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離さない
輝薫
2月23日によせて
ようやっと念願叶って付き合い始めて、全てが順風満帆とは言わないけれど、思い描いていたものよりずっと幸せな日々がそこにあった。
桜庭は、何となく察するところではあったが恋愛経験は皆無らしい。そのことをしれっと言ってきたときの、けれどもどこか据わりが悪そうに目線を逸らした表情を見て、絶対大事にするんだと気を引き締め直したのはまだ記憶に新しい。
とはいえいつかは、なんて思うのは俺にとっては自然な話だ。手を握ったり、肩を抱いたりするのは拒絶されない。そうした瞬間桜庭の体が一瞬固まるのは、彼の申告通り経験がないせいなのだろうと思う。
それでも俺が気にしない振りをして触れ続けていると、次第にそうすることを覚えるみたいにゆっくり体を預けてくる。絡めた指を握り返されたとき、隣に抱えた頭が肩にもたれかかってきたとき、俺は桜庭に気づかれないように口角を抑えるので精一杯だった。
そんなふうに浮かれて過ごしていたから、自然とその先、についても考える。キスをするのは、この分だと多分許されるんじゃないだろうか。けれどそれより先に進むとなると、男同士である以上、考えなければいけないこともある。折を見て意見の擦り合わせをしたいけれども、桜庭の気持ちが向いていないのに俺だけがっついてると思われるのも上手くない。
でもまずはキスだよなぁ、キスがしたい。何回かいけそうなタイミングも正直なくはなかったが、手が触れるだけで固まる今のあいつが、果たしてそれを受け入れてくれるだろうか。俺だけがしたいのでは意味がないし、だから待ちたい、桜庭の気持ちが追いつくまで。でも待つだけでは埒が明かない気配もしていて、どうにか、こう、ちょっとずつ
……
。
「話がある」
なんて不埒なことを考えていたときだ。
恒例となった部屋での食事を終えて、あとはのんびり、と温かい飲み物でも出そうかとしていたところだった。変に真面目な顔をした桜庭につられて、俺も表情を固くして彼の前に座る。
突然降って湧いた張り詰めた雰囲気に内心ビクビクしながら聞いた桜庭の話をまとめると、つまりはこういうことだった。
もしこの先恋人としての関係が続けられなくなっても、ユニットの活動に影響は出さない。仲間としてもいられないほど決定的な諍いを起こす前に、円満に関係を解消する。お互い承知のこととは思うが、改めて考えを合わせておきたい、と。淡々とそう並べ立てる桜庭は、今後のために早めに話しておく必要があると思ったのだと語った。
「うん。そうだな、俺も桜庭と翼と、三人でずっとDRAMATIC STARSでいたい」
ひどく重苦しい顔をしていたから、一体どんな話が飛び出してくるのかと構えていたのだ。喜ばしいことに俺のそんな怯えは杞憂に終わった。
もちろんそんなことは俺も付き合いを始める前から考えていたことで、こうして付き合いも落ち着いてきたから改めてお互いの意見を揃えておきたいという桜庭の気持ちも分かる。
だから一も二もなく頷いて、それを聞いた桜庭も、ほっとしたように表情を緩めた。
それが、二週間ほど前のことだ。
「別れたくない」
電気のついたばかりのリビングに、俺の声が落ちた。鞄を置きかけていた桜庭が振り向く。
「
……
急になんだ」
なんだと言われても、俺にだって分からない。不意の言葉にちょっと驚いたような表情だった桜庭の顔が、次の瞬間には気遣わしげなものに変わる。
「どうした、天道」
どうって、別れたくないんだ、お前と。桜庭の顔を見ていたはずだったのに、気づけば俺の視界にはフローリングが広がるばかり。それを掬い上げるようにして、桜庭の両の手が俺の肩の辺りを支える。
「
……
別れ、たくない」
「別れない。誰もそんな話はしてないだろう」
「してただろ、桜庭、だって」
「いつ」
「この前、俺の家来たとき」
俺が桜庭と関係を結べたことに浮かれて、次のステップなんかに思いを馳せていた頃、桜庭は更にずっとその先の、来るかどうかも分からない未来の話を考えていた。それ自体は否定しない。大事な話だったと今も思う。
だけど俺は、あれから心のどこかでずっと引っかかっていた。それがどうしてか、今やっと分かった。俺の家で当たり前みたいに靴を脱いで、部屋に上がっていく桜庭の後ろ姿。俺はこれを失いたくないんだ。桜庭にも、俺と同じ思いでいてほしい。いてほしかったのに。
「
……
あんな、すぐ別れるみたいに言うなよ
……
」
「あれは
……
そういうつもりで言ったわけではない。ただ万が一そうなったとき、僕たちはDRAMATIC STARSまで失うわけにはいかないだろう」
「分かってる、分かってんだそんなことは。俺だって同じ気持ちだよ。ただ、俺は」
