日は傾き照らされた森の木々は黄金に煌めいて見える。山頂近くを歩んでいた少年は不意に強く吹いた風に表情を顰め庇う様に背け襟巻きを掴んだ。
夜が訪れる。直に森は木陰に加え更なる闇が山々を覆う。そうなると普通の人間であれば容易に下山は出来なくなるだろう、普通の人間であれば。
森の中で少年は一人、少年にとって森は庭も同然だった。山頂付近は特に里の者以外の人間と出会う事など一度もなかった。夕餉の時間も近い。里に戻ろうと振り返った先、老齢の大木の洞の中に子供がいた。
初めて外の人間を間近で見た少年は本能的に息を止める。いや、驚きに息を詰まらせたが正しいのかもしれない。体を丸くして眠っていた子供はそんな少年の些細な挙動に呼応する様に身動ぐ、目覚めるのは一瞬だった。ムニャムニャと何とも間の抜けた寝惚けた声に少し緊張が緩む、忍にあるまじき気の緩みを引き締め直してから少年は身を隠し子供に声を掛けた。
「お前、麓の町の者か? もう日が沈む、早々に下山せねば危険だぞ」
洞の影に身を潜めながら厳しい口調で忠告する。しかし子供は姿が見えない声の主を探すのとは別にどこか心許ない仕草で視線を泳がせていた。困惑した態度の違和感と共に頭に過ぎった予感に少年はまた口を開く。
「迷ったのか?」
麓の人間。大人が山菜採りに入る事はあれど、子供がここらの山中をしかも一人で奥地に入るなど迷子でもなければない。
恐らく当たっているであろう予感の的中に溜息を零し、何故だか同時にこの不用心な子供に少々苛立ちを覚えた。しかし次に子供の口から出た話はそんな少年の苛立ちを置いていってしまう程に呆れさせた。
どうやらこの子供、麓の人間ではないらしい。それどころか森に入り昼寝をした記憶もないのだとか……
人攫いにでも遭ったのかと良からぬ想像が働くが、それなら里の者が把握していない訳もない。里の忍の仕業であれば尚更、息のある状態で山に放置するとはあまりに杜撰な仕事。どちらにせよ里の近くでその様な事があれば、厄介事を持ち込んだとして疾うに始末されている。
となると、この子供の話を鵜呑みにするのであれば夢遊病でもない限り突然この場に生えて来たという事になる。少年がそう零すと子供は真に受けたの自身を「タケノコだったのか」などと宣い始めた。不用心に加え大馬鹿、少年の二度目の溜息は迫り来る夜の気配の中に霧散し消えた。
普通の子供を忍の里に連れて行く訳にもいかず。少年は手を振り里の鷹を呼び出すと今夜は帰らぬ旨を記した文を持たせ、本当に、本当に不本意だが一晩だけ子供の面倒を見る事にした。
初めこそ少年は子供を下山させようと試みた。試みたのだ。だがこの子供、好奇心が相当に強いらしく。隙あらば指示とは逆方向の横道に逸れたり、木の洞を見つける度に中を覗いたり、挙句の果てには上空を眺めては舞う鴉に気を取られて坂道を転ぶ始末。木の実、小石、枝、虫の抜殻。ポケットから溢れてから全て捨てさせた。
……山が初めてにしろこんな予測不能に動き回られては悪い意味で目が離せない、まるで赤子だ。
里から届いた夕餉代わりの握り飯も殆ど子供が食べてしまった。あんなに食に純粋に貪欲な瞳で握り飯一つを幸せそうに見詰められては少年も与えるしかなかった。“遊び”、“食らい”、次は“寝る”か。
少年は何度目かの溜息と共に木の上から洞の前に用意した焚火に当たる子供を見下ろしていた。「ありがとうございます」と幼い行動に釣り合わない丁寧な感謝を述べられる。言葉は厳しい親にでも躾られているのだろうか。
「明日の朝には発つ。拙者が見ているから、お主は安心して眠れ」
