桜霞
2026-02-23 16:40:54
9215文字
Public 【RKRN】しのぶれど【雑夢】
 

【RKRN】しのぶれど【番外編】

揶揄さま(@yayumo1104)のRKRN夢企画「RKRN夢企画_涙」に参加したく、シリーズものの番外編を書きました。
ページ数とか諸々の事情によりはしょったところをちらっとでも書けて嬉しかったです! 機会をいただけてありがとうございました。
※つどい設定があります。
※たくさん捏造があります。
※何でも許せる人向けです。
よろしくどうぞ!



 ヒグラシの鳴き声が爽やかな風にさらわれて遠くへ運ばれていく。重たく垂れた稲穂の黄金が斜陽に冥い光を灯す頃、ひとりの忍がタソガレドキ城忍軍詰所に帰参した。宛がわれた部屋で報告を聞いた押都は「うむ、ご苦労」と短く配下を労った。低頭した配下が瞬きひとつで押都の前を辞す。
 押都は手にしていた筆を置き、よっこらせと立ち上がった。途中まで墨を走らせていた書類は脇に片付け、今受けた報告を雑渡に伝えるべく部屋を出ようとする。
 ちょうどその時、見慣れた人影が障子の向こうにひょこりと現れた。
「これから出るのか、長烈」
 影の主は山本だった。
「いや、組頭に報告をな」
「そうか。急ぎのものか?」
「そうでもないが。何故だ?」
 小首を傾げる押都に、山本は少し身を屈めて声を潜めた。
「いや、実は。組頭の奥方が、もうすぐ産み月でな」
 おお、と押都は雑面の下で瞬いた。押都の脳裏に、続けざま昨年の今頃の記憶が断片的に蘇る。
「確か、天鬼騒動が落ち着いた頃だったな。ややができたと仰っておられたのは」
「ああ……、いやぁ、あのときは度肝を抜かれたなぁ……
 しみじみと言う山本。押都は肩を揺らして笑った。
 忍術学園の土井半助が尊奈門との決闘の後に行方不明になり、その間に現れた天鬼という軍師が起こした騒動に対処している間、タソガレドキ忍軍はチャミダレアミタケおよびドクタケの動きに対する警戒態勢を引き上げ、一挙手一投足に敏感にならざるを得なかった。忍達は国境付近に散り、雑渡は忍術学園学園長の意向で学園に長期滞在する運びとなり、屋敷に帰ることができなかったのだ。
 事後処理なども含めて二、三ヶ月ほどかかった仕事が一段落したとあって、山本たちは慰労も兼ねて雑渡家に招待されていた。宴もたけなわという頃、振る舞いを取り仕切っていた彼女に、留守にしていた間は特に変わりなどなかったかと雑渡が訊ねたところ。

