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篠
2026-02-26 20:09:31
2202文字
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OXT
お疲れの黒様が猫吸いしたり拒否られたりする話
思えば朝から好ましくない予兆はあった。
黒鋼は眠りに際してほとんど夢を見ない、もしくはその内容を覚えていない。だが今日に限ってはぼんやりと記憶が残っていた。
それがこちらに一切視線を寄越さない、黒い眼帯に覆われた魔術師の横顔というお世辞にも愉快とは言い難い一場面だったのだから、起き上がった黒鋼の眉間に皺が寄るのもある意味当然のことだろう。
なかなか顔を出さない黒鋼を案じてか、一人と一匹が揃って寝室にやってきた。言うまでもなくその顔に憂いは見当たらない。遅れて顔を出した魔術師も同様だ。何にも隠されていない蒼い双眸が、若干の戸惑いと共にこちらへ向けられている。
体調について尋ねてくる彼らに問題ないと返し、黒鋼は寝室を後にした。ファイの作った朝食を食べ、普段と変わらぬ支度を終え、仮の住まいを出る。人の分の食事を奪った白まんじゅうには、もちろんきちんと灸を据えておいた。
甚だ遺憾だが、旅に必要な金を稼ぐため労働することにもすっかり慣れてしまった。戦闘が起こりようもない平和な土地の場合、黒鋼が選ぶのは大抵力仕事と呼ばれる部類である。己にとっては大した負荷でもなく、期間の限られた滞在でも短期の仕事が見つかりやすく、おまけに実入りもいい。他に同じ業務を担う人間が居ようとその場限りの付き合いがほとんどで、下手な詮索をされないのも良かった。
この国での仕事も今までと大した変わりはない。いつも通り淡々と作業をこなし、何事もなく終わるはずだった。
急遽欠員が出たからといって、依頼された場所が製菓工場でさえなければ。
詳細は語るまい。モコナやファイが居たらさぞ喜んだことだろう。だが黒鋼にとっては地獄に等しい場所だった。
説明されずともわかる菓子の甘い香りが、その場一帯を支配している。眉間にしわを寄せ黒鋼はただ黙々と荷を移した。周囲の人間が遠巻きに見ていた気もするが、この状況に比べれば些末な問題である。
時折車両に積み込むため外に出ることもあったものの、かえってそのたびに新鮮な空気を吸う方が辛かった。嗅覚が少し回復しようと、どうせ戻るのはあの空間である。
主に精神的な疲労を感じつつ、黒鋼は帰路についた。全身から甘ったるい匂いがする。一刻も早く風呂に入りたい。それだけを考えて足早に進んだ。もう少し工場での拘束時間が長かったら、帰宅の手段を選ばなかったかもしれない。人目を気にせず屋根から屋根へと飛び移りたい気持ちを抑え、ただ足を動かす。
予定より労働自体は短く、また報酬も上乗せされるという。とはいえこの疲労感に見合ったものとはとても思えなかった。
なんとか仮住まいまで辿りつき、そのまま風呂場へ向かう。廊下を歩いている最中、奥から驚いた顔の魔術師が出てきた。
「えっ黒ぽん? 随分早く
……
、というか本当にどうしたの? すっごく甘い香りがする」
顰め面の原因である異変にも早々に気づいたらしい。ファイが思わずといった様子で足を止め、こちらを凝視する。黒鋼は何も考えずファイに近づき、伸びた金髪を纏める紐を引き抜き、間を置かず身を屈め首元へ鼻を埋めた。
そのまま何度か呼吸をする。同じ住まいで同じように暮らしているにもかかわらず、どこか草花に似た瑞々しい香りをさせているのが不思議だった。まぁ深く考えても仕方がない。こいつはそういう生き物なのだろう。
ある程度心身を回復させてから姿勢を戻す。大人しく立ち止まっているファイの手に抜き取った髪紐を握らせ、踵を返した。
「事情は後で説明する。仕事は終わってる。俺は先に風呂に入る」
「あ、うん
……
」
不幸中の幸いと言うべきか、この国の湯浴みの習慣は自身が馴染んだものに近い。今もまとわりつく苦痛の元凶から逃れるため、黒鋼は乱暴に服を脱ぎ去った。
「おい」
子どもたちは既に寝室に戻り、目の前に酒肴と酒が広げられている。普段通りの晩酌の光景だ。ただ一人、様子のおかしい魔術師を除いては。
呼びかけへの返事はない。無言で晩酌の準備を終え、先に座っていた黒鋼の背後へ腰を下ろしたファイは、まるで背もたれのように遠慮なくこちらに体重を掛け続けている。
「何してんだ」
「黒様に吸われたから吸い返してる」
黒鋼はため息をこらえつつ、首を伸ばして後ろを振り返った。髪紐を金糸に編み込んだ見慣れない髪型の後頭部が見える。背中に頬を押しつけている姿は、吸っているという本人の主張より寄りかかっているという表現の方が正しいだろう。
顔に似合わず強情な性格だ。こうなるとなかなか動かないのは今までの経験から予想できた。ただ顔が見えないのは、今朝の件もあってどうにも据わりが悪い。
「
……
せめて前に来い」
「黒様に吸われるからやだ」
「
…………
」
取り付く島もないとはっきりわかる声色である。この問答自体が不満だったのか、余計にぐりぐりと体重が掛けられた。重さは微々たるものだが、頬と同じように押し付けられる細身の肩先が若干痛い。
今日は最後まで上手くいかない日らしい。すっかり臍を曲げてしまった魔術師を支えながら、仕方なく黒鋼はぬるくなった酒を呑み干した。
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OXT:オキシトシン(Oxytocin)
主に触れ合いや心地よい行動によって分泌される幸福感をもたらす神経伝達物質
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