ふっと意識が浮上する。・・・・・・なんだか長い夢を見ていた気がする。重たい瞼をこじ開けると、見覚えのある天井だ。四肢が重い。起き抜けに身体を捩ろうとするとあちこちが痛んでうめき声が出た。
「降谷さん?」
馴染みのない声がする。ぼやっとした視界にいつか新聞で見た工藤新一の顔が映る。
そうか、彼はあれから元の姿に戻ったのか・・・・・・。
「降谷さん!目が覚めました!?」
面識があるようでない男が慌ててベッド脇のスイッチを押す。ナースコールか、と思い当たってからは怒涛の展開だった。
ひと通り検査を終え、ようやく覚醒した頭で自分の記憶を辿る。
組織を追い込む最後の混乱で、銃弾の雨と爆発から命からがら逃げ惑っていた。降谷は最後の最後まで組織の犯罪の証拠を残すべく奔走していたため、他の人間より退避が遅れたのだ。しかし、大怪我と引き換えにAPTX4869のデータを持ち出せたのは僥倖だった。組織を追い詰めた高校生探偵に報いることができたのだから、上出来だ。
「降谷さん、1ヶ月も眠ってたんですよ」
検査が終わった翌日、もう一度病室へ来た新一が話す。看護師によると彼は、身寄りもなく部下も多忙で見舞いに来られない降谷のために頻繁に顔を出していたらしい。本来の姿で思う存分彼女とデートしたい年頃だろうに、律儀な男だ。
「心配かけたね。その間に無事君も元の姿に戻れたわけだ。まったく、どんな奇天烈な薬を作ったんだか・・・・・・報告書を読むのが今から楽しみだよ」
「やっと目覚めたっていうのに、ワーカホリックですね。それと、風見さんがあなたの代わりに庁舎に缶詰なので簡単にあれからのことを報告します」
工藤によると、無事に多数の幹部・ボスを逮捕し組織は壊滅したらしい。組織のボスをはじめ、ジンやウォッカ、主要な幹部は捕らえることができた。
「ただ、ひとり逃げおおせたやつがいます」
「あの女か・・・・・・」
報告の中で名前が上がらなかった中で、思い浮かぶのはバーボンとして行動を共にすることの多かった女、ベルモットだ。
「奴は変装の達人だからな。もちろん警戒はしていたが・・・・・・退院してもまだまだやることがありそうだ」
あの女を捕らえるのは骨が折れるだろう。公安と、いけすかないがCIAやFBIと協力したとしても時間がかかりそうだ。
「あと、この件との関係は不明ですが・・・・・・ポアロの梓さんが、このひと月行方不明なんです」
「は?」
◯
降谷の退院は目が覚めてからおおよそ2ヶ月が経ったころだった。
降谷が目覚めてから暫くして来た風見を問い詰めても、梓の足取りは掴めていないという。組織と関わりがない事件に巻き込まれた、との見方もあるが、あの時期に行方知らずになるなんて関わりがないほうが不自然だ。
退院後諸々の報告書や始末書を書くのもそこそこに、早速降谷は梓とベルモットの捜索を始めた。
「榎本梓はポアロの遅番勤務を終えた後、帰宅するところをマスターに見送られています。帰路途中の防犯カメラにも姿が確認されており、彼女の住むマンションの防犯カメラにも帰宅する様子が映っていました。しかし、その後マンションを出る様子は映っておらず、翌日の勤務にも欠勤。2日後にはマスターが家族に連絡をとって彼女のマンションを訪れたそうです」
病室でも聞かされた捜査状況を風見が生真面目に説明する。彼も梓と面識がある。顔見知りが誘拐され、それも自分の関わる事件のせいかもしれないのだ、内心穏やかではないだろう。
「梓さんのマンションの防犯カメラは、確かエントランスとエレベーター内のみだったな」
「そうです。エレベーターを降りるところまでは映像があります。ただ、部屋の前の廊下にはカメラがないので部屋に入ったかどうかは不明です」
「階段はあったが、非常出口はなかったよな?」
「はい、階段から飛び降りたりしない限りはマンションから出るのに必ずエントランスを通ります」
「分かった。僕のほうでもう一度調べてみる」
風見は別の報告があるらしく部屋を出ていった。静まり返った執務室で、降谷はもう一度映像を再生した。組織が壊滅して数ヶ月が経ったといえど、まだゴタゴタは片付ききっていない。梓が行方をくらませてから捜査に入るまでにタイムラグがあったらしいし、ひと通り捜査を終えて手がかりのない今、梓とベルモットの捜査は一時後回しとなり充てられる人員は少ない。降谷にも仕事は山積みではあるが、部下に無理を言って時間を作っている。なにせ、安室が親しくしていた女性が行方不明になったのだ。自分のせいで彼女が危険に晒されている。
はあ、とため息をついてコーヒーを流し込んだ。やや冷めたそれは眠気覚まし以上の意味を持たず味気ない。彼女の淹れるコーヒーをもう一度飲むためにも、捜査へ気合いを入れ直した。
梓の帰宅はおおよそ22時頃だった。ポアロの遅番が終わるのは21時頃、道中スーパーへ寄ったことが確認されているので、帰宅時間として不自然な点はない。
「これは・・・・・・?」
梓が帰宅してからしばらくして、住民の男と、梓ではない女の2人組が不自然なほどぴったりと寄り添うようにしてマンションを出ていく姿が映っていた。
「・・・・・・怪しいな。身元は・・・・・・」
映像を停止して報告書をめくる。顔もはっきりと映っていない女の身元まで探る時間がなかったのか不明とされているが、その男に聞き取りをしたところ、行きずりの女を連れてくることはしょっちゅうなうえ、この日は相当な深酒をしたためこの女が誰なのかも、その日に女と会っていたかどうかも判然としないらしい。
映像を翌朝分まで確認すると、確かにフラフラと男がひとりで帰宅する様子が映っていた。
「少しあたってみるか・・・・・・」
身元不明の女ーーベルモットである可能性が高い。足取りを消したつもりでも、どこかに必ず綻びがあるはずだ。
