いを
2026-02-23 21:23:57
3135文字
Public くらくら
 

おまえ如きになにが聞こえる

マルタ
忘れていたこと

 画を好かぬ子供は先ず少ないとして――から続く文章を読んだことがある。どこか遠い場所のようなはなしだった。やけに消毒液臭くて懐かしい匂いが漂う中、うつらうつらとしながら手に持った古い文庫本を持ってはいたが、とうとう膝の上に落としてしまった。雨音が心地よく聞こえて来る。だれかの囁き声だとか、そういったものにも聞こえるが、人間の声のように曖昧ではなく、あるべくように音はそこにあった。

 絵は好きだった。画用紙いっぱいにクレヨンでらくがきとも言えぬものを描いても両親は上手、といって笑ってくれた。手を伸ばすと、やわらかい人肌のなにかがあった。ふっくらとした腕と、甘い匂い。あれは妹だった。つい数ヶ月前、うまれたばかりの。人差し指でふにゃふにゃとした腕をつつくと、焦げ茶色の大きな目がこちらを見上げた。顔の広範囲には呼吸を助けるための器具で覆われている。マルタはそれを眺めて、はやく取れるといいねえとなにも知らないふうにいった。
 
 妹はエヴィといった。飛白エヴィ。母は妹のことをたいそう可愛がっていた。待望の女の子だったけれど、マルタにもおんなじように接し、かわいがってくれていた。けれども洋服をえらぶとき、母はエヴィを優先した。マルタに与えられたのは、教会のフリーマーケットで売られていた暗い色の洋服ばかりだったが、エヴィはアロハシャツのような派手な柄のワンピースやパンツ、シャツなどを母が好んで選んだ。理由をきくと、マルタはすぐに汚しちゃうでしょと口を尖らせていた。母なりに考えてのことであった。
 父は作家だった。児童用の分かりやすい絵本や、児童文学等をおもに執筆していた。時折プロテスタント教徒として、エッセイなども手がけていたという。そんな中で、父の部屋は手を伸ばせばなんらかの本があった。英語やドイツ語、ギリシャ語、トルコ語、ロシア文学など、さまざまな国の言葉でギッシリと文字がつらなっていた。マルタは読めなかったけれど、近くに本がある生活はとても素敵だった。
 
「お兄ちゃん、遅刻しちゃう」
 青く長い髪をりぼんで結びながら、エヴィは姿見の前で足踏みをした。
 いつの間にか機械はとれていた。が、病院には毎週のようにかよっていた。黒いりぼんが足踏みをするごとにふわふわと揺れて、蝶のようだ。
 ブレザーのネクタイをなんとか結んで、「待ってろよ」と玄関に先に行ったエヴィに声を掛ける。ランドセルのカチャカチャという音がここまで聞こえて来る。エヴィは今年、小学校に上がった。
 今日、父と母は結婚記念日だからと朝早くから近場の海へ出かけていった。今年で二回目だ。
 マルタは深いシーグリーン色のネクタイが印象的な制服がある中学校に通っている。そのネクタイに紺のブレザー。靴は自由だったから、スニーカーを好んで履いていた。
「今日は寒いねぇ。ねえお兄ちゃん、今日エヴィねぇ、図工の授業があってねぇ」
 妙に間延びした、少女らしい甘い口調に適当に相槌をうちながら、途中まで一緒の通学路を歩くのが常だった。
 下校時はマルタはエヴィがいる小学校に迎えに行って、また登校時とおなじ道を通って帰る。今日あったことを、時折息切れしながら喋るようすを、マルタはじっと見つめていた。エヴィは生まれつき、肺が弱いの。――母と父は赤ん坊を見下ろして呟いた。今、彼女を見ている自分も彼らと同じような目をしていたのだろうか。

