桐子
2026-02-23 22:00:07
6138文字
Public
 

ルミナス②



3
ゲゲ郎の初出演は、どうやら無事に終わったらしい。マネージャーの音子が聞いてもいないのに教えてくれた。
「すごかったわよ。あの人、ほんとに初めてとは思えない演技で。主役の岡田さんが珍しくNG出しちゃって」
「ふうん、そりゃ良かった」
「他人事みたいな態度ね」
「他人だからな」
水木はそう答え、台本のページをめくった。今度の役は医者だ。もう何年も続いている国民的シリーズドラマで、一匹狼の天才医師が難しい手術に次々と挑むというものだ。水木にとっては久しぶりに大きな役がもらえるかもしれず、期待して台本を受け取ったのだが内容を見てがっかりした。高慢なアメリカ帰りの医師が、天才医師の足を引っ張るという……はっきり言って出番はわずかだし、重要な役でもない。
「音子さん、もっと話題になるような役をくれよ」
「文句があるなら自分で探してきてちょうだい」
わかっている。音子のせいではない。世間が求める水木は『顔がよくて高慢、プライドが高く傲岸不遜な男』または『さわやかなサラリーマン』なのだ。一度そのイメージがついまうと、なかなかそこから脱することができない。本当はもっと難しい役、たとえば心に傷を抱えた悲劇のヒーローとか、葛藤する科学者とか、なんなら殺人鬼だっていい。近所のさわやかなお兄さんや、嫌味ばかり言う主人公の同僚のような役はうんざりだ。
「ゲゲ郎は、次の仕事決まってるのか?」
「他人じゃなかったの」
呆れたように言う音子の言葉を無視して、水木は台本に視線を落としたまま答えた。
「なんとなく訊いただけだ」
そう、別にゲゲ郎に興味があるわけではない。ただ、新人がどうしているのか気になるだけだ。すると、音子は驚くべきことを言った。
「誰かさんと違って、事務所にきてる端役は片っ端からやりたがってね。ホームレスから冴えないサラリーマンまで、いろいろ出てるわよ。……あと、ラーメン屋のチンピラの役が監督に気に入られてね。深夜ドラマの殺人鬼役に抜擢されたのよ」
「えっ!」
思わず声を上げてしまい、慌てて口を塞ぐ。さっきまでぼんやりと眺めていただけの台本の文章が、急に頭に入ってこなくなった。深夜枠とは言え、殺人鬼役でドラマデビューだなんて、とんでもない成果である。しかもそれが端役ではなく、主役級の重要な役柄だというのだから驚きだ。
しかも、監督に気に入られたという言葉が引っかかった。普通、事務所の力関係でキャスティングが決まるものなのに、監督の一存で役が決まるなどなかなかない。
ゲゲ郎はこの業界に入ってまだ日の浅いの新人だというのに、こうも順調に仕事が決まっていくとは。
(ま、たまたまだろう)
きっと運が良かっただけだ。水木は無理やりそう思い込んだ。




撮影の終わりに、昔よく共演していたベテランから誘われて飲みに行ったが、自慢話や説教ばかりでうんざりだった。やっと解放されたのは終電間近だった。愛想笑いにお世辞、相手の気分を損ねないように。そんなことばかり考えて少しも酔えなかった。こんなに疲れたのは久しぶりだ。
「はあ……
このまま家に帰っても嫌な気分ばかり残って眠れなさそうだ。水木は駅とは反対方向に歩き出した。このまま事務所に泊まって、朝一番にサウナにでも行こう。幸い、明日の予定は昼からだ。役者のために、二十四時間使えるレッスン室などが解放されており、仮眠用のベッドも常備されている。だが、事務所まであと少しという所で、水木は足を止めた。
「げっ」
ゲゲ郎が事務所の前のガードレールに腰掛け、ぼんやりと空を眺めている。水木の声が聞こえたのか、彼はこちらを振り向いた。