取り寄せてあった周辺の防犯カメラ映像に切り替える。近くのパーキングのカメラに、マンションを出たふたりが車に乗り込む姿が映っていた。ナンバープレートからシステムで追跡したが、車は高速道路のパーキングエリアに乗り捨てられていた。持ち主を調べるも、予想通り盗難車だ。徹底してふたりの姿を探すがその先の映像には何も残っていなかった。おそらくここでまた別の姿に変装して車を乗り換えたのだ。
ここまで入念に足跡を消し去っていることで、あれはベルモットと梓だったのだと降谷は確証を持った。同時に、ベルモットが本気で姿を消そうとしていることも理解した。
降谷は周辺の防犯カメラを片っ端から洗い直し、関係者への聞き取りも重ねた。それでも梓へ繋がる手掛かりは一つとして増えない。
それでも、まだ諦めるには早すぎた。
手掛かりのない日々だけが積み重なり、季節は巡った。気づけば、梓が姿を消してまもなく一年が経とうとしていた。
◯
カラン、と心地の良いドアベルが鳴る。嗅ぎ慣れたコーヒーの香りが鼻腔をくすぐった。カウンター内の人物と目が合うと、降谷は軽く会釈をした。
「ああ、安室くんじゃないか。いらっしゃい」
「こんにちは、マスター」
降谷がカウンターの内側に立つことは、もうない。退院からしばらくして、安室透としてのアルバイトには終止符を打っていた。梓の件もあるので、米花町の様子を伺うために今でも安室として頻繁に訪れている。
「カウンターへどうぞ。ちょっと久しぶりだね?」
「そうですね。このところ仕事が立て込んでいたので・・・・・・すみません、ご無沙汰してしまって」
「立派に探偵やってるんだ。いいことだよ」
無意識に視線がカウンターの端を探す。そこにはもう「いらっしゃいませ」と笑う彼女はいない。その事実に、胸のどこかが毎回少しだけ軋んだ。
混み合う時間を避けて来たからか、店内には客は降谷ひとりだ。お冷を出してくれたマスターがご注文は、と問うて来るのでブレンドを注文する。梓がいたころは彼女がオーダーを取ることが多かったが、今はマスターがひとりで切り盛りしている。
「マスター、僕が来ない間変わったことはありませんでしたか?梓さんのことでもそれ以外でも」
「なにも・・・・・・この店は相変わらず平和そのものさ。梓ちゃんがいないこと以外はね」
これは降谷がここを訪ねる度に聞いている質問だ。そして回答もいつも変わらない。ポアロがこれ以上の脅威に晒されていないことだけは喜ばしい。
「梓ちゃんの捜査も相変わらずかい?」
「ええ、残念ながら・・・・・・。申し訳ないです、不甲斐なくて」
「いやいや、毛利くんも新一くんも、ここの常連の刑事さんたちも同じさ。神隠しにでもあったみたいだ」
探偵や刑事がよく出入りするこの店で愛された彼女がいなくなって、文字通り官民問わず捜査が行われている。他の事件に追われても、皆心のどこかで梓を心配しているのだ。
「もう1年ほどになりますか、梓さんが行方不明になって」
「そうか、1年か・・・・・・。あの日、いつも通りお疲れ様また明日って別れたのになあ」
マスターの目に涙が浮かぶ。娘のように可愛がっていた看板娘だ。その姿がなくなって一年。店は変わらず営業しているのに、どこか静かだった。
お待たせしました、とブレンドが提供される。マスターのコーヒーは降谷にとって格別で、その豊かな香りでいくらか心が和らぐ。常連客の中でも気付く人は少ないが、梓の淹れるものとは少し違う。休憩時間に梓がよく淹れてくれたコーヒーが恋しい。彼女の淹れるコーヒーもまた、降谷の特別だった。
「なあ、安室くん。梓ちゃんは・・・・・・無事だと思うかい?」
「マスター、それは・・・・・・」
「考えないようにしてきたんだ!でも・・・・・・こんなにすごい人達が探してるのに、ずっと見つからないんだ。もしかしたらって、悪い考えばかりが過ってしまって・・・・・・」
マスターが悲壮な表情を浮かべる。喫茶店で癒しの時間を提供することをモットーとする彼には珍しい表情で、降谷も少し狼狽える。
「マスター、僕は・・・・・・梓さんの無事を信じています。根拠なんてどこにもない、ただの願望ですけど。たとえ無事じゃなくたって、この目で確認するまで絶対に信じません」
マスターだけでなく、恐らく皆ずっと考えて来たことだろう。梓はもしかすると、もうこの世にはいないのではないか、と。降谷も例に漏れず考えたことはあった。ただその度、この店で無邪気に笑う彼女の顔が浮かんでその考えを打ち消して来た。
「うん、そうだね・・・・・・ごめんね、変なことを言ってしまった」
「気にしないでください。他の誰が諦めても、僕だけは絶対に諦めませんよ」
「はは・・・・・・安室くんらしいね。それじゃ、何があっても僕も信じ続けるよ。ありがとう、安室くん」
しかし、捜査状況が変わらないのは事実。降谷はここで最近考えていたことを実行に移すことにした。
◯
ポアロを訪れた数日後、降谷は再び米花町に赴いた。
「2週間の休暇?降谷さん、そんなの取れたんですか」
降谷が訪ねたのは、年齢こそひとまわり違うが今や盟友と呼んでも過言ではない工藤新一だった。ふたりが調べ上げた梓とベルモットに関する資料が並ぶテーブルを挟んで座っている。
「貯まりに貯まった有給があるからね。まあ、多少の無理は通したけど取れるものは取れるさ。こう見えて僕、休暇制度には定評のある公務員だし」
"多少"の無理ではなかったかもしれないが、嘘でもない回答をすれば新一は笑った。
「ソレ、公安ジョークですか?365日24時間トリプルフェイスやってた人がよく言う。で、どうしてそんな休暇を?」
「アメリカに行こうと思うんだ」
「アメリカ!?」
手に持っていたティーカップとソーサーをガチャガチャと鳴らし、食い気味に驚く新一に苦笑いが漏れる。まあ、あれだけ毛嫌いしていた男のいる国に行こうというのだから当然だろう。
「ああ、梓さんを探しにね。行方不明になってもう1年だ・・・・・・新しい手がかりは一向に掴めない。もう恐らく日本にはいないんじゃないかと思ってね。それで、ベルモットの故郷にでも行って調べてみようと思うんだ」
