Hnyanko
2026-02-24 12:47:26
6557文字
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体調不良🏹🧡

n番煎じだろうが、やっぱりなんぼあってもいいのかなと。
例のごとく素の文そのままなので、読みづらいかもです


 咳が、嫌な鳴り方をした。

 乾いた音じゃない。胸の奥を擦って、そこにあるはずの空気ごと削るみたいな、湿った重さ。悠真の背中が跳ねるたび、僕の喉まで締まっていく。――違う。締まっているのは喉じゃない。胸だ。心臓の周りが、きつく縫い上げられていくみたいに痛い。

「悠真」

 呼びかけた声が、途中で細くなって消える。
 言葉は、いつだって役に立つとは限らない。今の彼に届くのは言葉じゃなくて、酸素と、時間と、落とさないための支えだ。

 息を吸おうとして、ひゅ、と喉が鳴る。
 あの音を聞くたびに、世界が一段冷える。

 悠真はテーブルに手を伸ばした。薬の瓶、錠剤、コップ。
 いつもの手順。慣れた仕草。……そう見せているだけで、本当はいつだって慣れちゃいけないことなのに。

 指先が、震えた。

 大きな震えじゃない。誰に見られても「気のせい」で済ませられるくらいの微かな揺れ。だからこそ、僕には残酷だった。彼が「平気」を装える程度に、必死で隠している証拠みたいで。

 コップに触れた瞬間、ガラスが小さく鳴った。カチ、と一回。
 その音が、やけに澄んで聞こえた。まるで、落ちる未来を先取りした合図みたいに。

 落とすな。落とさせるな。
 焦らせるな。呼吸を乱させるな。

 僕は言葉を捨てて、身体を寄せた。
 コップを奪わない。彼の「自分でできる」を踏み潰さない。けれど、彼がひとりで崩れるのも見逃さない。

 悠真の手の上から、コップごと包むように掌を重ねる。

 触れた瞬間、分かってしまう。
 手の温度が低い。皮膚の下で震えが走ってる。骨が細く感じる――いや、そんなことを考える暇があるなら、僕はもっと早くここに居るべきだった。

 咳が重なる。ひゅ、ひゅ、と喉が鳴る。
 彼の呼吸が浅くなるたび、僕の思考は一点に収束していく。

 落ちないで。

 言わない。言えない。
「大丈夫?」なんて、今この場に必要のない言葉だ。必要なのは、“そうする”こと。落とさない角度、飲める距離、息を挟める間。僕の手がそれを知っている。

 僕はコップの位置を少しだけ上げ、彼の口元へ近づけた。
 彼が首を動かさなくていいところ。視線を上げなくていいところ。苦しさの中でも、いちばん楽に辿りつけるところ。

 悠真が短く息を吸う。ヒュ、と鳴る。
 それでも、その次の瞬間、唇が水を受け取る。

 良かった――と思うより先に、また咳が来る。
 僕は反射で彼の指を囲った。摘まませるんじゃない。落とさない枠を作る。指先の震えを責めない。力を奪わない。逃げ道を塞がない。
 ただ、揺れが揺れのまま終わるように、ここにいる。

 錠剤が、彼の口の中へ消える。
 喉が上下して、飲み込んだのが分かった。

 その瞬間だけ、胸の縫い目が少し緩む。
 僕は自分が息を止めていたことに気づいて、遅れて吸う。遅れて吐く。――ずるい。彼が苦しいとき、僕は呼吸ひとつで救われるのに。