 ───おかげさまで、特にこれと言った大事はございませんよ。里も城下も文字通り平安そのも……、あ。

 ふと、動きを止めた彼女に、やはり何かあったのだろうか、とその場にいた全員の視線が集まる。
 彼女は、あっけらかんとして言った。

 ───そういえば、ややができました。

 おお、それはめでたい、と男たちも無意識に身構えていた体から力を抜いた。

 ───どこの家? お祝いしないとね。

 ───あ、私です。どこっていうか、ここですね。雑渡家です。

 ごとん、という音を立てて、雑渡の持っていた盃が転がった。雑渡の飛び出ている包帯を目の当たりにした彼女は、特に何か言うでも驚くでもなく、「まあ大事というか、変事はそのくらいですね」近所に住み着いた野良猫が子供を産んだんですよとでも言うかのような雰囲気で、タソガレドキ忍者隊組頭に待望の長子が生まれる予定だと告げたのである。
「いやもう……当の御本人がめちゃくちゃあっけらかんとしていたからな……余計に驚いたというか……
「実感が沸くまで時間がかかったな」
 呆れ交じりに嘆息する山本とは対照的に、く、と押都の喉が鳴る。彼の眼裏には、しばらく口を開けて呆けたまま戻ってこなかった尊奈門がいた。
「ま、そういうわけだ。組頭は、ここ最近詰めておられたからな。今日は帰っておられるかもしれん」
「なるほどな。まあ、いるかどうかだけでも見て行こう」
 押都と山本は連れ立って、この時分なら、と食堂へ向かった。
 城勤めの侍などとは違い、忍にこれと決まった勤務時間はない。戦の時期ともなれば長期的に家を空けることになるのは当たり前だ。特に忍務においては、私情を優先されることが許される場面はほとんどない。とは言え、今は稲刈りを目前とした晩夏である。どの土地もこの頃になると戦を取りやめ、来年の予算をどれだけ確保できるか奔走し始める。忍達の仕事も、多少の余裕が出てくる時期ではあるのだが。
 果たして、雑渡は至極いつも通り、配下に交じって食事をしていた。ついでに、何やら談笑に興じている。
「いたな……
「いましたな」
 押都は山本の、複雑そうな表情を横目で見遣った。仕事が滞らなくなるのでいてくれるのはありがたいが、何故いるのか、奥方の大事に、というのがありありと顔に出てしまっている。山本家は子沢山故に、母の苦労を如実に感じているから、余計に雑渡の奥方の初産が心配なのだろう。
 ま、いるならいるで、と押都は雑渡を呼んだ。ほとんど食事を終えていた雑渡は、最後に配下に何事か声をかけて、自分の盆を片付け、「お疲れ」と二人に合流した。
「ドクタケの件?」
「いや、チャミダレアミタケの件だ」
 食堂を後にしながら、押都は端的に定常監視の報告を済ませた。ご苦労、と雑渡が「引き続き監視は怠らぬように」と指示を出す。承知したと押都が顎を引くと、入れ替わるようにして山本がずいっと身を乗り出した。
「で、昆。お前、次はいつ帰るんだ」
「あー……
 雑渡の声音に、面倒そうな色が混じる。瞬間、山本の目が眇められた。
「まあ……、作業が一段落したら、だから……夜には帰るよ」
 雑渡の言い方に、こりゃ朝になるな、と二人の内心の声が揃う。当の本人と言えば、二人の気配に何を感づいたのか、あらぬところへ視線を遣っている。
……産前産後の恨みは一生だぞ、昆」
 山本の言葉がどろどろと地を這った。
「私など、未だ一人目のときの失態を、事ある毎に酒の肴にされている」
「あぁ、あの話。面白いよね、陣内のさ、」
「明日は我が身だぞと言っているんだ」