「“拙者”?」少年の言葉遣いに子供が食いついたかポツリと繰り返す、今の時代には物珍しいのだろうと思ったがどうも違うらしい。どうやら同じ様な言葉を使う者を知っていると言う。
「ほう、外の人間にもその様に古きを重んじる者が居るのだな」
興味から少年の軟化した口調に子供は笑顔を浮かべ嬉しげに言葉を続けた。
その者は自身にとって特に身近な者で声色を除けば少年と話し方は全くの瓜二つだとか、叱り方すら似ていると。厳しい口調だが相手を想ってこそ優しさの裏返しと思っていると……そこまで勝手に熱弁までされ似ていると言われた手前、少年は些か気恥しくなった。しかし子供の言葉に不快感はなかった。
この会話をキッカケに二人は宵闇すら忘れ楽しげに互いについて語り始めた。立場上少年は里の外の者に出来る話は限られていたが、それでも普段あまり話せない事も子供を相手になら話せた。夕暮れの山で見た美しい木々の事や、落ちた鳥の巣で見た仔鳥が先日巣立った事も。忍の事は伏せて、いつか独り立ちし自身の技をこの国の為に良い行いに使いたいのだと。大人らを煩わせまいと噤んでいた些細な話から、秘めていた大切な願いすら言葉にした。子供は楽しげに目を輝かせ相槌を打うのだから、余計に口が滑ったのかもしれない。少年に釣られて子供もまた色々と話すものだから互いに退屈はしなかった。
子供を取り巻く環境はどうやら複雑で、多くの者、特に超人に関わる機会に恵まれているらしい。関わる面々の話題はどれも一人の時間が長い少年には新鮮で、靴を履いた頼りになる鰐の先生、音楽が好きな自慢の兄貴分、顔に穴が空いている者、顔に星の模様がある者……他にも多種多様な超人の話を聞いた。
子供の不用心さは普段この屈強な超人らの庇護下に置かれているが所以なのだろうと、少年は密かに納得した。
「……そんな大人数と共に生活しているのなら今夜は寂しいであろう」
少年はよく森の中を一人歩いている。優れた才を持つ実直な少年、大人は安堵故に目を向ける機会が殆ど無い。一人が既に慣れている少年だからこそ、まだ幼い子供の心を想いふとそんな言葉が無意識に零れてしまった。
子供は目を丸くする。声を追い視線を上に向けたまま「そんなことはないよ」と断言した。これまでもそうだったが素直な子供だ。その素直さの根本を少年は羨み、「そうか」とだけ短く返した。
「もう遅い、そろそろ休もう」
少年の指先が印を結ぶと赤々と燃えていた焚火は風と共に消える。微妙な後味を残して会話を終わらせた。
あの子供は蝶よ花よと周囲から大切に育てられているのだろう。
己の生まれを悲観している訳ではない。それでも背後から夏の太陽に煌々と照らされ鬱陶しい熱を感じる様に、少年の表情には憂鬱に影が差していた。子供は悪くない、他人と比べただけで少しでも卑屈になってしまった己の心が情けなかった。
太い枝に身を預け楽な姿勢で子供の周辺を適度に警戒する。子供は洞の中で横になり、火が消えまだ煙が薫る木屑に視線を向ける。「おしゃべり楽しかった」子供は誰に言うでもなくそう零した言葉に少年は意識を向ける。
「……木に登りたい」続いた声色は小さかったがこちらへ語り掛けていた。
「は?」
突然の発言に反射的に困惑の声を上げた。少年の明確な返答を待つ子供は洞から顔を出し声の方向を見詰め続ける。やはり一人で眠るには心細いのか。
姿を見られては後々面倒、ただ夜の森の暗さは目が慣れるには時間が掛かる。それに目隠しなり何なり視界を塞げさえすれば良いだけの事……少年は木から飛び降りた。
子供の目元を布で覆い、本人も“少年の姿は見ない”事を了承し約束を交わした。