俺は、寂しかったんだ。そのまま言うのは憚られて、唇を噛んだ。桜庭が、言葉を躊躇っている。困らせると分かって、それでも言葉を重ねるのを止められなかった。俺ばかりが喜び勇んで桜庭と歩幅を合わせたいだとか言って、実際は見ている景色すら違っていたなんて笑い話にもなりやしない。
桜庭は静かに俺を見つめていて、その視線に恥じ入る気持ちすら湧いてくる。天道、と呼ばれてやっとゆるゆると顔を上げた先、やはり桜庭はあのときみたいに大真面目な顔をして俺の言葉に向き合っていた。
「別れることを前提にしたように聞こえたならすまなかった。僕は万一の可能性に備えたかっただけで、すぐ別れようなんて思ってない。そもそもそんなつもりなら僕は君と付き合わない」
そうだよなぁ、桜庭はそういう奴だ。そんなことは分かっていたのに、わざわざ言わせてしまったのも情けない。頷きを返すくらいしかできることがなく、桜庭をまた困らせる。
俺が立ち尽くしたままなのを見かねて、桜庭はまだ言葉を探そうとしてくれるが、俺も何を言ってほしいのか分からないのだ。そうした矢先、桜庭はまた静かに言葉を落とした。
「それにもしそうなったとして、君は今までだって、付き合った人間の数だけ別れることもしてきただろう。それと何も変わらない」
パッと顔を上げる。桜庭は俺の挙動に目を瞬かせた。桜庭の声に卑屈な響きはひとつもなく、穏やかな声音はただ俺を落ち着かせるためのものだった。それが余計に、俺の心を逆撫でた。
「違う」
目の前の体を、ひたすらに強く抱き締めた。触れることすらあんなに慎重になっていたというのに、堰を切ってしまえば一瞬だった。
「違うんだよ」
何が、なんて言えない。俺に今までに付き合った子がいたのは事実で、その彼女たちを下げるような物言いになるのは本意ではない。そもそも俺が何を言っても薄っぺらい言い訳になる気がして、子供じみた主張を繰り返すことしかできなかった。
それでも、こんなふうに思うのは初めてなんだ。抱き締めた腕に力が入る。埋めた肩口、彼のさらりとした毛先が顔にかかる。
「
……
嫌だ、桜庭」
どこにも行かないでくれ。いつか別れるかもしれないことなんて、考えることもしてほしくない。けれどもどうやったらそれが叶えられるのか分からなくて、ただ我儘をぶつけるだけしかできない情けなさに息が詰まる。
すると、不意にトンと背に回された手のひらが、不器用な動きでそこを何度か往復した。桜庭は少しの間そうしてから、ゆるく両手で俺の背を抱いてみせる。全身の感覚が、桜庭に触れられたそこだけに集中した。
「天道」
柔らかな声音がそっと俺の背を撫ぜる。呆れ混じりの息が鼓膜を揺らして、俺は思わず呼吸を止めた。
「そんなに嫌なら、君が離さなければいいだけの話だ」
それでいいのか。たったそれだけの簡単なこと。
俺はゆっくりと呼吸を思い出す。背中に添えられるだけだった桜庭の指が俺の服を掴んで、僅かに生地が引っ張られた。
「僕も、君を手放すつもりは毛頭ない」
桜庭の声が凛と響いて、彼の澄んだ覚悟と一緒に俺の中に染み入っていく。
今までだって誰かを大事に思ったことはあったはずで、けれどこんなふうに離したくないと切に願ったことはなかった。別れを切り出されて、仕方ないよなと諦めるのが常だった。だからまた、掴んだ手すらも離れていくかもしれないと心のどこかで恐れていた。離さなくていいのか。俺は、こいつを。
「絶対、離さない」
ぎゅうと腕の中の桜庭を抱き締める。こいつは俺のだって刻みつけたいと思うのは、傲慢な欲求だろうか。すぐそこで俺の耳を擽る小さな吐息は、きっと彼の満足気な笑みの端から零れたものだった。
「分かったから今は離せ。腕が痛い」
「悪い!」
慌ててぎゅうぎゅうに抱き締めていた腕をほどいた。加減なんかできる余裕はなかったから、結構な力が入ってしまっていただろう。
それでも彼の背中側できゅっと結んだ腕を離さないでいたら、桜庭は呆れたように目を細めた。彼の右手がそっと伸ばされて、指先で俺の頬と、首筋辺りを遠慮がちになぞる。じ、と注がれる目線に誘われるようにして、ほんの僅かだけ首を傾けて、唇に触れた。塞がれたそこを開けてもらうのはまたの機会に取っておいて、合わせるだけのそれをもう一度。震える睫毛が可哀想で、二度目は少しだけ長く唇をくっつけたままでいた。
「なぁ、ずっとしたかったって言ったら笑うか?」
内緒話をするように、そっと彼に耳打ちする。俺の情けない申告を聞いて、桜庭は眉間のシワを深くした。
「
……
残念だが、僕も君を笑える立場にない」
なんだ桜庭も同じだったのか。拍子抜けしたような安堵感が訪れると、二人して顔を見合わせて笑った。
鼻先が触れるほど近くまで顔を寄せる。呼吸まで食べてしまえそうな距離でぴたりと止まって、強請るように桜庭の丸い頭に手を添わせた。耳の後ろを擽るようにして促すと、少しの逡巡のあと、まだ不自然に力の入った柔い唇が合わせられた。
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