「どうして休暇中に?仕事として行ったほうが色々と都合が良さそうですが」
「なんの手がかりもないからね。アメリカに行くのだって、奴の故郷だってだけで確証があるわけじゃない。そんな棒に振るかもしれない捜査に部下を付き合わせたり経費を使ったりするのは忍びないのさ」
なるほど、と新一が頷く。
「相変わらず公安も忙しそうですしね。この間風見さんに会ったときも隈作ってコーヒー飲んでチョコレート食べてました」
「アイツ、変わらないな・・・・・・。僕が言えた口ではないが、あまりコキ使ってやるなよ」
「本当、貴方には言われたくありませんよ・・・・・・。それで?ここにいらしたのは何か依頼があってのことなんですよね?」
組織がなくなっても事件は絶えず起こるし、その中心に彼がしょっちゅういることは報告が上がっている。自分の優秀な部下もなにかと振り回されているらしい。
わざとらしく話を逸らされたが、まあ本題からズレてしまったのでよしとしよう。
「君に、アメリカに同行して調査に協力してほしいんだ。費用はこちら持ち。依頼料もきちんと払うし、成功報酬も用意するよ」
「費用はともかく、他はいりませんよ。俺も気になっていたし・・・・・・この姿に戻れたのも降谷さんのお陰でしょう」
新一も梓不在の事実を知ってから、時間を見つけては彼女の行方を追っていた。顔を合わす度に情報交換をしている仲だ。
「僕は当時必要な仕事をしただけさ。それに、卒業したらもっと本格的に探偵として活動するんだろう?ビジネスとしてそのあたりはきちんとしたほうがいい」
「はは、律儀ですねえ。わかりました、ではありがたく頂戴します。ところで、アメリカのどこに行くんですか?手がかりはないんでしょう。広いですよ、アメリカ」
「クリス・ヴィンヤード縁の地でも行こうかなと。君は彼女のお気に入りだったから、君が来ていることを知ればもしかしたら姿を現すかもしれないし」
「お気に入りねえ・・・・・・あの女は俺じゃなくて蘭のほうがお気に入りだと思いますが。それなら、俺が初めてクリス、いやあの時はシャロンかな?に会った場所に行きましょうか」
「へえ?」
「俺がコナンになる前、蘭とふたりでアメリカにいる母を訪ねて行ったことがあるんです。そのとき連れて行ってもらった劇場で初めて会って・・・まあ、そのときも事件が起きて楽しむどころではなかったですが」
「なるほど、きみは組織の件に巻き込まれる前から彼女と面識があったわけだ」
「はい、なのでその場所に行ってみませんか?まあ、空振りに終わる可能性も高いですけど」
「乗ったよ。ありがとう、新一くん」
そうしてふたりは新一が大学に入る前の春、アメリカへと旅立った。
◯
「Long time no see,降谷くん」
「相変わらずいけすかない野郎だな天パ野郎」
「降谷さん、世話になるって分かってます?」
空港へ着くなりいけすかない奴に声をかけられ、息をするように悪態をつく。隣の新一に嗜められるが構わない。奴を頼るのは気が進まなかったが、連絡を取ってもいいと思えるほどには和解していた。
「分かってるさ。分かっていてもつい、ね。条件反射のようなものさ」
「全くご挨拶だな。君がお姫様を探しに来るっていうから足くらい貸してやろうかと来たのに」
「はいはい、I appreciate it」
新一のため息を黙殺する。梓捜索のため情報はひとつでも多いほうが良いと、事前にベルモットに関する新情報がないかFBIに問い合わせていた。予想通り目新しい情報はなかったが、降谷の渡米を伝えると宿の手配と車を貸してくれることになったのだ。
「FBIの事務所へは寄るか?」
「ええ、スターリング捜査官やキャメル捜査官にはご挨拶したいですし」
例の組織壊滅作戦では、不本意ながらFBIとも協力体制を敷いた。馬の合わない赤井との間をふたりが取り持ってくれたおかげで、作戦はどうにか成功へと漕ぎ着けたのだ。
空港を出て車を走らせる。まずはFBI支部へ挨拶に立ち寄り、その後宿へ荷物を預けたら、早速捜査に取り掛かる予定だ。
「で?相変わらずハニーの居場所に見当はついていないんだったか」
「ええ、まあ。・・・・・・その呼び方、何とかなりませんか」
運転席の赤井が問いかけてくる。先ほどからお姫様だのハニーだの、言いたい放題だ。
「付き合ってるって言ってたじゃないか、適切な呼び方だろ?」
「ええ?いつ?」
「いつだったか・・・・・・ベルモットが彼女に化けた少し後かな」
「あ、ああ・・・・・・あの時か」
後部座席から新一が吹き出した。自分でもすっかり忘れていた、過去に自分が適当についた嘘にきまりが悪くなる。
「そんなこと言ってたんですか?」
「あの時は・・・・・・あの女が何を思ったのか腕を組んで来たから、そう誤魔化しただけですよ。アナタに本当のこと言うのも癪でしたし」
「へえ?それじゃ降谷くんはただの同僚のためにわざわざ休暇を使ってここへ?」
「そりゃあ、彼女が誘拐されたのは十中八九僕のせいだ。それに、梓さんのためだけってわけじゃない。ベルモットを取り逃していますからね。なんとしても捕まえなければ」
「いやー、アメリカ嫌いの降谷さんが証拠もなくわざわざ渡米するなんて。愛の力は偉大ですね?」
「新一くん、話聞いてる?」
ラブコメ名探偵はこの手の話はかなりお好きらしい。こちらの真面目な言い分を無視してくる。
「まあ、君らが付き合っていようがいなかろうが、組織は・・・・・・というかベルモットは君らが付き合っていると思っていたんだろうな」
「はあ!?なんで」
「そりゃあそうでも思ってなきゃ腕なんて組まんだろう。日本では付き合ってもない男女がそうそう腕を絡ませないことくらい奴も知ってるさ」
「だからってそんな・・・・・・真っ当に調査すれば付き合ってないことくらいすぐに分かるはずだ・・・・・・たぶん」
「たぶん?」
「確かに僕らは仲が良かったし、ふたりで休日にしょっちゅう外出もしたし彼女の家に上がったこともあるけどそんな・・・・・・まさか・・・・・・」
