前宮と櫻井さん

曖昧な関係。

 ベッドのなかでの言葉は本気にしてはいけない。
 それくらいのことは前宮も知っているけれど、櫻井から強く肌を噛まれながら言われる言葉の数々は信じたいと思っている。

……あさ」
 顔にあたる光に目を覚まし、前宮は軽く身動ぎをする。動き難いな、と思えば体には櫻井の腕が回っていて、ぎゅう、と後ろから前宮を抱き締めてくれていた。
 櫻井の腕は警察官らしく鍛えられていて、前宮ともまた違う実用的な筋肉がついている。この腕に昨日は押さえつけられるようにしながら抱かれたのだと思うと、前宮の顔はじんわりと血色を帯びた。
 もぞもぞと慎重に、櫻井を起こさないように腕のなかで体の向きを変える。正面から見た櫻井の顔立ちは精悍だ。眠っているから少しあどけないけれど、起きているときの彼はどこか狼のような迫力があるのを思い出す。
(格好いいなあ)
 改めて惚れ惚れとしてしまう。
 惹かれてそうっとなぞった輪郭。がっしりとした首筋には鎖の感触。三枚のドッグタグを見て前宮は口元をにへ、と緩める。櫻井が身につけるドッグタグのうちの一枚には前宮の名前が刻印されている。前宮が大切に身につけているドッグタグのうちの一枚にも櫻井の名前が刻印されており、これらは彼とのお揃いなのだ。
(哲彦くんとのお揃い……
 大好きなひととのお揃い。
 どうして嬉しくならずにいられるだろう。
 前宮はこのドッグタグを握りしめると、いつも櫻井が傍にいてくれるように感じて安心するのだ。
 前宮は昔から自分に自信がなくて、前に出ることが苦手だった。それでも、沢山の人の前で堂々としているひとの姿には憧れがあって、自分もそうなりたいと思っていまの職に就いたのだ。だが、先輩方からは輝きが足りない、自信が見えないとお叱りを頂くことも多く、上手くいかない日々に落ち込みもしていた。
 それがいまはどうだろう。先輩方からは随分と成長したと言われ、なんとショーのセンターを飾ることもできるようになった。
 これは櫻井が世辞の見えない笑顔で「めっちゃ輝いてる」「今日もいい感じじゃん」と間近で言葉をかけてくれて、前宮の背中を押してくれたことが大きい。いつも靴先を見つめていた人間にとって、肯定とは顎を上げて前を見つめさせる灯火だ。
 櫻井は太陽のように笑う。尖った犬歯を覗かせながら大きく浮かべられた笑みを見るのが前宮は大好きだ。
 でも、そうやって元気いっぱいに笑う櫻井の歩んできた道に翳りがなかったわけではない。父親のこと。職場での心ない扱い。初めて聞いたとき、前宮は感情がぐちゃりと潰れたように憤った。どうして、なんで、と癇癪すら起こしてしまいたくなった。
 誰かの大切なひとの死をどうして笑えるの。それへの憤りにどうして暴力で返せるの。なんでそれをしたのが櫻井の憧れた警察なのか。
 櫻井に降りかかる理不尽と不条理が、前宮にはどうしても許せなかったのだ。
 だからといって前宮にできることはない。櫻井は「いまは優しいひとたちに囲まれているから」と穏やかに言うのだ。前宮はただ、櫻井の背中に蝉のように張り付いて、不思議そうにした櫻井から膝へ抱き上げられて真正面からまたぎゅうっと抱きつく以外に気持ちの持っていきようはなかった。
 むむ、と難しくなってしまいそうな顔をひと呼吸で落ち着けて、前宮はまた身動ぎをする。そろそろ起きて朝食の支度をしなければ、と櫻井の腕から抜け出そうとするのだが、彼を起こさないようにと思うとなかなかに難しい。体に回った腕は寝ているのにしっかりと力強い。困ったことだ。困っているのに、前宮は嬉しくなってしまう。
……ちょっとだけ)
 櫻井の腕のなかから出る前に少しだけ。前宮は静かな寝息を零す櫻井の唇にそっと触れる。自身の唇で。じんわりと温かな感触がはっきりと伝わる前に離して、前宮は櫻井の目にかかる前髪を優しく横へ避ける。それから櫻井の腕を慎重に持ち上げた前宮は名残惜しくも彼の眠るベッドから出て、顔を洗いに向かおうと立ち上がる。
「行っちゃうの?」
 背後からの声。朝だからか掠れて低い音。
 ふわ、と出かかった欠伸が喉の奥でぎゅ、とつっかえる。
「哲彦くん……おはよう」
 振り返り、櫻井がベッドでだらりと寝そべりながらこちらを見ているのに目を細め、前宮はまたベッドの傍へ向かって床にぺたりと座り込む。
「おはよ。ねえ、なんで俺が起きる前に行っちゃうの」
 むすっとした顔はこどもっぽくて、前宮は彼が年上だという事実がおかしくなってしまいくすくすと笑い声を漏らす。そのことも面白くなかったのか、櫻井の手が前宮の頬をむにっと柔く引っ張って、すぐに離される。赤くもなっていないだろうが、労るように撫でる手は優しい。
「ごめんねえ。疲れてると思ったから」
「お巡りさんは体力勝負だから大丈夫」
 緩慢な動作で起き上がった櫻井が、ベッドの上で胡座を掻いてくわりと大きな欠伸をした。覗いた犬歯に前宮はつい首筋をなぞり、凸凹とした歯形に触れた。少し痛いのは血が出るほど噛まれた部分だからだ。ベッドで凶暴性を見せることのある櫻井は前宮の仕草を見て、満足そうな顔をしている。
「マーキング成功!」
「ふふ、うん。俺は哲彦くんのものだよ」
 言ってから、しまったと思う。
 好き、という言葉はベッドのなかでしか交わしたことがない。
 互いに好意があるのは分かっているけれど、だから関係をどうしようという話をしたことはない。いまの自分たちの関係は、外国で云うところのデーティング期間とでもいうのだろうか。
 関係がはっきりと明確なものになっていると確信するには自信が少し足りない前宮には、自分の言葉が重いと思われたのではないかと臆病が顔を出すのだ。
「俺のものなら勝手に置いていかないで」
 脇の下を持たれてずるりと引き起こされると、前宮の体は胡座を掻く櫻井の膝の上にいた。
……ご飯作ろうとしたの」
「それはめちゃくちゃ食いたい」
 頷くくせに、櫻井は前宮をぎゅむっと抱き締めたまま動かない。
「お腹空かない?」
「めっちゃ空いてる」
「離してくれないと作れないけど……
「なんで離れたがんの?」
……離れたくないよ」
 ずっとこうしていたい。こうしていてほしい。
 前宮は櫻井の肩口に頬を押し付けて、広い背中に腕を回す。
(だいすき)
 声にはしなかったけれど、口はその言葉の形に動いた。
 見えなかっただろうに櫻井が前宮の肩に唇を寄せる。まるで応えてくれるかのように食い込んだ歯が幸せで、前宮はぎゅっと目を瞑る。
 はっきりと言葉にされない関係。それは少し切なくて、でも夢のように心地良い。
 離れた櫻井の唇。じんじんとした痛みに突き動かされるように、前宮もまた彼の肩を噛んだ。
 柔く喰んだ噛み跡を、櫻井はいつまで残してくれるだろうか。
 少しでも長いといい。
 願う前宮はいつか真っ赤な顔の櫻井から聞くことになる。
「愛してるからだから。ちゃんと」
 そのときまではまだ、微睡むような日々を送るのであった。