 話を逸らそうとした雑渡を素早く遮る山本。雑渡が叱られたこどものように首を竦める。押都はうっかり吹き出さないように奥歯を力強く噛み締めた。
……そりゃまあ、分かってるけど。でも、私が帰っても、できることなんてほとんどないしね。家事は尊奈門がやってくれてるみたいだし……
「あいつ……! 最近、城下の長屋に帰っていないと思ったら……
 嘆息を堪え切れなくなった山本が、額を掌で押さえる。押都はなんとなく、山本に加勢してやることにした。
「山本殿の北の方は、家の雑事をせぬで恨み言を募らせているわけでもありますまい」
 うぐ、と固まる雑渡。我が意を得たりとばかりに「そうだぞ」と山本が頷く。
「男には想像が難しいが、ひとつの体にふたつの命を抱えているという一大事を、もう少し我が事と思ってだな……
「はいはい……、お」
 火に油を注がぬよう、この場から離脱する術はないかと辺りを見回していた雑渡の視線が、廊下を移動している高坂の姿を捉えた。
「陣左」
「、は」
 呼び止められた高坂は、すぐさま雑渡の方に踵を返して三人の傍に寄った。
「悪いけど、おまえの帰るついでに、私の屋敷に寄って着替えを取ってきてくれないか」
「承知いたしました」
…………
「いくよ、長烈」
 瞬き一つで雑渡が姿を消す。やれやれと嘆息して、押都も雑渡の後を追った。甚兵衛に報告に行ったのだろう。
「まったく、逃げおってからに……、自分の子だと分かっておらんのか」
……山本さま」
「ん?」
 瞬いて、山本は高坂の方に向き直った。控えめに山本を制止した高坂は、口元の覆いを降ろし、どこか言い辛そうにしながら言葉を選んだ。
「山本様の仰りたいことも、ごもっともかと思いますが…………
 高坂は何事かを言いつのろうとしたが、結局、唇を噤んで俯いてしまった。視線の揺れる様に、山本は静かに嘆息を堪えた。
 高坂はかつて、雑渡の稚児としての立場を得ていた。だからこそ、山本が知らない、高坂だけが知っていることがあるのだろう。今、高坂が言い澱んでいるのはおそらく、雑渡が高坂にさえ、ちらりとしか見せなかった類のものだ。
……あれは、昆の悪い癖だ」
 高坂は顔を上げた。雑渡の姿が消えた方を見つめていた山本の瞳が小さく揺れる。
「昆奈門は……雑渡家の人間は。……頭故に、己が私情を必要以上に抑圧しようとするきらいがある」
 忍者隊において、最終的にすべての責を負うのは雑渡だ。
 雑渡の言葉ひとつで、選択ひとつで。大切な家族の命が散る。
 雑渡がその業を背負うとて、失われた命は戻ってこない。雑渡ができる贖いはない。雑渡は忍軍百人、またその家族を活かし、次代に繋げていくために、戦い続けなければならない。
 彼らを活かす土地を守るため、手にかけて奪う敵の命。土地を、一族を守るという空虚のために、犠牲にする家族の命。
 雑渡の両手は、体には、潰えた命がまとわりついて、尾を引いている。
 組頭としての雑渡は、その罪業から逃げようとはしない。
 それでも。
……組頭とて、人の子なのだがな」
 それでも、ただひとりの、ひととしての雑渡に。
 ひととしての、ごくごく当たり前な幸せを享受する権利は、あるはずなのだ。
 山本は、忍として、また忍という生き方を強いられた者達を率いる長として生きるしかなかった男の幸せを願うことを、ずっと諦められないでいる。
「せめて、子が生まれるときくらいは、傍にいてやってほしいのだがな。奥方さまは、里下がりはなさらぬと仰せだし……
「、……
 高坂は、意識して唇を引き結んだ。



