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輝薫
※何もしてないが事後

 「桜庭のこの顔知ってんの、俺だけ?」
 この顔。とは、一体どの顔のことか。ぼんやりと上手く回らない頭の中で、天道の指先がまだ熱っぽい頬を撫でる。そうされたところから頭の回路が点と点を繋いで、この顔、という言葉が指すところの意味を知る。つまりは、こうしてベッドの上でみっともなく喘ぐ様だったり、だらしなく脱力感に呆けている様だったりのことを言っているらしい。
 「知ってるだろう。そんなこと、今更」
 訥々と落とした言葉尻が少しずつ枯れている。あられもなく声を出しすぎたのだ。疲労した喉をせめて労りたくて、水、と呟いた。溶け落ちそうなほど重い体を無理やりシーツに半分ほど起こす。
 ペットボトルを取ってほしかっただけなのだけれど、受け取ろうと伸ばした手のひらは彼のそれに絡め取られて、僕の喉を潤すはずだった液体は彼の口の中に収められた。
 あ、と思う間に口づけられて、ゆるく開いた唇の隙間から、少しずつ、少しずつ、ぬるまった水が分け与えられる。そんなことをしたのは初めてだったから、口の端から飲み込み損ねた一滴がつうと垂れた。僕が拳で拭う前に、彼の舌がそれすら舐めとってしまう。ついでというように、もう一度唇を食んでいった。
 「うれしい」
 息を吐くみたいに、自然に。砂糖漬けにでもされたのかと錯覚するほど甘ったるい声が、じわり響く。細められた目のきわ、その奥がまるで蕩けそうなほど雄弁に語る。
 「君のその顔は、一体何人が知ってるんだろうな」
 突き放したかったわけではないが、気づけばそんなことを口にしていた。遊び人だったとは思わない。天道のことだから、全ての人と誠実に向き合ってきたのだろうと思う。その全ての人、の中に僕もいる。それだけで満足しておけばいいものを、僕が恋愛をしたのがなまじ天道だけだったせいで、不公平だ、と彼を詰る気持ちがやまない。天道は悪くないし、それこそ何を言ったって今更の話だ。
 ただ、彼が嬉しがる分くらい、僕は彼を困らせたっていいじゃないかと思うだけだ。僕が天道だけだと言って、それは事実だからいいのだけれど、それを聞いて彼は喜ぶ。その喜びを僕はどうしたって味わえないのだから、これくらいの意趣返しは許されるはずだ。
 「知りたいなら言うけど、お前聞きたくないだろ」
 案の定、天道は眉を下げる。ちょっと耳が痛いような顔をして、ご機嫌取りのようにベッドについた僕の手を窺う。
 「興味がない」
 「妬いた?」
 「は?」
 「ごめん、お前いま可愛いから」
 支離滅裂なことを言うのは、まだこの男が微睡みにも似た熱を逃がしそこねているせいだろうか。返す言葉を考えるのも面倒になって、ひとまずもう一度体をベッドに沈ませた。シーツの感触が背中を滑る。
 「でもさ、多分桜庭だけだぜ」
 「御託はいい」
 何人いたのかも知らない天道の元恋人たちが、見たことのない顔を僕は知っているのだろうか。それは瞬間甘露のように僕を誘ってみせたが、盲目に信じきるには些か現実味が足りなかった。今身体を覆っている重たい疲労感の方が余程僕にとっては真実だ。まだ至るところが取り残された痛みを訴えている。それでも得るものがあると思うから馬鹿みたいに溺れている行為なのだけれど、それはそれ、これはこれだ。
 「ほんとなんだけどなぁ」
 「……今日は面倒臭い男の気分なのか」
 喉がざらつく。言葉と同様に、思えば今日の行為は随分としつこかった。といっても比較対象は結局今までの天道との行為でしかなく、そういった些末なことが、実際のところ小さな引っかき傷をつくっていくわけだが。
 寝そべったまま天道の顔を見上げる。ぱち、と落ちてきた瞬きは彼の小さな驚きを示していた。
 「そうかも」
 「そうか」
 自覚がないとは結構なことだ。面倒臭いと言われた天道は、自分に冠されたそれを馴染みのない味だとでも言うように噛み砕いている。それは余程変な味がするらしい。どこか宙を見ていた天道の瞳が、再び僕の上に戻ってくる。
 「それだけ?」
 「他に何か言われたいのか」
 「そう言われると、浮かばないけどさ」
 天道はのそっと自分も体を横たえる。彼が覆いかぶさってくる気配がしたので、僕は反対側を向いた。背中の向こうから、天道の腕が回される。つい先ほどまでは互いのどこを触っても熱くてベタついていた気がするが、背中と腕とを滑っていく肌はもうぬるま湯のような温かさを伝えてくるだけだった。
 「面倒臭いって、お前もっと嫌がるかと思って」
 「君の嫌なところを挙げるなら他にいくらでもある」
 「それもどうなんだよ……
 胸の辺りに回ってきた彼の手のひら。手持ち無沙汰に重ねてみると、指先が嬉しそうに絡ませられた。天道はよく喋る。時に鬱陶しいほどに。そしてそれは口だけでなく、表情や仕草も同じことだ。彼の感情は体全部が饒舌に語る。僕は自分の手の中に捕まえた彼の喜びを、そっと口元に寄せた。途端、虚をつかれたように静かになる。ほんとうに、分かりやすい。