ブツブツ言いながら考え込む。
「ほら、実際恋人として付き合ってなくても周囲からはそう見られる関係だったんでしょう。じゃなきゃあんなに噂立ちません」
「多忙な潜入捜査中にそれだけ時間を割いておいて、本当になんでもない同僚か?」
そんな、いや、とひとり考え込む降谷を無視して車は市街地へと進んでいった。
◯
FBIへの挨拶終えた後は、新一がベルモットと出会ったブロードウェイ周辺を訪れていた。アメリカについて早5日。お約束というべきか、事件が起こらない日はないし、なんならダブルヘッダーの日もある。
「しっかし、君の事件を呼び寄せる体質って日本だけじゃないんだね?」
「やだな、降谷さんだって呼び寄せ体質でしょ」
「そんなわけあるか、こんなに次々に事件が起こるのは初めてだよ」
いくら愛すべき我が国に比べてここの治安が悪いと言えど、異常だろう。スラム街ってわけでもない。今日も今日とて事件に巻き込まれ、その日のうちに解決し、遅めの夕食を取るべくふたりで店へ向かっている。
「ホームズ再来、ねえ・・・・・・?」
道すがら手に取った今日の夕刊の地域欄の見出しだ。既に連日事件を解決している新一は、小さいながらも写真付きで記事にされており、『アジアの若きホームズ』なんて書かれている。
「へへ、悪い気はしないですね」
「まったく、本当は事件に巻き込まれないほうがいいんだけどな・・・・・・まあ、今回に関しては良い方向に働いているんじゃないかな」
「どういう意味ですか?」
「ベルモットにキミがここにいるってアピールしないといけないからね。あいつ、君のオタクみたいなところがあったから絶対この記事も見てるさ」
「犯罪者に好かれるのも複雑ですね・・・・・・」
日本でのベルモットの拠点は既に調査が済んでいる。重大な証拠は残されていなかったが、処分する時間がなかったのかわざと残したのかいくつか資料が残されていた。そのうちのひとつが工藤新一と毛利蘭の資料だった。おかげで2人には今も公安の監視がついている。
ベルモットさえ逮捕できればその監視も外せるのだが・・・・・・そんな詮無いことを考える。
その時、鋭い刃物のような視線を感じ振り向く。
「降谷さん?どうしたんですか?」
「いや、今何か視線が・・・・・・」
少し離れた路地から誰かがこちらを見つめて立っている。ゆらりと影が揺れ、一瞬そのプラチナブロンドが月明かりに照らされた。
「ーーー来たな。ちょっと行ってくるよ、君はここで待機」
「あ!ちょっと!!」
上着の下に隠した拳銃に手をかけながら人影を追う。女は追ってくる降谷の姿を認めて路地の奥へと進んだが、途中で立ち止まりあっさりと捕まってーーいや、待ち構えていた。
「ハァイ、バーボン。久しぶりね。その物騒なもの、しまってくれる?シルバーブレッドの前で無粋じゃない」
互いに銃を向け合う。待機と言ったはずの高校生は、やはりと言うべきかついて来てしまった。背後の新一を庇うように銃を構え直した。
「なら大人しく投降してもらおうか」
「やだ、するわけないじゃない。第一アナタ、それぶっ放す気ない癖に」
ベルモットは銃口を向けられているにもかかわらず、小さく肩をすくめて笑った。
「なぜそう言い切れる?」
「アナタのカワイイ子猫ちゃんの居場所を探しに来たんでしょ?アタシを殺したら手がかりないわよ?」
「じゃあさっさと彼女の居場所を吐いてもらおうか」
「はーあ、まさかタダって訳じゃないわよねえ?もうわたしのこと追わないって約束してよ」
「そんな言うこときくわけないでしょう。僕なら急所を外して拷問することだってできますよ?隣で見てたことありますよね?」
「はあ、ホントーにつまらない男ね。どうしようかしら?今すぐ彼女に何かしてやってもいいんだけど?わたしがどういう手段を用意できるか、それこそアナタなら知ってるわよね?」
「・・・・・・わかりました。僕のアメリカ滞在中にあなたを逮捕しようとしないし、FBIをはじめとする捜査機関にあなたの情報は漏らしません。それでどうですか?」
「ええ、いいわ。どうせもうアメリカを出るつもりだったし、あの子を連れて歩くのも面倒だったの。エンジェルのお気に入りの店員さんみたいだから、殺すに殺せないしね。今夜0時、レッドフックで待ってなさい。もちろんアナタ1人で。シルバーブレッドも連れて来ちゃだめ。それと、あとをつけるような真似したらどうなるか・・・・・・分かってるわよね?」
「わかりました。0時にレッドフックで。必ずあの子を無事に連れてきてください」
降谷がそう言い切ると、ベルモットは満足げに口角を上げた。
「それじゃあ、またあとで」
夜風を切るように身を翻し、ベルモットの姿は闇へ溶けていった。それを見届けると、背後で息を潜めていた新一がようやく口を開いた。
「よかったんですか?あんな約束して。ベルモット逮捕の大チャンスなのに」
「助けられるなら人質の解放が優先さ。それに、僕は今休暇中でここはアメリカ。逮捕権なんてあってないようなものさ」
「FBIが怒りますよ?」
「知ったものか。だいたい、やっぱりあの女はアメリカにいたのに今まで尻尾を捕まえられなかったアイツらが無能なんだ。さらに高跳びされようものならやつらの実力もそれまでだったってことさ」
「梓さん連れて逃げられたこと、棚に上げてませんか」
「僕は昏睡中だったけれどね。まあ、部下の失態は上司の失態だ。だからこそこうして遥々プライベートでアメリカまで来て、嫌いな奴に頭下げて協力を得ているのさ」
実際のところ、仕事としてここに来ていれば逮捕を優先していたかもしれない。休暇中の今、警察としての立場を優先しなくていいからこそできた判断だった。
「しかし、生きててよかった・・・・・・」
安堵のため息をついてその場にしゃがみ込む。
「そうですね。今まで敢えて言わないで来ましたけど、最悪の可能性もありましたから」