 山本の前を辞して、雑渡の洗濯物を持って詰所を後にする頃には、すっかり日が暮れていた。雑渡の屋敷に辿り着くと、尊奈門が屋敷を出ようとしているところだった。
「あれ、高坂さん。あ! それ、組頭の洗濯物ですか?」
「そうだ。着替えを持ち帰るように言われている」
 高坂の背負う荷物に目ざとく気がついた尊奈門は、結びかけていた草鞋の紐を手早くほどいた。
「じゃあ、私が着替えを持っていきます。高坂さんは、それを向こうの盥の中に入れておいてください。あと、今日はここに泊まってもらえますか?」
 尊奈門が矢継ぎ早に指示を出す。
「明日の朝一で馬借が来るので、炭とか食べ物を受け取ってほしいんです。朝の重湯のぶんで、昼と夜にはいろいろと足りなくなると思うので」
「分かった」
 すぐに雑渡の衣服や替えの包帯などを用意し始めた尊奈門を横目に、高坂は指示通りに洗濯物を盥に放り込んだ。自分が泊っている間、他に何かすることはあるかと訊ねようとして尊奈門の方を顧みた高坂は、瞬いて瞠目し、動きを止めた。先程までてきぱきと動いていた尊奈門は、雑渡のために用意された軟膏を貝の口に移そうとして、どこかぼうっとしているようだった。
……どうした?」
「あ、いえ、……
 なんでもないことはないんですけど、と言いながら、尊奈門が小さく溜息を吐く。
「組頭は……どうして、姉上の傍にいようとしてくださらないのでしょうか」
 棘のある言葉が、ぽつりと零れ落ちる。
 高坂は、尊奈門の問いには答えなかった。
……さっさとお着替えをお届けして差し上げろ。おまえの足が遅ければ、それだけ雑渡さまのお戻りも遅くなる」
「言われなくとも、分かってます」
 むっと肩を怒らせて、尊奈門が再び荷造りを始める。
 高坂は尊奈門が城下に向かったのを見送ると、表の戸につっかえ棒をし、雨戸も閉めようと寝間に向かった。
 寝間から庭に続く縁側では、大きくなった腹を撫でながら、彼女が脇息にもたれて足を伸ばし、楽そうな姿勢でぼうっと夜空を眺めていた。
「あら……、高坂殿」
「お邪魔いたしております、奥方さま」
「はい、どうぞ、ゆっくりしていってくださいね。とはいえ、ごめんなさいね、こんな格好で」
「いえ」
 高坂は寝間から取ってきた羽織を、そっと彼女の肩にかけた。
「夜風はお体に触ります。夏のものは特にたちが悪うございます故、どうぞ中に」
「はい、はい。じゃ、ちょっと肩を貸してもらえるかしら」
 よっこいしょ、と高坂の肩を支えにして、彼女が大儀そうに立ち上がる。高坂の視界は、ほとんど彼女でいっぱいになった。
……本当に、もう間もなく、といったところですね」
「そうねえ。今夜にも生まれるかもしれないわね」
…………ご冗談を」
「ふふふ」
 咄嗟に自分にできることを思いつけず固まってしまった高坂に対して、彼女は気楽そうに肩を揺らした。
「そうなったら、山本さんのところに走ってね」
「はい。承知いたしました」
 高坂の返事に眦を細めた彼女は、寝間でも楽な姿勢を取った。防犯のためにも高坂が雨戸を閉めるのをぼんやりと眺めている様子からは、特に緊張や焦燥を感じられない。胎から子を産むのは、大の男でも耐えられぬほどの痛みだと言われ、彼女がそれを知らぬはずもないのに。
……奥方様」
「はあい?」
「ええと……お暑くはございませんか」
「ええ、平気ですよ。ありがとう」
 微笑む彼女は、どこまでも穏やかだ。高坂は瞬いて、彼女の傍に膝を着いた。
……奥方さまは、その……お心安らかであらせられるようで」
「そうね。すぐ傍に、おっかなびっくりしたひとがいるんじゃあね」
「、」
「あらやだ」
 反射的に瞠目して顎を引いた高坂に、彼女は目を丸くしてころころと笑った。
「ごめんなさいね、高坂殿のことじゃないのよ」
「、は……と、申しますと……
「あのひとしかいないでしょ。尊奈門の方が、肝が据わってて、頼りがいがあるわね」
………………
 高坂は咄嗟に閉口した。
 確かに、尊奈門は彼女が懐妊してからこちら、男たちの中では一番、彼女に真心を尽くしている。呆けて固まっていたのは本当に最初だけで、彼女ができるだけ心身共に安らかでいられるようにという細やかな気遣いには誰もが舌を巻いた。三年間雑渡を看病した経験の賜物だろう。思うままに動けず、自分の意志に反して暴れ倒す体への向き合い方や支え方を心得ているのは、尊奈門をおいて隣に並ぶ者はいなかった。
……雑渡さまも、屋敷におられる間は、家事の一切を取り仕切られていらっしゃると伺っておりますが……
「そうね。全部やってくださっているわね。だから私、本当に楽をさせて頂いていると思うんだけど」
 彼女の双眸が、どこか遠くを見つめている。ここにいない雑渡を想っているのかもしれなかった。
「たぶん私より、あのひとの方が、よほど緊張しているわね。初めてのことだからというのもあるのでしょうけど……
 思案する素振りを見せる彼女に、高坂は一度、奥歯を嚙み締めた。
 彼女は、知らないのだ。雑渡が何故、この事態に常のようにいられないのか。
……雑渡さまは」
 考え考え、高坂が口を開く。彼女は視線だけで高坂を見遣った。
……あなたさまのお側にいたくないわけでは、ないのだと思います。ただ…………お立場故に、本意のままに振舞うことを、よしとしておられぬのです」
 嘘でも、真でもない言葉だった。この程度のものしか並べることができない自分に、嫌気が差す。高坂は、眉間に皺が寄りそうなのを、全霊で堪えた。
 彼女は、じっと高坂を見つめている。高坂は、彼女が口を挟む隙がないよう、言葉を続けた。言ってしまったからには、高坂の用意した答えで彼女に得心してもらわなければならない。
「お産は命がけのもの。御身にも、多大なる負担がかかる。……母子共に平安に済む可能性が高いわけではありますまい。それでも……組頭は、……
 続く言葉を紡ぐことをためらった高坂の眦が、とうとう厳めしく引き絞られる。うろ、と彷徨った視線は、顔ごと高坂を俯かせた。唇を口内に引き込んでしまった高坂に、対する彼女は、ふ、と静かに笑みを深めた。
「分かっています。だいじょうぶ」
 穏やかな声音が、そろそろと高坂の顔を上げさせる。彼女の瞳は、ただ穏やかに凪いで、高坂を映している。
「何にせよ、三途の川で待つのは私の方じゃなく、あのひとの方らしいもの。だいじょうぶよ。この子も私も、無事に済みます」
……はい」
 聞く者の心を無条件に安堵させる、漣のような声だった。
 母としての強さ故だろうか。或いは、知らぬが仏というやつだろうか。
 彼女はもちろん、きっと尊奈門も、押都も、ひいては山本も。
 雑渡が、鬼灯の根や柳を切らさぬようにしていたことを、知らないのだ。