「おお、水木」
「何してんだよ、こんなところで」
「見てみよ、今夜は満月じゃぞ」
そう言って空に視線を向けた男につられ、水木も顔を上げる。高層ビルの隙間に、丸く太った満月が浮かんでいた。
「都会の月は、ずいぶん小さいのう」
「なんだよ、お前田舎育ちか」
道理で着ているものもぱっとしないはずだ。よれよれのシャツに、色あせたズボン。かろうじて洗濯はしていることは分かるが、量産店のものだろう。微妙にズボンの丈が短くて恰好がついていない。
「田舎というより山奥でな。空気も水もうまかった。いい所じゃったよ」
ゲゲ郎は懐かしそうに目を細めた。白髪と白い肌は、月の光を受けてぼんやりと浮かび上がるように光っている。内側からにじみ出るようなその輝きに、視線を奪われた。着ているものこそ質素だし、正面から見るとどことなく間の抜けた男だが、立ち姿や横顔には妙に色気がある。細い手首や首筋、シャツの襟から覗く鎖骨が妙に艶めかしく見えてどきりとした。
「水木はこれから帰るのか?」
「ああ、いや。事務所で仮眠しようと思ってな」
「おや。奇遇じゃな。わしも終電を逃してしもうた」
どうやらゲゲ郎も、事務所で寝るつもりらしい。この男と一晩、同じ屋根の下で過ごす。反射的に嫌だと思ってしまった。だが、それを態度に出してしまうのはあまりに大人げないだろう。
「そうか。それなら早く……
そう言いかけたところで、ゲゲ郎の腹がぐうと情けない音をたてた。
「腹減ってんのか。向こうにコンビニあるぞ」
「いや、その……金がなくて……
しょんぼりとうつむくゲゲ郎に、水木はため息をついた。無名の役者などこんなものだ。ドラマに出たところで給料など雀の涙程度しかもらえない。
「しょうがねえな。俺のおごりだ。飲みに行こう」
ちょうどいい。この男は苦手だが、飲み直すにはいい相手だ。水木はさっさと歩きだした。慌ててゲゲ郎がその後を追う。足の長さが違うせいで、すぐに追いつかれてしまったのがなんだか癪だった。
「水木は優しいのう」
ゲゲ郎は、にこにこと上機嫌に笑っている。その笑顔を見ていると、なぜだか妙に落ち着かない気分になった。



夜中でも開いている、半個室のチェーン店に入った。
「好きなもん頼めよ」
タッチパネルを差しだすと、ゲゲ郎は物珍しそうにそれを手に取った。
「ふむ……最近の店はすごいのう。水木はよく来るのか?」
「学生の頃はな。俺はビールにささみとむね肉の塩と、枝豆。あとたこわさな」
「わし、この釜飯と、ころっけが食べたいのう」
「お前この時間にんなもん食って、太るぞ」
ああだこうだと言いながら注文をすると、すぐにビールが運ばれてきた。とりあえず乾杯し、口に含む。冷たい炭酸と苦い味が喉を滑り落ちていくのが気持ちいい。思わずぷはっと息を吐くと、ゲゲ郎も同じように声を上げた。
「ああ、うまい」
しみじみという様子に思わず頬が緩む。この男相手だとなぜかむきになって張り合ってしまうのだが、こういう素直な反応は悪くない。運ばれてきたスピードメニューを肴にビールを飲む。
「今日は仕事帰りか?」
「ああ。死体を発見してびっくりする、浪人生の役じゃ! 犬を連れて散歩中という設定だったんじゃが、この犬というのが可愛くて利口でな……
ゲゲ郎は楽し気に、今日演じた役のことを話している。そんな大した役でもないくせに、という言葉が出かかったが、水木はなんとかたこわさと一緒にそれを飲み込んだ。
「明日は炭鉱で働く炭鉱夫の役じゃ」
……その役、台詞あるのか?」
「ないぞ」
ゲゲ郎はにこにこと機嫌よさそうだ。水木はため息をついた。
「お前、それでいいのか。台詞もないゴミみたいな役なんて回されて」
「ごみとは失礼な」
彼はムッとしてそう言い返した。