「まあ、無闇矢鱈に人を殺すようなやつではなかったが・・・・・・アメリカに渡った時点で殺されてもおかしくはなかった。キミと蘭さんに感謝しないとな」
ずっと考えないようにして来たが、既に殺されている可能性は常に頭にあった。姿を確認するまで安心はできないが、一先ず命はありそうだ。
「さて、約束まで時間があるな。こちらも相応に梓さんの受け入れ準備を進めようか。君は自由にしてもいいけど、どうする?」
「いや気になるんでついて行きますよ。ていうかその銃いつの間に準備したんです・・・・・・FBIに借りたんですか?」
「はは、聞かない方がいいこともあるよ、少年。だいたいこのくらい上手くやらないでどうやって公安が務まるっていうんだ」
○
午前0時。指定された、ブルックリン・レッドフックの埠頭へ来ていた。コンテナが幾重にも積み上がり、昼間なら物流で賑わう港も、この時間は人気がない。いかにも悪の組織が密会しますというような場所で、組織にいた頃こういう場所には何度も来たが気分が悪い。
遠くで車のエンジンの音が聞こえ、ヘッドライトが見えた。ベルモットだ。
「約束通り、ひとりで来たようね。そんなにお姫様が大事なの」
「黙れ、梓さんを早く」
運転席から出てきたベルモットはそのまま助手席へ回って扉を開けた。
「立ちなさい」
助手席に座っていた人物を引っ張り立たせる。
アイマスクをさせられ、後ろ手に手を縛られているが梓だ。
「ほら、飼い主のお迎えよキティ」
トンと降谷のほうに梓を押すとタタラを踏んでこちらへよろけて来たので抱き止める。
「梓さん!」
「あ・・・・・・安室、さん?」
アイマスクを取ってやると、掠れた弱々しい声で梓が応え、堪らなくなってぎゅっと抱きしめる。
「梓さん!怪我は・・・・・・ないようですね。ベルモット、彼女に何をした?」
「やーね、痛い思いはさせてないわよ?アナタを怒らせると面倒そうだったから、臓器も全部揃ってるしどこぞの男へ売り飛ばしてもないわ。チョットアナタのこと教えてもらおうと思ってイロイロ質問したけど・・・・・・つまらなかったわ、彼女なーんにもアナタのこと知らないんだもの」
腕の中の梓がベルモットのことばを聞いて身体を硬くするのを感じる。碌な方法で聞き出そうとしたのではないだろう。
「アナタが随分可愛がってたみたいだから、人質兼嫌がらせのつもりで連れて来たけど、その顔見るようじゃ嫌がらせにはなったかしら?じゃあね、バーボン。もう二度と会わないと思うけど。ハニーとお幸せに?ああ、エンジェルたちのこともヨロシクね」
「今回お前を捕まえないだけだ!忘れるな、ベルモット。必ず逮捕してやる」
ヒラヒラと後ろ手に手を振ってベルモットは去って行った。
腕の力を少し緩め、梓の顔を見る。涙で頬が濡れている。
「梓さん!すみませんこわい思いをさせましたね。見たところ大きな怪我はなさそうですが・・・・・・どこか痛いところは?」
小さく首をふって梓が答える。暗がりでよく見えないが、見える範囲で出血や骨折の類はなさそうだ。
「見つけるのが遅くなってすみません。この一年ずっとキミを探していたんです」
「い、一年経ってるんですか?」
「そうです。ベルモットのところでは日付を教えられなかったんですね」
「はい、時計はあったんですけど。窓のない部屋にいたから、日付はわからないし季節感も分からなくて・・・・・・。あの人に何か訊くのも怖かったし・・・・・・」
「なるほど・・・・・・詳しい話は後にしましょう。いつまでもこんな場所にはいられない。っと、その前に」
車のトランクからいくつか機械を取り出した。FBIから拝借したものだ。
「なんですか?それ」
「キミに何か発信機や盗聴機が仕掛けられていないか簡単にチェックするものです。・・・・・・この服はベルモットが?」
梓は赤いドレスを身に纏っていた。腕も背中も開いていて、今の時期ではまだ肌寒そうだ。自分が着ていたジャケットを肩にかけてやる。
「はい。良いところに行くから、おめかししましょうって。わたしてっきり、ど、どこかに売られるかもって・・・・・・」
「もう大丈夫です。キミのことは僕が責任を持って守ります。赤いドレスなのはきっと僕への嫌がらせですね」
「あ・・・・・・安室さん、赤NGだから?」
梓が弱々しく笑う。目尻からこぼれ落ちた涙を指でぬぐってやる。
「そうです、まったく今すぐにでも着替えてほしいくらいです。・・・・・・さ、一応は大丈夫そうです。車に乗って」
「はい。あれ、いつもの車じゃないんですね?」
「そりゃあココ、アメリカですから」
「アメリカ!?」
「それも知らされなかったのか・・・・・・さあ、行きましょう」
手を引いて車に乗せる。引っ掛けただけのジャケットの下から覗く腕は細く弱々しい。もともと細身ではあったが、今は骨と皮だけと言ってもいい。怪我をするようなことはされなかったが、恐らく拷問に近い尋問をされ、その後もずっと情報統制された場所にいたらしい。どれほどのストレスを感じていただろうか。
慣れない左ハンドルからいつもと逆の助手席に梓が納まっている。日本でずっと探して見つからなかった梓が今、隣にいる。
「すみません、少しだけ・・・・・・」
「えっ」
そう言って梓を抱き寄せた。ちゃんと生きている。
呼吸をしている。それだけで胸の奥が熱くなった。
「あ、安室さん」
「心配しました、すごく。キミの身に何かあったらと思うと・・・・・・」
「ご心配をおかけしました・・・・・・」
腕の中の梓が身を固くすることに気がついて離す。梓の瞳から涙が溢れて慌てて両手を上げる。
「すみません!怖がらせてしまいましたね・・・・・・」
「違うの、安心しちゃって・・・・・・。怖いとか、嫌とかじゃないです。こうして安室さんに会えたから、もう大丈夫だって思って・・・・・・」
「ええ、大丈夫です。キミがもしまたどこかへ連れ去られても地の果てまで探しに行きますよ」
「ええ?大袈裟・・・・・・」
