予感、その波濤

【徳種】CP未満*一軍帰還の夜、134号室にて、大曲さんと種ヶ島さん。

 ぺたぺたと、扉の向こうからかすかな足音が聞こえる。
 知った歩幅のそれに文庫本のページを捲る手を止め、ベッドに腰掛けたまま入口の方向へと緩く目を遣る。十数秒後、ノヴの鳴る軽快な音とともに大曲の予想通りの男がひょいと顔を覗かせた。

「ただいまやで~竜次☆」
「お前が言うのかよ」
「俺やってこの部屋一ヶ月ぶりやし」

 見慣れたラケットバッグとスポーツバッグを部屋の隅に下ろしながら、種ヶ島はそう言ってからりと笑う。
 自身を含めた一軍メンバーが一ヶ月の海外遠征に出ているあいだ、合宿所への残留を選んだこの男は暫定的に二軍寮の一室で生活していた。今日、遠征組が帰国したタイミングに合わせて、種ヶ島も元いた居室――一軍寮・134号室へと戻ってきたところだった。
「どうだったよ、久しぶりの二軍寮は」
「んー?」
 充電器や着替えといった日用品類を早々に鞄から取り出し、慣れた様子で所定の位置に戻していく相棒の背に、軽く問いを投げてやる。作業を進める手は淀みないまま、思案を巡らせた男が言う。「せやなぁ」

「部屋は一人やったけど奏多たちもおったし、中学生らも来るわでオモロかったで。全然退屈せえへんかったわ」
「そりゃよかったな」
「竜次こそ遠征どないやってん」
「まあ、色々刺激にはなったけどよ。……正直あとは実際見てみねぇとわかんねーだろ」

 空路で世界各地を巡り、気忙しくも充実した一ヶ月間だったことは確かだが、今や日本代表ナンバー2のバッジを手にしているこの男の目にその成果がどう映るかは実戦の中でしか分かるまい。
 自身のいらえを聞いた種ヶ島はいたく楽しげに口元を緩めてみせたあと、軽く肩を竦めて声を接ぐ。

「いうて明日の試合、俺らは六割までなんやろ? どないしよな~」
……まーたロクでもねぇこと考えてる顔だし……
「ちゃい☆」

 中学生の起こした番狂わせにより仕切り直しとなった一軍対二軍選抜戦は、明日行われる。
 こちらのオーダーに変更はないものの、二軍選抜に関しては事前に発表されていた顔ぶれとはほとんど別物の構成になっているはずだ。先程の一軍ミーティングでコーチから言い渡された「六割のパフォーマンスまで」の通達の意味を考えれば、オーダーの大まかな傾向そのものは自ずと見えてくるけれども、果たしてどこまで勝負になるか。(愛用の二つのラケットのうち一つをベンチに留守番させておけば、ハンデのノルマはクリア扱いになるだろう。)
 本音をいえば余興じみた試合より、遠征先から持ち帰った成果の落とし込みに注力したいところだが、文句を言えど詮無い話であることもむろん理解している。
 溜息をひとつ吐き、大曲はのそりと相棒に向き直る。

「で、お前の見立ては」
「おん?」
「どのくらい中学生ガキ共が食い込んできそうかって話だし」
「んー……。今日の感じ見たら、ほっとんど枠食われるんとちゃう」
…………マジかよ」
「全然ありえると思うで。いやー、ホンマに豊作やんなぁ、今年の全中。羨ましいわ~」

 種ヶ島の、力量を推し量る目は確かなものだ。この男がここまで明言するのだから、おそらく当てが大きく外れることはない。

「ほぼ即戦力レベルの奴もチラホラおるし、コーチが中学生らで試したいことやってくるとして――まあ、それでもさすがにシングルス1だけは高校生やろうけど」
…………徳川か」

 室内の状態復帰を手早く済ませ、くるりと踵を返した種ヶ島がベッドに胡座をかいて座り込む。膝に頬杖をつき、上機嫌に目を細めてみせた。

「この一ヶ月でだいぶオモロなっとんで、アイツ」
「お前も一緒になって育ててんじゃねーか……
「しゃあないやん、鬼も奏多も一番コートにおらんのやから」

 ちゅうても平等院との試合のシミュレーションには全然ならんかったやろうけどな。
 飄々と続いた言葉には、それはそうだろう、と首肯を返す。
 この男のプレイスタイルは、トップの平等院とはほとんど対極の位置にある。
 平等院の圧倒的な剛に対して、すべてを無に帰す柔のテニス。自身のスタイルを貫き続け、遂にナンバー2を掴み取った相棒であり好敵手の男の背を、大曲は頼もしくも眩しくも思う。
 コートでの記憶を思い返しているのか、猫科の獣のように目を眇めたまま、種ヶ島はぽつりと呟く。

「それに、俺相手にしてもまだなんか隠しとるわ」
……………………、」
「ガチで勝つ気なんやろ、平等院に」

 なるほど、いやに機嫌がいいのはそのせいか。
 新しい世代の台頭を――否、さらに近く肉薄しようとする才能の気配を、種ヶ島修二は知っている。それが一体現状いかほどのものかは自身にはまだわからないが、少なくともこの男の眼鏡にかなう程度には、その決意が実体を得つつあるということだ。

「去年の二の舞にならねぇといいけどな」
「せやなぁ。まだ危なっかしいのは確かやし」
……へえ」
「平等院にまっすぐ突っ込んでくだけじゃ、アイツも無事じゃすまんやろ」

 淡々と事実を述べる応えに頷きながら、気取られぬよう何くれとなく目をやる。
 種ヶ島というのは日頃から周囲をよくよく見ている男だけれども、この男が徳川カズヤへ向けるこれはおそらく――普段の軽い調子に覆われているものの、期待に近いなにかだろう。
 かつての頂点、そして理解者に導かれ、U-17W杯を目の前にした今ここに風穴を開けようとする未知の可能性を、ナンバー2の場所から静かに見出している。

「もちろんトーゼン俺らもおるしな☆」
…………それが言いたかったんじゃねーか」
「いやいや、事実やろ」

 訂正。見出している、というよりは、待ち受けている――のほうが正しいのかもしれない。
 ほんの少し目を離せば、コートでは思いがけない進化や化学変化が起こる。明日の試合への楽しみが少し増したのは確かだが、別の場所にいたという条件は互いに同じだ。
 柄にもなくざわりとさわぐ内心を宥めるように、そっと息をひとつ吐いて立ち上がる。
「ちっと図書室行ってくるわ」
「んー? おう」
 種ヶ島相手以外であればいささか突飛な行動と取られても致し方ないけれども、何食わぬ顔で送り出されることが心地良い。

「なあ竜次」
「おう」
「明日からまたよろしゅう頼むな」
……あいよ」

 気心の知れた相棒にひらりと手を振って、大曲はひと月ぶりに元通りを取り返した134号室を後にする。