「わしは、演じることができればそれでよい。毎日楽しいんじゃ。明日はどんな役を演じられるのかと思うと、胸が躍る」
「大げさな奴だな。ろくにギャラももらえねえくせに」
水木はビールを口に含みながら言った。
「家賃や生活費はどうしてるんだ? バイトでもしてるのか。それでやっていけるのか。息子がいるって言ってたが、奥さんもいるんだろ」
酔いが回っているせいか、ついそんな余計なことまで訊いてしまう。ゲゲ郎はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
……妻は、三年前に亡くなったんじゃ」
そう寂しそうに笑う男を見て、さっと酔いが醒めた。踏み込んではいけない部分に、土足で足を突っ込んでしまった。申し訳なさに、水木は目を伏せた。
「すまん……悪いこと聞いちまった」
「いや。水木には聞いてもらいたい」
ゲゲ郎は優しく目を細め、ポケットからカードケースを取り出した。
「妻は、よくできた女じゃった。明るくて愛にあふれ、そしてそれはもう輝くように美しくてなあ」
取り出したのは写真のようだ。水木はその写真をのぞきこんだ。美しい女性が、赤ん坊を抱いて微笑んでいる。ゲゲ郎の言う通り、輝くような美女だった。
「おい、もしかしてこれ、田中岩子じゃないか」
「おお、知っておるのか」
「知ってるもなにも、大女優じゃねえか!」
誰もが知る劇団でトップスターだった田中岩子。彼女は劇団を退団後、女優として映画にドラマに引っ張りだこだった。だが、一般人男性と結婚したあとは引退し、表舞台には一切姿を見せなくなった。女優としての素晴らしい演技と、潔く芸能活動を辞めたことで、未だにファンが多い。水木だって、彼女が出演した映画は何本も見た。
「お前、よくこんなすごい奥さんを捕まえたな」
「そうじゃ。わしの人生で一番の幸運じゃった。趣味で登山しておった岩子が、道に迷うてな。わしの住んでおった山小屋にたどり着いたのじゃ。もう一目見て、女神かと思うほど美しくてなあ」
写真を見ながらうっとりとしている男を見ながら、水木は首を傾げた。
「お前、山小屋に住んでたのか」
「そうじゃ。岩子に誘われて山を下りたが、それまでは山の中でずっと一人で暮らしておった」
「ずっと一人って……嘘だろ。家族とかいないのか?」
水木は困惑した。浮世離れした男だと思っていたが、まさか本当に浮世を離れて暮らしていたとは。
「ああ、わしを拾ってくれたおじじ様以外には、誰もおらんな」
「拾ってくれた?」
「わしは山の中に捨てられておったのでな。父も母も分からん」
あっけらかんと言うので、水木はますます混乱した。
「捨てられたって、……
「さてなあ。おじじ様いわく、日本へ出稼ぎに来ておった外国人がこっそり子を産んで、国に帰ったか掴まったかでわしだけを残して消えたんじゃろうと。わし、拾われた頃は日本語は話せんかったんじゃよ。おじじ様のおかげでこの通りぺらぺらじゃが、口調もすっかりうつってしまったわ」
「そう、だったのか……
水木は呆然として呟いた。確かにゲゲ郎の体格は日本人離れしている。顔だけ見れば日本人と大差ないが、肌の色も髪の色もまるで違う。異国の血が混じっているとは感じていたが、まさかそんな事情があったとは思わなかった。
「おじじ様が死んで山で暮らしておったが、岩子と出会ってなあ。すぐに夫婦になることを決めたが、山をおりてからは戸籍を取ることから始まって、本当に大変じゃった。岩子にはずいぶん迷惑をかけたが、あの頃は本当に幸せじゃったよ」
