いを
2026-02-24 18:24:52
1708文字
Public くらくら
 

はた目の怪物


60BPM

 メトロノームの音がうっすらと白い部屋に響く。一定の間隔で一定のリズムで一定の音を耳に届けるメトロノームは、時間経過さえ曖昧にした。
 白楽天はグレーの椅子に座って、こめかみに指先をあてる。目を閉じメトロノームの音に全神経を集中させた。コチ、コチ、コチ、という規則正しい音を聴いていると意識せずとも無駄な思考が削げ、落ち着いていく。誰もいない部屋でこうすることが白楽天にとっての、ある意味でのライナスの毛布だった。
 音に集中する。速度は60BPM。このテンポは1/f0の白色雑音ホワイトノイズになるが、その速度を手のひらで叩くと1/fゆらぎになるという。そう、一般的にひとが無意識に心地がいいと思えるテンポに。けれども白楽天は手を打たない。ただ、1/f0の白色雑音を聴いている。

「粒子がたくさん集まると、物質が誕生します。人間もその一部です。水素、炭素、窒素、酸素……そういったものです。そのなかに、1/fゆらぎが生まれる。誰しも生まれながらに持ち合わせている振動数です」
 あらゆるものはゆらぎでできているという。すべてを一定に保とうとすると莫大なエネルギーが必要になるからだ。白楽天にそれを教えたのは、とある古い教会の牧師だった。
「牧師さんが、そんな量子力学者みたいなこと言ってもいいんですか?」
「不確定性原理はひととおり学びました」
 古びたオルガンのドの音を押しても、もうドは出ない。空気がすうっと漏れ出たような音は聞こえたけれど。
「やはり人間は想像力がなければ。神学も量子力学も学べば視野がとても広がります」
「それはそうでしょうけど」
「わたしの知り合いに作家さんがいます。たまにいらっしゃいますよ。そのひともとても視野が広いんです」
「へえ」
 軋む木の椅子はあちこち塗装が剥げて木目が剥き出しになっている。もっときれいだったら、彫刻も見事だっただろう。
――俺、家族のことは分かりません。家族ってなんなのでしょうね」
 立ち上がって、オルガンに寄りかかる。ギイと白楽天を非難するような音が聞こえたが無視をする。
「家族は血が繋がっていてもいなくても、あるべく場所に落ち着く、そんな関係なのかもしれませんね」
「どうとでも言えます」
「そうです。生物の本能が社会で生きていくために備えつけられた呪いのようなものです」
「呪い」
「おっと、この件はご内密に。怒られてしまいますからね」
 男のささくれだった枝のような指が、口もとにあたる。
「君にこのメトロノームを差し上げましょう。わたしにはもう必要のないものです」
 所在なさげに置かれたメトロノームを、彼は差し出した。そして白楽天はそれを受けとった。在りし日の通過儀礼イニシエーションのように。
 
 目を開き、古くなったメトロノームのかたわらに立ち、そっと止めた。
 止めたとしても心臓は止まらないし時間も止まらない。ただホワイトノイズが消え去っただけだ。
 部屋の真ん中に箱庭がある。箱庭療法で使われる大きな四角い箱だ。椅子から立ち上がりその箱を覗き込む。白い砂がぎっしりと詰められている。机のすみにはミニチュアの人間や動物、植物や建物が置かれていた。
 手のひらで砂をそっとすくい、また戻す。
 これを必要とする苦々犯罪者が、じきやってくる。
 犯罪者をカウンセリングすることを忌避しているひとがいることは知っている。だが彼らの心を知ることでいらぬ犯罪者を生み出す抑止になればいいと白楽天は考えているのだ。それさえも甘いと糾弾するひともきっといるだろう。仕方のないことだ。
 苦々犯罪者によってなにかを奪われていない人間だから、できることがある。
 少なからず、そう考えている。
 耳の奥に、止めたはずのホワイトノイズが鳴り響いている気がした。
 警鐘かもしれないし、祝福かもしれない。
 未来は分からない。こんな世界なら、なおさら。
 ――牧師がいったようにゆらぎでできているのなら、明日も明後日も訪れると信じながらも不確かである世界。それが今の東々なのだろう。

 ノックの音が聞こえる。
 白楽天は「どうぞ」と応える。