人の目を盗んで忍び込む明かりの消えた病室の一角。閉め切られたカーテンの下を潜れば、規則正しい電子音に紛れ聞こえる穏やかな寝息に知らず握りしめていた拳を緩めた。
ベッドをよじ登りようやく寝入っている病人の顔を拝む。寝ても覚めてもしんどい面を他者に見せようとしないやせ我慢ババアから微かに滲む体の悲鳴に三角の耳を震わせる。
――くたばっちゃいねえな…
漏れ出そうになった安堵のため息を鼻で笑い、そのままぽすんとターボババアは布団の上に寝っ転がった。
晴れ渡った空の下、車も人も通らない寂しいアスファルトの道を迷わず歩いていく。悲惨な運命を辿ってしまった年端もいかない子等が死後も縛られていたトンネル。久方ぶりに訪れたそこは変わらず立ち入り禁止の看板が置かれているものの随分と陰鬱な気配が薄れていた。
純白の百合の花束とコーヒー缶をそっと置き、来世でよき人生を送れるよう小さな手を合わせ祈る。
暗く閉じられた目蓋の裏、不意に映り込む嘆き苦しむ彼女らの心を魂を慰めていた日々に瞑った瞼が震え、その後忌々しい仕打ちはさておき荒療治であれ呪縛から解き放たれ本来の姿に戻り天へと昇っていく光景をふっとターボババアは目を眇め雲一つない空を仰ぎ、もう見えない彼女たちのを改めて見送った。
晴れて自由の身になった今、やりたかったことをやり終えあてもなく気が向くまま放浪するのも乙なもの。羽目を外して豪遊をしない限り事足りる資金でハートチップルを買い河川敷を横目に食べ歩く。誰にも取られない誰にも文句を言われない、なんと最高で張り合いのないことか。
「余計なことしやがって」
いくら家事手伝いをしてたとはいえ貯めたお小遣いなぞ微々たるものだとしても、先立つものがあるに越したことはない。問題はその先立つものがターボババアがせっせと貯めていた小遣い以上の額ががま口財布に入っていたということ。大いに思い当たる世話焼きババアの背中に向かって鼻で大きく溜息を吐くのもやむなし。
「………」
日はまだ高く電車やバスを乗り継げば日が暮れる前に目的に着くだろう。そう河川敷で寝っ転がっていたターボババアは先程よりも大きな溜息を吐きながら体を起こした。
その昔、飛脚が近道で度々通り抜けていた峠は人の足が遠のいたことでより一層と木々が生い茂り、現代では珍しく獣はたまた人ならざるモノの気配が溢れ返っていた。
鬱蒼とした森の中、人でもなければ獣でもない蓑を羽織った妖怪【油すまし】が自分の領域内に訪れた別の妖怪の気配に気付くなり太い木の枝に降り立ち、フクロウのような大きな眼で以前とは違う姿の来訪者を見下ろした。
姿が変わろうとも口の悪さは変わらない来訪者に懐かしさを覚える暇もなく、問われた内容に油すましの声が裏返る。
――あのターボババアが人間を助けたい?
訝しげる以上に興味を惹かれた油すましの大きな黒目がさらに大きく見開かれた。黒い月に映り込む白い猫は即座に人間はついでだと言い、本命は別だと口調をやや強めて遮ってくる。
だが、残念なことに油すましは来訪者が望んでいることのうち一つしか叶えられなかった。殺される気は毛頭ないとしても、喧嘩っ早い犬からどう逃げ果せようか。そんな算段を首を縦に回して考えていれば、油すましの予想を裏切るように「…そうか」と、来訪者は何もせず踵を返し行ってしまった。
「バボオは助けたい人間がいるんだなあ」
とっくに見えなくなった白い影に向かって油すましが呟く。それに合わせて吹き抜ける風鳴りに丸い目を眇め再び気配を薄暗い森に溶け込ませつつ「ホー」と一鳴きしたあと完全に消えたのだった。
伏せっていてもそこは数多の修羅場を潜り抜けた霊媒師というべきか。掛布団に沈む重さと異質な気配に狼狽える素振りもなく眼鏡を掛けベッドの上で寛いでいる見舞客を目視するや殆どしていなかった警戒心を解いた。
覇気のない声で気遣う星子に何てことのないように答えるターボババア。久方振りの旅行から帰ってきたみたいに他愛のない会話を星子が緩やかに意識を手放すまで続け、最後の最後にめんどくせェ大人のため一言紡ぐ。
「お前ェが退院するまでいてやらあ。とっとと治して飯作れ」
「……っ。そいつァ気張って治さないとな」
うつらうつら。眠りの淵に掛けていた足がゆっくり消える淵諸ともに落ちていく。解けていく意識の中、体を踏まぬようベッド上を歩き掛けていた眼鏡が外される感覚に星子は微笑み。
――ワシが食うまで死ぬんじゃねえぞ
随分柔らかな脅し文句を耳元で囁き、いつ振りかの穏やかな眠りをターボババアはベッドに潜り込み享受するのだった。
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