 ――お兄ちゃん。

 甘い声が聞こえた。狼狽えるひとびとの合間には決して似合わない声。
 青い肩甲骨までの長い髪がゆれる。両方のこめかみに黒いりぼんがかけられている。マルタが結んだことがあるりぼんだ。
 目玉が震えるのを自覚した。
 いやな冷や汗が背中をつたう。
 マルタの腰くらいまでしかない背の少女は、同じ色の目でこちらをじっと見上げている。あのとき・・・・マルタがしていた・・・・・・・・ような目で。
 アンチドートの情報では、死人の幻覚を見る職員が多数――とあった。

 ――俺に、妹がいたのだったか。
 先に思ったのが、こんなどうしようもない疑問だった。
 石のように動かないからだに、容赦なくサカナかアンチドートか、尖りのある爆音が耳もとで打ち鳴らされた。一瞬目を閉じ、爆風に波立つ三つ編みの重みを感じた。
 ほおが熱い。ガラスかなにかで切れたのかもしれない。
「お兄ちゃんどうしてエヴィを忘れてしまったの」
「忘れた? 俺が……
「エヴィはずっとひとりぼっちだったよ。こっちにはお母さんミテラがいない。お父さんもいない」
……
 親指をくちびるで噛んで、彼女はねめ上げた。
「エヴィをひとりにしないで! お兄ちゃんこっちにきて! ひとりは嫌!」
 絶叫にも近い叫びをマルタは聞いた。これは異能の幻覚だ。理解している。
 ――エヴィはそんなことを言わない・・・・・・・・・・・・・・と。
 ごくりと喉が鳴る。
 エヴィは死んだのだ。10歳で死んだ。病死だった。
「俺は、エヴィ……、お前に」
 お前に?
 なにを言いたいというのだろう。なにを言う資格があるというのだろう。エヴィがいたということすら忘れていた自分に。いや忘れていたのではない。こうして幻覚を見ている時点で覚えていたのだ。忘れたものは自覚しない。
 俺は、忘れたふりをしていたのだ。
 今まで感じたことのない失望を感じた。降りかかった大きなガラス片が腕を切り裂いた痛みとともに。

「エヴィ、大きくなったら画家になるんだぁ。そしたらね、お父さんの本の絵を描くの!」

 はっと顔をあげる。
 取りこぼした本を見下ろしながら、鋭い痛みを腕に感じ、服の上からさすった。
 雨が依然降り続いている。本を持ち直すこともなく、ぼんやりと窓の外を眺めた。自分の顔の輪郭すらぼやけている。

「こんこん」
 頭を動かすと、金髪の男が立っていた。
 ノックの真似事をして、こぶしを宙に浮かせている。ああ、とだけいい、文庫本の表紙の上に手を置いた。
「大変でしたね。腕の怪我に、心労が重なって風邪こじらせて入院だなんて」
 つらつらと説明する白楽天鵼は、ごていねいに指折り数えている。
「なんだ。嫌味か」
「いーえ。そんなことは。飛白先生元気かなって」
「心配しなくても明日には退院だよ」
「それはよかったです」
 軽々しくいってくれる。男がどんな表情をしているか分からないが、いつもどおり食えない顔をしているのだろう。
「飛白先生、お父さんと妹さん亡くされているんでしたね」
「誰から聞いた」
「いやぁ、アンチドートの情報網って怖いですよねぇ」
 チッ、と舌打ちをする。だがどうせ隠すようなことではない。名も知らぬサカナの起こした事件など、今や珍しくもなんともないのだろうし。
「あなたの中には罪悪感もあるでしょうけれど、生きる力というものがあると思うんです。ここに」
 男は自らの胸を人差し指でさした。
 ひとには、意識していても無意識でも本能で生きようとする力がある。――そういったことを言いたいのだろう。
 きっとこの男は生きろ・・・といっている。どんなことがあっても生き続けろと。生きなければ助かる命も助からない。あなたは他人のために生きる義務があると。
「分かっている。俺は俺の義務を果たす」
「はい、よくできました。それじゃ、俺はこれで。あ、これ差し入れです」
 サイドテーブルに置いたのはバナナジュースだった。ずいぶんとファンシーなパッケージのペットボトル飲料だ。
 鵼の背を見送り、ジュースを手に持つ。おおきくため息をついて、キャップを思いきり握りしめ、捻った。