遠い目をして、ゲゲ郎は写真をそっと撫でた。写真の中の彼女も、幸せいっぱいの笑顔だ。誰もが知る大女優と、山の中で引きこもっていた国籍のない男。ありえない組み合わせではあったが、きっと二人は仲のいい夫婦だったのだろう。夫婦のことは夫婦にしか分からないものだ。
「岩子は、倅が小さい頃に病気になってな。闘病生活の末に亡くなった。強い女じゃった。さぞ副作用でつらかったろうに、弱音など一切吐かず、最期までいつも笑っておってなあ。岩子らしいと思っ…………
ゲゲ郎の声が震え、言葉が途切れた。彼はぽろぽろと涙をこぼしていた。
「すまん、わし、泣き上戸なんじゃ」
「いや、俺こそ悪かった。軽率だった」
水木は慌ててハンカチを取り出すと、男の顔に押し当てて涙をぬぐってやった。何も知らなかったとはいえ、無神経に過去のことを聞いてしまった自分に嫌気がさす。大変だったなとか、苦労したなとか、そんな月並みな慰めしか思いつかない自分が情けない。
しばらくして、ゲゲ郎は顔を上げた。目の縁が赤くなっているが、それでも穏やかに微笑んでいた。
「すまぬ、みっともないところを見せた」
「いや……
水木は首を振った。
「闘病中にな、おぬしの出ているドラマを見たよ。覚えておるか? 記憶喪失の男が、自分を助けてくれた娘と恋に落ちて――――でもその男には、本当の家族がいたという切ない話じゃった。昔、岩子が舞台で演じたことがあるというのでな」
覚えている。大人になって初めてもらった主演だった。もともとは舞台だったものがテレビドラマになるというので、舞台の映像を取り寄せ、脚本を読み込み、舞台になった土地にも行って方言を覚えた。
確かに、あの舞台に出ていた、記憶喪失の男を助けた女性の役を演じていたのは田中岩子だった。
「切なくて、でも幸せな話だと思ったよ。おぬしは愛する者のために嘘をついて、見ているこちらが胸が締めつけられるような気持ちじゃった。その時からわしら家族は、水木のファンなんじゃ。岩子も『あんな小さかった水木くんが、こんないい芝居できるようになったのね』と褒めておったよ」
「本当か」
あの大女優にそんな言葉をもらえるなんて、役者冥利に尽きる。
「ああ、本当じゃ」
ゲゲ郎はにこにこと笑いながら言った。
「岩子が死んで、つらくて悲しくて、もう何もかもどうでもよくなった。倅を連れて山へ戻ろうと思っておった矢先、たまたまあのドラマの舞台のチケットをいただいてな。倅を連れて見に行ったんじゃ」
それが、ゲゲ郎と息子にとって、初めての観劇だったそうだ。
「圧倒された。役者たちは皆いきいきとして、その役を【生きて】おった。岩子もかつてはあの舞台で生きておったんじゃ。――――わしも舞台に上がれば、また岩子に会える。恥ずかしながら、そう思ってな。何が何でも役者になるのじゃと、奮起したんじゃ」
ゲゲ郎は照れくさそうに頭を掻いた。
「倅は、田中の家に……岩子の実家に預けておる。わしの夢を応援してくれてな、妻に似てようできた子じゃ。わしには、も、もったいない……ううっ……
「分かったよ。もう泣くなって」
水木はもう一度ハンカチで顔をぬぐってやった。本当によく泣く男だ。

――――だが、悪いやつじゃない。

亡き妻にまた舞台の上で会いたいだなんて、いじらしいじゃないか。
「お前、いい役者になるよ」
「ああ……ありがとう」
ゲゲ郎は泣きながら笑った。化け物じみた演技力をもった変な奴だと思っていたのに、本当は愛妻家で泣き上戸のいい奴だった。水木はなんだか急におかしくなってしまった。この男は一生懸命なだけだ。鬼気迫る演技は、才能というよりは必死さのあらわれなのだろう。
「いつか共演しような。俺と、お前と……奥さんで」
「み、水木~!!」
ゲゲ郎はわっと泣きながら水木に抱き着いた。おいおい泣く男の背中を撫でてやりながら、水木はふっと笑みをこぼした。