 悠真が、視線だけで僕を見た。
 謝るみたいな目。誤魔化すみたいな目。平気だと言いたい目。

 僕は首を横に振った。ほんの少し。
 言わせないためじゃない。言葉にすると、彼はまた「大丈夫」を演じるから。演じてしまえば、次からもっと僕を遠ざけるから。

 僕の手は、コップから離れない。
 彼の手首からも離れない。

 ――離したら、彼はまたひとりで立とうとする。
 立てるふりをする。崩れるふりをしない。僕の前でだけは、いつも通りの顔を作ろうとする。

 そんなもの、許せない。
 僕は彼を守りたいんじゃない。たぶん、僕が怖いんだ。彼が落ちていくのを、見てしまうのが。

……いまは、いい」

 やっと出せた言葉は、それだけだった。
 大丈夫じゃないままで、ここにいていい。僕の手を借りたままで、いい。

 悠真の指が、僕の掌の中でほんの少しだけ力を抜く。
 その小さな「預ける」が、涙が出るほど重い。
 薬を飲み込んだあとも、すぐには静かにならない。

 咳はまだ胸の奥に居座って、忘れた頃に一度だけ強く跳ねる。ひゅ、と喉が鳴って、悠真の肩がびくりと揺れるたび、僕の手のひらも一緒に揺れた。僕はその震えの回数を数えてしまいそうになって、やめた。数えたところで、軽くなるわけじゃない。

 けれど、少しだけ変わる。
 薬が効きはじめるときの、あの微かな境目。

 吸う息が、ほんの少しだけ深くなる。
 咳の合間に、やっと「間」が生まれる。
 その間に、彼のまぶたが一度だけ重く落ちて、また上がる。

 ――良かった。
 そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。良かった、と思える自分がいることが、怖い。良かった、の裏側に「次もある」が貼りついているのを、僕は知っている。

 コップを置こうと手を動かしたときだった。

 悠真の指が、僕の手を掴んだ。

 掴んだというより、絡んだ。
 指先が僕の指の間に迷い込んで、そこから出られなくなったみたいに。力は強くない。爪が食い込むほどじゃない。なのに、離れない。離す、という選択肢が最初から存在しないみたいに、そこに居座る。

 僕は息を呑んだ。

 悠真は僕を見ていない。
 見ていないのに、掴む。言葉を出せないまま、手だけが正直に「ここにいて」をやってしまっている。

 胸の奥が熱くなる。
 同時に、腹の底が冷える。

 嬉しい、なんて言葉をあてはめたら汚してしまう。これはもっと切実で、もっと生活に根を張ったものだ。痛みを避けるための反射。落ちないための本能。――命綱、なんて言葉が頭をよぎって、僕は噛みしめた。

……悠真」

 呼ぶ声が震えないように、喉の奥で整える。
 返事を期待して呼んだんじゃない。手を見てしまったから、呼びたくなっただけだ。

 悠真の肩が小さく上下する。
 呼吸が、まだ浅い。けれどさっきみたいな喉の笛音は減っている。まぶたが重そうで、視線が定まらない。そのくせ、指だけは確かに僕を捕まえている。

 僕は、逃げない。

 片方の手で、コップをそっとテーブルに戻した。
 もう片方の手は、彼に掴まれたまま。無理にほどかない。ほどいたら、彼は恥ずかしそうに笑って、平気だって言って、また遠ざかる。そんなの、いまは要らない。

 僕は空いている指で、悠真の手の甲を軽く撫でた。
 撫でるというより、確認だ。ここにいる、っていう確認。

「言わなくていいよ」

 言葉は小さく、息に混ぜて落とす。
 大丈夫も、平気も、頑張れも、今日は全部置いておく。代わりに、手の中にしまっておく。

 悠真の指が、ほんの少しだけ強くなる。
 ――そういうところが、ずるい。
 弱っているときほど、彼は正直で、僕の心の柔らかい部分だけを的確に掴んでくる。

 僕は自分の指を、そっと絡め返した。
 握り返すのは簡単だ。力を込めれば、安心させられる気がする。けれど僕は、力を込めない。彼が「掴まなきゃ」と思わなくていい程度に、ただ、支える形を作る。

 悠真の呼吸が一度、長く吐けた。
 その吐息が、僕の手の甲をかすめる。熱い。生きてる熱だ。……それだけで胸がいっぱいになるなんて、僕はどれだけ臆病なんだろう。

……もう、動かない」

 僕が言った。命令じゃない。お願いでもない。
 決めるための言葉だ。僕自身のための。

 悠真は返事をしない。代わりに、僕の指を離さない。

 その“離さない”が、たぶん返事なんだと思った。

 僕は、彼の手を持ったまま、その場に腰を落とした。
 彼の呼吸が落ち着くまで、ここから動かない。
 彼が「いつも通り」を取り戻すまでじゃない。取り戻した“ふり”を始める、その前まで。