 ◆





 とうとう、雑渡は山本の監視付きで屋敷に戻ることになった。
 家主の不在にしている間に彼女の世話や家事の一切を任されていた高坂や尊奈門をはじめ、もちろん彼女にも、雑渡は「おかえりなさい」と暖かく出迎えられた。この頃になると、彼女はいつ陣痛が始まってもいいように、寝間ではなく屋敷の奥まった場所に用意された小さな板間ですごしていた。
「本当に、見るたびに大きくなってるね」
「そうですか?」
「雑渡さまがお帰りになるのは久しぶりですからね!」
 尊奈門が笑顔で言う。ぐさ、という音を聞いた雑渡と高坂は半眼になって口をへの字に曲げたが、山本は一切を無視して彼女の体調を慮った。
「お加減はいかがですかな」
「万事恙なく。ふふ、まったくもう、皆さんときたら。病じゃないんですから」
 ほけほけ笑う彼女の傍に、雑渡が膝を着く。
……おなか、痛む?」
「いえ、……それじゃ、腰をさすっていただけますか」
「うん」
 雑渡の掌が、彼女の腰を労わる。彼女は変わらず脱力して、泰然自若としている。それでも、山本は安心させるように彼女に言った。
「奥方さまのことですから、もうお察しかと思われますが……我らの仕事もある程度片が付きましたので。いくらでも、この図体ばかりでかい男をこき使っていただければ」
「いや、別にいいんだけど、言い方」
「何を言う。この手のことで、男が役に立つことなどないんだぞ」
 ぎっ、と雑渡を睨めつける山本。雑渡はうへえと首を竦めた。彼女は相変わらず、先達の言葉には重みがありますねえと楽しそうに頬を綻ばせている。
 緩やかだった彼女の状態が急変したのは、山本達がやはりこの板間の辺りは冷えるのではないか、温石でも用意するかと相談し始めた頃だった。徐々に顰め面になっていく彼女に、「姉上、どうかされましたか」と真っ先に気が付いたのはやはり尊奈門で、彼女が応える言葉を失っていると見るや、尊奈門は血相を変えた。
「高坂さん、産婆さんを呼びに走ってください!! 山本小頭、湯をありったけ沸かして!! 私は小頭の奥方を呼びに行ってきますから!!」
「わ、わかった」
「組頭はそこで陣痛の間隔を計っていてください!!」
「ア、はい」
 わっ、と男たちが動き出す。彼女は初めて、侍女のひとりも雇っておけばよかったかしらとじゃっかんの後悔をしたが、腰を起点に全身を貫く電撃のような痛みに比べれば、些末なことだった。痛いと呻くたびに雑渡がさすってくれるが、あってなきが如しである。
 やがて産婆や山本家の奥方が娘たちと共に到着し、男たちは板間から蹴り出された。尊奈門は山本達にてきぱき指示を出していたのが嘘のように落ち着きをなくしてあちこちを行ったり来たりし、高坂は尊奈門の様子に苛立って、山本は口を引き結んでまんじりともしなかったが、不安を隠せていなかった。雑渡がひとり、どこか魂の抜けたようにほけ、としていて、ふと、自分の生まれるときもこんな感じだったのかしらん、と現実逃避のように埒外なことへ思考を飛ばしていた。

