スローライトバード

マリがくるまでのホーム越しにカヲルくん見てる含みのある表情の中に幻覚を見続けている亡者の泣き言と思って欲しい……

五感のすべてが、新しく作り替えられた世界の匂いを嗅ぎ取っていた。
潮騒の代わりに響くのは、穏やかな風の音と、遠くで鳴る踏切の音。そして、僕の胸を打つ、規則正しい心臓の鼓動。

線路を挟んだ向かい側のホームに、見覚えのある鳩羽の髪が見えた。
彼は、向かいに立つ女性と何かを話し、穏やかに微笑んでいる。
かつて、僕を「幸せにする」と言って何度も運命を繰り返した人。
僕の絶望を肩代わりして、何度も目の前で消えていった人。

今の彼には、僕と過ごした地獄のような日々も、ピアノの連弾の震えも、月面で誓った言葉も、もう残っていないのかもしれない。僕を見ても「かつて友達だった少年」だと気づくことさえないだろう。

それでいい。それがいいんだ。

僕が彼に贈れる最後の、そして最大のプレゼントは、彼を「渚カヲル」という役割から解放することだった。誰かの救済のために存在するのではなく、ただ自分のために息をして、自分のために誰かと笑い、自分のために明日を待つ。そんな、当たり前の「生」を彼に生きてほしかった。

胸の奥が、少しだけツンと痛む。
でも、その痛みさえも、彼がこの世界に実在している証拠だと思えば愛おしい。

……元気でね、カヲルくん」

声には出さず、唇だけを動かす。
ベルが鳴り、僕たちの間を遮るように電車が滑り込んできた。
視界が遮られる。でも、もう不安はない。

もう、二度と会えなくても。
君の記憶から、僕が消えてしまっても。
君が今、この空の下で、誰かと一緒に笑っている。
その事実だけで、僕はこれからの人生を、胸を張って歩いていける。

だって僕は、君が思っている以上に。
──君のことを、愛しているから。

動き出した電車の窓に、僕は少しだけ大人になった自分の顔を見つけた。