 悠真の指が、少しずつ緩む。
 緩むのに、離れない。まるで、眠る直前の子どもみたいに、安心の形だけを握りしめている。

 僕は目を伏せた。

 ――ああ、僕は。
 彼が元気なときに守れるものより、こういうときにしか見えないものを、いちばん守りたいんだ。
 悠真の呼吸が、少しずつ丸くなる。

 さっきまで胸を引っ掻いていた咳が、遠い。完全に消えたわけじゃない。けれど、もう次の一撃を待ち構えてはいない。間がある。息が入って、出ていく。たったそれだけのことが、こんなにもありがたいなんて。

 掴まれていた指先の力が、ほどけていく。
 それでも離れない。緩むだけで、そこに残る。手は、眠りの縁でいちばん嘘をつけないらしい。

 悠真のまぶたが落ちる。
 落ちて、また上がりそうになって、途中で諦めたみたいにゆっくり閉じる。長い睫毛が頬に影を落として、息を吐くたびにほんのわずかに揺れる。

 ……可愛い、なんて言葉を使ったら軽くなる。
 僕はただ、胸の奥に溜まっていたものが静かにほどけていくのを感じていた。怖さが、完全に消えるわけじゃない。消えないからこそ、こういう瞬間に触れて確かめたくなる。

 僕は、空いている手をそっと伸ばした。

 乱れて額にかかっていた髪を、指で梳く。
 撫でるというより、片付けるみたいに。起こさない角度で、起こさない速さで。指先が触れるたび、柔らかい毛が静電気みたいに僕の皮膚にまとわりつく。

 耳のあたりで、ひと束が跳ねていた。
 僕はそれを指でつまんで、そっと後ろへ流す。指の腹で、こめかみを一度だけ撫でてしまって、心臓が変な音を立てた。

 ――ここにいる。
 生きてる。
 あの苦しさのすぐ隣に、こんなに静かな顔がある。

 悠真の指が、僕の指をまだ掴んでいる。
 掴んでいるというより、もう「繋がっている」に近い。力はほとんどないのに、ほどけない。彼の体温が、僕の骨に染みてくる。

……もう、頑張らなくていい」

 声に出したのは、自分のためだった。
 聞こえなくていい。返事はいらない。言葉を返されると、また僕は安心したふりをしてしまうから。

 悠真の唇が小さく動く。音にならないまま、息だけが漏れる。
 それが笑いなのか、ただの呼気なのか、僕には判断がつかない。判断がつかないことが、少しだけ嬉しい。彼が“いつもの悠真”に戻りきっていない証拠だから。

 僕はもう一度、髪を撫でた。
 今度はただ、愛おしいと思ったままの速度で。指先が頭の丸みに沿って滑り、額の熱を確かめるみたいに触れて、すぐに離れる。

 起こしたくない。
 でも、触れていたい。

 その矛盾を抱えたまま、僕は手を止めない。
 呼吸がまた乱れたらすぐ戻せるように。
 それより何より、彼が眠りに落ちていく瞬間に、ひとりにしないように。

 悠真の肩が、ゆっくり沈む。
 最後に一度だけ、指が僕の指を確かめるようにきゅ、と縮まって――それきり動かなくなった。

 僕は息を吐いた。長く、静かに。

 ……手を離さない。
 眠ってしまったからじゃない。眠ってしまった“いま”こそ、離したくない。
 悠真が眠りに落ちて、部屋から音が消えた。

 残っているのは、呼吸だけ。
 さっきまで喉の奥で鳴っていた笛みたいな音は引いて、吐く息がやっと、ちゃんと長い。僕の指を掴んでいた指先も、微かに力を残したまま静かになっている。離れていない。けれど、もう「落ちないため」じゃない。眠りが、繋いだままにしてしまっただけだ。

 僕はその指をほどかないで、空いている手で彼の髪を撫でた。
 起こさない速さで、起こさない力で。愛おしいと思った分だけ、指先が慎重になる。

 前髪が少し乱れて、額に落ちかけていた。そっと梳いて、耳の後ろへ流す。指の腹がこめかみに触れて、僕は小さく息を吐く。――生きてる熱だ。今はそれだけで充分だ。

 そのまま指先が首元へ滑って、金属の感触に触れた。

 チョーカーの金具。

 いつもそこにあるもの。
 いつも、彼の身体の境界線を示すみたいに光っているもの。僕は、そこに触れるときだけ、ほんの少しだけ躊躇う。勝手に踏み込んでしまう気がして。

