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饂飩粉
2026-02-26 14:37:27
4015文字
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どうか微笑みを
映画『クライム101』のデーヴィス(演クリス・ヘムズワース)の夢小説です。
本編のネタバレがあるので鑑賞後推奨です。
「彼が通っていたバー」にいる「自称彼の飲み友達」が夢主です。「」で括ったものは劇中に一切登場しません。
彼の名はマイク。名前を聞いたら、そう名乗った。
行きつけのバーでたまに見かけると、決まって同じ席に座っている。カウンター席の一番壁際。
前に冗談のつもりで「もしかしてこの席が空いてなかったら引き返してるのか?」と聞いたら真顔で「そうだ」と返ってきて、ほどよく酒が回ってた俺は腹が捩れるほど笑った。
マイクは多くを語らない。
仕事はわからないが、金には困ってなさそうだった。パーカーのポケットからくしゃくしゃになった100ドル札の束が出てきた時は思わず「グランマの瓶詰め貯金から持ってきたのかい?」と言ったが、マイクは「瓶に入れる前からこうなんだ」と返してきた。その時も結構酒が回ってたから、堅物そうに見えて面白いやつだなと肩を組んだ気がする。
女っ気はない。男っ気も、それ以外の気も、とにかくプライベートでパートナーがいるって雰囲気じゃなかった。そんなやつはこんな辺鄙なバーには来ない。ここは孤独を持て余した連中が相対的に安い酒の力を借りて、昨日も今日も明日のこともピンぼけさせる、夢のような場末のバーだから。
初めのうちは、マイクは誰とも話さなかった。何人かが興味本位で話しかけても「ああ」とか「うん」とか曖昧な返事しか寄越さないから、いつの間にか客はインテリアの一部みたいに扱い始めた。
どうして俺は、そんな奴に声をかけたんだっけか。
ある日、いつものようにマイクの隣で酒を飲んでいると、彼から人の名前と電話番号と思しき数字の羅列が書かれたメモを見せられた。
「なんだこりゃ
……
おいおいまさか」俺はすぐにピンときた。間違いなく連絡先だ。しかも手渡しで受け取ったものに違いない。マイクは口元だけで笑って頷いた。ビンゴ! マイクにもその季節がやってきた!
「で、もう連絡したのか?」
「いや、まだだ」
話を聞けば、ここに来る前に車に追突されたらしい。そのドライバーから渡されたものなんだとか。
「なあ、マイク。その子に惚れたんだろ?」
「いや、惚れたとかじゃない。こういうのを受け取った時、どうやって連絡するのがいいのか、わからないんだ」
「お前はよお、そんなの『やあ、君に追突された男だけど、今度食事でもどう?』でいいんだよ!」
これも冗談のつもりだった。なのにマイクは得心が行ったように何度も頷いていた。頼むからお相手の方が寛大な心をお持ちなことを願おう。その日は連絡先を書いて寄越したマヤという人物に乾杯した。
次にマイクに会った時、彼は随分と変わったように見えた。
マイクは、いつもと違う時間に来た。俺もたまたまその日は、いつもより酒が進んで夜が明けるまで店に居た。そう、夜明けに彼はやってきた。
しかも彼の服装は、ドレスコードを勘違いした田舎者みたいだった。シワ一つないシャツ、上下黒のスーツ、首元に隙間なく巻かれたネクタイ。あとは四角いサングラスでもかけていれば会員制のクラブやバーの前に立っているガードマンのような出立ち。そうでなきゃ、葬式の参列者だ。
「これから仕事なんだ」
俺が何かを言う前に、マイクはいつもの席に座ると口を開いた。思えば、彼から話しかけてきたのはこれが初めてだった。
「仕事ってお前さん
……
」
嫌な予感がした。少なくとも誰かの葬式に出るわけじゃなさそうだったし、まさか本当にガードマンやSPなはずがない。
それ以外でこんな黒ずくめの格好をするなんて
……
。
カラカラになった喉に唾を流し込んで、俺は意を決して聞くことにした。
「なあ、その仕事って、何するんだ?」
「運転だよ」
存外に、あっさりと返事が返ってきた。
「運転
……
?」
「ああ」
マイクはそれ以上、何も語ろうとはしなかった。注文した炭酸水を、喉を鳴らして飲み始める。
俺はその様子を、黙って見ることしかできなかった。彼の着ているスーツの内側は不自然に膨らんでいる。普段着ているパーカーのようにくしゃくしゃになった100ドル札が束になって入っているなんてことはないだろう。本当に要人警護みたいな仕事をしている可能性もある。時折携帯電話の画面をチェックしているのは、時間を潰しているからだろうか。
それにしては、忙しない。ソワソワしている。以前警察のお世話になる前の俺も、こんな風に見えていたのかもしれない。銃を突き付けて金を脅し取るためには、およそ初対面の相手に銃を突きつける覚悟が必要だ。捕まるかもしれないなんて覚悟が最初からできてる人間なんていない。法や倫理で舗装された道から一歩踏み出す。本当にたったの一歩踏み外すだけで、過ちを犯すことができる。店に入って、他に客がいないことを確認して、レジにいる店員に銃を突き付ける。そしてバッグをカウンターに置いて、金を出せと叫ぶ。早くしろと銃口を近づける。用が済んだら素早くその場を離れる。簡単だ、簡単なことだと自分に言い聞かせる。でも実際は、簡単なんかじゃない。