実際わざわざ渡米したのだ。あながち冗談ではないんだけどなと思ったが、梓が少し笑顔を見せてくれたのでまあいいかと思い至る。
とりあえずこの場を離れなければと、車のエンジンをかけて発進させる。
「さて、梓さん。ここはアメリカ、NYの街外れ。今はXXXX年X月X日、時間はーー午前1時前といったところです。キミには念の為病院で検査を受けてほしいのだけど、すぐに向かいますか?それとも、少し休んでから行きたければボクの滞在しているホテルにもうひと部屋押さえてあります。どうしますか?」
「ええと・・・・・・少し休みたい、です。ずっとよく眠れてなくて・・・・・・」
「ではホテルに向かいましょう。ちょっと電話を入れたいのでそこで一旦停めます」
適当なパーキングに入れる。ずっと黙っていた梓のほうを見やると、見慣れぬ街並みのせいか先ほどより不安そうな顔で窓の外を眺めていた。車を降りて電話をかけようとドアノブへ手を伸ばした瞬間、袖を掴まれた。
振り返ると梓の顔は真っ青だった。
「・・・・・・置いて、行かないで」
か細い声だった。降谷は一瞬息を呑み、すぐ助手席へ戻る。
「行きません。電話だけです」
「・・・・・・見えるところで、してください」
その言葉に胸が締めつけられた。
「それじゃあ、電話もここで掛けます。大丈夫、聞かれたらまずいような話はしませんから・・・・・・。少しうるさくしますが、大丈夫ですか?」
そう告げると、梓はようやく小さく息を吐いた。それでも、袖を掴む指先から力は抜けない。降谷はその手をそっと包んだ。
「離れませんから」
握った手をそのままに、ホテルで待つ人間の番号を呼び出した。
「もしもし、新一くん。まだ起きてたかい?無事梓さんは保護したよ。・・・・・・・・・・・・うん、見たところ大きな怪我もなさそうだ。それで、一旦ホテルに戻ることにした。もうあと1時間ほど掛かるだろうから、先に寝て構わないよ。・・・・・・・・・・・・はあ!?キミと僕が同室に決まってるだろ。まったく・・・・・・では後ほど」
「新一くんって、あの?」
知った名前に興味を引いたのか、梓が声をかけてきた。
「ああ、そうです。工藤新一くん。今回キミの捜索の手伝いをしてもらっていました」
「安室さん、新一くんと知り合いだったのね」
「まあ、関わっていた事件で少々。それと、キミが誘拐されてからしばらくして、米花町に戻って来たんです」
「なるほど・・・・・・」
「失礼、もう一本電話を入れます」
次にFBIの番号を呼び出す。詳細は話さないまま梓の保護だけを依頼していた。ベルモットに関する情報がほしいだろうに、降谷の私情に配慮してか何も聞かれなかったことに感謝している。
「もしもし?無事に彼女を保護した。明日そちらの病院へ連れて行くから、悪いが連絡を頼む。・・・・・・見たところは無事さ。今回の件、無理を聞いてもらってありがとうございました。・・・・・・俺だってたまには感謝くらいするさ。・・・・・・失礼だな、赤井。それじゃあ明日また連絡する。・・・・・・は、はあ!?するわけないだろ!新一くんといいお前といい俺をなんだと・・・・・・!あ、切れた!クソ、アイツ・・・・・・!」
「あ、安室さん・・・?」
今度は困惑した様子で梓が声をかけてくる。ポアロでは決して見せなかったような態度に驚いたのだろう。
「ああ、すみません。今のは・・・・・・FBIの捜査官です」
「FBI!?」
「そう。いけすかないヤツですけど、一応信用はできる相手です。さて、そろそろ車出しますね」
再び車を走らせ、高速へ乗る。深夜だけあって交通量は少なく、周りは大型トラックばかりだ。バックミラーで背後を確認するが、怪しい車に尾けられている様子もない。
「あの、聞いてもいいですか?」
「どうぞ。答えられる範囲の回答になりますが」
「安室さん、いったい何者なんですか?FBIの方とあんなふうに話すなんて・・・・・・それに、あの女の人とも知り合いなんですよね?」
梓の疑問は当然だった。もう彼女の前で、ただの"私立探偵・安室透"のままでいるほうが難しいだろう。
「・・・・・・梓さん、今後アナタを保護するに当たって隠すのに無理があるので本当のことをお話ししますと、僕、本当は探偵ではなくて警察官なんです」
「警察官?・・・・・・でも、ポアロのお客様は安室さんのこと知らない様子でした」
「管轄が違うんです。それと、本名は降谷零と言います」
「ふるや、れい・・・・・・」
「安室としてポアロで働いていたのは、いわゆる潜入捜査のためでした。さっきのあの女がいた犯罪組織の捜査をしていて、そこの命令の一環で探偵見習いをやる必要があったんです」
「よかった・・・・・・悪い人じゃなくて。あの人、ずっと安室さんのこと聞いてくるから、一体安室さんって何者だったんだろうって思ってたんです」
「・・・・・・僕がポアロで働いたせいで、梓さんには怖い思いをさせてしまいました。本当に申し訳ありません。キミが無事に日本に帰ってご家族に会えるように、全力を尽くします」
「わたし、帰れるんですか?」
「もちろん。杉人さん、とてもアナタのことを心配していました。マスターや常連客の皆さんもね。・・・・・・ただ、あの女が変装の名手なのは知っていますね?そんな相手に顔や名前を知られてしまっている以上、ある程度警護が必要になるかと思います」
「お兄ちゃん・・・・・・」
家族の顔を思い出したのか梓の目に涙が浮かぶ。杉人とは何度かポアロで会っていた。陽気な彼の、梓が行方不明になったばかりの頃憔悴しきっていた顔を忘れられない。
「まずは梓さんの体調が第一です。それと、パスポートがないので帰国準備に少し時間がかかりますが、あなたが望むのなら必ず帰れます。ご家族ともなるべく早く連絡をとれるように手配しますね。・・・・・・もう少しホテルに着くまで時間がかかるので、寝ても大丈夫ですよ」
◯
「梓さん、着きましたよ」
「ここは・・・?」