 ───父は、母は。どうして子を望んだんだろう。

 家を遺すためだと、頭では分かっている。けれどもこの乱世の世に、業を生むだけの忍の家系を遺すことに、果たして意義はあるのだろうかとも思う。タソガレドキの人間だろうが、他領の人間だろうが、土を耕し米や麦を植えて日々の糧を得るのは変わらないのに、戦なんて馬鹿げたことを続けなければならなくなってしまっている。
 そのせいで、雑渡の父は、山本をたすけて死んだ。昆奈門ではなく。
 父と陣内の間には不可侵の絆があって、おそらく父子のそれより強固だった。父の死は、陣内の憔悴は、衝撃的な諦念を昆奈門に刻み込んだのだ。
 母は、元来体の弱いひとだった。昆奈門は、母がまともに外を歩いていた姿を、思い出すことができないでいる。
 物心ついたときから忍として育てられた昆奈門に、おおよそ、所謂人としてまともな感性を躾けてくれた人がいたとすれば、それは山本だ。けれど山本の教えも、昆奈門にとっては雲を掴むような話だった。
 だから、昆奈門は、自分が人の子を育てられるとは思えなかった。自分は、家族だけを大切にできる人間ではない。家族とそれ以外の境目が曖昧で、未だによくわかっていない。特別がいるとすれば彼女だが、彼女と忍軍、およびその家族に、優劣が存在しないのだ。
 果たして、いいのか、こんなもので、と、疑念がくすぶる。
 山本のように、己が子を特別に慈しむことができなければならないのではないのか。親とは、そういうものなのではないのか。
 雑渡は、火柱を恐れぬ己の裡を、よく知っている───

 ───赤子の泣き声が、空気を揺らした。

「っ……!!」
 息を呑んだ尊奈門の顔が、ぱあっと明るくなる。山本と高坂は揃ってほっと安堵の息を吐いて、眦を緩めて「おめでとうございます」と口々に子の無事の誕生を祝った。
 すぐに土間はばたばたと忙しくなり、ありったけ沸かしていた湯はあっという間に使い切られて、雑渡は山本の奥方に手招かれるがまま、板間に足を踏み入れた。彼女は産婆に支えられてようやく座位の姿勢を保っており、疲労を色濃く滲ませていた。けれども、腕はしっかりと、なにかを抱いている。
「───あなた」
……
 板間に入った雑渡を見て、産婆はぎこちなく身を固めたが、それだけだった。彼女は顔を上げて雑渡に微笑み、安堵に肩の力を抜いている。雑渡の見たところ、ひとまず彼女に辛苦の色は見られなかった。想像を絶する痛みはまだ残っているのだろうけれど、彼女は優しくも穏やかな眼差しで腕に抱いたもののことを見つめている。
「どうぞ、抱いてやってくださいまし。元気いっぱいの若様でございますよ」
 産婆に促されて、彼女が大儀そうに腕ごとそれを差し出す。雑渡は感覚の失せた手指をぎこちなく伸ばした。
 彼女の腕から、柔らかくも、小さく、力強く胎動するいのちが、雑渡の腕に頑是なく横たわる。
「───、…………
……あら」
 瞬いて、彼女の指が、乾いた眦をなぞった。
……泣いてないよ」
 掠れた、覇気のない声だった。
「泣いておられますよ」
 全てを包み込むような柔らかな声音が、赤子ごと、優しく男を抱きしめた。