「なあ、その仕事、今日はやめといた方がいいんじゃないか?」
頭からはすっかり酒が抜けていた。
「
……
」
マイクは天井か壁かに視線を向けたまま、黙って炭酸水を飲んでいる。
「俺とここで安いビールで乾杯して、そのまま帰って家で二度寝するのもいいと思うぜ?」
マイクは俺を一瞥して、また目を逸らす。
「
……
今日じゃなかったら、そうしていたかも」
いつも通りの抑揚のなさで、マイクはぼやいた。
心ここに在らず、という例えがしっくり来る姿だった。体こそバーのカウンター席に座っているものの、既にマイクの心は"仕事"を始めている。あとは決められた手筈通りに体が動いて、追いついてくるのを待っている。
俺は黙って、マイクの横顔を見つめる。それ以外に、マイクを引き止められるかもしれない手札を持っていなかった。何か言え、時間を稼げ、引き止めろ、心はそう思っているのに、体がついてこない。俺の心と体もまた、遠く引き離されていた。
長いようで短いほんの数分が過ぎて、マイクが炭酸水を飲み終えた。そしてカウンターに紙幣を置いて立ち上がる。紙幣は、上等そうな財布から出てきた。
マイクがバーの出入口に向かっていく様子を、目で追っていると、ふと彼が俺に振り返った。
「ありがとう。さようなら」
そしてまた踵を返して、外に行ってしまった。俺は何か返事をしようとして、舌がうまく回らなかった。
代わりに、体が動いた。慌ててマイクの後を追って店の外に出る。かっと朝の日差しが薄暗い店内に慣れた眼球を突き刺す。思わず目を瞑る。その間に、右から左へ、車のエンジン音が通過していった。
「あっ
……
マイク!」
目が開けられるようになった頃には、車も、マイクの姿も見当たらなかった。
ようやく体が心に追いついてきた。何かないか、何か。
僅かな望みにかけてコートやズボンのポケットをまさぐると、一枚の折れ曲がった紙切れが見つかった。それは名刺だった。誰の名刺だったか名前を確認した瞬間、俺は自分の携帯から名刺の連絡先に電話をかけていた。
何度かコールが鳴った後、誰かが電話に出た。
「ああ良かった、繋がった! 刑事さん話を聞いてくれ。俺だよ前に一度世話になって、そん時に名刺もらったんだ。いやそんなことはどうでもいい。俺のダチ
——
ああクソ今となっちゃダチだったのかどうかもわかんねえけど、とにかくマイクって、そう名乗った男を助けてやってくれ。普段パーカーで店に来るのに、今日だけは卸したてみたいな黒いスーツでやってきて、これから仕事なんだとだけ言って行っちまいやがった。ドライバーみたいな仕事だと自分では言ってたが、そういう風には見えなかった。バカやってあんたのお世話になった日の俺に似てたんだ。頭の中では絶対にバレない、上手くいくと思いこんでそれ以外の可能性に目を瞑っちまってた時の俺に。なあ刑事さん頼むよ、アイツを、マイクのことを止めてくれ。できるかわかんねえけど、マイクが何かをやらかす前に止めてくれ。マイクは俺みたいに落ちぶれちゃいけねえ。マヤって名前のパートナーだっているんだ。それにマイクはいい奴なんだ。正直なところ、俺は店で煙たがられてる。安い酒をちびちび飲むだけのお喋り野郎だから。でもマイクは、俺の話し相手になってくれたんだ。もしかしたらウザがってたのかもしれねえけど、表情には出さなかった。誰に対しても同じポーカーフェイスなんだよ。俺はあいつの、そんな態度に救われてたんだ。だから刑事さん、無理を承知でお願いしてるのはわかってる。マイクを止めて
——
助けてやってくれ。多分空港だ。マイクは携帯電話で飛行機の到着時間を確認してた。どこの空港かまではわからないけど、そう遠くないはずだ。これだけじゃ何もわからねえって気持ちはわかる。でも、俺も、これ以上あいつの、マイクのことを知らないんだ。知らないけど、なんとかしてやりてえと思ってる。でも俺にはできなかった。マイクを止められなかった。だから無理を承知であんたに頼んでるんだ。頼む、頼むから、ノーとは言わないでくれ、お願いだ、刑事さん、お願いだから
……
」
そこから先はもう言葉にならなかった。俺の足は砂の城のように崩れ落ちてその場にへたり込んだ。それでも通話中の携帯電話だけは耳元から離さなかった。
電話の先から、大きく息を吐く音が聞こえた。
「
……
やれるだけのことは、やってみる」
刑事さんは、それだけ言って通話を切った。
携帯電話を耳元に繋ぎ止めていた腕の力が抜ける。見上げると、空はすっかり明るくなっていた。
ああ、神様。本当に神様がいるなら俺に対して残酷すぎるとは思うが、それでも本当にいるのだとしたら、俺に微笑まなかった分だけ、あいつに
——
マイクと名乗ったあの男に、微笑んでくれ。
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