「NY市内のホテルです。さ、行きましょう」
ここは普通の民間ホテルではあるがFBIの息がかかっていて、無理を言って隣り合う部屋をふたつ用意してもらっていた。
チェックインを済ませて、エレベーターへ向かう。梓が速歩きでピッタリと降谷の後をついて来る。歩くのが速かったかと、降谷は歩調を緩めた。それでも梓はほとんど肩が触れそうな距離まで詰めてくる。近すぎる。米花町では炎上を恐れて必ず半歩距離を取っていた彼女とは別人だった。
エレベーターに乗り込んでもピッタリと寄り添う様子にふと視線を落とすと、梓の握り締められた拳が震えている。そこでようやく気づいた。歩く速度ではない。離れることそのものを恐れている。置いていかれまいと必死なのだ。胸の奥が鈍く痛んだ。
「・・・・・・すみません」
梓が申し訳なさそうに小さく呟く。
「自分でも、おかしいって思うんです。でも・・・・・・少し離れるだけで、またひとりになる気がして・・・・・・」
「梓さん、部屋までこうしていましょう。僕はキミを絶対に置いて行きませんよ。速かったりしたら、遠慮なく引っ張って」
降谷は梓の手を握った。本当は抱えて行ってやりたいところだが、いくら深夜とはいえ外聞が悪いだろう。梓は返事をしようとして口を開く。
「・・・・・・はい」
その一言だけで声が震えた。今まで必死に堪えていたものが緩んだのか、ぽろぽろと涙が零れ始める。
「す、すみません・・・・・・」
「泣いていいんです」
「怖かった・・・・・・。すみません、ご迷惑ばかりかけてしまって」
「迷惑なんかじゃないです。何かあったらすぐに言って。さ、もう着きます。もう少しだけ歩けますか」
梓は弱々しい力で手を握り返して、小さく頷いた。エレベーターが目的の階に到着して、先ほどよりいくらかゆっくりと歩みを進める。
「さ、この部屋です。ルームキーはこちらをお渡ししておきますが、絶対にひとりで外に出ないで。まだここでは完全に安全なわけではないんです。ホテルの人間が訪ねて来ても絶対に扉を開けないこと。僕は隣の部屋に新一くんと一緒にいます。明日の朝X時頃に迎えに来ます。そのときはこんなふうにノックをするので、覚えていて」
トントトトン、とリズムを取るように扉を叩いてみせた。
「あ、安室さん別の部屋なんですか?」
不安そうな顔で梓が見上げてくる。やっと会えた知り合いと離れる不安からだろうが、涙に濡れた瞳に見つめられて思わず側にいますと言いたくなってしまう。
「う・・・・・・あのね、同室にするわけにいかないでしょう。それと、降谷です。大丈夫、必ず守ります。僕は隣の部屋にいますから、何かあったら部屋の電話からこの部屋番号に掛けるか・・・・・・そうだな、壁を叩いてくれてもいいですよ。すぐに駆けつけます」
「ええ?そんなの、できないですよ。深夜なのに」
「僕か新一くんが交代で起きてますから遠慮しないで」
安心させるように、抱きしめて頭を撫でた。
「おやすみ、梓さん」
「え・・・・・・えんじょう!」
「はは。久しぶりに聞いたな、それ」
◯
「おはようございます、梓さん。眠れましたか?」
「正直、あまり・・・・・・」
明朝梓を迎えに部屋へ訪れた。明るい場所でよく見ると深い隈ができている。精神的なダメージの検査もFBIに依頼すると心に留めた。
「梓さん、お久しぶりです。ご無事で何より」
横から新一が声をかける。
「新一くん!久しぶりね。蘭ちゃん、ずうっと心配してたよ?」
「はは、めちゃくちゃ怒られました。蘭は今、俺以上にずっと会えない梓さんを心配してますよ。蘭だけじゃなくて、みんなね」
安室よりも梓と昔馴染みの新一を見て梓もホッとした表情を見せた。聞けば、新一や蘭が小学生の頃から梓はポアロでアルバイトしていたらしい。頻繁にポアロに来店し、親子喧嘩の避難先だったりしたらしいから、他の常連客とはまた違う関係だ・・・・・・というのが、潜入捜査を開始する前に調べたポアロと毛利家の関係だ。
「わざわざアメリカまで探しに来てくれたんだよね?ありがとう」
「お礼なら降谷さんに。俺も個人的にずっと調べてはいましたけど、今回アメリカに来たのは降谷さんの依頼ですから」
「そうなの?てっきり警察?のお仕事だと・・・・・・」
見上げてくる梓に決まりが悪くなってひとつ咳払いをした。プライベートで新一に同行を依頼して来たのは事実だが、それを知られるも気恥ずかしい。
「それより、立ち話もなんですし早速病院へ向かいましょう。食事も摂ってもらいたいのですが・・・・・・梓さん、監禁されていた間食事はどうしていたんですか?」
「ええと、出されはしたんですけど、あまり食が進まなくて・・・・・・。ずっと食べないでいたら点滴のようなものをつけられたんです」
「なるほど・・・・・・ではいきなりホテルの朝食を食べるのは避けましょう。すぐ病院へ行って相談しましょう」
ベルモットが用意した点滴なんて、何が入っているか分かったものではない。梓の腕をよく見ると点滴の跡なのかうっすらと痣ができていた。
「病院はFBIに手配させたので信頼できるところです。日本語を話せる女性の捜査官が付き添ってくれるそうですから、安心して」
梓を安心させるよう安室だったころのようにウインクをして伝えると、流石あむぴ・・・・・・と梓ではなく新一が関心しているのを無視して病院へと向かった。
◯
病院へ着くと、すぐに一通り検査を受けることができた。身体に大きな怪我はないが軽い栄養失調と、大きなストレスを受けていると診断された。
「栄養失調かあ・・・・・・日本にいたころじゃ考えられないなあ」
「日本に帰ったらたくさんごはん作ります」
「安室さんのごはん!懐かしい・・・・・・って、安室さん?降谷さん?ってまだポアロで働いてるんですか?」
「ああ、半年くらい前に退職していますけど、梓さんの件もあったのでちょくちょく顔を出しています。事情を話してキッチン借りようかな、と」
日本で最後に会ったマスターの顔を思い出す。帰国する算段がついたら彼にも連絡しよう。