……今思うと、目元を覆い手でも繋いで下山すればこうはならなかったのでは、そんな考えが今更になって過ぎったが今となっては手遅れ。子供の奔放さに翻弄されたのを一つ一つ思い返し、対応し切れていない自身の腑甲斐無さに少年は眉間に皺を寄せた。
大木の洞とはいえ二人ではやや手狭だった。だが密着すればそれなりに何とかなるもので、肩が触れ合う距離で腕を絡め少年から子供の手を握った。寂寥感を拭う様に指も絡めた。
これくらいは造作も無いと思っていたが、厄介な事に触れている掌の体温の高さに眠気が伝染ってしまった事だろう。少年もそれなりに幼い、体の望む欲求にはまだまだ弱い。小さな手から微弱だが、忍として冴えた感覚は規則的な脈拍が伝わる。落ち着いた自然な律動が擽ったい。
必死に眠りたい欲求に抗い踏み止まろうと藻掻く中、子供が控えめに口を開く。
「お名前、聞いても良い?」
子供も限界が近いのだろう、それとも既に半分夢の中なのか。頭を寄せて来るのだから更に体が触れ合う、温かい。誰かとこうして眠るのも何時振りだろうか。
「──ニンジャ。拙者は、ザ・ニンジャ」
名を教えるなど以ての外、何の為に視界を奪ったのか。まるで意味が無い。それでも、この子供には己を知って欲しいとニンジャは思ってしまった。
子供の目元の布を取り払う。忍の中には目を見るだけで人を操る特異体質もいると聞く、もしこの子供がくノ一の卵であるなら……
子供の目は澄んでいて青空の様に一切の曇りが無かった。刺す様な眩さはない穏やかに流れるだけ。
「〇〇」
それが名前なのだろう。出会って数時間、互いに漸く簡潔な自己紹介。ニンジャはどうにも初めて聞く気がしないその名前にまた意識がフワリ眠気に誘われる。
「ニンジャ、ありがとう──」
夢か。それとも今は忘れてしまった遠い日の記憶の断片が見せたのか、何にせよ出来の悪い夢だ。
しかし鮮明に感じていたこそばゆい不快感は目覚めた瞬間一気に曖昧に溶けてしまった。夢らしい後味だ。
天井を見詰めていたニンジャはふと横に目を向ける。この部屋に二つ並んだ布団、自身の隣にある片方が空になっている。あの喧しい隣が動いた事にすら気づかない程に熟睡していたのかと、酷い気の緩みに掌で目元を覆った。
それからのニンジャの行動は早く、体を起こすと何やら音のする台所へと顔を出した。喧しい同居人の〇〇が飯櫃から掌に米をよそっていた。見つかったと、しまったと態度に出すのだからニンジャも柱に手を添え逃走経路を塞ぐ。
「朝餉にはまだ早いのではござらんか?」
棘のある言い方で詰めると顔に皺を寄せションボリと情けない表情でか細い謝罪をされた。
〇〇は成長期なのか食べる事に関しては異様に貪欲な姿勢を見せる。それを悪いとは断言しないが、度を過ぎると意地汚く見苦しいので度々こうして注意をしている。
掌を水に軽く浸してから〇〇から米を攫うとニンジャ自ら握り飯を作り始めた。
「腹が減って目が覚めたのか」
普段であればまだ夢の中、目が覚めるには数時間早い。理由を訊ねるも〇〇はそれを否定する。話を聞くと、記憶は薄らとしかないが夢の中で握り飯を食べたのだそう。記憶が無いからか夢だからか味は分からなかったが、それが空腹を煽り起床を早めたのかもしれないと。
「これを食べたら寝直せ、まだ早い」
手早く握った米、味は塩のみ。目を輝かせた〇〇は受け取ると同時に口の中に握り飯を収めてしまった。起き抜けにこうも食が進むとは相変わらず元気な奴だ。呆れを通り越して関心する。
「──ニンジャ、ありがとう」
咀嚼を終えた〇〇はニンジャの寝間着の浴衣を軽く引きながら、まだ眠いのかそのまま慣れた所作で抱きついては瞼を伏せてしまう。やはり起きるには早過ぎたのだ。