 でも、今の悠真は眠っている。
 眠りは、許可の形をしている。

 僕は指先で金具を確かめた。冷たい金属が、僕の体温を吸う。外すつもりなんてなかったはずなのに、手が勝手に手順を知っているみたいに動く。息を乱さないように。首を引かせないように。音を立てないように。

 カチ、と小さな音。

 胸がきゅっと縮んだ。
 こんな音ひとつで、また世界が揺らぐ。

 けれど悠真は起きない。まぶたも、指先も、ただ深いところに沈んでいく。僕の手の中にいることを、拒まない。

 外したチョーカーを掌にのせたまま、僕は視線を落とす。

 首筋に、薄い痕があった。
 注射の痕。新しいものと、消えかけのものが重なっている。点じゃなくて、時間の層。僕が知らないところで繰り返された「必要」が、肌の上にだけ正直に残っている。

 指で触れたい衝動が一瞬よぎって、僕は止めた。
 痛いのは痕じゃない。僕の胸のほうだ。

 悠真は気づかない。
 気づかないまま、深く寝入っている。苦しさから解放された瞬間だけは、誰にも見せない弱さを僕に預けてしまっているのに、本人はそれを「預けた」とすら思っていない。

 その無防備が、僕を静かにする。

 僕は、ただそこにいることを選んだ。
 痕を責めない。問い詰めない。数を数えない。
 代わりに、首筋から頬へ、髪の生え際へ、指先でそっと撫でる。

 撫でるたびに、呼吸が少しずつ整っていく。
 彼の身体が「大丈夫」を覚えていくみたいに。

 僕はチョーカーを握りしめたまま、もう一度だけ髪を梳いた。
 そして、痕が見える首元を布で隠すように、襟を整える。隠すのは彼のためじゃない。僕のためだ。痛いものを痛いまま抱えてしまわないように、いまは蓋をする。

 穏やかな気持ちだった。
 優しくしたい、というより、優しく“してしまう”。

 許されている。
 彼の内側に、ほんの少しだけ。

 そのことが嬉しくて、怖くて、でも今は――ただ、静かに満ちていた。
 目が覚めたとき、最初に感じたのは手だった。

 掌が、握られている。
 強くはない。けれど逃げ道がないくらい、確かな形で。

 ぼんやりした視界の端に、指が見える。骨の輪郭が少しだけ浮いていて、指先の節が綺麗に固い。大きい手だ、と眠気の底で思う。男らしい、という言葉が一番近い。何かを守るために作られたみたいな手。

 それなのに、握り方はやさしい。
 僕の指が痺れない程度に、痛くならない程度に、ちゃんと息ができる程度に。そこだけ、きちんと計算されたみたいに優しい。

 胸の奥が、ふっと軽い。
 さっきまでの苦しさが、夢だったみたいに遠い。喉の奥に残るざらつきはあるのに、怖さがない。怖さの代わりに、あたたかさがある。

 ――ああ、起きてしまった。

 そう思うのに、手は離れていない。
 だから僕は、起き上がるのを急がなくていい気がした。いつもの顔を作らなくてもいい。喉が少し痛いのを隠さなくてもいい。

 指先をほんの少し動かすと、相手の掌が反応する。
 握り直す、でもなく。逃がさない、でもなく。
 ただ「まだここにいるよ」って言うみたいに、ほんの少しだけ形が整う。

 それだけで、幸せだと思ってしまった。

 誰にも見せたくないところを、見られたはずなのに。
 恥ずかしいより先に、満ちる。満ちて、呼吸が深くなる。
 僕の中にあった穴が、手の熱で塞がっていくみたいだった。

 顔を上げると、アキラくんがいた。
 目が合って、言葉を探すより先に、彼の手の親指が僕の甲を一度だけ撫でる。

 その動きが、あまりにも当たり前みたいで。

 ……たぶん僕は、この手に触れられている限り、何度でもちゃんと戻ってこられる。
 そんな気がした。

 僕は小さく息を吐いて、彼の手の中で指を絡める。
 今度は自分から。

……ありがと」

 声はまだ掠れていたけれど、心だけはちゃんと笑っていた。