「ちなみに、米花町では僕はまだ安室のままです。毛利先生や蘭さんは成り行きで僕のことを知っていますが、マスターもお客さんも安室と呼ぶから合わせていただけると助かります」
「なるほど・・・・・・じゃあこれからも安室さんって呼びます」
「折角名乗ったのに寂しいな。ふたりきりのときくらい降谷って呼んでくださいよ」
「安室さんとふたりきりなんて炎上状況にしません」
「つれないなあ、なんなら零って呼んでくれてもいいんですよ?」
「まったく、学生のような恋愛だな」
ガラと病室のドアを開けて赤井が入ってきた。
「赤井・・・・・・!ノックくらいしろ。あと別にそんなんじゃない!」
「はあ、それだけゾッコンの癖にまだ自覚してもないのか。日本の公安は恋愛に鈍感になる訓練でも受けるのか?」
ため息をつきながら赤井は両手に持った大量の紙袋を病室の机においた。
「なんだ?それは」
「ジョディからの預かりものさ。キミが彼女に頼んだんだろ、アズサに必要なものを。本当は彼女が来る予定だったんだが、急な呼び出しがあったようでね。急造配達員ってわけさ」
「はあ、スターリング捜査官に礼を伝えてください。あと、気安く梓さんを呼ぶな」
「安室さん!失礼ですよ、もォ。ええと、赤井さん?安室さんのお友達のFBIの方・・・・・・ですよね?なんだかすごい人にお使いのようなことをさせてすみません。あの、ごめんなさい、今手持ちがないんですが、お金いくらでしたか?」
「気にするな、キミのパトロンから受け取っている」
「梓さん、お気になさらず。あと、この男は友人ではありませんが、FBIの前でも僕のことは降谷と呼んで大丈夫です」
費用は前もってジョディに渡してあった。実際には降谷のポケットマネーであるが、バレると梓が遠慮してしまうだろうから気をそらせる。
「レイって呼んでやってくれ」
「ええ?降谷さん・・・・・・」
「前途多難だな、フルヤくん」
鼻で笑う赤井を殴りたくなるが、梓の手前我慢する。先ほどからの奴との応酬に目を白黒させている。
「あのなあ、だいたい、さっきのゾッコンってなんだ!そんなんじゃ・・・・・・」
顔を真っ赤にして降谷が怒る。
「はあ?キミ、それだけ甘やかしておいて本当に自覚がないって言うのか?わざわざ帰国日だって延期したんだろ、電話口でキミの部下が泣き言言ってたぞ」
「俺は警察官としてだなあ・・・・・・!」
「はー、ヤレヤレ。おいキミ、こんな朴念仁やめておいたほうがいいぞ。アメリカに残りたきゃいくらでもFBIが守ってやる」
そう言って梓の肩へ伸びた赤井の手を、反射的に払いのけるように梓を引き寄せた。
「汚い手で触るな!!」
「それだけ独占欲を隠そうともしないんならさっさとまとまってくれ」
「あああ赤井!余計なこと喋るな。いいか、彼女は俺が責任を持って日本に連れ帰って家族に会わせる」
「ああ、結婚式には呼んでくれよ」
「誰が呼ぶか!!!」
騒がせるだけ騒がして赤井は颯爽と病室を出ていった。くすくすと笑う声が聞こえて、腕の中の梓を見やる。
「降谷さんって、赤井さんの前だと子どもみたいですね」
「う・・・・・・あの男だけは別です。すみません、驚かせましたか」
「いーえ?安室さんの新たな一面を知れました」
梓の前では常にポアロの優男だ。気恥ずかしくなって、顔を見られないよう梓の肩に顔を埋める。
「んふふ、降谷さん、耳真っ赤ですよ」
「・・・・・・見ないでください」
「え〜?だってこんなに抱きしめられちゃ、降谷さんのこと耳くらいしか見えないです」
「す、すみません!!」
あまりに距離が近かったことに気づいて慌てて梓を離す。
「ぶっ・・・・・・顔、真っ赤!あのね、こっちで助けてもらってから安室さんすっごくベタベタしてくるから、きっと安室さんの中の外国の血がアメリカの空気にあてられてそんなふうになっちゃったんだわって思ってたんですけど、もしかして、違う?」
「うう・・・・・・確かに僕には異国の血が混ざってますが、僕は日本の文化を愛する日本人ですよ」
「じゃ、なんで抱きしめたりしたんですか?助けてくれた夜だって、抱きしめて頭撫でたりして。まさか、警察官だからなんて言います?」
「そ、それは、キミがあんな可愛い顔で僕を見上げてくるし・・・・・・」
いつもはペラペラとよく回る口が、もごもごと歯切れ悪くなる。顔は真っ赤なままで梓と目も合わず、何事もそつなく熟す看板店員はどこへ行ったのやら、あんまり見ないで・・・と顔を隠すように梓が横になっているベッドの横にヨロヨロと座り顔を伏せるが、これまた真っ赤な耳は隠れていない。
「ふ、ふふふ・・・・・・安室さん、カワイイ」
堪え切れないと言ったように梓が笑う。
「30歳のオジサン捕まえて何言ってるんですか・・・・・・それと、降谷です」
そう答えるとますます梓が声を立てて笑う。笑われているのに、何故か悪い気はしない。
「あは、そうでした。降谷さん、わたしのこと好きなの?」
降谷は観念したように小さく息を吐いた。言葉にしてしまえば、もう誤魔化せない。
「・・・・・・好き、みたいです。ずっと気づかないようにしていただけで、きっとずっと前から。すみません、ちょっと今自覚したばっかりだから、仕切り直しさせて」
「えー?」
「オジサンは意外とロマンチストなんですよ。・・・・・・それで、梓さんはどうなんです。カワイイオジサンは対象外ですか?」
「んふふ、降谷さんはカワイイけど、降谷さんのカワイイところはわたしだけが知っていればいい・・・・・・と思うくらい、好きですよ?」
降谷がぐぬぅと声にならないうめき声を上げて、やっぱり真っ赤な顔でつっぷすものだから梓はますます声を上げて笑った。この1年ずっと、何よりも取り返したかった笑顔だ。
——梓の笑顔が今、目の前にある。
それだけで十分だった。
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