ニンジャもまた慣れた挙動で〇〇の体を抱き上げると台所を後にする。抜殻の様に抜け出した形を保った布団に〇〇を戻すと、胸元まで布団を掛ける。温かい布団の中で口元を緩ませ一つ大きな欠伸をして見せた。二度寝を見届け屈めていた体を動かそうとするが、浴衣の袖を小さな手に掴まれ移動を阻まれる。
「一緒に寝よう」
「……好きにしろ」
〇〇はよく眠っているニンジャの布団の中に勝手に入り込む、強く拒む理由も無いからかニンジャも寝たフリで応え許容していた。なのでこうして言葉にして来るのは珍しい。
幼い言動ではあるが、世間一般に〇〇の歳頃であればとっくに親離れしているものだ。ただ子供っぽい〇〇に対して何か思う訳ではなく、こういう態度を拒めない自身の甘さに嫌気が刺しニンジャはやや冷たい返答をした。それでも子供一人が入れる余地を作ってくれるニンジャに〇〇はニコニコと這い寄り「お邪魔します」と一言、丁度収まりの良い横に自然と入り込んだ。
〇〇の発する熱を隣に感じる。今では朧気な夢の中でもこんな温かさを感じた気がする。手に同じ熱を感じた。視線だけ移すと既に夢の中か、目を閉じ穏やかに呼吸する〇〇が見える。掛布団の下で手を握られた。小さな手から微弱だが、忍として冴えた感覚は規則的な脈拍が伝わる。落ち着いた自然な律動が心地良い。
手を離すと腕は小さい体に触れそのままゆっくりと抱き寄せた。熱と熱が密着する。〇〇の布団の侵入を許す理由は自身もこの行動を見逃して欲しいからでもある。寝入ったのを確かめてから漠然と行った行動は習慣となってしまった。未だに抱き締められた〇〇が起きた事は無い。いや、無かった。
「ニンジャ」
──ドッ、と心臓が縮み上がると同時に一段と強く脈打つ。油断した。何度も抱き締める度にこの無警戒さに起きる訳がないと、確信に近い油断が完成していた。離れれば誤魔化しも効くが逆に力み石像の様にニンジャは硬直した。発光した様に頭の中が白み現状を打破する考えすら纏まらない。
どうする。
「好きにしていいよ」
嬉しそうな声色、小さな笑みを浮かべ頭巾の上から〇〇の手が頭を撫でる。最後に頭を撫でられたのは何時だったか、思い返すよりも眠気に遮られる。脱力すると息をついて〇〇の肩口に顔を埋めた。心地良い、何もかも忘れられそうなくらい──
抱き締め終えると毎度丁寧に〇〇を元の位置に戻していたが、その日の夜ニンジャはそのまま深く寝入ってしまった。前日、通常の任務に加えサンシャインからの頼まれ事も数件引き受けた分の疲れが一気に出たのだ。
「ニンジャ、ニンジャ」
更に悪い事に〇〇が先に目を覚ました。朝起きると隣に、しかも間近にニンジャがいるのだから〇〇からすれば青天の霹靂だ。少し取り乱しながらもまだ眠っているニンジャの巨体を揺する。ピクリとも動く気配が無い。あまりの反応の無さに〇〇も手を止め多忙だったであろうニンジャを労り布団を掛け直す。
「沢山休もうね」
純粋な労いの言葉と共に布団の上から体を摩るのだから、〇〇の行動一つ一つが胸にチクチクと罪悪感を募らせる。
起きている。当然、あの程度の揺さぶりで目覚めなければ忍としては下の下。そう己で内心呟いた言葉に更に痛手を負う。下の下、今回に関してはもっと酷いものだろうと。
(さて……)
自然に起きるなら〇〇が部屋を出た隙にか、起きて早々小賢しく頭を働かせる。ついでに納期ギリギリの仕事を二度と押しつけるなと、サンシャインへ伝える小言も考える事にした。
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