 「こっち向いて、桜庭」
 落とした息が声になって、彼の願いを伝えてくる。どうしてやろうか、と思う。何せ体が重いのだ。ついでに言えば天道の腕まで乗っているから、腕一本分、余計に重い。
 「桜庭」
 天道が腕をほどいて、上半身を持ち上げる。降ってくる声に誘われて顔だけを天井に向けると、見下ろしてくる瞳と目が合った。けして強制はしないくせ、この男は振りほどかれるのを良しともしない。勝手な男だと思う。
 どうせご所望のものはキスだろうと、仰向けになって天道の頬に添わせるように手を伸ばした。彼の頭がゆっくり降りてきて、僕は目を伏せた。
 「……ん、」
 くちゅ、という水音が鳴って、頭の中で響く。そんなに性急になる必要はもうないだろうと思うのに、天道は僕の口の中を蹂躙したがった。あぁ、今日はどうやら本当に面倒臭い。舌でも噛んでやれば頭も冷えるだろうかと詮無いことを思う。そんなことを考えられているとは露も知らない悪戯な舌先が、あわせたそこをざらりと撫ぜた。
 「は、……ぁ、んむ、…………ふ、」
 「……悪い」
 謝るくらいなら、そんな顔をするくらいなら、最初からしなければいいのだ、馬鹿め。しゅんと下がりきった眉は可哀想にも思えるのに、その下の瞳はいっそ凶暴なほど熱を湛えていて、随分とひどい顔だなと他人事のように思った。食い尽くされようとしているのが自分でなければ、実際他人事ではある。
 もう一度、と彼が言うなら付き合ってやることも、まぁ吝かではなかった。どちらかと言うともう眠気はそこまで来ているし、体も限界に近いけれども、絶対に無理だと言うほど疲弊しているわけでもない。そもそもスケジュールに余裕があるからこんな行為に身を投じているわけで、多少羽目を外すくらいは折り込み済みだ。
 「天道」
 けれどもそれは、彼が本当に望むならの話だ。自分より少し頭上で迷子になっている頭を捕まえて、同じシーツの上に抱き込んだ。二人、並んで横になる。天道のふわふわとした髪の毛先が指の隙間を擽る。それを撫でつけるようにして手のひらを往復させた。
 「そんなに焦らなくても、僕はどこにも行かない」
 なるべくゆっくり落とした言葉が、部屋にしんと響く。どうか、彼にも同じように届いていればいいと思う。
 なんと言ったって、僕は君だけなのだから。つい数分も前でない頃、そう言ったら随分と嬉しそうな顔をしたくせに。彼の頭からはもうそんなことすらも抜け出ていってしまったらしい。優秀な脳みそに、くだらんダジャレばかり詰め込んでいるからこうなるのだ。
 「天道」
 「うん?」
 「何かあったか」
 「いや」
 「君を不安にさせるようなことをした覚えはないが」
 「何もされてねぇよ」
 おどけたような軽い声。天道は正直者ではあるが、思っていることを全て明かすかというと、そうではないときもある。だから本当は彼の心を波立たせるような出来事があったのかもしれないし、僕が自覚なく彼の心を傷つけたのかもしれなかった。
 細く、長い息が吐き出される。さっきまで無遠慮に僕の体をまさぐっていた手と同じものとは思えないほど、控えめに腕が回された。
 「俺が桜庭のことを好きなだけだから、何もないんだ」
 「そうか」
 天道がそう言うなら、それでいい。少なくとも今は。本当に僕に話すべきことがあるなら、手遅れになる前に口を開くだろうという程度の信頼はある。今はまだ、不器用に口角を上げてみせる柔い心を尊重してやろうと思った。
 「ならいい」
 彼の輪郭をなぞる。髪の毛に隠れた耳を指で挟んで遊ばせると、天道は擽ったそうに笑みを深めた。たとえば、僕に天道の半分でも恋愛の経験があれば、或いは彼のようにお節介にも人に構おうとする性質であれば、こういうときにかけるべき言葉も分かったのだろうか。
 「かっこつかねぇなー……
 「安心しろ。君のことをかっこいいと思ったことはない」
 「なんだよ、俺はいつも思ってんのに」
 への字口を指でつまんだ。阿保面に拍車がかかる。
 「天道」
 ん?と天道の瞳が続きを促すように僕を見つめる。唇を開いて、閉じた。声にならなかった息だけが、僅かに二人の間の空気を揺らす。
 「天道」
 なにかを、伝えたいのだ。天道が今不安ならばそれをかき消してやりたいし、苦しんでいるなら少しでも和らげてやりたい。けれどもどんな言葉を尽くせば、彼に伝わるのだろうか。
 天道は浮かんだ空白に何を思ったのか、へらりと緩みきった顔を晒した。
 「うん、俺も好きだぜ」
 それでいいのか、と思った。口から転がり落ちてくるのは一瞬だ。
 「好きだ」
 「……うん」
 「好きだ、天道。君が……
 塞がれた口は、今度は柔く食まれるだけだった。これが欲しかったと思うのだけれど、今は君に好きだと言ってやりたくて、あぁ、だからほんとうに君はタイミングが悪い。
 「好き」
 ほとんどくっついたままの唇の隙間で、どうにか呼吸に混じって声が弾けた。あわいを溶かすように響いた声は、どちらのものでも、きっとよかった。