なマグカップ二つを手にして戻ってきた。そうして、離れた間もずっと同じように座り込んでいたらしい少女の隣に腰を落ち着ける。
「今日はここにいよっか。大丈夫、ここってあんまり人も通らないし」
「
…………
うん。そうする」
するりと喉から返答が出て、ティアラにはそれが何より意外だった。まるで他人の声のようで、他人の思考のようだ。誰が思考していて、誰が声帯を持っていて、誰がこのコートの温度を感じていて、誰が隣の青年を知っているのか
――
少女には、それがわからない。
差し出されたマグカップを機械的に受け取る。中には白い液体がなみなみ注がれ、微かに湯気が立っていた。「眠れない夜にはホットミルクなんだってさ。紅茶はカフェインが入ってるから、また今度な」と声がして、そういうものか、と自然に納得する。
紅茶。そうか。一緒に、紅茶を飲んだことがある気がした。この青年と、誰が?
……
答えは見つからなさそうだったので、無視してホットミルクをひとくち飲んだ。
そこから伝わる穏やかなあたたかさは、隣の青年の髪に少し似ている気がした。だから安心するのか。それとも。どうなのだろう。いいか。
青年がぽつりぽつりと話を始める。少女はそれを聞いている自分というものがいまいちわからないままであったが、青年の話は、聞いていたいと思った。
他愛のない会話だった。時折、少女も応えるように口を開くと、青年はいつもゆっくりと相槌を打ってくれる。優しく続きを促すような仕草に、少女は無意識に言葉を探していく。
…………
。
クレドだ、と思った。
どれくらい会話を交わした頃だっただろう。少女の中に、不意に彼の名前が蘇った。一度その響きを思い出してからは早い。これまで共にテーブルを囲んだ記憶も、共に戦った記憶も、連鎖するかのように脳裏に浮かんでくる。ああ、そうだ。彼は、こんなふうに、優しく寄り添ってくれるひとだった。
変わらず、優しく少女を見つめるブルーの瞳を、少女は見つめ返した。淡いグリーンの瞳は先ほどよりも幾分か焦点が合っている。
「クレド、」
名を呼ぶと、青年
――
クレドは「うん」と穏やかに返した。多くはない言葉は、それでもじゅうぶんに肯定として働いた。ここにいること、それをひとつずつ認めるような、絡まってしまった糸を少しずつ解きほぐすような、優しい承認。
私はここにいる。
ぼんやりとしていた意識に、ゆるやかに輪郭が描かれていき、それはひとりの少女を形作った。
「
……
ありがとう、クレド。少し
……
疲れていたみたいだ」
やけに視界が不確かだと思えば、どうやら瞼が重たくなっているらしかった。眠気に抗いきれずに緩慢に瞬きをする。
「このまま眠っても大丈夫だよ」
「うん
……
そうさせてもらおうかな」
マグカップを握ったまま視線を落としていれば、そっとクレドの手が伸びてきた。ティアラの手に重なるようにその指先が触れる。その温度を感じれば、ほどけるように、ティアラの手からは力が抜けていった。動かしてみる。人差し指が震えるように動く。ごく当たり前のコントロールを、ようやく取り戻す。
クレドはティアラの代わりにマグカップを床に置いた。まだ半分以上残ったままのホットミルクからは、もう湯気はのぼっていない。ミルク(ミルクが何からできているのかティアラは知らない)も、基地ではそれなりに貴重品だ。勿体のないことをした、と、ティアラは思ったが、言葉にはしなかった。できなかった、の方が近い。
意識が微睡んでいる。一度眠気を自覚してしまっては、それに逆らうことはひどく難しく、そして億劫だった。
「今日だけは、見逃してやってほしい
……
私がこんなところで眠ることも、クレド、君の時間を奪ってしまうことも
……
」
そっと体重を預けても、指導官の身体はひとつも揺らがずに受け止めてくれた。気にしないで、と頭上から降りた声色はやはり優しく、それがティアラの人としての心をすこし温めた。
「いいよ。
……
できることがこれなら、いつでも、いくらでも。傍で君を見逃すよ」
ふたたび、戦闘機として戦場に帰れるように。
ティアラは瞼の裏に星空を眺めながら、伝わってくるあたたかさに身を任せ、そっと眠りについた。つい先ほどまで戦場にいたとは思えない、穏やかな眠りだった。
―――
お借りした方
クレド・ペンバリーさん(@blueloop_ さん)
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